歴史を歩く147
19 絶対主義国家の盛衰⑦
6 三十年戦争

三十年戦争
ドイツでは、アウグスブルクの和議(1555年)以後も、新教派諸侯と旧教派の皇帝・諸侯との対立が続き、ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)の新教徒の反乱を発端として、1618年についに三十年戦争(1618年~48年)が勃発します。
アウグスブルクの和議は、「支配者の宗教、その支配地に行われる」と云う言葉に示されているように、個人信仰の自由はなく、支配者(諸侯)の信仰の自由であって、住民は支配者が選択した宗教に従わなければなりませんでした。
従って、支配者がカトリックで住民がプロテスタント等のように、支配者と住民の信仰する宗教が異なる場合には、いつでも紛争が起きる可能性が存在したのです。

神聖ローマ皇帝フェルディナント2世
上述の様に三十年戦争の発端になった事件はベーメン(ボヘミア)の新教徒の反乱でした。
1617年にハプスブルク家のフェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がベーメン王に選出されます。
フェルディナントは、イエズス会の教育を受けて反宗教改革を推進した熱狂的なカトリック教徒で、ベーメン王になると国内の新教派の教会を次々に閉鎖し、旧教の信仰を住民に強制しました。
この行為に憤激した新教派の人々がプラハの王宮に乗り込み、新教派弾圧の急先鋒であった二人の皇帝顧問官を王宮の窓から20m余り下の壕に突き落とす事件が起こります。
二人は奇跡的に助かったのですが、この出来事(1618年)が三十年戦争の発端となりました。
三十年戦争は大きく4つの時期分けることができます。

フリードリヒ5世
第1期(1618年~23年、ベーメン・ファルツ戦争)は、ベーメンの新教徒の反乱を中心とするドイツ国内の宗教戦争の時期に成ります。
神聖ローマ皇帝マティアスが亡くなり、フェルディナント2世(在位1619年~37年)が帝位に就くと、ベーメン議会は彼の廃位を宣言し、カルヴァン派で新教同盟の指導者であったファルツ選帝侯フリードリヒ5世をベーメン王に選びました。
フェルディナント2世は、旧教派諸侯の援助を得て、フリードリヒ5世をヴァイセンベルクの戦い(1620年)に破り、反乱を鎮圧します。
若し外国の介入がなければ、三十年戦争はこのまま終わる可能性が在ったのですが、デンマーク・スウェーデン(伴に新教(ルター派)国)の介入によって三十年戦争は国際戦争に発展します。

デンマーク王クリスチャン4世の即位式
第2期(1625年~29年、デンマーク戦争)は、デンマークが新教側を助けるために介入し、旧教側をスペインが援助したので三十年戦争は国際的な宗教戦争となった時期です。
デンマーク王クリスチャン4世(在位1588年~1648年)は、国内では絶対王政の確立に努め、対外的には北ドイツへの領土拡大の機会を伺っていました。
そしてイギリス・オランダから軍資金援助の約束を取り付けると、ドイツの新教徒援助を口実に6万の軍を率いてドイツに侵入します(1625年)。
しかし、デンマーク軍は名将ティリの率いる旧教連盟軍に大敗し(1626年)、皇帝軍はユトランド半島奥深くに攻め込まれ、結局デンマークは以後ドイツに一切干渉しないことを条件に和約が結ばれました(1629年)。
第3期(1630年~35年、スウェーデン戦争)は、スウェーデンの介入によってますます激しい国際的な宗教戦争となった時期です。

