歴史を歩く157
20イギリス立憲政治の発達③
3王政復古と名誉革命

リチャード・クロムウェル
クロムウェルの死後、子のリチャード・クロムウェルが護国卿の地位を継いだのは前述の通りですが、その頃開かれた新議会では長老派が勢力を盛り返し、王党派との妥協を謀っていました。
リチャード・クロムウェルが護国卿を辞任すると、長老派勢力が中心となって、フランスに亡命していた(1651年~60年)チャールズ1世の子を国王として迎え、彼は1660年に帰国してチャールズ2世(1630年~85年、在位1660年~85年)として即位します(王政復古)。

イングランド王位に就くためにロッテルダムを出港するチャールズ2世の艦隊。
但し、この王政復古には幾つかの条件が付けられていましたが、チャールズ2世は帰国の直前にオランダのブレダで宣言を発し(ブレダ宣言、1660年)、父チャールズ1世の死刑宣告書にサインした生存中の政治犯の大赦・ピューリタン革命中に没収或いは売却された土地に対する購入者の権利の承認・信仰の自由・軍隊の未払い給与の支払い等を約束しました。
しかし、チャールズ2世は即位後この公約を履行せず、既に死亡していたクロムウェルの墓をあばいて遺体に対する絞首刑を執行すると共に(1661年)、多くの生存者を死刑や投獄刑に処し、叉革命中に没収・売却された土地を無償で元の所有者に戻し、宗教についてもピューリタンを地方の公職から追放する(1661年)等ピューリタンに対する圧迫を強めた結果、ピューリタンの勢力は次第に衰え、ジェントリや商工業者の中には国教会に改宗する者も多かったのです。

チャールズ2世の帰還
更にフランス亡命中にルイ14世の影響を受けていたチャールズ2世は、ルイ14世と密約を結び(ドーヴァー密約、1670年)、ルイ14世のオランダ侵略を支援することやカトリックの復活を公約していたことから、カトリック擁護・復活政策に対して議会は、1673年に官吏と議員を国教徒に限るという審査法(審査律)を制定し、カトリック教徒を公職から追放し、更に1679年には人身保護法(人身保護律)を制定し、国民を不当に逮捕しないことを定めますが、これに対してチャールズ2世は議会を開催せず(1681年~85年)に対抗したために議会との対立がますます強まっていきました。
王政復古後の1661年に召集された新議会では王党派が多数を占めていましたが、もはや国王は課税権を持たず、財政権は議会が握っていたので、国王は議会を無視して政治を行うことは不可能で、議会は立法府としての機能を発揮し始めており、この様な状況の中で1670年代末頃からトーリー党とホイッグ(ウィッグ)党の2つの政党が誕生しました。
チャールズ2世には子が居らず、王弟でカトリック教徒のヨーク公(後のジェームズ2世)の王位継承が大きな問題となっていました。

ジェームズ2世(1633年~1701年、在位1685年~88年)
トーリー党(反対派からつけられたあだ名でアイルランドの無法者の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案への反対者で組織されており、貴族や地主に支持され、王権や国教会擁護を主張し、トーリー党は後に保守党に発展して行きます。
これに対してホイッグ党(トーリーが呼んだあだ名でスコットランドの謀反人の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案に賛成する人々で組織され、都市の商人や非国教徒の支持を受け、議会を中心とし王権を制限することを主張し、ホイッグ党は後に自由党に発展していきます。
王弟ジェームズの王位継承排除法案は下院を通過しましたが、上院で否決され、1685年にチャールズ2世が亡くなると、王弟ジェームズがジェームズ2世として即位しますが、兄のチャールズ2世よりさらに反動的であったジェームズ2世(1633年~1701年、在位1685年~88年)は、即位すると専制政治の強化とカトリックの復活をはかり、議会と対立しました。
唯、彼には男子がなく、ステュアート朝の断絶が予想されたので、トーリー党が多数の議会はあまり強く抵抗しませんでした。

