歴史を歩く148
19 絶対主義国家の盛衰⑧
7 プロイセンとオーストリア①

ウェストファリア条約によって、約300の領邦国家が分立するようになったドイツで最も強大だったのはハプスブルク家が統治するオーストリアですが、三十年戦争の被害が比較的少なかったドイツの北東部でプロイセンが次第に有力となり、オーストリアと並ぶドイツの二大強国に台頭してきます。
プロイセン(プロシア)の地名は、もとバルト海沿岸に居住していたバルト系住民の名に由来し、ドイツ騎士団が13世紀にこの地を征服してドイツ人の国家を建設、16世紀初頭にドイツ騎士団領がプロイセン公国となり(1511年)、後のホーエンツォレルン家の騎士団長はプロテスタントに改宗します(1525年)。
ホーエンツォレルン家の起源は、南ドイツの小貴族ですが、15世紀初頭にフリードリヒ1世がブランデンブルク辺境伯領の統治権を得て選帝侯と成り(1415年)、1618年にプロイセン公国のホーエンツォレルン家が断絶した結果、ブランデンブルク選帝侯が相続し、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国は合併してブランデンブルク・プロイセン(1618年~1701年)と成りました。
ブランデンブルク・プロイセン発展の基礎を築いた人物が、大選帝侯と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1640年~88年)で、彼はウェストファリア条約によって東ポンメルンを獲得し、叉プロイセンに対するポーランドの宗主権を排除して完全な主権を獲得した上(1657年)、更にルイ14世がナントの勅令を廃止してユグノーを弾圧すると、約1万5000人の昇るユグノーの亡命を受け入れ、ブランデンブルク・プロイセンの経済発展にも力を尽くし、後のプロイセンの絶対主義の基礎を築いたのです。
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フリードリヒ3世(在位1688年~1701年)
フリードリヒ・ヴィルヘルムの子、フリードリヒ3世(在位1688年~1701年)はスペイン継承戦争(1701年~13年)の際、皇帝を援助して初めて王号を認められ、プロイセン王と成ったのです(在位1701年~13年)。
プロイセン王国(1701年~1871年)2代目の王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年~40年)は、官僚制を整備し、産業を保護して財政の充実に努めした。
「兵隊王」の異名を持つ彼は、特に軍備の増強に力をそそぎ、徴兵制を実施し、叉全ヨーロッパから傭兵を募って長身の兵を選んで巨人部隊を創設する等、即位時には3万8000人であったプロイセンの軍隊を没時には8万3000人の軍隊に増強し、プロイセンをフランス・ロシアに次ぐヨーロッパ3番目の陸軍国としました。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年~40年)
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって基礎が築かれたプロイセンの絶対主義・軍国主義を完成し、プロイセンを一躍ヨーロッパの最強国の一つにしたのが有名なフリードリヒ2世(大王、1712年~86年、在位1740年~86年)です。
フリードリヒ2世は、皇太子時代には軍事訓練や狩猟等を嫌い、詩文や音楽(フルート演奏をよくし、作曲もしている)を愛好するのですが、「兵隊王」の父は、このような軟弱なフリードリヒに我慢がならず、優れた軍人に育てるために厳しく対峙しました。

フリードリヒ2世(大王、1712年~86年、在位1740年~86年)
その父に反発したフリードリヒは、18歳の時に父の西ドイツ旅行に随行し、隙を見て友人と母の実家のあるイギリスへ逃亡する計画を練ったのですが、計画は未然にもれて失敗に終わり、共謀者の友人は彼の目前で斬首されてしまいます(1730年)。
フリードリヒ自身は側近の取りなしでかろうじて死を免れましたが、1年間監獄につながれ、この出来事はフリードリヒの生涯の転機となり、その後は軍務に精励し、父の死後プロイセン王に即位し(1740年5月)、彼の即位の5ヶ月後にオーストリアでカール6世が崩御し、マリア・テレジアが即位します。

