歴史を歩く173
23 中国文化圏の拡大7
3明清の社会

湖北・湖南等の位置関係
明代になると、江南の開発の進展や農業技術の向上によって農業生産力はますます増大し、宋代以来、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と云われた様に米作の一大中心地であった長江下流域は、大運河沿いで交通の便も良く、江南の物資の集散地として既に宋代から発展していましたが、明中期の16世紀頃から、絹織物・綿織物等の手工業・商業が盛んとなり、都市が発達しました。
特に絹織物の蘇州・綿織物の松江が有名でした。
しかし、生産力の高かった長江下流域が負担する税も膨大で、都市在住の不在地主(多くは大商人)による大土地所有制と佃戸制が益々進み、明末清初にはこの地域の農民の約9割が佃戸であったと云われており、其の為彼等は苦しい家計を補うために、家族をあげて副業として機織りの内職に努めたのです。
絹織物・綿織物に代表される農村家内工業が盛んになると、その原料である綿花や養蚕に必要な桑の栽培が普及し、その結果米作の中心は、長江下流域から長江中流域の湖広(現在の湖北・湖南省)に移り、長江中流域が新たな穀倉地帯と成り、明代末には、従来の「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」に代って「湖広熟すれば天下足る」と云われる様に成りました。

景徳鎮 嘉靖赤絵龍文丸壺
更に茶の栽培や陶磁器の生産も益々盛んとなり、特に景徳鎮には明代に政府の専用工場が設けられ、数10万人が働き、染付・赤絵等の優れた陶磁器が作られ、景徳鎮の名は世界的に有名と成りました。
商業・手工業等の発達は、米・生糸・綿花・絹織物・綿織物・茶・陶磁器等の商品流通を促し、客商と呼ばれる遠隔地商人によって各地に運ばれて取り引きされ、山西商人や新安商人等が全国的に活動しました。

山西商人
山西商人は、山西省出身の商人層で、明代初頭から政商として活躍し、後には金融業を中心に商業・手工業等多方面にわたって全国的に活躍しましたが、江南では新安商人の進出により次第に後退しました。
新安商人は、明代後半から江南を中心に全国的に活躍した安徽省徽州(旧新安郡)出身の商人層で、最初は塩商として発展し、海外との交易にも活躍しました。

重慶糊広会館
叉商業・手工業等の発達に伴い、主要な都市では会館・公所が建てられ、商工業等の同業者や同郷者の団体が親睦・互助の為に建てた建物で、建物内には事務室・会議室の他に宿泊施設や倉庫も設えられていました。
会館・公所は最初、建物を指した言葉でしたが、後には同業者や同郷者の団体そのものも指すように成りました。
明の洪武帝は、倭寇対策の一つとして海禁を行い(1371年)、ここに海禁とは、明・清両王朝が行った海上交通・貿易・漁業活動等への制限を意味し、外国船の往来・中国人の海外渡航や外国との交易・大船の建造や所有・漁業活動等を制限したのですが、密貿易が盛んになり、厳重な取り締まりがかえって倭寇の侵入を招いた結果、1567年には緩和されています。
明代中期は、ヨーロッパの大航海時代に符合し、16世紀になるとポルトガル人をはじめヨーロッパの商人が来航し、絹・茶・陶磁器等中国の産物を手に入れる為に、メキシコ銀等の大量の銀を持ち込み、叉日本銀(明代における日本からの最大の輸入品であった)も大量に流入した結果、16世紀以降、銀が主要な通貨として流通するように成りました。

大明宝鈔
明は、1375年に宝鈔と呼ばれる紙幣を発行して銅銭と併用しましたが、宝鈔を乱発した結果、信用が低下して次第に使われなくなり、銀と銅銭の流通が盛んとなり、特に16世紀以降は銀の流通が益々盛んと成ります。
銀の流通が増大すると、税の一部を銀で代納する傾向が現れ、そのため一条鞭法と呼ばれる新しい税法が、16世紀後半に先ず江南で実施され、やがて各地に広まり、16世紀末迄には、ほぼ全国に普及して行きました。

