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2016/02/03

歴史を歩く170

23 中国文化圏の拡大4

2 清の統一①

 中国東北地方を原住地とするツングース系の女真族は、その地で半農・半牧・半猟の生活を営んでいました。
女真族は、女直とも呼ばれ、清代には自らマンジュ(満州)と称し、女真族の一部は、12世紀に金朝(1115年~1234年)を建国しましたが、モンゴルに滅ぼされ、13世紀以後は元・明に服属します。

 明代には、女真族は女直と呼ばれ、その居住地によって、建州女直(牡丹江上流から長白山一帯に居住)・海西女直(松花江沿岸に居住)・野人女直(黒竜江下流から沿海州にかけて居住)の3つに大別され、大部族集団を形成していました。

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ヌルハチ(太祖、1559年~1626年、在位1616年~26年)

 ヌルハチ(太祖、1559年~1626年、在位1616年~26年)は、建州女直の一首長の子に生まれ、姓はアイシンギョロ(漢字では愛新覚羅(あいしんかくら))、25歳の時に、祖父と父が明との戦いで戦死しますが(1583年)、ヌルハチはその後数年間で建州女直の諸族を従え、以後約30年の歳月を経て、ほぼ女真族の統一を成し遂げ、1616年に推されてハン位に就き、国号を後金(こうきん、1616年~36年、1636年に清と改称)と称しました。

 ヌルハチは、「七大恨」(7カ条にわたって明の罪状を述べたもの、その第1に祖父や父の殺害をあげている)を宣言し(1618年)、明の根拠地である撫順城を攻略しました。
明は翌年10万余の大軍を送り、後金の本拠地を突いたのですが、サルホ山の戦い(サルホの戦い、1619年)で大敗を喫しました。

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サルホ(サルフ)の戦い

 ヌルハチは、更に瀋陽・遼陽(遼東)を攻略し(1621年)、1625年には瀋陽に遷都、翌1626年には、寧遠(山海関の北)を包囲したものの失敗し、まもなく病没しています(1626年)。

 この間、ヌルハチは八旗を編成して軍制を整え、叉金の女真文字に代わる独自の満州文字を創り、女真族の民族的自覚を促しました。

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八旗兵

 八旗は、女真族固有の狩猟・軍事組織を基礎として新たに編成した軍事組織であり、同時に行政・社会組織でもあり、 男300人を1ニル、5ニルを1ジャラン、5ジャランを1グサ(旗)として編成され、8つの軍団は、黄・白・紅・藍の4色と、それぞれに縁をつけた八つの旗を標識としたため、八旗と呼ばれました。

 ヌルハチは、後継者を決めずに死去しますが、武勇に優れ、サルホの戦いでも功績があり、衆望を集めていた第8子のホンタイジ(当時34歳)が推されてハン位に就きました。

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太宗(ホンタイジ、在位1626年~43年)

 太宗(ホンタイジ、在位1626年~43年)は、ヌルハチの遺業を継いで長城以南に繰り返し侵入して明を圧迫する一方で、朝鮮に2度にわたって出兵(1627年、1637年)李朝を服属させ(1637年)、
内モンゴルのチャハル部にも2回の親征を行って(1628年、1635年)これを平定し、蒙古人で編成された蒙古八旗を設けます(1635年)。
この時、元朝の伝統を継ぐ証拠となる玉爾を得たことから、改めて帝位に就き、国号を後金から清(1616年~1912年)に改めました(1636年)。

 清の勢力が強大となり、明への圧迫が強まるにつれて、明朝内部では年を追って動揺が激しくなり、清に投降する官僚・軍人が増加していきました。

 太宗は、投降してきた漢人を優遇し、六部・理藩院の設置等諸制度を整え、叉漢軍八旗を編成(1642年)する等、国力の充実に努め、清朝の基礎を築きましたが、 太宗は、中国征服に乗り出す計画が進むなかで、瀋陽で急死します(1643年)。

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世祖順治帝(在位1643年~61年)

 太宗の死後、第9子で僅か5歳の世祖順治帝(在位1643年~61年)が清朝第3代皇帝として即位し、叔父のドルゴン(ヌルハチの第14子、1612年~50年)が摂政となり、政治の実権を握ります。

 ドルゴンは、李自成が北京を攻略したとの報に接し、10万の兵を率いて南下し、山海関の北100kmの寧遠に進出しますが、当時山海関(万里の長城の東端)を守っていた明の武将が呉三桂でした。

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呉三桂(1612年~78年)

 呉三桂(1612年~78年)は、遼東に生まれ、父の功績で武将となり、清の進出に対して遼西を守備し、1644年李自成が北京に迫ったときは、山海関の北で清軍と対峙していましたが、北京が危うくなると北京防衛の命を受け、前線から引き返して山海関に向かう途中、北京陥落・明滅亡の報を受け、前の清軍・後の李自成軍にはさまれて窮地に陥いりました。
呉三桂は、ドルゴンに領土割譲を代償に李自成討伐の援助を求め、清軍を山海関から北京へ導きました。