神聖ローマ皇帝カール6世(在位1717年~40年)
神聖ローマ皇帝カール6世(在位1717年~40年)は、息子の死後、名門ハプスブルク家を相続できるのは男子に限ると定めた家訓に反して、一人娘のマリア・テレジアにハプスブルク家の全領土を相続させようとします。
そのためカール6世は1724年に国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン、1713年に制定)を発布し、女子の領土相続権と領土不分割を宣言して、列国の承認を取り付けました。
しかし、カール6世が亡くなり、マリア・テレジア(マリア・テレサ、1717年~80年、在位1740年~80年)がハプスブルク家の全領土を相続すると、バイエルン選帝侯・ザクセン選帝侯(ともにカール6世の兄ヨーゼフ1世(在位1705年~11年)の娘婿)とスペインはマリア・テレジアの相続に異議を唱えて帝位継承権を要求します。
この時、フリードリヒ2世は、マリア・テレジアの帝位継承を認める代償として、シュレジエン(シレジア、鉄・石炭などの資源に富む豊かな地方)を要求してシュレジエンに侵入し、わずか2~3週間で全シュレジエンを占領し(1740年12月)、これを発端としてオーストリア継承戦争(1740年~48年)が始まりました。

マリア・テレジアと夫フランツ・シュテファン、皇太子ヨーゼフ
フリードリヒ2世のシュレジエン奪取に激怒したマリア・テレジアはシュレジエン奪回を図るもののプロイセン軍に大敗(1741年4月)、この情勢を見てフランスとスペインがバイエルン選帝侯と同盟してマリア・テレジアの相続に反対し、バイエルン選帝侯の皇帝擁立を図り、更にプロイセンもフランスと同盟を結びます(1741年)。
これに対して、当時常にフランスと敵対していたイギリスは(当時イギリスとフランスは激しい植民地争奪戦を繰りひろげていた)オーストリアを援助しますが、オーストリア(マリア・テレジア)は、バイエルン選帝侯・ザクセン選帝侯・プロイセン・フランス・スペインを相手に戦うこととなり苦境に立たされ、オーストリアはやむなくプロイセンにシュレジエンを割譲して和約を結ぶことと成ります(1742年)。
プロイセンの同盟離脱によってオーストリア・イギリス側が優勢となるとフリードリヒ2世は再び参戦して(1744年)オーストリアと刃を交えます。
しかし、バイエルン選帝侯(マリア・テレジアの対立候補、フランスなどの支持によってドイツ皇帝に選出されカール7世(在位1742年~45年)となる)が崩御し、マリア・テレジアの夫が正式に皇帝に選出されてフランツ1世(在位1745年~65年)となると、フリードリヒ2世は再び和約を結び、シュレジエンを確保する代わりにフランツ1世を承認します。
その後もフランス・スペインとの戦いは続きますが、最終的に1748年にアーヘンの和約が結ばれて、オーストリア継承戦争は終結しました。
ジョークは如何?
北朝鮮の原発の査察受け入れ問題か何かでカーター元大統領が
素晴らしい外交を行った.
それに対して「彼は素晴らしい元大統領だ.
最初から元大統領であってくれたらどんなによかったことか」
続く・・・
7 プロイセンとオーストリア①

