歴史を歩く150
19 絶対主義国家の盛衰⑨
8 ロシアの台頭①

モスクワ大公国イヴァン3世(在位1462年~1505年)
ロシアは、13世紀以来、約250年間にわたってモンゴル人の支配に服してきましたが、15世紀頃からモスクワ大公国が徐々に勢力を伸ばし始め、イヴァン3世(在位1462年~1505年)の統治の時代に、キプチャク・ハン国軍をウグラ河の戦いで撃退してモンゴル人の支配から完全に独立を果たしました(1480年)。
イヴァン3世は、ビザンツ帝国(1453年に滅亡)最後の皇帝の姪ソフィアと結婚し(1472年)、ビザンツ皇帝の後継者を自任し、ツァーリ(ツァー、ロシア皇帝の公式の称号、カエサルのロシア語形)の称号と「双頭の鷲」(ローマ帝国・神聖ローマ帝国でも用いられた)の紋章を継承し、初めて非公式にツァーリの称号を用いました。
又ビザンツ文化を盛んに受け入れた結果、ビザンツ帝国の滅亡後はギリシア正教の中心もモスクワに移ったことから、モスクワは、「第二のコンスタンティノープル」、又はローマ・コンスタンティノープルに次ぐ「第三のローマ」と呼ばれるように成ります。

双頭の鷲
イヴァン3世の孫でロシア絶対主義の基礎を固めたのがイヴァン4世(雷帝)でした。
イヴァン4世(1530年~84年、在位1533年~84年)は、3歳で父を7歳で母を失い幼くして孤児と成り、3歳で即位するものの、大貴族が実権を握り、陰謀をめぐらす宮廷で成長した結果、その性格は残忍・異常であったと云われています。
17歳の時にアナスタシア(ロマノフ家)と結婚し、同年親政を開始します(1547年)。

イヴァン4世(雷帝)
イヴァン4世は公式にツァーリと称し、ギリシア正教の首長も兼ねました。
彼は下層貴族を用いて改革を進め、全国会議(大貴族・下層貴族・商人の代表からなる身分制議会)を召集し(1549年)、全国会議を利用して下層貴族と結んで大貴族の勢力の抑制を図り、これに反抗する大貴族の領地を没収して、皇帝に忠実な下層貴族に分与し、また親衛隊を創設して反抗する大貴族にはテロを用いて容赦なく弾圧した結果、「雷帝」と呼ばれて大いに恐れられました。
対外的にはカザン・ハン国(1552年)、アストラハン・ハン国(1557年)を征服して、領土を東南に大きく拡大し、更にコサック(コザック)の首長イェルマークが征服した西シベリアを領有し、ロシアがウラル山脈を越えてシベリアへ進出する道を開きました。

イェルマークの西シベリア遠征
イェルマーク(?~1585年頃)は、ドン・コサックの首長で、豪商ストロガノフ家の援助を得て、1600余人の遠征隊を率いてウラル山脈を越えて西シベリアに進出し(1581年)、シビル・ハン国を征服して(1582年)イヴァン4世に献じます。
彼自身は1585年頃に戦死したのですが、遠征隊は毛皮獣を求めて更に森林地帯を東進します。
コサック(コザック)は、14~16世紀に農奴制の圧迫を逃れてロシア東南辺境に移住した農民で、牧畜・漁業・狩猟・交易・略奪等を生業としましたが、16~17世紀には辺境防備の自由な戦士集団を形成するようになりました。
イヴァン4世の死後、まもなくリューリク(ルーリック)朝(イヴァン3世・イヴァン4世の家系)が断絶し(1598年)、1601年から3年間にわたる大飢饉をきっかけに民衆の反乱が起こり、動乱時代(1601年~13年)が始まります。

動乱時代 :大動乱・スムータ・Смутное время
この動乱にポーランドが介入し、モスクワは一時ポーランド軍に占領され(1610年)、これに対して義勇軍(下層貴族・市民・コサック・農民等の混成)が組織され、1612年にはモスクワをポーランド軍から解放し、翌1613年に全国会議が開かれ、ミハイル・ロマノフがツァーリに選出され、ロマノフ朝(1613年~1917年)を開き、ロマノフ朝は以後300年にわたって存続し、ロシア革命で崩壊するまで、ロシアを支配します。