一条鞭法と張居正
一条鞭法は、土地を対象とする田賦(地税)と人丁(成年男子)を対象とする徭役(丁税)等をそれぞれ銀に換算して一括して銀納とした税制で、従来別々に割り当てられて複雑になっていた諸税を一括して簡素化した税制であり、唐の両税法以来の大改革でした。
万暦帝時代に、財政改革を行った張居正は、全国的に検地を行うと伴に、一条鞭法を全国的に実施して、一時明の財政再建に成功しましたが、張居正の死後、明の財政は再び悪化の道を辿ります。
商工業や貨幣経済が発達する一方で、地主・商人・官僚の支配に苦しんだ農民達は、しばしば暴動を起こし、明末期から清初頭にかけて、抗租運動(佃租(小作料)をめぐる佃戸の地主に対する抗争)や奴変(ぬへん、家内奴隷が身分解放を求めて主家に対しておこした暴動)等が江南を中心に激しく成り、叉広東や福建方面の農民を中心に、海禁を犯して東南アジア各地に移住し、密貿易等に従事する者も多く、後の南洋華僑の基礎と成りました。

明時代の広州
明代の社会・経済の傾向は、そのまま清代に引き継がれ、江南は益々中国経済の中心地として重要な役割を果たし、「湖広熟すれば天下足る」と云われた様に長江中流域は米作の一大中心地でしたが、長江流域では、明末期から清代にかけてヨーロッパから、さつまいも・じゃがいも・とうもろこし・さとうきび・藍・落花生・たばこ等が伝播し栽培されました。
この内、さつまいも・じゃがいも・とうもろこし・さとうきび・落花生・たばこは新大陸からヨーロッパへ伝えられた作物です。
特に康煕・雍正・乾隆の3代130年間は、国内の商工業や外国貿易が益々盛んとなり、銀の流入は更に増大し、国家財政は豊かに成りましたが、ヨーロッパ人との貿易はキリスト教との関係から、乾隆帝時代に広州1港に限定されました(1757年)。
税制では、当初明の一条鞭法を受け継いだのですが、18世紀の初頭、雍正帝時代に、地丁銀が全国的に実施されるように成り、丁銀(丁税、人丁に課せられていた徭役を銀に換算した額)を地銀(地税)に組み込んで、土地の所有高に応じてのみ徴収する税制で、これによって古来の人頭税(人丁ごとに課せられた税や役)は姿を消すことになった結果、地丁銀は、中国の税制の中で画期的な税制とされ、地丁銀によって税制は更に簡略化されたのです。
この地丁銀への移行の前提となった政策が、康煕帝によって1711年の在位50周年を記念して行った減税策である「盛世滋生人丁」でした。
康煕帝は、1711年以後に増加する人丁(成年男子)、すなわち盛世滋生人丁に対する丁税を免除し、これによって丁口(成年男子の数)と丁税が固定されることになり、丁銀の地銀への組み込みが可能となり、地丁銀への道が開かれることに成ったのです。
ジョークは如何?
ある日、スターリンが一人の幹部に尋ねた
「君はアメリカについてどう思うね?」
「はい、同士! 資本主義は今や崖っぷちにあるでしょう!」
満足そうに頷き、さらに問い掛ける
「では我らが国はどうかね?」
「はい、同士! 社会主義は資本主義の一歩先をゆくものであります!」
続く・・・
3明清の社会

湖北・湖南等の位置関係
明代になると、江南の開発の進展や農業技術の向上によって農業生産力はますます増大し、宋代以来、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と云われた様に米作の一大中心地であった長江下流域は、大運河沿いで交通の便も良く、江南の物資の集散地として既に宋代から発展していましたが、明中期の16世紀頃から、絹織物・綿織物等の手工業・商業が盛んとなり、都市が発達しました。
特に絹織物の蘇州・綿織物の松江が有名でした。
しかし、生産力の高かった長江下流域が負担する税も膨大で、都市在住の不在地主(多くは大商人)による大土地所有制と佃戸制が益々進み、明末清初にはこの地域の農民の約9割が佃戸であったと云われており、其の為彼等は苦しい家計を補うために、家族をあげて副業として機織りの内職に努めたのです。
絹織物・綿織物に代表される農村家内工業が盛んになると、その原料である綿花や養蚕に必要な桑の栽培が普及し、その結果米作の中心は、長江下流域から長江中流域の湖広(現在の湖北・湖南省)に移り、長江中流域が新たな穀倉地帯と成り、明代末には、従来の「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」に代って「湖広熟すれば天下足る」と云われる様に成りました。