ウェストファリア条約によって、約300の領邦国家が分立するようになったドイツで最も強大だったのはハプスブルク家が統治するオーストリアですが、三十年戦争の被害が比較的少なかったドイツの北東部でプロイセンが次第に有力となり、オーストリアと並ぶドイツの二大強国に台頭してきます。
プロイセン(プロシア)の地名は、もとバルト海沿岸に居住していたバルト系住民の名に由来し、ドイツ騎士団が13世紀にこの地を征服してドイツ人の国家を建設、16世紀初頭にドイツ騎士団領がプロイセン公国となり(1511年)、後のホーエンツォレルン家の騎士団長はプロテスタントに改宗します(1525年)。
ホーエンツォレルン家の起源は、南ドイツの小貴族ですが、15世紀初頭にフリードリヒ1世がブランデンブルク辺境伯領の統治権を得て選帝侯と成り(1415年)、1618年にプロイセン公国のホーエンツォレルン家が断絶した結果、ブランデンブルク選帝侯が相続し、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国は合併してブランデンブルク・プロイセン(1618年~1701年)と成りました。
ブランデンブルク・プロイセン発展の基礎を築いた人物が、大選帝侯と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1640年~88年)で、彼はウェストファリア条約によって東ポンメルンを獲得し、叉プロイセンに対するポーランドの宗主権を排除して完全な主権を獲得した上(1657年)、更にルイ14世がナントの勅令を廃止してユグノーを弾圧すると、約1万5000人の昇るユグノーの亡命を受け入れ、ブランデンブルク・プロイセンの経済発展にも力を尽くし、後のプロイセンの絶対主義の基礎を築いたのです。
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フリードリヒ3世(在位1688年~1701年)
フリードリヒ・ヴィルヘルムの子、フリードリヒ3世(在位1688年~1701年)はスペイン継承戦争(1701年~13年)の際、皇帝を援助して初めて王号を認められ、プロイセン王と成ったのです(在位1701年~13年)。
プロイセン王国(1701年~1871年)2代目の王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年~40年)は、官僚制を整備し、産業を保護して財政の充実に努めした。
「兵隊王」の異名を持つ彼は、特に軍備の増強に力をそそぎ、徴兵制を実施し、叉全ヨーロッパから傭兵を募って長身の兵を選んで巨人部隊を創設する等、即位時には3万8000人であったプロイセンの軍隊を没時には8万3000人の軍隊に増強し、プロイセンをフランス・ロシアに次ぐヨーロッパ3番目の陸軍国としました。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年~40年)
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって基礎が築かれたプロイセンの絶対主義・軍国主義を完成し、プロイセンを一躍ヨーロッパの最強国の一つにしたのが有名なフリードリヒ2世(大王、1712年~86年、在位1740年~86年)です。
フリードリヒ2世は、皇太子時代には軍事訓練や狩猟等を嫌い、詩文や音楽(フルート演奏をよくし、作曲もしている)を愛好するのですが、「兵隊王」の父は、このような軟弱なフリードリヒに我慢がならず、優れた軍人に育てるために厳しく対峙しました。

フリードリヒ2世(大王、1712年~86年、在位1740年~86年)
その父に反発したフリードリヒは、18歳の時に父の西ドイツ旅行に随行し、隙を見て友人と母の実家のあるイギリスへ逃亡する計画を練ったのですが、計画は未然にもれて失敗に終わり、共謀者の友人は彼の目前で斬首されてしまいます(1730年)。
フリードリヒ自身は側近の取りなしでかろうじて死を免れましたが、1年間監獄につながれ、この出来事はフリードリヒの生涯の転機となり、その後は軍務に精励し、父の死後プロイセン王に即位し(1740年5月)、彼の即位の5ヶ月後にオーストリアでカール6世が崩御し、マリア・テレジアが即位します。

神聖ローマ皇帝カール6世(在位1717年~40年)
神聖ローマ皇帝カール6世(在位1717年~40年)は、息子の死後、名門ハプスブルク家を相続できるのは男子に限ると定めた家訓に反して、一人娘のマリア・テレジアにハプスブルク家の全領土を相続させようとします。
そのためカール6世は1724年に国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン、1713年に制定)を発布し、女子の領土相続権と領土不分割を宣言して、列国の承認を取り付けました。
しかし、カール6世が亡くなり、マリア・テレジア(マリア・テレサ、1717年~80年、在位1740年~80年)がハプスブルク家の全領土を相続すると、バイエルン選帝侯・ザクセン選帝侯(ともにカール6世の兄ヨーゼフ1世(在位1705年~11年)の娘婿)とスペインはマリア・テレジアの相続に異議を唱えて帝位継承権を要求します。
この時、フリードリヒ2世は、マリア・テレジアの帝位継承を認める代償として、シュレジエン(シレジア、鉄・石炭などの資源に富む豊かな地方)を要求してシュレジエンに侵入し、わずか2~3週間で全シュレジエンを占領し(1740年12月)、これを発端としてオーストリア継承戦争(1740年~48年)が始まりました。