ミハイル・ロマノフ
ミハイル・ロマノフ(1596年~1645年、在位1613年~45年)は、ロシアの名家ロマノフ家の出身で、イヴァン4世の皇后アナスタシアの甥の子にあたります。
若年で、しかも病弱・意志も弱かったので、モスクワ総主教の父が実権を握っていました。
ロマノフ朝のもとで再び農奴制が強化されると、ステンカ・ラージンの率いる大農民反乱(1670年~71年)が起こります。

ステンカ・ラージン
ステンカ・ラージン(?~1671年)は、ドン・コサックの首領で農奴制の強化に反発し、ドン川地方で勃発した農民反乱(1667年)を指導し、貧しいコサック軍を率いてヴォルガ川下流からカスピ海南岸にまで遠征し、70年には農民反乱を起こします。
ステンカ・ラージンの反乱に、一時はヴォルガ全域が呼応し、各地で農民による地主や官吏の殺戮が頻発しますが、その後反乱軍は敗れ、ステンカ・ラージンは捕らえられてモスクワで処刑されましたが、彼は農民の救世主とされ、彼の名は伝説・民謡にうたわれ、後世まで語り伝えられています。
ステンカ・ラージンの反乱が鎮圧された後に即位したピョートル1世(大帝)の治世にロシア絶対主義が確立されました。

ピョートル1世(大帝)
ピョートル1世(大帝、1672年~1725年、在位1682年~1725年)は、異母兄フョードル3世の死後、同じく異母兄のイヴァン5世(在位1682年~89年)の共同統治者として10歳で帝位に就きますが、摂政ソフィア(イヴァン5世の姉)が実権を握り、ピョートル母子はクレムリンから追われ、モスクワ郊外の村で過ごしました。
少年時代のピョートルは、戦争ごっこに明け暮れたと云われ、2mを越える体格を持つ青年に成長しました。
ソフィアは1689年にクーデターを起こすものの失敗に終わり、ピョートル1世の親政が始まりました。
ピョートル1世は、ロシア社会の後進性を自覚し、西欧の技術に強い関心を示しその導入に努め、1697年~98年には250人から成る西欧使節団を派遣すると伴に、ピョートルは自らもこれに参加し、オランダの造船所では4ヶ月間職工としてハンマーを振るい訓練を積んだと云われています。
使節団はプロイセン・オランダ・イギリス・オーストリアを訪ねて西欧の軍事・造船などの技術の見聞・習得に努めました。

ピョートル1世:船大工修行
ピョートルは西欧から多くの学者・技術者・職人を雇い入れ、留学生を派遣し、ロシアの西欧化による近代化改革を進め。彼の改革は、産業の保護奨励、官僚制度の確立、財政改革、軍制改革をはじめ服装や日常生活の規制にまで及んだ結果、大貴族の不満が増大し、必然的に反乱が頻発しますが、ピョートルはそれらを弾圧し、農奴制を強化してロシア絶対主義を確立していきました。
対外的には、海への出口の確保を最大の目標とし、オスマン・トルコと戦い(1695年~96年)アゾフ海沿岸の地を獲得、又西ヨーロッパでのスペイン継承戦争(1701年~13年)と同時期に起こった北方戦争(1700年~21年)でバルト海沿岸地方を獲得します。
当時ロシアは、西欧化による近代化を進めるために西欧との直接交渉の窓口を求めていたのですが、西方のバルト海沿岸地方からフィンランドまでをスウェーデンが領有し、バルト海は「スウェーデンの湖」になっていました。

イヴァン・マゼーパとカール12世
そのスウェーデンで、15歳のカール12世(在位1697年~1718年)が即位すると、ポーランド・ザクセン・デンマークは北方同盟(反スウェーデン同盟)を結び、ロシアもその同盟に参加し(1699年)、1700年にデンマークがホルシュタイン公領を攻撃して北方戦争(1700年~21年)が始まると、スウェーデンに宣戦し、スウェーデン領に侵入したものの、ナルヴァの戦い(1700年)では軍事的天才の誉高い若いカール12世に大敗しました。
カール12世がモスクワに進撃せず、ポーランドを転戦している間に、ピョートルはロシア軍を立て直し、1703年にはイングリア地方を奪取し、ネヴァ河口のデルタ地帯にペテルブルク(後のレニングラード、現在のサンクト・ペテルブルク市)を建設しました。
ペテルブルクの建設には10年の歳月を要し、4万の農奴、5000の人足を徴発して建設を強行し、労働力を確保するために人狩りさえ行われたと云われ、1712年にはここに遷都し、「西欧への窓口」としました。