スウェーデン王グスタフ・アドルフ
スウェーデン王グスタフ・アドルフ(グスタフ2世、在位1611年~32年)は、17歳で即位し、デンマーク・ロシア・ポーランドと戦ってバルト海に大勢力を築き、スウェーデンを北欧の一大強国とした名君で「北方の獅子」と呼ばれていました。
1630年6月、グスタフ・アドルフはフランスから軍資金援助の約束を得て、歩兵・騎兵・砲兵からなる1万3000の軍を率いてポンメルンへ上陸します。
グスタフ・アドルフはブランデンブルク選帝侯・ザクセン選帝侯等有力な新教諸侯と同盟して、連戦連勝、破竹の進撃を続けてフランクフルト・マインツを占領し、更に進んで皇帝軍の名将ティリを破りミュンヘンを占領します(1632年)。
絶望的な状況に追い込まれた皇帝フェルディナント2世は、この状況を打開できるのはヴァレンシュタインしかいないと考え、デンマーク戦争の際に一度は罷免したヴァレンシュタインを再び起用します。
ヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン、1583年~1634年)は、ベーメンの小貴族出身で、有名な傭兵隊長であり、三十年戦争初期のベーメンの反乱の時に皇帝フェルディナント2世を支持し、北ベーメンに広大な没収土地を獲得して巨万の富を築きました。
デンマーク戦争が始まると、皇帝のために自己の資金で5万の傭兵を募集し(1625年)、皇帝軍の総司令官に就き、新教軍に連戦連勝し、クリスチャン4世をドイツから駆逐しますが、彼の野心を恐れる旧教派諸侯の圧力で、罷免されます(1630年)。
しかし、グスタフ・アドルフの快進撃で戦況が悪化すると、再び起用されて総司令官に成りました。

リュッツェンの戦い
グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインは、1632年のリュッツェンの戦いで激突し、激戦の中でグスタフ・アドルフは銃で撃たれて戦死しますが、王の戦死はスウェーデン軍を奮い立たせ、戦いはスウェーデン軍の勝利に終わります。
ヴァレンシュタインはリュッツェンの戦いの後ベーメンに帰り、鳴りを潜めます。
そして皇帝には秘密のうちに新教側と和平交渉を行ったために、皇帝の疑惑を受けて罷免され、皇帝派によって暗殺されました(1634年)。
第4期(1635年~48年、フランス・スウェーデン戦争)は、フランスの参戦によって政治戦争化した時期です。

アクセル・グスタフソン・オクセンシェルナ;スウェーデン宰相
フランスは、ハプスブルク家に対抗するためにデンマーク・スウェーデンを援助してきたのですが、リシュリューは1635年にスウェーデンと同盟を結び、スペインに宣戦を布告し、ドイツにも出兵して直接介入に踏みきります。
旧教国のフランスが新教側に立って参戦したことは、三十年戦争がもはや宗教戦争ではなく、ブルボン家対ハプスブルク家の政治戦争に変わったことをよく示しています。
戦況は一進一退を繰り返し、更に長期化し、この間、皇帝フェルディナント2世も崩御し(1637年)、戦争の長期化によって新・旧両派ともに疲弊し、和平への機運が高まっていきました。
フランス・スウェーデン側が優勢の中で、講和会議が1644年からウェストファリア地方の2都市で始まりますが、各国の利害が対立して交渉は進まず、4年間費やして、1648年にウェストファリア条約が調印されました。
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ウェストファリア条約
近代国際会議の始まりとされているウェストファリア講和会議には66カ国が参加し、以後のヨーロッパの歴史にとって重要な項目が決定されました。
三十年戦争の原因となった信仰の問題については、アウグスブルクの和議の原則が再確認されるとともにカルヴァン派が認められ、諸侯はカトリック・ルター派・カルヴァン派の選択の自由が認められましたが、領民には支配者と違う宗派を信仰する場合には立ち退きの自由が認められただけでした。
ウェストファリア条約で最大の利益を得たのはフランスでした。
フランスはアルザスの大部分とメッツ・トゥール・ヴェルダンの3司教領を獲得し、スウェーデンも西ポンメルンを獲得し、ヨーロッパ大陸に初めて領土を持つことに成ります。
ドイツの諸侯と帝国都市にはほとんど完全な主権と外交権が認められたので、ドイツには約300の領邦国家が分立することになり、神聖ローマ帝国の分裂は決定的と成りました。
そのためウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証書」とも云われています。
又中世末期に事実上独立していたスイスと、独立戦争によって1609年には事実上独立していたオランダの独立が国際的に承認されました。

