歴史を歩く171
23 中国文化圏の拡大5
2清の統一②

清朝第4代聖祖康煕帝
清朝第4代聖祖康煕帝(1654年~1722年、在位1661年~1722年)は、順治帝の第3子で、8歳で即位し。彼は幼い時から読書・学問を好み、終生これに励み、又質素堅実な生活態度を一生通し、中国史上第一の名君と讃えられています。
当初は、4人の大臣が輔政しましたが、1667年以降は親政を開始し、即位以来の問題であった三藩の撤廃を企てます。

三藩
清は、中国平定に漢人武将を利用しましたが、彼等のうち王号を与えられて雲南に駐屯した呉三桂・広東の尚可喜(1604年~76年)・福建の耿継茂(?~1671年)は三藩と呼ばれ、一大勢力をなしており、康煕帝は、尚可喜が引退を願い出たことを好機ととらえ、三藩の撤去を命じました(1673年)。
これに対して最大勢力であった呉三桂がまず叛き(1673年)、耿継茂の子・耿精忠も呉三桂の誘いに応じて清に背きます(1674年)。
尚可喜は清朝への忠誠を変えませんでしたが、子の尚之信は呉三桂に応じ(1676年)、これが三藩の乱(1673年~81年)呼ばれる騒乱です。
当初は三藩軍が優勢で、呉三桂は帝位に就きますが間も無く死去し(1678年)、清朝は一時危機に陥ったものの、康煕帝は緑営(漢人で編成された、八旗につぐ正規軍の一つ、緑旗とも呼ばれる)を動員して鎮圧にあたり、呉三桂の死後は形勢が逆転し、跡を継いだ呉三桂の孫も自ら命を絶ち、三藩の乱はついに鎮圧されました(1681年)。

鄭成功・中華民国台南市「延平郡王祠」に鎮座する鄭成功像
三藩の乱を平定し、中国支配を確立した康煕帝は、台湾を根拠地として「反清復明」運動を続ける鄭成功の制圧にも乗り出します。
鄭成功(1624年~62年)は、鄭芝竜を父、日本人の田川氏の娘を母として平戸で生まれ、1630年に明に渡り、明が滅亡すると(1644年)、父とともに唐王を奉じて挙兵し、唐王から王室の姓である「朱」姓を賜り、国姓爺と呼ばれました。
ちなみに近松門左衛門の「国姓爺合戦」は、彼を主人公とする戯曲です。
父の鄭芝竜はまもなく清に降伏しましたが(1646年)、鄭成功は唐王亡き後は永明王を奉じ、厦門を奪って根拠地とし(1650年)、清に反抗を続け、日本にも援助を要請したものの不成功に終わっています。

ゼーランディア城の降伏(ヤン・ファン・バーデン画、1675年)
鄭成功は、1659年には南京に迫りますが今一つ及ばず、1661年に台湾に攻め込み、ゼーランディア城を攻略してオランダ人を駆逐し、以後、台湾を「反清復明」運動の根拠地としましたがまもなく病没しています(1662)。
鄭成功の死後は、子の鄭経が復明運動を受け継ぎ、三藩の乱に乗じて大陸反攻を図りますが失敗に終わっています。
康煕帝は、三藩の乱を鎮圧すると、台湾に侵攻して鄭氏を滅ぼし、台湾を初めて中国の領土とし(1683年)、鄭氏は3代22年で滅び、清朝の中国統一が完成しました。

ネルチンスク条約締結時のロマノフ王朝と清朝の勢力関係
当時、北方ではロシアがシベリアを東進して太平洋岸に達し、さらに黒竜江(アムール川)沿いに南進し、アルバジンに要塞を築いて根拠地とした結果、清の北辺がロシアと接することになります。
康煕帝は、これを反撃し、アルバジンをロシアから奪回し(1685年)、1689年にはピョートル1世との間にネルチンスク条約を結んで、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)をもって両国の国境とし、両国の通商などを定めました。
ネルチンスク条約は清がヨーロッパの国家と締結した最初のそして対等の条約です。