ポルタヴァの戦い:1709年
この間、カール12世は北方同盟を崩壊させ(1706年)、ロシアに侵入しますが(1707年)、ロシアの頑強な抵抗に遭遇、モスクワ進行を一時断念し、ロシア軍を追ってウクライナへ南下しますが、ピョートルは1709年ポルタヴァでカール12世に決戦を挑み大勝します(ポルタヴァの戦い、1709年)。敗走しやカール12世はかろうじてトルコに逃れます。
北方戦争はその後も長期にわたって続きますが、1721年のニスタット条約で終結します。
ロシアは北方戦争に勝利し、バルト海沿岸地方を獲得し、宿願を達成すると同時に、この戦争によって北欧の大国スウェーデンは以後没落に向かい、一方ロシアは一躍ヨーロッパ最強国の一つ・東ヨーロッパの大国としての地位を確立しました。
ジョークは如何?
フルシチョフがコルホーズ養豚場の視察に出かけた。
翌日のプラウダの写真キャプション。
『豚とフルシチョフ(フルシチョフは右から2番目)』」
続く・・・
8 ロシアの台頭①

モスクワ大公国イヴァン3世(在位1462年~1505年)
ロシアは、13世紀以来、約250年間にわたってモンゴル人の支配に服してきましたが、15世紀頃からモスクワ大公国が徐々に勢力を伸ばし始め、イヴァン3世(在位1462年~1505年)の統治の時代に、キプチャク・ハン国軍をウグラ河の戦いで撃退してモンゴル人の支配から完全に独立を果たしました(1480年)。
イヴァン3世は、ビザンツ帝国(1453年に滅亡)最後の皇帝の姪ソフィアと結婚し(1472年)、ビザンツ皇帝の後継者を自任し、ツァーリ(ツァー、ロシア皇帝の公式の称号、カエサルのロシア語形)の称号と「双頭の鷲」(ローマ帝国・神聖ローマ帝国でも用いられた)の紋章を継承し、初めて非公式にツァーリの称号を用いました。
又ビザンツ文化を盛んに受け入れた結果、ビザンツ帝国の滅亡後はギリシア正教の中心もモスクワに移ったことから、モスクワは、「第二のコンスタンティノープル」、又はローマ・コンスタンティノープルに次ぐ「第三のローマ」と呼ばれるように成ります。

双頭の鷲
イヴァン3世の孫でロシア絶対主義の基礎を固めたのがイヴァン4世(雷帝)でした。
イヴァン4世(1530年~84年、在位1533年~84年)は、3歳で父を7歳で母を失い幼くして孤児と成り、3歳で即位するものの、大貴族が実権を握り、陰謀をめぐらす宮廷で成長した結果、その性格は残忍・異常であったと云われています。
17歳の時にアナスタシア(ロマノフ家)と結婚し、同年親政を開始します(1547年)。

イヴァン4世(雷帝)
イヴァン4世は公式にツァーリと称し、ギリシア正教の首長も兼ねました。
彼は下層貴族を用いて改革を進め、全国会議(大貴族・下層貴族・商人の代表からなる身分制議会)を召集し(1549年)、全国会議を利用して下層貴族と結んで大貴族の勢力の抑制を図り、これに反抗する大貴族の領地を没収して、皇帝に忠実な下層貴族に分与し、また親衛隊を創設して反抗する大貴族にはテロを用いて容赦なく弾圧した結果、「雷帝」と呼ばれて大いに恐れられました。
対外的にはカザン・ハン国(1552年)、アストラハン・ハン国(1557年)を征服して、領土を東南に大きく拡大し、更にコサック(コザック)の首長イェルマークが征服した西シベリアを領有し、ロシアがウラル山脈を越えてシベリアへ進出する道を開きました。