景徳鎮 嘉靖赤絵龍文丸壺
更に茶の栽培や陶磁器の生産も益々盛んとなり、特に景徳鎮には明代に政府の専用工場が設けられ、数10万人が働き、染付・赤絵等の優れた陶磁器が作られ、景徳鎮の名は世界的に有名と成りました。
商業・手工業等の発達は、米・生糸・綿花・絹織物・綿織物・茶・陶磁器等の商品流通を促し、客商と呼ばれる遠隔地商人によって各地に運ばれて取り引きされ、山西商人や新安商人等が全国的に活動しました。

山西商人
山西商人は、山西省出身の商人層で、明代初頭から政商として活躍し、後には金融業を中心に商業・手工業等多方面にわたって全国的に活躍しましたが、江南では新安商人の進出により次第に後退しました。
新安商人は、明代後半から江南を中心に全国的に活躍した安徽省徽州(旧新安郡)出身の商人層で、最初は塩商として発展し、海外との交易にも活躍しました。

重慶糊広会館
叉商業・手工業等の発達に伴い、主要な都市では会館・公所が建てられ、商工業等の同業者や同郷者の団体が親睦・互助の為に建てた建物で、建物内には事務室・会議室の他に宿泊施設や倉庫も設えられていました。
会館・公所は最初、建物を指した言葉でしたが、後には同業者や同郷者の団体そのものも指すように成りました。
明の洪武帝は、倭寇対策の一つとして海禁を行い(1371年)、ここに海禁とは、明・清両王朝が行った海上交通・貿易・漁業活動等への制限を意味し、外国船の往来・中国人の海外渡航や外国との交易・大船の建造や所有・漁業活動等を制限したのですが、密貿易が盛んになり、厳重な取り締まりがかえって倭寇の侵入を招いた結果、1567年には緩和されています。
明代中期は、ヨーロッパの大航海時代に符合し、16世紀になるとポルトガル人をはじめヨーロッパの商人が来航し、絹・茶・陶磁器等中国の産物を手に入れる為に、メキシコ銀等の大量の銀を持ち込み、叉日本銀(明代における日本からの最大の輸入品であった)も大量に流入した結果、16世紀以降、銀が主要な通貨として流通するように成りました。

大明宝鈔
明は、1375年に宝鈔と呼ばれる紙幣を発行して銅銭と併用しましたが、宝鈔を乱発した結果、信用が低下して次第に使われなくなり、銀と銅銭の流通が盛んとなり、特に16世紀以降は銀の流通が益々盛んと成ります。
銀の流通が増大すると、税の一部を銀で代納する傾向が現れ、そのため一条鞭法と呼ばれる新しい税法が、16世紀後半に先ず江南で実施され、やがて各地に広まり、16世紀末迄には、ほぼ全国に普及して行きました。

一条鞭法と張居正
一条鞭法は、土地を対象とする田賦(地税)と人丁(成年男子)を対象とする徭役(丁税)等をそれぞれ銀に換算して一括して銀納とした税制で、従来別々に割り当てられて複雑になっていた諸税を一括して簡素化した税制であり、唐の両税法以来の大改革でした。
万暦帝時代に、財政改革を行った張居正は、全国的に検地を行うと伴に、一条鞭法を全国的に実施して、一時明の財政再建に成功しましたが、張居正の死後、明の財政は再び悪化の道を辿ります。
商工業や貨幣経済が発達する一方で、地主・商人・官僚の支配に苦しんだ農民達は、しばしば暴動を起こし、明末期から清初頭にかけて、抗租運動(佃租(小作料)をめぐる佃戸の地主に対する抗争)や奴変(ぬへん、家内奴隷が身分解放を求めて主家に対しておこした暴動)等が江南を中心に激しく成り、叉広東や福建方面の農民を中心に、海禁を犯して東南アジア各地に移住し、密貿易等に従事する者も多く、後の南洋華僑の基礎と成りました。