三十年戦争は傭兵の戦いでも有りました。
ヴァレンシュタインのような戦争請負人=傭兵隊長が、自費で傭兵を集めて、その軍隊を皇帝や諸侯に売り込み、傭兵隊長達は民衆から軍税と称して臨時の租税を徴収し、更には都市や村落を脅して税を取り立てて軍隊の維持や戦費に充当します。
民衆は税負担のみならず、兵士達の掠奪・暴行にも苦しめられ、一般的に傭兵軍の規律は低く、給料は戦時にのみ支払われたので、戦争が無いときには、傭兵達は徒党を組んで村落を襲い、略奪・暴行の限りを尽くしたのです。
このため戦場となったドイツ各地の農村の荒廃は激しく、三十年戦争前に1800万人であったドイツの人口は終戦時には700万人に激減したと云われ、ドイツは政治・経済・社会面で西欧諸国に比べて著しく立ち遅れることとなり、ドイツの後進性は決定的となったのです。
ジョークは如何?
ソ連絶頂期のクレムリン。
ブレジネフがコスイギンに云った。
「今我国で海外渡航を解禁したら、我々二人の他誰が残るだろうね?」
コスイギンが答えた。
「我々二人って、いったい君以外に誰が残ると云うんだい?」
続く・・・
6 三十年戦争

三十年戦争
ドイツでは、アウグスブルクの和議(1555年)以後も、新教派諸侯と旧教派の皇帝・諸侯との対立が続き、ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)の新教徒の反乱を発端として、1618年についに三十年戦争(1618年~48年)が勃発します。
アウグスブルクの和議は、「支配者の宗教、その支配地に行われる」と云う言葉に示されているように、個人信仰の自由はなく、支配者(諸侯)の信仰の自由であって、住民は支配者が選択した宗教に従わなければなりませんでした。
従って、支配者がカトリックで住民がプロテスタント等のように、支配者と住民の信仰する宗教が異なる場合には、いつでも紛争が起きる可能性が存在したのです。

神聖ローマ皇帝フェルディナント2世
上述の様に三十年戦争の発端になった事件はベーメン(ボヘミア)の新教徒の反乱でした。
1617年にハプスブルク家のフェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がベーメン王に選出されます。
フェルディナントは、イエズス会の教育を受けて反宗教改革を推進した熱狂的なカトリック教徒で、ベーメン王になると国内の新教派の教会を次々に閉鎖し、旧教の信仰を住民に強制しました。
この行為に憤激した新教派の人々がプラハの王宮に乗り込み、新教派弾圧の急先鋒であった二人の皇帝顧問官を王宮の窓から20m余り下の壕に突き落とす事件が起こります。
二人は奇跡的に助かったのですが、この出来事(1618年)が三十年戦争の発端となりました。
三十年戦争は大きく4つの時期分けることができます。

フリードリヒ5世
第1期(1618年~23年、ベーメン・ファルツ戦争)は、ベーメンの新教徒の反乱を中心とするドイツ国内の宗教戦争の時期に成ります。
神聖ローマ皇帝マティアスが亡くなり、フェルディナント2世(在位1619年~37年)が帝位に就くと、ベーメン議会は彼の廃位を宣言し、カルヴァン派で新教同盟の指導者であったファルツ選帝侯フリードリヒ5世をベーメン王に選びました。
フェルディナント2世は、旧教派諸侯の援助を得て、フリードリヒ5世をヴァイセンベルクの戦い(1620年)に破り、反乱を鎮圧します。
若し外国の介入がなければ、三十年戦争はこのまま終わる可能性が在ったのですが、デンマーク・スウェーデン(伴に新教(ルター派)国)の介入によって三十年戦争は国際戦争に発展します。

デンマーク王クリスチャン4世の即位式
第2期(1625年~29年、デンマーク戦争)は、デンマークが新教側を助けるために介入し、旧教側をスペインが援助したので三十年戦争は国際的な宗教戦争となった時期です。
デンマーク王クリスチャン4世(在位1588年~1648年)は、国内では絶対王政の確立に努め、対外的には北ドイツへの領土拡大の機会を伺っていました。
そしてイギリス・オランダから軍資金援助の約束を取り付けると、ドイツの新教徒援助を口実に6万の軍を率いてドイツに侵入します(1625年)。
しかし、デンマーク軍は名将ティリの率いる旧教連盟軍に大敗し(1626年)、皇帝軍はユトランド半島奥深くに攻め込まれ、結局デンマークは以後ドイツに一切干渉しないことを条件に和約が結ばれました(1629年)。
第3期(1630年~35年、スウェーデン戦争)は、スウェーデンの介入によってますます激しい国際的な宗教戦争となった時期です。

