歴史を歩く143
19 絶対主義国家の盛衰③
3 オランダの独立

ネーデルラント地域
ネーデルラントは、「低い地方」の意味で、現在のオランダ・ベルギー・ ルクセンブルクを中心とする地方の総称です。
ネーデルラントの南部、現在のベルギーを中心とする地方はフランドル地方と呼ばれ、中世以来毛織物工業が発達し、ガン・ブリュージュ・アントワープ等の都市が繁栄してきました。
ネーデルラントは、1477年に血縁関係によりハプスブルク家所領となり、カール5世の死後、フェリペ2世の支配下におかれることと成りました。
商工業が発達し、都市が繁栄していたネーデルラントにはカルヴァン派が普及し、ゴイセン(乞食の意味)と呼ばれたカルヴァン派の新教徒が多く居住したいました。
熱烈なカトリック教徒であったフェリペ2世は、ネーデルラントに対しても厳しいカトリック政策を推進して新教徒を圧迫し、叉都市の自治権を奪い、重税を課して行きました。
このようなフェリペ2世の政策に対してネーデルラント民衆は教会を襲撃し、聖像を破壊する等の行動に出、次第にその動きは各地に広まっていったのです。

左はアルバ公。右は、アルバの鎖に繋がれた女性たちがネーデルラント各州を示し、奥では次に拡大するような処刑が行われている、アルバの圧政を示す絵画。
フェリペ2世は、アルバ公を派遣して新教徒を徹底的に弾圧しました。
アルバ公は1567年~73年の6年間にわたりフランドル総督として、残酷な宗教裁判と重税でネーデルラントの民衆を苦しめます。
エグモント伯(ベートーベンの「エグモント序曲」で有名)は、オラニエ公ウィレム・ホルン伯らとネーデルラント独立運動を起こしますが、ホルン伯と共にアルバ公に捕らえられて処刑され(1567年)、この出来事がオランダ独立戦争の導火線と成りました。

オレンジ公ウィリアム:1533年~84年
ネーデルラントは、オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム、1533年~84年、独立後の初代総督(任期1579年~84)年)を指導者として、1568年についに独立戦争が勃発します(オランダ独立戦争、1568年~1609年)。
スペインは大軍をもって次々と都市を攻略し、破壊と略奪を繰り返し、ネーデルラントのある町は堤防を破壊してスペイン軍の進撃を阻み、ライデン市は6ヶ月にわたる防戦の末についにスペイン軍を撃退する等抗戦を続けました。
叉アルバ公の圧政を逃れて国外に亡命していたカルヴァン派の人々は「海の乞食団(ゼー・ゴイセン)」を結成し、イギリスの援助を受けながらスペイン船に対するゲリラ戦を展開します。
オラニエ公ウィレムは、ネーデルラントの全州が団結してスペインに抵抗する同盟を成立させ(1576年)ますが、一方スペインはネーデルラントの南北の諸州の間に民族・言語・宗教・産業等に相違があることを利用して南北離間を謀ります。
北部7州(現在のオランダ)の民族はゲルマン系で、言語もドイツ系であり、造船・中継貿易・農業が主な産業であり、宗教はカルヴァン派の新教徒が多く、これに対して南部10州(現在のベルギー)は、民族はラテン系、言語もフランス語系、産業は毛織物工業・牧畜が主で、宗教はカトリック教徒が多く居住したいました。

ブレダの開城:ベラスケス
そこでスペインは、カトリック勢力が強い南部10州を懐柔し、北部と切り離すことに成功し、南部10州は終にスペインと和平を結んで独立戦争から離脱します(1579年)。
南部10州は、北部の独立後もスペイン領(ハプスブルク家領)に留まり、1830年にベルギーとして独立することに成ります。
しかし、北部7州はユトレヒト同盟を結び(1579年)、オラニエ公ウィレムの基で抗戦を続け、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を宣言します。
この国は連邦の中心となったホラント(Holland)州の名前をとって一般にはオランダと呼ばれています。
オラニエ公ウィレム(ウィレム1世)は、独立後初代オランダ総督(統領)(ネーデルラント連邦共和国の最高官職)に就任しますが、スペインに姦計によりカトリック教徒によって暗殺され(1584年)、ウィレム1世の死後、オランダ総督の地位はオラニエ(オレンジ)家が世襲しました。
オランダが独立を宣言した後も、スペインはオランダの奪回に努め、特に1585年には当時最も繁栄していたアントワープを占領して徹底的な略奪・破壊を行い、アントワープは以後衰退し、替わってアムステルダムが政治・経済・文化の中心になっていきます。

