歴史を歩く177
24 中国の隣接地域の変遷①
1 台湾
台湾は、清代以後の名称で、隋から元までは琉球と呼ばれていました。
原住民はインドネシア系の高砂(高山)族で、元が遠征した時代も在りますが、台湾は長い間中国文化圏の外にあって、中国との関係は希薄でした。

ゼーランディア城の降伏(ヤン・ファン・バーデン画、1675年)
台湾は、16世紀頃から海賊の根拠地となり、対岸から中国人が移住し、ようやく西海岸地方が開け始め、1624年にオランダ人が南部を占領し、ゼーランディア城を築き、同じ頃北部を占領したスペイン人を台湾から駆逐し(1642年)、以後約20年間にわたって台湾を支配しました。

「鄭成功義和圖」と題された、鄭成功と降伏するオランダ人の像
1661年には、鄭成功がオランダ人を駆逐し、鄭氏は以後3代にわたって台湾を根拠地として清に抵抗しましたが、清は1683年に鄭氏一族を滅ぼし、台湾を直轄領とし、これにより台湾は初めて中国の支配下に入ることとなります。
以後、福建・広東方面からの中国人移住者が次第に増えて開発が進んだが、治安が悪く、絶えず反乱が起こりますが、19世紀後半になると列強の進出に伴い、台湾は国際的に注目されるように成ります。
2 モンゴル・トルキスタン・チベット①

北元の歴代皇帝
元の最後の皇帝順帝(在位1332年~1368年)は、明軍に追われて応昌(上都の北)で病死し、その子昭宗は、モンゴル高原を確保してカラコルムに本拠を置き、北元(1371年~88年)を建てて元の復興を図りますが、昭宗の死後、弟のトグス・テムルが即位するものの(1378年)、明軍は満州を征服し(1387年)、更に翌年北元軍を撃破し皇后、皇子等8万人を捕らえ、北元に壊滅的な打撃を与えます。
トグス・テムルもカラコルムへ脱出する途中で殺され、北元は滅び(1388年)、以後はタタール部(韃靼、だったん)と呼ばれるように成りました。

オイラート部
その後、モンゴル高原では、東方のタタール部と西北モンゴルのオイラート部がモンゴル高原の支配をめぐって激しく対立します。
オイラート部は、西北モンゴルに拠るモンゴルの一部族で、チンギス・ハンに服属したが、元の滅亡で台頭し、エセン・ハンのもとで強大と成ります。
エセン・ハン(?~1454年)は、父の死後(1439年)、その跡を継いで全モンゴルの指導者となり、四方に勢力を拡大し、東は満州の女真を討って朝鮮に迫り、西は西トルキスタンにまで進出しました。

明王朝6代皇帝英宗正統帝
明が朝貢貿易を制限すると、明に侵入して土木堡で英宗を捕らえ(土木の変、1449年)、その後、北元の皇帝子孫を抹殺し(1451年)、1453年には自ら大ハンの位について名実ともにモンゴルの支配者と成りますが、翌年部下に命を絶たれ、エセン・ハンの死後、オイラート部は次第に衰退し、かわってダヤン・ハンのもとでタタール部(韃靼)が強力と成って行きます。

モンゴル高原に於けるタタール部(韃靼)の台頭
ダヤン・ハン(1468年~1519年)は、チンギス・ハンの後裔で、父の死後即位し(1487年)、その後内モンゴルを統一し(1510年)、各地に諸子を分封して支配させましたが、後に子孫は全モンゴルに広がっていったため、後世のモンゴル貴族の大部分はダヤン・ハンを祖としています。
タタール部は、ダヤン・ハンの孫アルタン・ハンの時代に全盛期を迎えます。

大召寺前の広場にある、アルタン・ハン像
アルタン・ハン(1507年~82年、在位1551年~82年)は、内モンゴルのトメト部に分封され、帰化城(現在のフフホト)を本拠地として勢力を拡大し、1520年代以降連年にわたって長城一帯を蹂躙しました。
1540年代には明への侵入を更に激化させ、1542年には山西省に侵入して20余万人を殺戮し、家畜200万頭を略奪、1550年には終に北京を5日間にわたって包囲し、周辺地域を蹂躙します。
しかし、その後アルタン・ハンの軍は西方に向かい、オイラート部を討ってカラコルムを奪回し(1552年)、更に青海・チベットに侵入します。
アルタン・ハンは、チベットに侵入した時に(1573年)、ラマ教に接して帰依し、青海に第3代ダライ・ラマを迎えます(1578年)。
ラマ教は、元朝帝室の保護を受けて栄えましたが、ラマ教を信じたのは中央の上層のモンゴル人だけで、モンゴルの一般住民にはほとんど普及せず、又元朝で栄えたのは、ラマ教の中の紅帽派(紅教)で、アルタン・ハンが帰依したのは黄帽派(黄教)でした。
ダライ・ラマ3世は、東モンゴル各地を行脚し、至る所で帰依を受け、黄帽派を広め、又アルタン・ハンの曾孫が第4代ダライ・ラマの位に就いた結果、以後ラマ教はモンゴル人の間に広く普及し、戦闘的なモンゴル人が平和的な遊牧民に変わる原因になったと云われています。
ジョークは如何?
各国の古代史に対するattitude
三皇五帝時代の歴史遺跡の発掘に、国家の威信を懸けるのが中国
檀君神話を世界中に向けて、昼夜を惜しむことな
く発信しつづけてるのが韓国
未だにムー大陸を追っかけてるのが日本
続く・・・
1 台湾
台湾は、清代以後の名称で、隋から元までは琉球と呼ばれていました。
原住民はインドネシア系の高砂(高山)族で、元が遠征した時代も在りますが、台湾は長い間中国文化圏の外にあって、中国との関係は希薄でした。