イェルマークの西シベリア遠征
イェルマーク(?~1585年頃)は、ドン・コサックの首長で、豪商ストロガノフ家の援助を得て、1600余人の遠征隊を率いてウラル山脈を越えて西シベリアに進出し(1581年)、シビル・ハン国を征服して(1582年)イヴァン4世に献じます。
彼自身は1585年頃に戦死したのですが、遠征隊は毛皮獣を求めて更に森林地帯を東進します。
コサック(コザック)は、14~16世紀に農奴制の圧迫を逃れてロシア東南辺境に移住した農民で、牧畜・漁業・狩猟・交易・略奪等を生業としましたが、16~17世紀には辺境防備の自由な戦士集団を形成するようになりました。
イヴァン4世の死後、まもなくリューリク(ルーリック)朝(イヴァン3世・イヴァン4世の家系)が断絶し(1598年)、1601年から3年間にわたる大飢饉をきっかけに民衆の反乱が起こり、動乱時代(1601年~13年)が始まります。

動乱時代 :大動乱・スムータ・Смутное время
この動乱にポーランドが介入し、モスクワは一時ポーランド軍に占領され(1610年)、これに対して義勇軍(下層貴族・市民・コサック・農民等の混成)が組織され、1612年にはモスクワをポーランド軍から解放し、翌1613年に全国会議が開かれ、ミハイル・ロマノフがツァーリに選出され、ロマノフ朝(1613年~1917年)を開き、ロマノフ朝は以後300年にわたって存続し、ロシア革命で崩壊するまで、ロシアを支配します。

ミハイル・ロマノフ
ミハイル・ロマノフ(1596年~1645年、在位1613年~45年)は、ロシアの名家ロマノフ家の出身で、イヴァン4世の皇后アナスタシアの甥の子にあたります。
若年で、しかも病弱・意志も弱かったので、モスクワ総主教の父が実権を握っていました。
ロマノフ朝のもとで再び農奴制が強化されると、ステンカ・ラージンの率いる大農民反乱(1670年~71年)が起こります。

ステンカ・ラージン
ステンカ・ラージン(?~1671年)は、ドン・コサックの首領で農奴制の強化に反発し、ドン川地方で勃発した農民反乱(1667年)を指導し、貧しいコサック軍を率いてヴォルガ川下流からカスピ海南岸にまで遠征し、70年には農民反乱を起こします。
ステンカ・ラージンの反乱に、一時はヴォルガ全域が呼応し、各地で農民による地主や官吏の殺戮が頻発しますが、その後反乱軍は敗れ、ステンカ・ラージンは捕らえられてモスクワで処刑されましたが、彼は農民の救世主とされ、彼の名は伝説・民謡にうたわれ、後世まで語り伝えられています。
ステンカ・ラージンの反乱が鎮圧された後に即位したピョートル1世(大帝)の治世にロシア絶対主義が確立されました。

ピョートル1世(大帝)
ピョートル1世(大帝、1672年~1725年、在位1682年~1725年)は、異母兄フョードル3世の死後、同じく異母兄のイヴァン5世(在位1682年~89年)の共同統治者として10歳で帝位に就きますが、摂政ソフィア(イヴァン5世の姉)が実権を握り、ピョートル母子はクレムリンから追われ、モスクワ郊外の村で過ごしました。
少年時代のピョートルは、戦争ごっこに明け暮れたと云われ、2mを越える体格を持つ青年に成長しました。
ソフィアは1689年にクーデターを起こすものの失敗に終わり、ピョートル1世の親政が始まりました。
ピョートル1世は、ロシア社会の後進性を自覚し、西欧の技術に強い関心を示しその導入に努め、1697年~98年には250人から成る西欧使節団を派遣すると伴に、ピョートルは自らもこれに参加し、オランダの造船所では4ヶ月間職工としてハンマーを振るい訓練を積んだと云われています。
使節団はプロイセン・オランダ・イギリス・オーストリアを訪ねて西欧の軍事・造船などの技術の見聞・習得に努めました。

ピョートル1世:船大工修行
ピョートルは西欧から多くの学者・技術者・職人を雇い入れ、留学生を派遣し、ロシアの西欧化による近代化改革を進め。彼の改革は、産業の保護奨励、官僚制度の確立、財政改革、軍制改革をはじめ服装や日常生活の規制にまで及んだ結果、大貴族の不満が増大し、必然的に反乱が頻発しますが、ピョートルはそれらを弾圧し、農奴制を強化してロシア絶対主義を確立していきました。
対外的には、海への出口の確保を最大の目標とし、オスマン・トルコと戦い(1695年~96年)アゾフ海沿岸の地を獲得、又西ヨーロッパでのスペイン継承戦争(1701年~13年)と同時期に起こった北方戦争(1700年~21年)でバルト海沿岸地方を獲得します。
当時ロシアは、西欧化による近代化を進めるために西欧との直接交渉の窓口を求めていたのですが、西方のバルト海沿岸地方からフィンランドまでをスウェーデンが領有し、バルト海は「スウェーデンの湖」になっていました。