クロート・マルクトと世界遺産・聖母大聖堂(現在)
当時、スペインのフェリペ2世はイギリスのエリザベス1世と激しく対立しており、エリザベス女王は私拿捕船を保護して新大陸から銀を輸送するスペインの銀船隊を襲撃させ、叉オランダの独立戦争を援助していた為、フェリペ2世はイギリス国内のカトリック教徒と結んで、前スコットランド女王メアリ・ステュアートの擁立を謀るものの失敗に終わり、メアリ・ステュアートは処刑され(1587年)ます。
更なる対抗手段としてフェリペ2世は、エリザベス女王打倒とオランダ独立軍の鎮圧を意図して、スペインの誇る無敵艦隊をイギリスに向けて出動させますが、アルマダの海戦(1588年)で大敗北を喫します。
無敵艦隊の敗北後も、フェリペ2世はオランダの奪回に努めますが1598年に没し、スペインは終に1609年にオランダと12年間の休戦条約を結び、この休戦条約によってオランダは事実上独立果たす形に成りますが、オランダ独立が国際的に承認されるのは三十年戦争後に結ばれたウェストファリア条約(1648年)迄待たねば成りませんでした。

オランダ船対バルバリ海賊船の海戦
17世紀は「オランダの世紀」と呼ばれています。
オランダは、既に15世紀末からハンザ同盟諸都市の衰退の後、北海・バルト海に於ける仲介貿易に進出して富を蓄えており、叉オランダ商人はリスボンで東洋の香辛料等を買い付け、それを北欧で売って利益を得ていましたが、独立戦争が始まるとオランダ商人はリスボンから閉め出された結果、密貿易に転向し、更に直接東洋貿易や新大陸貿易に進出するように成って行きました。
1602年に設立された東インド会社は、東洋との貿易独占権を与えられて東南アジアに進出して、17世紀初頭にはアンボイナ(香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島の中心地)をポルトガルから奪取して香辛料貿易を独占し、ポルトガル・スペインの勢力を東洋から駆逐します。
叉1621年には西インド会社が設立され、アフリカ西岸と新大陸との貿易に活躍し、北米にニューネザーランド(ニューネーデルラント)植民地を建設しました。

オランダ・アジア植民地
この間、独立戦争から脱落した南部10州の毛織物業者の多くはオランダやイギリスに移住した結果、オランダでも毛織物工業が発達するように成ります。
こうしてオランダはポルトガル・スペインに代わって世界商業の覇権を握り、首都アムステルダムはアントワープに代わって国際金融の中心に成長し、オランダは16世紀末から17世紀末の約1世紀にわたって全盛期を迎えました。
文化面でも、画家レンブラント・哲学者スピノザ・法学者グロティウス等優れた人物が活躍します。

レンブラント・「夜警」
しかし、オランダは仲介貿易に重点を置く経済構造であった事、特権的大商人の力が強かった事、毛織物工業に於けるマニュファクチュアの発展がイギリスより遅れていた事等の弱点を抱えており、17世紀後半にはイギリスとの3回にわたる英蘭戦争(イギリス・オランダ戦争)に敗れて衰退に向かい、その繁栄は続きませんでした。
ジョークは如何?
ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた
「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」
続く・・・
3 オランダの独立

ネーデルラント地域
ネーデルラントは、「低い地方」の意味で、現在のオランダ・ベルギー・ ルクセンブルクを中心とする地方の総称です。
ネーデルラントの南部、現在のベルギーを中心とする地方はフランドル地方と呼ばれ、中世以来毛織物工業が発達し、ガン・ブリュージュ・アントワープ等の都市が繁栄してきました。
ネーデルラントは、1477年に血縁関係によりハプスブルク家所領となり、カール5世の死後、フェリペ2世の支配下におかれることと成りました。
商工業が発達し、都市が繁栄していたネーデルラントにはカルヴァン派が普及し、ゴイセン(乞食の意味)と呼ばれたカルヴァン派の新教徒が多く居住したいました。
熱烈なカトリック教徒であったフェリペ2世は、ネーデルラントに対しても厳しいカトリック政策を推進して新教徒を圧迫し、叉都市の自治権を奪い、重税を課して行きました。
このようなフェリペ2世の政策に対してネーデルラント民衆は教会を襲撃し、聖像を破壊する等の行動に出、次第にその動きは各地に広まっていったのです。

左はアルバ公。右は、アルバの鎖に繋がれた女性たちがネーデルラント各州を示し、奥では次に拡大するような処刑が行われている、アルバの圧政を示す絵画。
フェリペ2世は、アルバ公を派遣して新教徒を徹底的に弾圧しました。
アルバ公は1567年~73年の6年間にわたりフランドル総督として、残酷な宗教裁判と重税でネーデルラントの民衆を苦しめます。
エグモント伯(ベートーベンの「エグモント序曲」で有名)は、オラニエ公ウィレム・ホルン伯らとネーデルラント独立運動を起こしますが、ホルン伯と共にアルバ公に捕らえられて処刑され(1567年)、この出来事がオランダ独立戦争の導火線と成りました。