ゼーランディア城の降伏(ヤン・ファン・バーデン画、1675年)
台湾は、16世紀頃から海賊の根拠地となり、対岸から中国人が移住し、ようやく西海岸地方が開け始め、1624年にオランダ人が南部を占領し、ゼーランディア城を築き、同じ頃北部を占領したスペイン人を台湾から駆逐し(1642年)、以後約20年間にわたって台湾を支配しました。

「鄭成功義和圖」と題された、鄭成功と降伏するオランダ人の像
1661年には、鄭成功がオランダ人を駆逐し、鄭氏は以後3代にわたって台湾を根拠地として清に抵抗しましたが、清は1683年に鄭氏一族を滅ぼし、台湾を直轄領とし、これにより台湾は初めて中国の支配下に入ることとなります。
以後、福建・広東方面からの中国人移住者が次第に増えて開発が進んだが、治安が悪く、絶えず反乱が起こりますが、19世紀後半になると列強の進出に伴い、台湾は国際的に注目されるように成ります。
2 モンゴル・トルキスタン・チベット①

北元の歴代皇帝
元の最後の皇帝順帝(在位1332年~1368年)は、明軍に追われて応昌(上都の北)で病死し、その子昭宗は、モンゴル高原を確保してカラコルムに本拠を置き、北元(1371年~88年)を建てて元の復興を図りますが、昭宗の死後、弟のトグス・テムルが即位するものの(1378年)、明軍は満州を征服し(1387年)、更に翌年北元軍を撃破し皇后、皇子等8万人を捕らえ、北元に壊滅的な打撃を与えます。
トグス・テムルもカラコルムへ脱出する途中で殺され、北元は滅び(1388年)、以後はタタール部(韃靼、だったん)と呼ばれるように成りました。

オイラート部
その後、モンゴル高原では、東方のタタール部と西北モンゴルのオイラート部がモンゴル高原の支配をめぐって激しく対立します。
オイラート部は、西北モンゴルに拠るモンゴルの一部族で、チンギス・ハンに服属したが、元の滅亡で台頭し、エセン・ハンのもとで強大と成ります。
エセン・ハン(?~1454年)は、父の死後(1439年)、その跡を継いで全モンゴルの指導者となり、四方に勢力を拡大し、東は満州の女真を討って朝鮮に迫り、西は西トルキスタンにまで進出しました。

明王朝6代皇帝英宗正統帝
明が朝貢貿易を制限すると、明に侵入して土木堡で英宗を捕らえ(土木の変、1449年)、その後、北元の皇帝子孫を抹殺し(1451年)、1453年には自ら大ハンの位について名実ともにモンゴルの支配者と成りますが、翌年部下に命を絶たれ、エセン・ハンの死後、オイラート部は次第に衰退し、かわってダヤン・ハンのもとでタタール部(韃靼)が強力と成って行きます。

モンゴル高原に於けるタタール部(韃靼)の台頭
ダヤン・ハン(1468年~1519年)は、チンギス・ハンの後裔で、父の死後即位し(1487年)、その後内モンゴルを統一し(1510年)、各地に諸子を分封して支配させましたが、後に子孫は全モンゴルに広がっていったため、後世のモンゴル貴族の大部分はダヤン・ハンを祖としています。
タタール部は、ダヤン・ハンの孫アルタン・ハンの時代に全盛期を迎えます。

