2015/12/04

歴史を歩く156

20イギリス立憲政治の発達②

2 ピューリタン革命

1647+Civil+War+painting+Basing+House_convert_20151204131126.jpg
内乱勃発

 1642年、ついに王党派と議会派の間で内乱が勃発します。

 王党派(国王派)は経済的に発展が遅れたイングランド西北部を地盤とし、貴族・特権商人・保守的なジェントリ等に支持され、宗教的には国教徒が中心でした。

 これに対して、議会派はロンドンを中心に商工業の発達したイングランド東南部を地盤とし、進歩的なジェントリ・ヨーマン・商工業者等に支持され、宗教的にはピューリタンが中心でした。

9c6b60e37dd5a01d2979dcf4de5a66cf_convert_20151204131928.jpg
鉄騎隊:ネーズビーの戦い(1645年)

 戦況は当初王党派が優勢でしたが、やがてオリヴァ・クロムウェルが鉄騎隊を編成してからは次第に議会派が優勢となっていきます。
鉄騎隊は、クロムウェルが信仰心にもえるピューリタンのジェントリ・ヨーマンを中心に編成した騎兵隊で、規律と闘志にすぐれ、議会派の勝利に大いに貢献しました。

 議会派軍はネーズビーの戦い(1645年)で決定的な勝利をおさめ、チャールズ1世はスコットランドに逃亡しますが、議会派に身柄を引き渡されて幽閉され(1647年1月)、第1次内乱は終結します。

king_charles_i_1628_ad_convert_20151204133406.jpg
チャールズ1世
 
 しかし、この頃から議会派内部では長老派と独立派の対立が起こっていました。
長老派と独立派の名称はピューリタンの派の名称に由来しており、長老派は、長老教会制度、すなわち個別の教会が長老会の支配下におかれると共に、全国の教会が長老会の指導下に置かれる全国的な統一教会の実現を目指し、政治的には国王と妥協した立憲王政の実現を模索し、進歩的なジェントリやロンドンの大商人に支持されていました。

 これに対して、独立派は個別の教会の自主性を尊重する教会制度を目指しました。
政治的には、当初王権の制限と議会主権を主張しますが、後には制限選挙による共和政を主張し、ヨーマンや商工業者の支持を集め、クロムウェルはこの独立派の指導者でした。

 更に1647年頃から水平派(平等派)が現れます。
水平派は貧農・手工業者・小市民・軍の兵士等に支持され、普通選挙による共和政を主張しました。

 こうした議会派内部での分裂・対立に乗じて、チャールズ1世が脱出し(1647年.12年)、翌年には第2次内乱が始まりますが、クロムウェルは王党派及び国王と同盟したスコットランド軍を破って国王を再び捕らえ、第2次内乱は3ヶ月で終焉します(1648年)。

983001a9-s_convert_20151204133539.jpg
オリヴァ・クロムウェル(1599年~1658年)

 オリヴァ・クロムウェル(1599年~1658年)は、イングランド東部のジェントリの家庭に生まれ、幼少の時からピューリタンの影響を受け、熱心なピューリタンに成長し、ケンブリッジ大学(父の死で中退)で学んだ後、帰郷して所領の経営にあたり、1628年に下院に選出され、1640年には長期議会にも選出されました。
ピューリタン革命が勃発すると、鉄騎隊を編成して議会派の劣勢をはね返し、独立派の中心人物として軍の改革を進めました。

 クロムウェルはネーズビーの戦い(1645年)で王党派軍を大破し、第2次内乱が始まるとスコットランド軍を破って国王を再び捕らえ(1648年)、そして尚も国王と妥協を続ける長老派を水平派と結んで議会から追放し(1648年12月)、翌1649年1月国王チャールズ1世を国家に対する反逆者として処刑し、イギリス史上初めての共和政(コモンウェルス、1649年~60年)を樹立しました。

 更に49年春、普通選挙を主張する水平派が革命の徹底化を求めて反乱を起こすと、クロムウェルは中産階級や地主の利益を養護する立場から、水平派を弾圧し、その指導者を処刑します。

fc2blog_201512041337148b9.jpg
チャールズ1世の処刑

 この間、チャールズ1世が処刑されると、子のチャールズ(後のチャールズ2世)が即位を宣言し、スコットランド・アイルランドは彼を支持しますが、チャールズは後にクロムウェルに敗れてフランスに亡命します(1651年)。

 クロムウェルは王党派の殲滅を口実に、カトリック派の拠点となったアイルランドに遠征し(1649年~52年)、この地を征服してアイルランド人の土地を没収、イングランドの地主に分与したため、アイルランド人は以後イングランドの不在地主の小作人となり、苛酷な収奪に苦しめられることとなります。

