歴史を歩く152
19 絶対主義国家の盛衰⑪
9 ポーランド分割

カジミェシュ大王(カシミール大王、在位1333年~70年)
ポーランド人は、10世紀に統一され、カジミェシュ大王(カシミール大王、在位1333年~70年)のもとで繁栄期を迎えます。
ポーランド人の北に居住していたバルト語系のリトアニア人は、13世紀にドイツ騎士団の脅威に抵抗して統一国家を形成し、14世紀には大公国と成りました。

リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー、在位1386年~1434年)
リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー、在位1386年~1434年)は、1386年にポーランド女王ヤドヴィカ(在位1384年~99年)と結婚し、リトアニア・ポーランド王国を形成しました。
リトアニア・ポーランド王国は、ヤゲウォ朝(ヤゲロー朝、1386年~1572年)のもとで東方に勢力を拡大し、15~16世紀には東ヨーロッパの大国として強盛を誇ります。

ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世(左)とプロイセン王兼ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(右)
しかし、1572年にヤゲウォ朝が断絶すると選挙王政となり、大貴族の専横と外国の干渉を招き、ザクセン選帝侯でポーランド王を兼ね、北方戦争ではロシアのピョートル1世と結んでスウェーデンと戦ったアウグスト2世(在位1697年~1704年、1710年~33年)の死後、ポーランド継承戦争(1733年~35年)が勃発します。
ポーランド貴族がフランスのルイ15世の義父を擁立しますが、ロシア・オーストリアはザクセン選帝侯アウグスト3世を擁立して争い、最終的にアウグスト3世(在位1733年~63年)がポーランド王に就くものの、以後外国の干渉が益々激しくなり、後のポーランド分割の発端と成ります。

アウグスト3世
ロシア皇帝エカチェリーナ2世は、アウグスト3世の死後、親露派の貴族を王位に就けて様々な干渉を行い、プロイセンのフリードリヒ2世は、ポーランドがロシアのものになる事を恐れて、オーストリアと共にポーランド分割を提唱すると、エカチェリーナ2世もそれに応じ、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割(1772年)が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得していきます。

第1回ポーランド分割後、ポーランドは新憲法を制定し、選挙王政を世襲王政に改める等の改革を実施し、国力の充実に努めますが、ロシア・プロイセンは、オーストリアがフランス革命に巻き込まれてフランスと戦っている間に第2回ポーランド分割(1793年)を強行し、これによってポーランドはその国土の3分の1を残すのみと成りました。
この情勢を見て、ポーランドの愛国者コシューシコ(コシチューシコ)は祖国解放の軍を起こします。

コシューシコ(コシチューシコ、1746年~1817年)
コシューシコ(コシチューシコ、1746年~1817年)は、リトアニアの下級貴族の家に生まれ、フランスの陸軍大学で学び、帰国して砲兵大尉と成り、アメリカ独立戦争(1775年~83年)が起こると、これに参加し、ワシントンの副官として戦功をたて、帰国後(1786年)、愛国者の自由主義的改革に加わります。
コシューシコはロシアのポーランド分割に反対し、侵入してきたロシア軍を敗走させますが、第2回ポーランド分割(1793年)が行われ、彼は国外に亡命しました。
その後、帰国して国民軍最高司令官となり(1794年)、義勇軍を率いて蜂起し、一時はロシア軍を破ってワルシャワ解放しますが、まもなく負傷してロシア軍に捕らえられてペテルブルクへ送られます(1794年)。
コシューシコは後に亡命を許されて(1796年)フランスに入国しますが、ナポレオンのポーランド政策に同調せず、最後はスイスで没しています。
ロシア・プロイセン・オーストリアは第3回ポーランド分割(1795年)を行い、残りの領土を分割した結果、ポーランドは終に滅亡し、地図から姿を消しました。
そして第一次世界大戦後にやっと独立を回復することになります(1919年)。
ポーランド分割で最も多くの領土を獲得したのはロシアで、ポーランドの東半分・ポーランドの全領土の半分以上を領有し、プロイセンとオーストリアが西半分をほぼ折半しました。
ジョークは如何?
「この世で最も、人種や地位などの差別も偏見もない、理想的で公平な社会ってどんなのだと思う?」
「毎日数千数万人の人々が無残に機械的に理不尽に殺されていく社会」
「…なんで?」
「死は誰にでも平等。 農民にも、地主にも、僧侶にも、貴族にも」
続く・・・
9 ポーランド分割

カジミェシュ大王(カシミール大王、在位1333年~70年)
ポーランド人は、10世紀に統一され、カジミェシュ大王(カシミール大王、在位1333年~70年)のもとで繁栄期を迎えます。
ポーランド人の北に居住していたバルト語系のリトアニア人は、13世紀にドイツ騎士団の脅威に抵抗して統一国家を形成し、14世紀には大公国と成りました。

リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー、在位1386年~1434年)
リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー、在位1386年~1434年)は、1386年にポーランド女王ヤドヴィカ(在位1384年~99年)と結婚し、リトアニア・ポーランド王国を形成しました。
リトアニア・ポーランド王国は、ヤゲウォ朝(ヤゲロー朝、1386年~1572年)のもとで東方に勢力を拡大し、15~16世紀には東ヨーロッパの大国として強盛を誇ります。

ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世(左)とプロイセン王兼ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(右)
しかし、1572年にヤゲウォ朝が断絶すると選挙王政となり、大貴族の専横と外国の干渉を招き、ザクセン選帝侯でポーランド王を兼ね、北方戦争ではロシアのピョートル1世と結んでスウェーデンと戦ったアウグスト2世(在位1697年~1704年、1710年~33年)の死後、ポーランド継承戦争(1733年~35年)が勃発します。
ポーランド貴族がフランスのルイ15世の義父を擁立しますが、ロシア・オーストリアはザクセン選帝侯アウグスト3世を擁立して争い、最終的にアウグスト3世(在位1733年~63年)がポーランド王に就くものの、以後外国の干渉が益々激しくなり、後のポーランド分割の発端と成ります。

アウグスト3世
ロシア皇帝エカチェリーナ2世は、アウグスト3世の死後、親露派の貴族を王位に就けて様々な干渉を行い、プロイセンのフリードリヒ2世は、ポーランドがロシアのものになる事を恐れて、オーストリアと共にポーランド分割を提唱すると、エカチェリーナ2世もそれに応じ、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割(1772年)が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得していきます。

第1回ポーランド分割後、ポーランドは新憲法を制定し、選挙王政を世襲王政に改める等の改革を実施し、国力の充実に努めますが、ロシア・プロイセンは、オーストリアがフランス革命に巻き込まれてフランスと戦っている間に第2回ポーランド分割(1793年)を強行し、これによってポーランドはその国土の3分の1を残すのみと成りました。
この情勢を見て、ポーランドの愛国者コシューシコ(コシチューシコ)は祖国解放の軍を起こします。

コシューシコ(コシチューシコ、1746年~1817年)
コシューシコ(コシチューシコ、1746年~1817年)は、リトアニアの下級貴族の家に生まれ、フランスの陸軍大学で学び、帰国して砲兵大尉と成り、アメリカ独立戦争(1775年~83年)が起こると、これに参加し、ワシントンの副官として戦功をたて、帰国後(1786年)、愛国者の自由主義的改革に加わります。
コシューシコはロシアのポーランド分割に反対し、侵入してきたロシア軍を敗走させますが、第2回ポーランド分割(1793年)が行われ、彼は国外に亡命しました。
その後、帰国して国民軍最高司令官となり(1794年)、義勇軍を率いて蜂起し、一時はロシア軍を破ってワルシャワ解放しますが、まもなく負傷してロシア軍に捕らえられてペテルブルクへ送られます(1794年)。
コシューシコは後に亡命を許されて(1796年)フランスに入国しますが、ナポレオンのポーランド政策に同調せず、最後はスイスで没しています。
ロシア・プロイセン・オーストリアは第3回ポーランド分割(1795年)を行い、残りの領土を分割した結果、ポーランドは終に滅亡し、地図から姿を消しました。
そして第一次世界大戦後にやっと独立を回復することになります(1919年)。
ポーランド分割で最も多くの領土を獲得したのはロシアで、ポーランドの東半分・ポーランドの全領土の半分以上を領有し、プロイセンとオーストリアが西半分をほぼ折半しました。
ジョークは如何?
「この世で最も、人種や地位などの差別も偏見もない、理想的で公平な社会ってどんなのだと思う?」
「毎日数千数万人の人々が無残に機械的に理不尽に殺されていく社会」
「…なんで?」
「死は誰にでも平等。 農民にも、地主にも、僧侶にも、貴族にも」
続く・・・
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コメント
曇りが多い日々が続いています。
朝の気温も下がり、窓の結露が段々ひどくなってきました。
それでも今年は昨年より暖かいですね。
周囲のもみじを観察しても青い葉が多く見られます。
紅葉が遅いようです。
昨日は訪問できず失礼しました。
仕事や親戚との付き合いで深夜になることがあります。
時々ですが。
2015-11-22 19:08 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月23日、月曜日「勤労感謝の日」のご挨拶です。
今日は暦の上では、「小雪」です。
朝の冷込みもなく、快晴の星空です。
今回の3連休は、曜日の並びが大変良いので、人出も結構在り、各地のイヴェント会場も盛況とのことです。
私は、明日、明後日と振替のお休みです。
> 時々ですが。
2015-11-23 06:36 秋葉 奈津子 URL 編集
曇り空の多い三連休でしたが、人出はすごく多く殆ど外人さんばかりでした。
祇園や東山、嵐山など車渋滞で大変です。
連休終わっても当分続きそうです。
明日から又仕事で気を引き締めなければなりません。
いつも訪問いただきありがとうございます。
2015-11-23 21:57 葉山左京 URL 編集
今日からかなり冷え込みそうです。
最低気温も10度きる日もあるようで、
真冬の天候になってきたようです。
昨年と違い今年は暖かい日が続いていましたね。
青い葉のもみじも赤くなることでしょう。
2015-11-24 05:50 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
11月25日、水曜日のご挨拶です。
北九州も気温急降下の天気予報が、出ていますが、今の処寒さは感じません。
朝のジロくんの散歩も辛うじて、雨にならずに済みました。
雲が厚く、何時雨が降りだしても不思議では無い空模様です。
高校時代、自転車通学でしたから、この様な空模様は、自転車か国鉄(当時)かの選択を迫られたことを思い出します。
暖かい毎日に慣れた体です。
体調管理には十分注意しなければ成りませんね。
2015-11-25 09:04 秋葉 奈津子 URL 編集