オレンジ公ウィリアム:1533年~84年
ネーデルラントは、オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム、1533年~84年、独立後の初代総督(任期1579年~84)年)を指導者として、1568年についに独立戦争が勃発します(オランダ独立戦争、1568年~1609年)。
スペインは大軍をもって次々と都市を攻略し、破壊と略奪を繰り返し、ネーデルラントのある町は堤防を破壊してスペイン軍の進撃を阻み、ライデン市は6ヶ月にわたる防戦の末についにスペイン軍を撃退する等抗戦を続けました。
叉アルバ公の圧政を逃れて国外に亡命していたカルヴァン派の人々は「海の乞食団(ゼー・ゴイセン)」を結成し、イギリスの援助を受けながらスペイン船に対するゲリラ戦を展開します。
オラニエ公ウィレムは、ネーデルラントの全州が団結してスペインに抵抗する同盟を成立させ(1576年)ますが、一方スペインはネーデルラントの南北の諸州の間に民族・言語・宗教・産業等に相違があることを利用して南北離間を謀ります。
北部7州(現在のオランダ)の民族はゲルマン系で、言語もドイツ系であり、造船・中継貿易・農業が主な産業であり、宗教はカルヴァン派の新教徒が多く、これに対して南部10州(現在のベルギー)は、民族はラテン系、言語もフランス語系、産業は毛織物工業・牧畜が主で、宗教はカトリック教徒が多く居住したいました。

ブレダの開城:ベラスケス
そこでスペインは、カトリック勢力が強い南部10州を懐柔し、北部と切り離すことに成功し、南部10州は終にスペインと和平を結んで独立戦争から離脱します(1579年)。
南部10州は、北部の独立後もスペイン領(ハプスブルク家領)に留まり、1830年にベルギーとして独立することに成ります。
しかし、北部7州はユトレヒト同盟を結び(1579年)、オラニエ公ウィレムの基で抗戦を続け、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を宣言します。
この国は連邦の中心となったホラント(Holland)州の名前をとって一般にはオランダと呼ばれています。
オラニエ公ウィレム(ウィレム1世)は、独立後初代オランダ総督(統領)(ネーデルラント連邦共和国の最高官職)に就任しますが、スペインに姦計によりカトリック教徒によって暗殺され(1584年)、ウィレム1世の死後、オランダ総督の地位はオラニエ(オレンジ)家が世襲しました。
オランダが独立を宣言した後も、スペインはオランダの奪回に努め、特に1585年には当時最も繁栄していたアントワープを占領して徹底的な略奪・破壊を行い、アントワープは以後衰退し、替わってアムステルダムが政治・経済・文化の中心になっていきます。

クロート・マルクトと世界遺産・聖母大聖堂(現在)
当時、スペインのフェリペ2世はイギリスのエリザベス1世と激しく対立しており、エリザベス女王は私拿捕船を保護して新大陸から銀を輸送するスペインの銀船隊を襲撃させ、叉オランダの独立戦争を援助していた為、フェリペ2世はイギリス国内のカトリック教徒と結んで、前スコットランド女王メアリ・ステュアートの擁立を謀るものの失敗に終わり、メアリ・ステュアートは処刑され(1587年)ます。
更なる対抗手段としてフェリペ2世は、エリザベス女王打倒とオランダ独立軍の鎮圧を意図して、スペインの誇る無敵艦隊をイギリスに向けて出動させますが、アルマダの海戦(1588年)で大敗北を喫します。
無敵艦隊の敗北後も、フェリペ2世はオランダの奪回に努めますが1598年に没し、スペインは終に1609年にオランダと12年間の休戦条約を結び、この休戦条約によってオランダは事実上独立果たす形に成りますが、オランダ独立が国際的に承認されるのは三十年戦争後に結ばれたウェストファリア条約(1648年)迄待たねば成りませんでした。