明時代の広州
明代の社会・経済の傾向は、そのまま清代に引き継がれ、江南は益々中国経済の中心地として重要な役割を果たし、「湖広熟すれば天下足る」と云われた様に長江中流域は米作の一大中心地でしたが、長江流域では、明末期から清代にかけてヨーロッパから、さつまいも・じゃがいも・とうもろこし・さとうきび・藍・落花生・たばこ等が伝播し栽培されました。
この内、さつまいも・じゃがいも・とうもろこし・さとうきび・落花生・たばこは新大陸からヨーロッパへ伝えられた作物です。
特に康煕・雍正・乾隆の3代130年間は、国内の商工業や外国貿易が益々盛んとなり、銀の流入は更に増大し、国家財政は豊かに成りましたが、ヨーロッパ人との貿易はキリスト教との関係から、乾隆帝時代に広州1港に限定されました(1757年)。
税制では、当初明の一条鞭法を受け継いだのですが、18世紀の初頭、雍正帝時代に、地丁銀が全国的に実施されるように成り、丁銀(丁税、人丁に課せられていた徭役を銀に換算した額)を地銀(地税)に組み込んで、土地の所有高に応じてのみ徴収する税制で、これによって古来の人頭税(人丁ごとに課せられた税や役)は姿を消すことになった結果、地丁銀は、中国の税制の中で画期的な税制とされ、地丁銀によって税制は更に簡略化されたのです。
この地丁銀への移行の前提となった政策が、康煕帝によって1711年の在位50周年を記念して行った減税策である「盛世滋生人丁」でした。
康煕帝は、1711年以後に増加する人丁(成年男子)、すなわち盛世滋生人丁に対する丁税を免除し、これによって丁口(成年男子の数)と丁税が固定されることになり、丁銀の地銀への組み込みが可能となり、地丁銀への道が開かれることに成ったのです。
ジョークは如何?
ある日、スターリンが一人の幹部に尋ねた
「君はアメリカについてどう思うね?」
「はい、同士! 資本主義は今や崖っぷちにあるでしょう!」
満足そうに頷き、さらに問い掛ける
「では我らが国はどうかね?」
「はい、同士! 社会主義は資本主義の一歩先をゆくものであります!」
続く・・・
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コメント
2016-02-16 21:54 荒野鷹虎 URL 編集
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2016-02-16 23:54 編集
寒いですね。
夕方帰る山科川土手は北風が吹き抜け、
身が凍えそうな寒さです。
やっと梅も満開になり、
沈丁花の蕾も大きく膨らんできました。
春になる一歩手前の寒さでしょうか。
2016-02-17 21:55 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
午前中は、遠くの山々が白くなり、雪が舞っていましたが、午後は久しぶりの青空、風も無く日当たりの良い場所では、眠気をさそう程です。。
今回の寒波も峠を過ぎましたが、3月のお彼岸頃迄は、油断出来ませんね。
2016-02-17 23:52 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-02-18 17:46 編集
今日は雲一つない青空が広がっていました。
風がなければ春ではないかと思える気候でした。
やはり梅の花が咲くのは九州より遅いですね。
北区の植物園ではいまだ満開ではないようです。
そうですね、
3月のお彼岸までは暖かかったり寒かったりの繰り返しでしょうね。
2016-02-18 22:13 葉山左京 URL 編集
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2016-02-18 23:14 編集
葉山左京様、こんばんは。
その代わり、朝は豪快に冷込みました。
夜になって、雲が広がり始めました。
明日は気温は高いものの、余り天気は良くない様です。
九州でも、3月の啓蟄を過ぎないと、本格的な春履きませんね。
やはり、春を感じるのは、お彼岸の頃、菜の花が咲き、暖かい陽射しがやって来るのは、後1ヶ月です。
2016-02-18 23:48 秋葉 奈津子 URL 編集