イヴァン・マゼーパとカール12世
そのスウェーデンで、15歳のカール12世(在位1697年~1718年)が即位すると、ポーランド・ザクセン・デンマークは北方同盟(反スウェーデン同盟)を結び、ロシアもその同盟に参加し(1699年)、1700年にデンマークがホルシュタイン公領を攻撃して北方戦争(1700年~21年)が始まると、スウェーデンに宣戦し、スウェーデン領に侵入したものの、ナルヴァの戦い(1700年)では軍事的天才の誉高い若いカール12世に大敗しました。
カール12世がモスクワに進撃せず、ポーランドを転戦している間に、ピョートルはロシア軍を立て直し、1703年にはイングリア地方を奪取し、ネヴァ河口のデルタ地帯にペテルブルク(後のレニングラード、現在のサンクト・ペテルブルク市)を建設しました。
ペテルブルクの建設には10年の歳月を要し、4万の農奴、5000の人足を徴発して建設を強行し、労働力を確保するために人狩りさえ行われたと云われ、1712年にはここに遷都し、「西欧への窓口」としました。

ポルタヴァの戦い:1709年
この間、カール12世は北方同盟を崩壊させ(1706年)、ロシアに侵入しますが(1707年)、ロシアの頑強な抵抗に遭遇、モスクワ進行を一時断念し、ロシア軍を追ってウクライナへ南下しますが、ピョートルは1709年ポルタヴァでカール12世に決戦を挑み大勝します(ポルタヴァの戦い、1709年)。敗走しやカール12世はかろうじてトルコに逃れます。
北方戦争はその後も長期にわたって続きますが、1721年のニスタット条約で終結します。
ロシアは北方戦争に勝利し、バルト海沿岸地方を獲得し、宿願を達成すると同時に、この戦争によって北欧の大国スウェーデンは以後没落に向かい、一方ロシアは一躍ヨーロッパ最強国の一つ・東ヨーロッパの大国としての地位を確立しました。
ジョークは如何?
フルシチョフがコルホーズ養豚場の視察に出かけた。
翌日のプラウダの写真キャプション。
『豚とフルシチョフ(フルシチョフは右から2番目)』」
続く・・・
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コメント
いつも歴史を楽しく読ませていただいています。
古代から中世のヨーロッパがよくわかります。
私は日本史専攻でしたので世界史は疎いようです。
寒いのか暑いのかわからない近況ですが、どうも風邪を引いたようで寒さが見にしみます。
お体大事にお過ごしください。
2015-11-13 23:13 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月14日、土曜日のご挨拶です。
記事へのコメントありがとうございます。
世界史は、縦横の繋がりが重要なので、敬遠する受験生も多かったですね。
中世は大変複雑な時代なので、受験時代に苦労しました。
雨模様が続いています。
乾燥していた地面は、久しぶりに水分を蓄えています。
気温も少しですが、高めに成りました。
週末ですが、今日、明日は出勤です。
年末も指折り数える頃に成りました。
小学生の頃は、後何日にお正月と楽しみにしたものですね。
あの頃を懐かしく思い出します。
2015-11-14 06:39 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月15日、日曜日のご挨拶です。
パリで、大規模な同時多発テロが、発生しました。
暴力に訴えるISには、怒りを禁じえません。
正当なイスラム神学者の方々も、この様なテロ行為をジハードとは認めて位ません。
但し、今回のテロに関しては、日本も対岸の火事で終わらない様、十分な警戒が必要と思います。
三日連続の悪天候。
流石にジロくんもストレスが溜まっている様子です。
そろそろ、回復してくれないものでしょうか?
2015-11-15 06:37 秋葉 奈津子 URL 編集
昨日は急用が起こり訪問できず失礼しました。
今日は雨模様が午後から晴れて夕方は真っ赤な夕日が山に降り注いでいました。
紅葉した山の木々が赤く染まってきれいでした。
パリのテロは人道上絶対に許せない行為です。
日本も気をつけないといけない状況ですね。
2015-11-15 18:50 葉山左京 URL 編集