大召寺前の広場にある、アルタン・ハン像
アルタン・ハン(1507年~82年、在位1551年~82年)は、内モンゴルのトメト部に分封され、帰化城(現在のフフホト)を本拠地として勢力を拡大し、1520年代以降連年にわたって長城一帯を蹂躙しました。
1540年代には明への侵入を更に激化させ、1542年には山西省に侵入して20余万人を殺戮し、家畜200万頭を略奪、1550年には終に北京を5日間にわたって包囲し、周辺地域を蹂躙します。
しかし、その後アルタン・ハンの軍は西方に向かい、オイラート部を討ってカラコルムを奪回し(1552年)、更に青海・チベットに侵入します。
アルタン・ハンは、チベットに侵入した時に(1573年)、ラマ教に接して帰依し、青海に第3代ダライ・ラマを迎えます(1578年)。
ラマ教は、元朝帝室の保護を受けて栄えましたが、ラマ教を信じたのは中央の上層のモンゴル人だけで、モンゴルの一般住民にはほとんど普及せず、又元朝で栄えたのは、ラマ教の中の紅帽派(紅教)で、アルタン・ハンが帰依したのは黄帽派(黄教)でした。
ダライ・ラマ3世は、東モンゴル各地を行脚し、至る所で帰依を受け、黄帽派を広め、又アルタン・ハンの曾孫が第4代ダライ・ラマの位に就いた結果、以後ラマ教はモンゴル人の間に広く普及し、戦闘的なモンゴル人が平和的な遊牧民に変わる原因になったと云われています。
ジョークは如何?
各国の古代史に対するattitude
三皇五帝時代の歴史遺跡の発掘に、国家の威信を懸けるのが中国
檀君神話を世界中に向けて、昼夜を惜しむことな
く発信しつづけてるのが韓国
未だにムー大陸を追っかけてるのが日本
続く・・・
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コメント
今日はコートを脱いで手にする人が多かったですね。
暖かい一日でした。
土筆も出始めていますし、
早咲きの桜や、春の花々が咲きだしました。
ホトケノザも田んぼの畔に発見しました。
お彼岸を待つまでもなく気温上昇です。
春になりました。
2016-03-05 21:32 葉山左京 URL 編集
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2016-03-05 23:21 編集
日曜の朝は暖かいですね。
あいにくの雨模様ですが20℃くらいまで
気温が上がりそうです。
来週木曜日ころからまた冬に逆戻りのようです。
今年は暖冬異変で気温の変化が激しいですね。
体調には十分お気を付けください。
2016-03-06 05:53 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
自宅の庭やジロくんの散歩コースに在る、彼岸桜が開き始めました。
残り少なくなった、梅の花に代わり、桜色が目立ち始めています。
気温も20度近く迄上昇していますので、此れから雑草との戦いも始まります。
でも、暖かい毎日が一番ですね。
2016-03-06 10:37 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-03-06 23:18 編集
暖かい日が続いています。
雨が降っても暖かさは変わらないようですね。
京都は12日~21日東山花灯路が始まります。
平安神宮から清水寺までの間に花灯路に灯がともされます。
途中丸山公園の生け花にも照明が当たりきれいですよ。
毎年のことですが、
見に行こうかと考えています。
2016-03-07 20:57 葉山左京 URL 編集
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2016-03-07 23:46 編集
葉山左京様、こんばんは。
自宅付近の朝の温度は12度、勤務先は、関門海峡に近いのですが気温は15度。
霧は一段と濃く、船の汽笛も普段以上に聞こえました。
気温上昇で、勤務先一帯の桜並木も新芽が膨れ、開花も近そうです。
只、木曜日付近で又気温低下が予報されていますので、体調管理には注意ですね。
北九州はこの時期、季節に因んだイヴェントは在りませんが、コメントを拝見すると、綺麗な情景が浮かぶようです。
2016-03-08 00:09 秋葉 奈津子 URL 編集
夕方仕事からの帰り道、
沈丁花の花の香りが漂っていました。
春の香りはいいですね。
北九州市は海のそばだけに
濃霧が発生しやすいのですね。
濃霧の向こうから汽笛が聞こえてくる様子は
幻想的で映画のシーンになりそうですね。
2016-03-08 21:22 葉山左京 URL 編集
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2016-03-08 23:36 編集
葉山左京様、こんばんは。
今日は、雨の予報。
気温も最高9度と7度近い低下で、明日は寒さが一段と堪えるかもしれません。
確に霧笛は、ムード満点ですが、船舶の往来が多く、狭い関門海峡では、神経を使う天候ですね。
昨日の朝は、雲雀と鶯の鳴き声が、聞こえて来ました。
春が来たと思ったのですが、北の将軍様が優勢の様です。
国際情勢も北の三代目将軍様が、何かと話題になりますが、この辺で終わりにしてもらいたいものです。
2016-03-09 00:24 秋葉 奈津子 URL 編集
北九州ではもう雲雀が鳴いていますか。
こちらはまだ鶯や目白の姿が見えません。
今月末くらいでしょうか。
やはり近畿の方がかなり季節は遅いようです。
今朝は雨で気温12度の予報です。
ハイ、冬将軍に支配されているようです。
2016-03-09 05:54 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
気温は思った程下がらず、風も殆んど無い状態なので、寒さも感じることは在りませんでした。
明日も曇り空が続く様です。
此方では、メジロは2月の下旬に梅の老木に姿を見せてくれました。
雲雀は、毎年ほぼ同じ場所で、鳴いている様です。
啓蟄も過ぎましたので、これからは、虫達の姿も垣間見る事が出来ると思います。
2016-03-09 23:55 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-03-10 00:09 編集