オランダ船対バルバリ海賊船の海戦
17世紀は「オランダの世紀」と呼ばれています。
オランダは、既に15世紀末からハンザ同盟諸都市の衰退の後、北海・バルト海に於ける仲介貿易に進出して富を蓄えており、叉オランダ商人はリスボンで東洋の香辛料等を買い付け、それを北欧で売って利益を得ていましたが、独立戦争が始まるとオランダ商人はリスボンから閉め出された結果、密貿易に転向し、更に直接東洋貿易や新大陸貿易に進出するように成って行きました。
1602年に設立された東インド会社は、東洋との貿易独占権を与えられて東南アジアに進出して、17世紀初頭にはアンボイナ(香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島の中心地)をポルトガルから奪取して香辛料貿易を独占し、ポルトガル・スペインの勢力を東洋から駆逐します。
叉1621年には西インド会社が設立され、アフリカ西岸と新大陸との貿易に活躍し、北米にニューネザーランド(ニューネーデルラント)植民地を建設しました。

オランダ・アジア植民地
この間、独立戦争から脱落した南部10州の毛織物業者の多くはオランダやイギリスに移住した結果、オランダでも毛織物工業が発達するように成ります。
こうしてオランダはポルトガル・スペインに代わって世界商業の覇権を握り、首都アムステルダムはアントワープに代わって国際金融の中心に成長し、オランダは16世紀末から17世紀末の約1世紀にわたって全盛期を迎えました。
文化面でも、画家レンブラント・哲学者スピノザ・法学者グロティウス等優れた人物が活躍します。

レンブラント・「夜警」
しかし、オランダは仲介貿易に重点を置く経済構造であった事、特権的大商人の力が強かった事、毛織物工業に於けるマニュファクチュアの発展がイギリスより遅れていた事等の弱点を抱えており、17世紀後半にはイギリスとの3回にわたる英蘭戦争(イギリス・オランダ戦争)に敗れて衰退に向かい、その繁栄は続きませんでした。
ジョークは如何?
ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた
「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
このところ雨が降らず、乾燥しています。
湿度50%以下です。
もう10月も半ば早く時は過ぎてゆきます。
ソメイヨシノの葉が赤く染まりだしました。
虫の鳴き声もまだ聞こえています。
秋が深まり何とはなしに、
心が寂しくなります。
秋から冬への心情ですね。
2015-10-13 21:46 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
10月14日、水曜日のご挨拶です。
周囲の山々の頂上付近の木々が、赤く成りはじめました。
此れから、山裾に向かって降りてきます。
何時の間にか、雲に下側が濃い灰色に成り、冬の雲を思い起こさせる姿に変わりました。
今週は、北風が吹く様に成り、少し肌寒さを感じます。
季節が変わり始めました。
2015-10-14 06:38 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
晴れが続くのは大歓迎ですが、
時には雨も降ってくれないと農作物に影響しますね。
秋は海の幸も山の幸も豊富で、
胃袋を満足させてくれます。
会席料理も良いですが鍋のおいしい季節になりました。
こちら安値の鯖ふぐがあまり出回りません。
ふぐは高嶺の花になっています。
2015-10-14 07:59 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
10月15日、木曜日のご挨拶です。
山椒の実が真っ赤に成りました。
鳥達が時折やって来ます。
今、ジロくんの散歩コースは、金木犀の香り、コスモス、葉鶏頭、さんざしの花と色とりどりで、目にも鮮やかです。
ジロくん自身の散歩スピードも8月、9月頃に比べて早く成り、同じ道順でも3分から5分の短縮です。
散歩が一番楽しい季節に成った様です。
お天気も週末迄、良さそうなので、今年の秋祭りも、まず天気の心配は無さそうです。
2015-10-15 06:37 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
山科川の土手も、私が住んでいる団地内も雑草が刈り取られていきます。
冬は枯れてしまって雑草も伸びませんので、
来年の春まで今度刈ってしまえば草刈の音はしないでしょう。
こちらも金木犀に、コスモスやダリアなど咲いています。
赤いカンナもまだ咲いています。
今年は22日の時代祭り見に行こうかと考えているのですが。
いけるかどうか?です。
2015-10-15 21:19 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
東の空が茜色に染まってきました。
もう直ぐ日の出でしょうか。
日の出もかなり遅くなってきました。
窓ガラスが曇っています。
外が冷え込んでいる証ですね。
冬はまだと思っていたのが、
いつの間にか冬支度です。
お体気をつけてお過ごしください。
2015-10-16 05:46 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
10月17日、土曜日のご挨拶です。
良いお天気に成りました。
今から、お祭りの準備に向かいますので、簡単ですが、今日のご挨拶です。
良い週末をお迎え下さい。
2015-10-17 06:39 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
10月18日、日曜日のご挨拶です。
良いお天気です。
冷込みも殆んど無く、日中は汗ばむ陽気に成りそうです。
今から、炊き出しに行き、食事の支度を行います。
お昼のお弁当は、子供達のリクエストに答えて、サンドイッチとかしわ飯の2種類を用意します。
みんなの笑顔が楽しみです。
2015-10-18 06:44 秋葉 奈津子 URL 編集