オラニエ公ウィレムとメアリ
しかし、1688年に王子が誕生すると、トーリー党とホイッグ党は結束し、ジェームズ2世の長女メアリの夫・オランダのオラニエ公ウィレム(後のウイリアム3世)に招請状を送り、武力援助を要請しました。
オラニエ公ウィレムが、14000の軍を率いてイギリスに上陸すると、軍や臣下にも見放されたジェームズ2世は抗戦を断念してフランスに亡命し(1688年12月)、翌1689年2月、議会は王位の空席を宣言した後に「権利の宣言」を議決し、オラニエ公ウィレムとメアリの即位の条件として提出します。
両者はこれを承認し、共同統治者ウイリアム3世(在位1689年~1702年)ならびにメアリ2世(在位1689年~1694年)として即位しました。
これが名誉革命(1688年~89年)で、イギリス人はこの無血革命を誇ってGlorious Revolutionと呼びますが、日本では名誉革命と訳されています。
議会は同年12月、「権利の宣言」を「権利の章典」として制定し(1689年)、権利の章典は、全13項目から構成され、これにより王権に対する議会の優越が確認され、イギリス立憲王政が確立されました。
イギリス憲法史上最も重要な文書である権利の章典の主な項目は次の通りです。(抜粋)
1 王は、その権限によって、議会の同意なしに、法の効力を停止、法の執行を停止を行う権力があるという主張は違法である。
4 国王大権を口実として、議会の承認なしに、議会が承認するよりも長期にわたり、又議会が承認する行為と異なる方法で、王の使用のために金銭を徴収することは違法である。
6 議会の同意しない限り、平時に王国内で常備軍を徴募し維持することは、法に反する。
8 国会議員の選挙は自由でなければならない。
9 議会での言論の自由や討論や議事手続きは、議会以外の如何なる裁判所や場所でも弾劾されたり問題とされてはならない。
13 また、すべての苦情を除き、法を修正・強化・保持するため、議会はしばしば開かれなければならない。等々 (山川出版社「詳説世界史」より)
ジョークは如何?
1920年、英国の自由党と保守党の戦時連立政権は議会で勢力を保っていた。
ある自由党議員が労働党に鞍替えしたとき、チャーチル(保守党)はこう言った。
「沈みつつある船に向かって泳いでいくネズミというのを初めて見たよ」
続く・・・
3王政復古と名誉革命

リチャード・クロムウェル
クロムウェルの死後、子のリチャード・クロムウェルが護国卿の地位を継いだのは前述の通りですが、その頃開かれた新議会では長老派が勢力を盛り返し、王党派との妥協を謀っていました。
リチャード・クロムウェルが護国卿を辞任すると、長老派勢力が中心となって、フランスに亡命していた(1651年~60年)チャールズ1世の子を国王として迎え、彼は1660年に帰国してチャールズ2世(1630年~85年、在位1660年~85年)として即位します(王政復古)。

イングランド王位に就くためにロッテルダムを出港するチャールズ2世の艦隊。
但し、この王政復古には幾つかの条件が付けられていましたが、チャールズ2世は帰国の直前にオランダのブレダで宣言を発し(ブレダ宣言、1660年)、父チャールズ1世の死刑宣告書にサインした生存中の政治犯の大赦・ピューリタン革命中に没収或いは売却された土地に対する購入者の権利の承認・信仰の自由・軍隊の未払い給与の支払い等を約束しました。
しかし、チャールズ2世は即位後この公約を履行せず、既に死亡していたクロムウェルの墓をあばいて遺体に対する絞首刑を執行すると共に(1661年)、多くの生存者を死刑や投獄刑に処し、叉革命中に没収・売却された土地を無償で元の所有者に戻し、宗教についてもピューリタンを地方の公職から追放する(1661年)等ピューリタンに対する圧迫を強めた結果、ピューリタンの勢力は次第に衰え、ジェントリや商工業者の中には国教会に改宗する者も多かったのです。

