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2015/10/23

歴史を歩く145

19 絶対主義国家の盛衰⑤

5 フランスの宗教戦争と絶対主義(その1)

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ヴァロア朝シャルル8世

 フランスでは、百年戦争末期に即位したシャルル7世(在位1422年~61年)、そしてシャルル8世(在位1483年~98年)の治世に中央集権化が進み、国民国家が形成されてきました。

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ヴァロア・オルレアン家ルイ12世

 しかし、シャルル8世の死によって直系ヴァロア朝が断絶し、ヴァロア・オルレアン家のルイ12世(在位1498年~1515年)が即位します。

 ヴァロア・オルレアン朝(1498年~1589年)の第2代国王フランソワ1世(在位1515年~47年)は、神聖ローマ皇帝位をカール5世と争って敗れ、以後イタリアをめぐって激しい対立を繰り返し(イタリア戦争)ますが、フランソワ1世治世の間にフランス・ルネサンスが栄え、王権は更に伸張します。

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1600年「カトリーヌ・ド・メディシスの婚礼」 Jacopo di Chimenti da Empoli ヤコポ・ディ・キメンティ・ダ(1551-1640)

フランソワ1世の死後、アンリ2世(1519年~59年、在位1547年~59年)が即位ますが、アンリ2世の妃が有名なカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~89年)です。
 
 カトリーヌ・ド・メディシスは、フィレンツェの名門メディチ家のロレンツォ・ド・メディチ(大ロレンツォ)の曾孫として生まれ、生後1ヶ月経たぬうちに両親を失い、叔母に預けられてローマ、フィレンツェで過ごし、1533年にオルレアン公アンリ(後のアンリ2世)と結婚しました。
夫の死後、長男のフランソワ2世(1544年~60年、在位1559年~60年、彼の妃がメアリ・ステュアート)が即位しますが早世し、次男のシャルル9世(1550年~74年、在位1560年~74年)が即位すると母后カトリーヌは摂政の地位に就きます。

 この間、宗教改革の影響は旧教国フランスにも波及し、1540年代後半頃からカルヴァン派が普及し、国民の約3~5%の人々がカルヴァン派に改宗したと云われています。
アンリ2世は統一を維持するためにカルヴァン派に厳しい迫害を加えますが、その数は減少することは在りませんでした。
フランスのカルヴァン派の人々はユグノーと呼ばれ、都市の商工業者の他に、一部の有力な貴族にも広まり、ユグノー(新教徒)とカトリック教徒(旧教徒)の対立は宮廷をめぐる貴族の政争と結びついて内乱に発展して行きます。

 母后カトリーヌは、ユグノーとカトリックの勢力均衡によって王権の安定を図ることを考え、ユグノーに対して私的集会での礼拝の自由を認める等ユグノー抑圧策を緩和しました。

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ユグノー戦争:カルヴァン派によるリヨン教会の略奪

 これに対してカトリック側は態度を硬化させ、旧教派の中心人物であったギーズ公の兵士達が礼拝中のユグノーを攻撃して20数人を殺戮する出来事が発端と成り、終にユグノー戦争(1562年~98年)と呼ばれる宗教戦争が勃発します。

 内乱が長引くと、母后カトリーヌは新旧両教徒の調停を図り、シャルル9世の妹マルグリートとナヴァル王アンリ(ユグノーの中心人物の一人、後のアンリ4世)との結婚を成立させた為、一時講和が成立しました(1570年)。

 1572年8月、マルグリートとナヴァル王アンリとの結婚式(8月19日に行われた)を祝って旧教派貴族はもちろん、多くの新教派貴族も続々とパリに参集します。

 母后カトリーヌは、この機会にシャルル9世の心を捕らえて対スペイン戦争を企てたユグノーの首領コリニーの排除を目論み、旧教派のギーズ公アンリ(1550年~88年)と結んでサン・バルテルミの大虐殺を実行しました。

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虐殺跡を視察するカトリーヌ・ド・メディシス

 1572年8月24日(サン・バルテルミの祭日の日)の未明、ギーズ公アンリの兵は鐘を合図にコリニーを急襲して殺害し、予め印がつけられていた新教派貴族の宿舎を次々と不意打ちし、3日間にわたって約3000人のユグノーを虐殺しました。
ナヴァル王アンリは改宗して殺戮を免れ、宮中に監禁されたが、後に脱走しています(1576年)。