ガルダン・ハン
又モンゴル高原では、ジュンガル部(オイラートの一部族)が、ガルダン・ハン(在位1676年~97年)のもとで外モンゴル・東トルキスタンを支配して最盛期を迎え、清軍ともしばしば衝突しており、康煕帝はガルダン・ハン討伐に3度親征を行いました(1690年・1696年・1697年)。
ガルダン・ハンは、1696年に康煕帝に敗れ、翌年自害し、これによって清は外モンゴルを支配下に置き、 更にチベット遠征を行い(1718年~20年)、ジュンガル勢力をチベットから駆逐して、チベットをもその勢力下におさめました。
康煕帝は、内政にも力をつくし、宦官の数を縮小し、黄河の治水にも努め、又1711年には、在位50周年を記念して、「盛世滋生人丁」(1711年以後に増加した成年男子には丁銀を課さないという減税策)を行い、地丁銀(清の税制)への道を開いています。
又学術を奨励して大編纂事業を行い『康煕字典』(漢字字書)を編纂し、『古今図書集成』(百科辞書)の編纂も行いますがその完成は雍正帝の時代になりました。
康煕帝は、在位61年、康煕・乾隆時代と云われる清の全盛期の基礎を確立し、康煕帝には35人の男子があったが、皇太子問題で苦労したので、遺言によって第4子の雍正帝を指名して崩御します。
ジョークは如何?
ヨーロッパでは、ナチスの非人道の代表として良く紹介される写真のひとつに、 捕まえたユダヤ人を列車に無茶苦茶に詰め込んでいる写真というものがある。
しかし、この写真は日本ではあまり見かけることはない、なぜか?
日本の基準でいうとすいているからだ

2月5日ジロくんは10歳を迎えました。
続く・・・
2清の統一②

清朝第4代聖祖康煕帝
清朝第4代聖祖康煕帝(1654年~1722年、在位1661年~1722年)は、順治帝の第3子で、8歳で即位し。彼は幼い時から読書・学問を好み、終生これに励み、又質素堅実な生活態度を一生通し、中国史上第一の名君と讃えられています。
当初は、4人の大臣が輔政しましたが、1667年以降は親政を開始し、即位以来の問題であった三藩の撤廃を企てます。

三藩
清は、中国平定に漢人武将を利用しましたが、彼等のうち王号を与えられて雲南に駐屯した呉三桂・広東の尚可喜(1604年~76年)・福建の耿継茂(?~1671年)は三藩と呼ばれ、一大勢力をなしており、康煕帝は、尚可喜が引退を願い出たことを好機ととらえ、三藩の撤去を命じました(1673年)。
これに対して最大勢力であった呉三桂がまず叛き(1673年)、耿継茂の子・耿精忠も呉三桂の誘いに応じて清に背きます(1674年)。
尚可喜は清朝への忠誠を変えませんでしたが、子の尚之信は呉三桂に応じ(1676年)、これが三藩の乱(1673年~81年)呼ばれる騒乱です。
当初は三藩軍が優勢で、呉三桂は帝位に就きますが間も無く死去し(1678年)、清朝は一時危機に陥ったものの、康煕帝は緑営(漢人で編成された、八旗につぐ正規軍の一つ、緑旗とも呼ばれる)を動員して鎮圧にあたり、呉三桂の死後は形勢が逆転し、跡を継いだ呉三桂の孫も自ら命を絶ち、三藩の乱はついに鎮圧されました(1681年)。

鄭成功・中華民国台南市「延平郡王祠」に鎮座する鄭成功像
三藩の乱を平定し、中国支配を確立した康煕帝は、台湾を根拠地として「反清復明」運動を続ける鄭成功の制圧にも乗り出します。
鄭成功(1624年~62年)は、鄭芝竜を父、日本人の田川氏の娘を母として平戸で生まれ、1630年に明に渡り、明が滅亡すると(1644年)、父とともに唐王を奉じて挙兵し、唐王から王室の姓である「朱」姓を賜り、国姓爺と呼ばれました。
ちなみに近松門左衛門の「国姓爺合戦」は、彼を主人公とする戯曲です。
父の鄭芝竜はまもなく清に降伏しましたが(1646年)、鄭成功は唐王亡き後は永明王を奉じ、厦門を奪って根拠地とし(1650年)、清に反抗を続け、日本にも援助を要請したものの不成功に終わっています。