 アイルランドは、ケルト人の住む島で、5世紀以後カトリックが普及しており、12世紀後半にイギリスの支配下に置かれ、16世紀にはヘンリ8世がアイルランド王を称しますが、上述の通り1649年のクロムウェルの征服によって植民地的地位に落とされ、アイルランド人は以後宗教・政治・土地所有等の差別に苦しむことに成ります。

Old-Galway_convert_20151204134639.jpg
ゴールウェイ:議会派が落とした最後のアイルランド人拠点で、1652年に降伏

 叉チャールズ1世の子チャールズがスコットランドに拠って王権回復を謀った結果、クロムウェルはスコットランド遠征を行い(1650年)、スコットランド軍を破ってこの地を征服しました。
翌1651年には、中継貿易を主体とするオランダに打撃を与えるために、航海法(航海条例)を発布し、イギリスとの商品輸出入をイギリス船叉は当事国(地域)の船に限定します。

 航海法は、当時ヨーロッパ随一の商船保有国であり・アジア・新大陸の産物をヨーロッパ各国に転売して利益を上げていたオランダ商船をイギリスから閉め出すこと、及びイギリスの植民地貿易の独占を目的としており、航海法の発布は中継貿易を主体とするオランダにとっては大打撃でした。

King_Charles_II_by_John_Michael_Wright_or_studio_convert_20151204150607.jpg
チャールズ2世

 このため、航海法の発布が原因となって第1次英蘭(イギリス・オランダ)戦争(1652年~54年)が始まり、イギリスとオランダは海上の覇権を巡って激しく争いますが、オランダ側の貿易損害が大きく講和条約が結ばれ、英蘭戦争はその後、第2次(1665年~67年)、第3次(1672年~74年)と続きますが、イギリスは次第にオランダを圧迫し、オランダから海上覇権を奪い、17世紀に繁栄したオランダが没落していく大きな原因と成りました。

 クロムウェルは、厳格なピューリタンの禁欲主義に基づく軍事独裁制を行ない、劇場の閉鎖・賭博や売春の禁止等、庶民の娯楽を奪った結果、次第に国民の反発が高まる中で、1658年9月に死去します。

 クロムウェルの死後、子のリチャード・クロムウェル(1626年~1712年)が護国卿に就任しましたが、彼は無能で人望が全く無く、軍の要求に屈して議会を解散したために議会の支持を失い、就任後わずか8ヶ月で辞任し(1659年)、そして翌1660年、フランスに亡命していたチャールズ1世の子が帰国してチャールズ2世として即位しました(王政復古)。

ジョークは如何?

知的で善良なナチは存在しないことは、論理的に証明できる。

知的なナチは善良でなく、
善良なナチは知的でなく、
知的で善良な人間はそもそもナチにはならない。


続く・・・
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

秋葉奈津子様 こんばんは。

晴れた青空を見ますと寒さも吹き飛び、
気分が明るくなりました。
明日も晴れるようで、鈍色の空とはお別れです。
暗いニュースばかりなので、せめて空だけは晴れて欲しいものです。

葉山左京様、おはようございます。

12月に入りましたが、青空の広がる好天には、全く無縁に成っています。
気温は、寒さを感じる程では在りませんが、暖房器具は必要に成りました。
ジロくんの散歩道や通勤途中にイルミネーションを見かける様に成り、年末が近づいたことを実感します。
本当に最近は、暗いニュースばかりなので、せめてお天気だけでもと思うのは、私も同様です。

秋葉奈津子様 こんばんは。

日曜の今日は曇り空で時々ぽつりと水滴が落ちる程度でした。
もう秋も紅葉も終わりでしょうか?
まだもみじは一部今頃真っ赤になる木もありますが。

街に出るとやはりクリスマスの音楽が流れ、
買い物客の流れも多くなりました。
歳末の売り出しも新聞広告をにぎわせています。

葉山左京様、おはようございます。

今日は、久しぶりに快晴の朝を迎えています。
朝とは名のみの、空には星が輝いています。
並松に向けた装飾が、多く成り、師走を実感する毎日です。

北九州は、比較的暖かい毎日が続いていますが、寒暖の差が、体に堪えます。

秋葉奈津子様 こんばんは。

今日は良く晴れた青空が広がり、
暖かく感じる一日でした。

寒さが強くなれば、皆さん動きたくないようですが
温まるには体を動かすことですね。
私も動くように努力しています。

葉山左京様、おはようございます。

今日も好天の1日に成りそうな気配です。

夜の散歩は昇るオリオン座を見ながら、朝の散歩は昇る太陽を見ながらに成りました。
気温も高めで、朝晩の冷えこみも殆んど無いので、紅葉もそれ程進んでいません。

冬枯れの風景には、未だ時間が掛かりそうです。