スウェーデン王グスタフ・アドルフ
スウェーデン王グスタフ・アドルフ(グスタフ2世、在位1611年~32年)は、17歳で即位し、デンマーク・ロシア・ポーランドと戦ってバルト海に大勢力を築き、スウェーデンを北欧の一大強国とした名君で「北方の獅子」と呼ばれていました。
1630年6月、グスタフ・アドルフはフランスから軍資金援助の約束を得て、歩兵・騎兵・砲兵からなる1万3000の軍を率いてポンメルンへ上陸します。
グスタフ・アドルフはブランデンブルク選帝侯・ザクセン選帝侯等有力な新教諸侯と同盟して、連戦連勝、破竹の進撃を続けてフランクフルト・マインツを占領し、更に進んで皇帝軍の名将ティリを破りミュンヘンを占領します(1632年)。
絶望的な状況に追い込まれた皇帝フェルディナント2世は、この状況を打開できるのはヴァレンシュタインしかいないと考え、デンマーク戦争の際に一度は罷免したヴァレンシュタインを再び起用します。
ヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン、1583年~1634年)は、ベーメンの小貴族出身で、有名な傭兵隊長であり、三十年戦争初期のベーメンの反乱の時に皇帝フェルディナント2世を支持し、北ベーメンに広大な没収土地を獲得して巨万の富を築きました。
デンマーク戦争が始まると、皇帝のために自己の資金で5万の傭兵を募集し(1625年)、皇帝軍の総司令官に就き、新教軍に連戦連勝し、クリスチャン4世をドイツから駆逐しますが、彼の野心を恐れる旧教派諸侯の圧力で、罷免されます(1630年)。
しかし、グスタフ・アドルフの快進撃で戦況が悪化すると、再び起用されて総司令官に成りました。

リュッツェンの戦い
グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインは、1632年のリュッツェンの戦いで激突し、激戦の中でグスタフ・アドルフは銃で撃たれて戦死しますが、王の戦死はスウェーデン軍を奮い立たせ、戦いはスウェーデン軍の勝利に終わります。
ヴァレンシュタインはリュッツェンの戦いの後ベーメンに帰り、鳴りを潜めます。
そして皇帝には秘密のうちに新教側と和平交渉を行ったために、皇帝の疑惑を受けて罷免され、皇帝派によって暗殺されました(1634年)。
第4期(1635年~48年、フランス・スウェーデン戦争)は、フランスの参戦によって政治戦争化した時期です。

アクセル・グスタフソン・オクセンシェルナ;スウェーデン宰相
フランスは、ハプスブルク家に対抗するためにデンマーク・スウェーデンを援助してきたのですが、リシュリューは1635年にスウェーデンと同盟を結び、スペインに宣戦を布告し、ドイツにも出兵して直接介入に踏みきります。
旧教国のフランスが新教側に立って参戦したことは、三十年戦争がもはや宗教戦争ではなく、ブルボン家対ハプスブルク家の政治戦争に変わったことをよく示しています。
戦況は一進一退を繰り返し、更に長期化し、この間、皇帝フェルディナント2世も崩御し(1637年)、戦争の長期化によって新・旧両派ともに疲弊し、和平への機運が高まっていきました。
フランス・スウェーデン側が優勢の中で、講和会議が1644年からウェストファリア地方の2都市で始まりますが、各国の利害が対立して交渉は進まず、4年間費やして、1648年にウェストファリア条約が調印されました。
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ウェストファリア条約
近代国際会議の始まりとされているウェストファリア講和会議には66カ国が参加し、以後のヨーロッパの歴史にとって重要な項目が決定されました。
三十年戦争の原因となった信仰の問題については、アウグスブルクの和議の原則が再確認されるとともにカルヴァン派が認められ、諸侯はカトリック・ルター派・カルヴァン派の選択の自由が認められましたが、領民には支配者と違う宗派を信仰する場合には立ち退きの自由が認められただけでした。
ウェストファリア条約で最大の利益を得たのはフランスでした。
フランスはアルザスの大部分とメッツ・トゥール・ヴェルダンの3司教領を獲得し、スウェーデンも西ポンメルンを獲得し、ヨーロッパ大陸に初めて領土を持つことに成ります。
ドイツの諸侯と帝国都市にはほとんど完全な主権と外交権が認められたので、ドイツには約300の領邦国家が分立することになり、神聖ローマ帝国の分裂は決定的と成りました。
そのためウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証書」とも云われています。
又中世末期に事実上独立していたスイスと、独立戦争によって1609年には事実上独立していたオランダの独立が国際的に承認されました。