チャールズ2世の帰還
更にフランス亡命中にルイ14世の影響を受けていたチャールズ2世は、ルイ14世と密約を結び(ドーヴァー密約、1670年)、ルイ14世のオランダ侵略を支援することやカトリックの復活を公約していたことから、カトリック擁護・復活政策に対して議会は、1673年に官吏と議員を国教徒に限るという審査法(審査律)を制定し、カトリック教徒を公職から追放し、更に1679年には人身保護法(人身保護律)を制定し、国民を不当に逮捕しないことを定めますが、これに対してチャールズ2世は議会を開催せず(1681年~85年)に対抗したために議会との対立がますます強まっていきました。
王政復古後の1661年に召集された新議会では王党派が多数を占めていましたが、もはや国王は課税権を持たず、財政権は議会が握っていたので、国王は議会を無視して政治を行うことは不可能で、議会は立法府としての機能を発揮し始めており、この様な状況の中で1670年代末頃からトーリー党とホイッグ(ウィッグ)党の2つの政党が誕生しました。
チャールズ2世には子が居らず、王弟でカトリック教徒のヨーク公(後のジェームズ2世)の王位継承が大きな問題となっていました。

ジェームズ2世(1633年~1701年、在位1685年~88年)
トーリー党(反対派からつけられたあだ名でアイルランドの無法者の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案への反対者で組織されており、貴族や地主に支持され、王権や国教会擁護を主張し、トーリー党は後に保守党に発展して行きます。
これに対してホイッグ党(トーリーが呼んだあだ名でスコットランドの謀反人の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案に賛成する人々で組織され、都市の商人や非国教徒の支持を受け、議会を中心とし王権を制限することを主張し、ホイッグ党は後に自由党に発展していきます。
王弟ジェームズの王位継承排除法案は下院を通過しましたが、上院で否決され、1685年にチャールズ2世が亡くなると、王弟ジェームズがジェームズ2世として即位しますが、兄のチャールズ2世よりさらに反動的であったジェームズ2世(1633年~1701年、在位1685年~88年)は、即位すると専制政治の強化とカトリックの復活をはかり、議会と対立しました。
唯、彼には男子がなく、ステュアート朝の断絶が予想されたので、トーリー党が多数の議会はあまり強く抵抗しませんでした。