 ドルゴンの率いる清軍は、呉三桂の案内で怒濤の如く南下し、北京を陥れて、李自成を北京から駆逐し(1644年)、呉三桂は、この功績により平西王に封じられ、以後明の遺王・遺臣の平定に功を立て、雲南に駐屯してなかば独立した大勢力を築きます。

 ドルゴンは、北京に入城すると、崇禎帝を弔い、大赦・減税を行って漢人の懐柔に努める一方で再度にわたって有名な弁髪令を発し(1644年・1645年)、漢人男子にこれを強制し、従わない者に対しては厳しく断罪しました。

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弁髪の変遷


 弁髪は、頭髪を剃り上げ、一部を残して長く編んで背中に垂らす満州人など北方民族の風習で、清はかって満州で明と戦っていた頃、弁髪の有無によって敵味方を区別していましたが、中国を支配し始めると、弁髪をもって清への服従・忠誠の証と考え、これを強制したのです。

 弁髪令に対しては、中国人は意外な抵抗を示し、最初は厳しく強制することは在りませんでしたが、中国支配が固まってくると、翌1645年には「頭をとどめんとすれば髪をとどめず、髪をとどめんとすれば頭をとどめず」と厳しい命令として改めて布告します。

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「反清復明」明の滅亡後、鄭成功は台湾を拠点として清への反抗運動を展開 

 明は滅亡しましたが、明の遺臣達は明の王族を奉じて、「反清復明」(清に反抗し、明を復興する)運動を起こし、各地に亡命政権が樹立されました。
万暦帝の孫の福王は、南京で即位しましたが(1645年)、清の攻撃を受けて敗走し、翌年捕らえられ殺害され、唐王(洪武帝9世の孫)は、福州で鄭芝竜等によって擁立されますが(1645年)、翌年捕らえられて殺され、又浙江省で擁立された魯王(洪武帝10世の孫)は最後は台湾で没し、1646年に広東で即位した桂王(永明王、万暦帝の孫)は、各地を転々とし、最後はビルマに逃れたものの、呉三桂に捕らえられて殺され(1662年)、ここに明朝の王族は根絶されました。

 順治帝は、ドルゴンの死後、親政を開始します(1651年~)。
彼は、儒教を国政の基本として中国的君主となり、又呉三桂等漢人を重用して、中国全土の統一をほぼ達成しましたが、24歳の若さで没しています。

 順治帝の死後、聖祖康煕帝(在位1661年~1722年)が8歳で即位し、康煕帝は中国史上第一の名君といわれ、康煕・雍正・乾隆の3代130年間(1661年~1795年)に清は最盛期を現出しました。

ジョークは如何?

フルシチョフの暗殺未遂事件が起こった。
犯人の青年が警察の取り調べを受けている。

「それにしてもだらしない男だよ、おまえは。
 あんな近距離から打ち損なうなんて」
「私がピストルを抜いた途端、周りの連中が飛びかかってきたんです」
「なるほど、人民が書記長を守ったわけだ」
「いえ。みんな『おれにやらせろ、おれにピストルをよこせ!』って」



続く・・・

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コメント

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秋葉奈津子様 こんばんは。

夕方6時ごろ夕焼けが出ていました。
夕暮れが遅くなってきたようです。
寒さは相変わらずですが、
太陽の明るさが春の光に見えてきます。

節分の日は恵方巻が売り出されています。
寿司屋はもちろんですが、
飲食店の店先でも恵方巻が売れている売王で擦れているようです。

私も買って食べました。

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秋葉奈津子様 おはようございます。

節分が過ぎてバレンタインデーが過ぎれば、
暖かい日もすぐでしょうか。

沈丁花のつぼみがもうすぐ開きそうな気配です。
こぶしの花も大分つぼみが膨らんできました。
自然は春の訪れを敏感に感じているようです。

葉山左京様、おはようございます。

おはようございます。

今日は暦の上では、「立春」です。
春と云う言葉が、姿を見せました。
なんとなく、暖かさを感じさせますね。

節分と伴に恵方巻きは、私の勤務先の何処のお店でも売れました。
予約のお客様の追加も有って、現場は大忙しでした。
この恵方巻き、何時始まったのか、周囲の人間も不思議がっていましたよ。

北九州は、不安定なお天気が続いています。
青空に輝く陽の光を浴びたいですね。

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秋葉奈津子様 こんばんは。

恵方巻は大阪が発祥だと聞きました。
真意はわかりませんが。
まだよく調べないとだめですね。

晴れた青空が続いていますが、
寒さは変わりません。
来週後半からは春の陽気だと言っていました。
春のような暖かさを期待しています。

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