 この有名なサン・バルテルミの大虐殺後、各地でユグノーによるカトリック教徒への復讐が行われ、内乱は再び激化し、この間、旧教徒側をスペインが、新教徒側をイギリスが援助し、ユグノー戦争は国際戦争の様相を呈しました。

 シャルル9世はサン・バルテルミの大虐殺の2年後に崩御し、弟のアンリ3世(1551年~89年、在位1574年~89年)が即位すると、旧教派のギーズ公アンリ及び脱走後再びユグノーに戻ったナヴァル王アンリの三つ巴の争いに発展します(3アンリの戦い)。

 アンリ3世は、王位を窺うギーズ公アンリを暗殺しましたが(1588年)、彼自身も旧教徒に暗殺され(1589年)、ここにヴァロア朝は断絶します。

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ナヴァル王アンリ

 アンリ3世の死後、ブルボン家のナヴァル王アンリが即位してアンリ4世(在位1589年~1610年)となり、ブルボン朝(1589年~1792年、1814年~30年)を創始しました。

 しかし、パリ市民をはじめとする旧教徒はユグノーであるアンリ4世を王として認めず、 アンリ4世は政治的配慮からカトリックに改宗し(1593年)、1598年にナントの勅令を発布してユグノーに対し信仰の自由を認めました。

 ナントの勅令でユグノーは信仰の自由と公職につくことも認められますが、公的な場所での礼拝はパリでは禁止する等の条件が付加され、カトリック教徒に比べると不平等な状況では在りましたが、ナントの勅令の発布によって30年以上に及んだユグノー戦争は終結します。

 アンリ4世は混乱した国内治安の回復、弱体化した王権の再興、特に疲弊した国家財政の再建に取り組み、農業の振興など国力の回復に努め、叉対外的には国内の再建のために平和政策を推進し、1604年には東インド会社を設立し、北米にケベックを建設するなど海外進出を進めますが、アンリ4世自身も狂信的な旧教徒に暗殺されてしまいます(1610年)。

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フランス王国とナヴァール王国を表わす擬人像の間のルイ13世

 父アンリ4世が暗殺されことから、ルイ13世(在位1610年~43年)が9歳で即位した結果、母后のマリ・ド・メディシスが摂政に就き、彼女はリシュリューを用いて貴族を抑え、親政を始めたルイ13世と対立して追放されました(1617年)。

 この間、マリ・ド・メディシスは1614年に三部会を召集したが、第1身分(僧侶)・第2身分(貴族)と第3身分(平民)の利害が対立して混乱したために、三部会は1615年に解散され、以後フランス革命の直前の1789年まで召集されず、無議会の状態が続く結果と成りました。

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フランス王国宰相アルマン・リシュリュー公爵

 ルイ13世は、1617年に親政を開始しますが、政治の混乱が続き、1624年にリシュリューを宰相に任命して王権の確立を図ります。

 リシュリュー(1585年~1642年)は、地方貴族の次男に生まれ、聖職につき(1606年)、聖職者の代表として出席した三部会で政治家としての才能を認められ、母后マリ・ド・メディシスに登用されましたが、ルイ13世の親政開始によって失脚していました。
しかし、その後復帰してルイ13世の宰相となり(1624年)、死去する迄その地位に留まり名宰相と謳われ、フランス絶対主義の確立に努めました。

 リシュリューは、王権の伸張とフランスの国際的地位の向上を目指し、内政では貴族とユグノーの勢力を抑圧し、対外的にはハプスブルク家打倒に全力を注ぎました。

 1628年にはユグノーの最大の拠点ラ・ロシェルを陥れてユグノーの勢力を挫き、叉三部会を開催せず、高等法院(フランスの最高司法機関で王令審査権を持ち、貴族の牙城であった)の権限を縮小し、貴族の反乱を鎮圧して貴族勢力の抑圧に努めたのでした。

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マリー・ド・メディシス:フィレンツェからマルセイユに到着

 対外的には、スペイン・オーストリアの両ハプスブルク家に対抗するために、旧教国であるフランスがドイツの新教徒や新教国(ルター派)のスウェーデンを援助して、隣国ドイツでおこった三十年戦争(1618年~48年)に介入し、1635年にはスウェーデンと同盟を組みスペインに宣戦して直接介入を行い、フランスの国際的地位の向上を図りますが、彼自身は三十年戦争の終結を待たずに死去しています。

ジョークは如何?