マリア・テレジアと夫フランツ・シュテファン、皇太子ヨーゼフ
フリードリヒ2世のシュレジエン奪取に激怒したマリア・テレジアはシュレジエン奪回を図るもののプロイセン軍に大敗(1741年4月)、この情勢を見てフランスとスペインがバイエルン選帝侯と同盟してマリア・テレジアの相続に反対し、バイエルン選帝侯の皇帝擁立を図り、更にプロイセンもフランスと同盟を結びます(1741年)。
これに対して、当時常にフランスと敵対していたイギリスは(当時イギリスとフランスは激しい植民地争奪戦を繰りひろげていた)オーストリアを援助しますが、オーストリア(マリア・テレジア)は、バイエルン選帝侯・ザクセン選帝侯・プロイセン・フランス・スペインを相手に戦うこととなり苦境に立たされ、オーストリアはやむなくプロイセンにシュレジエンを割譲して和約を結ぶことと成ります(1742年)。
プロイセンの同盟離脱によってオーストリア・イギリス側が優勢となるとフリードリヒ2世は再び参戦して(1744年)オーストリアと刃を交えます。
しかし、バイエルン選帝侯(マリア・テレジアの対立候補、フランスなどの支持によってドイツ皇帝に選出されカール7世(在位1742年~45年)となる)が崩御し、マリア・テレジアの夫が正式に皇帝に選出されてフランツ1世(在位1745年~65年)となると、フリードリヒ2世は再び和約を結び、シュレジエンを確保する代わりにフランツ1世を承認します。
その後もフランス・スペインとの戦いは続きますが、最終的に1748年にアーヘンの和約が結ばれて、オーストリア継承戦争は終結しました。
ジョークは如何?
北朝鮮の原発の査察受け入れ問題か何かでカーター元大統領が
素晴らしい外交を行った.
それに対して「彼は素晴らしい元大統領だ.
最初から元大統領であってくれたらどんなによかったことか」
続く・・・
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コメント
外はまだ真っ暗で日の出がどんどん遅くなってきています。
今日は寒さはあまり感じません。
昨日から少し暖かいようです。
日中は気温が上がり良い行楽日和でしょう。
京都市内は観光客であふれています。
有名寺院など今の時期いけませんね。
2015-11-07 05:47 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月7日、土曜日のご挨拶です。
雨の朝を迎えています。
今日から月曜日迄、雨模様が予想されていますが、お陰で大変暖かくなり、11月とは思えません。
広葉樹を中心に紅葉が始まったようですが、見頃は未だ未だ先になる様です。
庭やジロくんと歩く散歩道で、つわの黄色い花が目立っています。
2015-11-07 06:37 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月8日、「立冬」を迎えた日曜日のご挨拶です。
暦の上では、「立冬」ですが、昨日に続いて暖かい朝を迎えた北九州です。
この時期には珍しく東風が吹いています。
鹿児島県の出水平野に鶴の飛来が始まりました。
いよいよ、自然界でも冬の訪れを感じている様です。
毎年、このニュースを聞く度に生き物の自然に対する本能を実感します。
年末迄のカウントダウンが始まりました。
2015-11-08 06:42 秋葉 奈津子 URL 編集
京都も昨日今日と暖かいですね。
久しぶりの雨が朝から降り大地も喜んでいることでしょう。
桜並木の真っ赤な葉っぱが雨に濡れて
赤い絨毯になっています。
今の時期は赤や黄色、茶色の絨毯が道路に敷き詰められています。
出水平野に鶴の飛来ですか!
もう冬真近いということですね。
2015-11-08 21:50 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月9日、月曜日のご挨拶です。
土曜日以来、ずっと雨模様の毎日が続いていますが、気温は異様に高く、夜でも15度以上と暖房どころか、私は半袖生活に戻ってしまいました。
体を動かすと暑くなり、汗までかく始末で、体調管理に十分注意しないと、風邪等ひいてしまいそうです。
自然界のバランスが狂ってしまいました。
2015-11-09 09:20 秋葉 奈津子 URL 編集