オラニエ公ウィレムとメアリ
しかし、1688年に王子が誕生すると、トーリー党とホイッグ党は結束し、ジェームズ2世の長女メアリの夫・オランダのオラニエ公ウィレム(後のウイリアム3世)に招請状を送り、武力援助を要請しました。
オラニエ公ウィレムが、14000の軍を率いてイギリスに上陸すると、軍や臣下にも見放されたジェームズ2世は抗戦を断念してフランスに亡命し(1688年12月)、翌1689年2月、議会は王位の空席を宣言した後に「権利の宣言」を議決し、オラニエ公ウィレムとメアリの即位の条件として提出します。
両者はこれを承認し、共同統治者ウイリアム3世(在位1689年~1702年)ならびにメアリ2世(在位1689年~1694年)として即位しました。
これが名誉革命(1688年~89年)で、イギリス人はこの無血革命を誇ってGlorious Revolutionと呼びますが、日本では名誉革命と訳されています。
議会は同年12月、「権利の宣言」を「権利の章典」として制定し(1689年)、権利の章典は、全13項目から構成され、これにより王権に対する議会の優越が確認され、イギリス立憲王政が確立されました。
イギリス憲法史上最も重要な文書である権利の章典の主な項目は次の通りです。(抜粋)
1 王は、その権限によって、議会の同意なしに、法の効力を停止、法の執行を停止を行う権力があるという主張は違法である。
4 国王大権を口実として、議会の承認なしに、議会が承認するよりも長期にわたり、又議会が承認する行為と異なる方法で、王の使用のために金銭を徴収することは違法である。
6 議会の同意しない限り、平時に王国内で常備軍を徴募し維持することは、法に反する。
8 国会議員の選挙は自由でなければならない。
9 議会での言論の自由や討論や議事手続きは、議会以外の如何なる裁判所や場所でも弾劾されたり問題とされてはならない。
13 また、すべての苦情を除き、法を修正・強化・保持するため、議会はしばしば開かれなければならない。等々 (山川出版社「詳説世界史」より)
ジョークは如何?
1920年、英国の自由党と保守党の戦時連立政権は議会で勢力を保っていた。
ある自由党議員が労働党に鞍替えしたとき、チャーチル(保守党)はこう言った。
「沈みつつある船に向かって泳いでいくネズミというのを初めて見たよ」
続く・・・
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コメント
「おきてがみ」は完全には復帰できませんね^^。不便にはなりましたが今後とも宜しくお願いいたします。☆!
2015-12-08 18:49 荒野鷹虎 URL 編集
最低気温が5度以下の日が多くなってきました。
段々正月も近ずいて来て、
気分がなんとなくそわそわしている感じがします。
それは街のザワメキに起因するのでしょうか。
今朝の東の空に三日月とすぐ近くに明けの明星が並んでいました。
珍しい空の絵模様でした。
2015-12-08 21:57 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2015-12-08 23:34 編集
Re: タイトルなし
此方、北九州は連日15度以上の陽気で、暖かい毎日が続いています。
やはり、北海道と九州では、大きく気温が異成りますね。
此方の寒さの底は2月です。
昨年は、クリスマスと正月に寒波が襲来しましたが、今年はどうなることでしょうか?
「おきてがみ」は全くの不調ですが、記事は毎日拝見しております。
早く、以前の様に言伝が、出来るようになれば良いですね。
2015-12-09 06:34 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
此方、北九州は連日15度以上の陽気で、暖かい毎日が続いています。
此方も街は、クリスマスムード一色です。
12月も明日から中盤、いよいよ慌ただしい時期が又やって来ます。
昨年は、クリスマスと正月に寒波が襲来しましたが、今年はどうなることでしょうか?
「おきてがみ」は全くの不調ですが、ブロクへの訪問は毎日続けております。
早く、以前の様に言伝が、出来るようになれば良いですね。
2015-12-09 06:37 秋葉 奈津子 URL 編集
ゆみさん、おはようございます。
なんとか元気に過ごしてします。
以前、お話した勤務先の忘年会が、今週末に迫ってます。
此方、北九州は連日15度以上の陽気で、暖かい毎日が続いています。
此方も街は、クリスマスムード一色です。
12月も明日から中盤、いよいよ慌ただしい時期が又やって来ます。
昨年は、クリスマスと正月に寒波が襲来しましたが、今年はどうなることでしょうか?
「おきてがみ」は全くの不調ですが、ブロクへの訪問は毎日続けております。
早く、以前の様に言伝が、出来るようになれば良いですね。
又、コメントを下さい!
2015-12-09 06:40 秋葉 奈津子 URL 編集
京都も明日は15℃~21℃になるようです。
今年は本当に暖冬を感じます。
もみじの紅葉が遅れて色がきれいになってきました。
例年よりかなり遅く思われます。
2015-12-10 20:41 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2015-12-10 23:36 編集
葉山左京様、おはようございます。
北九州は昨日からまとまった雨に成りましたが、今は小康状態です。
ジロくんも散歩は諦めムードで、恨めしそうに空を見上げています。
此方も気温が高い毎日で、ここで寒波襲来なら、一気に体調を壊しそうです。
「おきてがみ」は今年の5月にも同様な症状を起こし、1ヶ月位使用出来ませんでしたね。
今回も同じかもしれませんよ。
2015-12-11 09:48 秋葉 奈津子 URL 編集