冷戦時代、東ドイツ陸軍は4個戦車師団と6個機械化歩兵師団を保有し
ソ連は30個師団を東ドイツに駐屯させていた。

この配備を見た西側の専門家は「第3次世界大戦ではソ連軍と東ドイツ軍が一緒になって攻めてくる」と判断していたが、
内実は東ドイツ軍1個師団をそれぞれソ連軍3個師団が包囲するように配置されていた。


続く・・・

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コメント

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秋葉奈津子様 こんばんは。

昼間の暑さは夏日の暑さです。
夏が戻ってきた感じがします。

鞍馬の火祭りもすごい人出した。
祭りは人が多くて当たり前なのですが、
鞍馬寺の狭い道では難渋しそうです。

もう直ぐすると鞍馬も紅葉できれいになります。

葉山左京様、おはようございます。

おはようございます。

10月24日、土曜日「霜降」のご挨拶です。

霜降を迎えました、
楓の紅葉が始まり、木枯らしが吹く頃に成りました。
心地良い気候から寒さを実感する季節の変わり目ですが、此方九州は20度前半を維持して、日中は半袖で十分です。

今日、ジロくんの散歩道で、沢山の人が集まり、更に警察や消防、電力会社の車両は止まっているので、何かと思って近づくと、30年以上空家になっていた家が、自然崩壊したとのことでした。
思い返してみれば、初代ジロくんの散歩を始めた頃には、もう空家だったのですから、手入れする人も居なければ当然の結果かもしれません。
高齢化社会の現実ですね。

秋葉奈津子様 こんばんは。

家は人が住まなくなると、急速に悪くなっていきますね。
京都も例外ではありませんが、空き家は京町家として復活を市が奨励しているようです。
若い人達が古い空き家を改造して新しい町家として生活しているようです。
それには市からの援助があるようですが?

明日からは最高気温も19℃のようで寒くなる予報です。
秋が進むでしょうね。

葉山左京様、おはようございます。

おはようございます。

10月25日、日曜日のご挨拶です。

京都市内の古民家リフォームのお話は、先日NHKでも全国に紹介されていました。
京都の古い町並みを生かした、古民家のリフォームは興味深いものです。

連続した良いお天気に恵まれた北九州地方です。
日中の気温は相変わらず20度台前半を維持していますが、各地にニュースで、紅葉の便りが聞かれます。

庭の雑草の成長が、今月に入ってから遅く成りました。
やはり日照時間も関係しているようですが、地面はカラカラに乾燥しています。

その様な中、庭の水仙が到る処で新芽を伸ばし始めました。
生命力の強さに驚きます。

秋葉奈津子様 こんばんは。

やはり天気予報は当たりました。
北風が強く吹いて外を歩くと吹き飛ばされそうな勢いです。

明日の朝は9℃です。
関西地方に今日木枯らし一号が吹きました。

秋が短くなったような冬の寒さが身にしみた一日でした。
周囲には風邪を引いた人間が多くなりました。
秋葉様もご注意ください。

葉山左京様、おはようございます。

おはようございます。

10月27日、月曜日のご挨拶です。

昨晩から冷込みを感じています。
そろそろ、暖房器具の準備が必要に成った様です。

昨日、訪問先からの帰宅時、海から昇る月を見ました。
その大きさと海に投げる光に、車を止めて暫く、その姿を眺めていました。
久しく忘れていた、光景でした。

今日から又、普段の生活が始まります。

秋葉奈津子様 こんばんは。

寒くなってきましたね。
暖房器具をそろそろ出さないといけないようです。

海から昇る月を見たいですね。
こちらでは山から昇る月しか見たことがありません。
今日は満月なのでしょうか。
真ん丸いお月様が見られました。

秋葉奈津子様 おはようございます。

おはようございます。
今朝も10℃の気温です。
11月になるともっと冷え込むと長期予報で言っていました。
冬到来、目の前に来ています。

やっと東の空が明るくなりだし又今日も一日が明けます。
仕事のほうも年末に向けての段取りを考えなければなりませんね。

いつも訪問いただき感謝しております。

葉山左京様、おはようございます。

おはようございます。

10月27日、火曜日のご挨拶です。

今日はゆっくり出勤なので、未だ自宅です。

昨晩は月も明るく、良いお天気だったので、天気予報も外れるかと思ったのですが、見事に的中。
時折、弱い雨が降っていますが、辛うじて、ジロくんの散歩は出来ました。

昨日辺りから、明方の東の空に水星、火星、木星が接近する天体ショーが観れるのですが、今日は残念です。

来週は11月、北部九州も11月早々から気温も10度台後半になるとの予報です。
寒さ対策もしなければ成りません。