ゼーランディア城の降伏(ヤン・ファン・バーデン画、1675年)
鄭成功は、1659年には南京に迫りますが今一つ及ばず、1661年に台湾に攻め込み、ゼーランディア城を攻略してオランダ人を駆逐し、以後、台湾を「反清復明」運動の根拠地としましたがまもなく病没しています(1662)。
鄭成功の死後は、子の鄭経が復明運動を受け継ぎ、三藩の乱に乗じて大陸反攻を図りますが失敗に終わっています。
康煕帝は、三藩の乱を鎮圧すると、台湾に侵攻して鄭氏を滅ぼし、台湾を初めて中国の領土とし(1683年)、鄭氏は3代22年で滅び、清朝の中国統一が完成しました。

ネルチンスク条約締結時のロマノフ王朝と清朝の勢力関係
当時、北方ではロシアがシベリアを東進して太平洋岸に達し、さらに黒竜江(アムール川)沿いに南進し、アルバジンに要塞を築いて根拠地とした結果、清の北辺がロシアと接することになります。
康煕帝は、これを反撃し、アルバジンをロシアから奪回し(1685年)、1689年にはピョートル1世との間にネルチンスク条約を結んで、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)をもって両国の国境とし、両国の通商などを定めました。
ネルチンスク条約は清がヨーロッパの国家と締結した最初のそして対等の条約です。

ガルダン・ハン
又モンゴル高原では、ジュンガル部(オイラートの一部族)が、ガルダン・ハン(在位1676年~97年)のもとで外モンゴル・東トルキスタンを支配して最盛期を迎え、清軍ともしばしば衝突しており、康煕帝はガルダン・ハン討伐に3度親征を行いました(1690年・1696年・1697年)。
ガルダン・ハンは、1696年に康煕帝に敗れ、翌年自害し、これによって清は外モンゴルを支配下に置き、 更にチベット遠征を行い(1718年~20年)、ジュンガル勢力をチベットから駆逐して、チベットをもその勢力下におさめました。
康煕帝は、内政にも力をつくし、宦官の数を縮小し、黄河の治水にも努め、又1711年には、在位50周年を記念して、「盛世滋生人丁」(1711年以後に増加した成年男子には丁銀を課さないという減税策)を行い、地丁銀(清の税制)への道を開いています。
又学術を奨励して大編纂事業を行い『康煕字典』(漢字字書)を編纂し、『古今図書集成』(百科辞書)の編纂も行いますがその完成は雍正帝の時代になりました。
康煕帝は、在位61年、康煕・乾隆時代と云われる清の全盛期の基礎を確立し、康煕帝には35人の男子があったが、皇太子問題で苦労したので、遺言によって第4子の雍正帝を指名して崩御します。
ジョークは如何?
ヨーロッパでは、ナチスの非人道の代表として良く紹介される写真のひとつに、 捕まえたユダヤ人を列車に無茶苦茶に詰め込んでいる写真というものがある。
しかし、この写真は日本ではあまり見かけることはない、なぜか?
日本の基準でいうとすいているからだ