三十年戦争は傭兵の戦いでも有りました。
ヴァレンシュタインのような戦争請負人=傭兵隊長が、自費で傭兵を集めて、その軍隊を皇帝や諸侯に売り込み、傭兵隊長達は民衆から軍税と称して臨時の租税を徴収し、更には都市や村落を脅して税を取り立てて軍隊の維持や戦費に充当します。
民衆は税負担のみならず、兵士達の掠奪・暴行にも苦しめられ、一般的に傭兵軍の規律は低く、給料は戦時にのみ支払われたので、戦争が無いときには、傭兵達は徒党を組んで村落を襲い、略奪・暴行の限りを尽くしたのです。
このため戦場となったドイツ各地の農村の荒廃は激しく、三十年戦争前に1800万人であったドイツの人口は終戦時には700万人に激減したと云われ、ドイツは政治・経済・社会面で西欧諸国に比べて著しく立ち遅れることとなり、ドイツの後進性は決定的となったのです。
ジョークは如何?
ソ連絶頂期のクレムリン。
ブレジネフがコスイギンに云った。
「今我国で海外渡航を解禁したら、我々二人の他誰が残るだろうね?」
コスイギンが答えた。
「我々二人って、いったい君以外に誰が残ると云うんだい?」
続く・・・
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コメント
明日から又最高気温が20℃超すようですが
少しずつ寒くなっていくのがわかりますね。
11月に入りましたので、
紅葉シーズンも本格的になりました。
醍醐寺をはじめ近隣のお寺の参拝者の数が急激に増えています。
2015-11-03 21:04 葉山左京 URL 編集
秋が短く過ぎていくように思えます。
今年は寒さが早くから厳しいようです。
北の山から紅葉が進んできます。
京都の日本海側はかなり気温が低くなっています。
北九州はいかがでしょうか。
2015-11-04 21:57 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月5日、木曜日のご挨拶です。
風が吹いて来る向きが、北西に成りました。
未だ、冷たさを感じる事は、殆んど在りません。
大学生の頃、今の時期は大学祭の最中でしたが、屋外で時折吹いて来る北西の風に冷たさを感じたことを思い出します。
日々、同じことの繰り返しですが、小さな変化に季節の移り変わりを感じます。
2015-11-05 06:42 秋葉 奈津子 URL 編集
風が冷たい分心地よい一日でしたが、
11月に入ってもこの気温が続くのでしょうか。
私は続いて欲しいですけど!
言われるとおり、
日々同じことの繰り返しですが、
変化は生じていますね。
紅葉が進み楓の葉が真っ赤になってきました。
2015-11-05 20:46 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月6日、金曜日のご挨拶です。
日中は気温が高い毎日が続いています。
寒暖の差が10度近く在り、衣類の調節が大変です。
今日、朝靄の中に太陽が昇って来ました。
朝、丸い大きな太陽を観る機会は、中々在りません。
何時の間にか、陽の昇る場所も大きく南に変わってしまいました。
冬の太陽の陽は、暖かさを感じますね。
2015-11-06 09:21 秋葉 奈津子 URL 編集
暑い暑いと言いながらまだ長袖姿です。
遊歩道は今年3回目の雑草狩りです。
正月に向けて土手は刈らないといけません。
草ぼうぼうでは新年の迎えようがありません。
2015-11-06 22:23 葉山左京 URL 編集