2月5日ジロくんは10歳を迎えました。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント
薄日が射していましたが、
昼からは青空が戻ってきました。
遊歩道沿いの梅も七分咲きぐらいまで
花開いています。
ジロ君かわいいですね。
犬の10歳は壮年期でしょうか。
ちかくの遊歩道沿いでは朝早くから犬の散歩に出ている方を見かけます。
寒いときは犬の散歩も大変だなーと、
いつも思っていました。
2016-02-06 20:37 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
明日以降のお天気は火曜日付近迄、雨か雪とのことです。
夕方から少しですが、北西の風が吹き始め、体感温度も下がっています。
此方は、晴れても雲が多く、時折にわか雨さえ降るお天気で、油断が出来ません。
今、ジロくんの散歩コースでは、白梅、紅梅、蝋梅が見事な花を咲かせ始めました。
緑の殆んど消えた町角に、目にも鮮やかに映ります。
春を待つ気持ちは、何時に成っても変わりませんね。
ジロくんもも10歳、当にシニア犬に成っています。
2代目ジロくんが、病死しているので、彼の分も長生きして欲しいと願っています。
2016-02-06 20:55 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-02-06 23:58 編集
京都市内は久しぶりに雪が舞い寒い日曜日になりました。
遊歩道沿いの梅も7分咲になっていたのに、
真冬に逆戻りしました。
しかし毎年のことですが、
節分前後は寒くなりますね。
ジロ君元気で長生きしてくれるといいですね!
2016-02-07 20:54 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-02-07 22:57 編集
葉山左京様、こんばんは。
九州は今、梅の花が盛りです。
雨や雪の中でも、赤や白の花を着けた姿は、春を待ちわびる様にも見えます。
今日の北九州は、明方に気温が下がり、平地は雨、400m付近より上は雪に成り、周囲の山々も真っ白くなりましたが、昼から晴れて、夕方からは又雨になる、大変不安定な1日でした。
今のジロくんには、ぜひ長生きしてもらいたいです。
2016-02-07 23:06 秋葉 奈津子 URL 編集
いつも訪問いただきありがとうございます。
京都も朝は-2℃の気温です。
窓の結露がすごくていつも困っています。
冬場は結露取りが厄介です。
北九州の方が梅の咲くのは早いでしょうね。
それにしても雨や雪ですか。
こちらは雨にはなりにくいようです。
寒いですね!
お体大事にお過ごしください。
2016-02-08 05:55 葉山左京 URL 編集
パソコンがマウスが動かなくなり強制終了で再起動を続けていますのでやがて壊れるのではと余りPCを開いてなかったのです。汗)ランクも漸く順調に復活してくる状態ですねー。!
FC2の外部インが3位より上回っていますので、まもなく3位に復活が見込まれると期待できます。!
今日は外国人のお祭りかと錯覚する札幌雪祭りです。笑)
爆買いはありがたいことですが、肝心の日本人が飲食店で座るところもないこともあり段々可笑しな不思議なお祭りとなってきました。しかも、中心街だけが儲かるのですが郊外の飲食店は閑古鳥が鳴いている始末です。どこかおかしいと思います。自衛隊もこれからは縮小になりますので、雪像の大型な者はムリとなります。今からそれらを考慮して縮小して札幌市民全体がささやかな楽しみになるように再考すべきと一人考えています。汗)☆!!!
2016-02-08 20:16 荒野鷹虎 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-02-08 23:59 編集
風が冷たい一日でした。
木曜日からは春の陽気だと天気予報で言っていました。
早く暖かくなってほしいですね。
毎日マスメディアマは人を殺したり、事故が起こったり、
バカな指導者がミサイルを発射したりと、
嫌なことばかりの報道です。
もっと喜べそうなことはないのでしょうかね。
2016-02-09 22:27 葉山左京 URL 編集
寒さは今日で終わりそうですね。
明日から春の陽気とか、
大変うれしい事です。
北九州はこちらよりもっと暖かでしょうね。
土筆はもう生えていますでしょうか?
2016-02-10 20:35 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
年が改まって、始めてかもしれません。
残なんながら、土筆の姿は見ていませんね。
ふきのとうなら、結構顔をだしていますよ。
今日は、法定点検、日用品の買い物と午後から夕方迄、家事に追われた1日でした。
お天気に比例して、気温も高く、車の中ではエアコンがいる程の暖かさでした。
夕方、西の空に薄い大きな三日月が、静かに浮かんでいました。
この様な風景を目にするのも、本当に久しぶりです。
天気予報では、来週また寒波が襲来するとのこと。
暖かさに慣れた体には、余計に身に凍みる寒さになるでしょう。
2016-02-10 22:27 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-02-10 22:40 編集
日の入りが遅くなってきました。
夕方西の空を見ると山の頂あたりは薄いピンク色に染まり、
晴れた青空がバックになって三日月が出ていました。
思わず立ち止まって見惚れていました。
明日は15℃春の陽気ですね。
そちらはもっと暖かでしょうか。
2016-02-11 22:02 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨日は、三日月の横を飛行機が、飛行機雲を引きながら飛んでいました。
夜明けは早く、夕暮れは遅く成り、確実に昼間の時間が長く成っていますし、太陽の昇る位置も1月初めに比べて、北に向かっています。
今日のお天気は曇り、週末から来週にかけては、又気温が下がるとのことです。
体調管理が大変な時期に成りました。
2016-02-12 08:24 秋葉 奈津子 URL 編集