歴史を歩く178
24 中国の隣接地域の変遷②
2 モンゴル・トルキスタン・チベット②

アルタン・ハーン(Altan Qaγan、中国語:俺答汗、モンゴル語:Алтан Хаан、1507年 - 1582年1月)
清が興ると、太宗(ホンタイジ)は内モンゴルのチャハル部を服属させましたが(1635年)、外モンゴルのカルカ部は独立を維持していました。
西北モンゴルに拠ったオイラート部は、エセン・ハンの死後(1454年)次第に衰え、又タタール部のアルタン・ハンに討たれ(1552年)更に衰えますが、17世紀に入るとオイラートの一部族でシル川流域を本拠とするジュンガル部が強大となり、ガルダン・ハンの時代に最盛期を迎えました。

ガルダン・ハーン(モンゴル語:Галдан хаан、中国語:噶尔丹 汗、1644年 - 1697年)
ガルダン・ハン(1644年~97年、在位1671年~97年)は、当初チベット、ラサのダライ・ラマのもとで僧として修行を重ねましたが、兄の死後(1671年)ダライ・ラマの援助を受けて帰国を果たし、即位すると、たちまち部族を統一して全オイラート部の指導者となり、東トルキスタン(回部)を服属させ、青海・チベットをも勢力下に置きました(1677年)。
ガルダン・ハンは、更に全モンゴル統一を意図し、外モンゴルカルカ部に侵入し、これを撃ち破って外モンゴルも支配下に置きます(1688)年。
カルカ部は清朝に保護を求め、以後清朝に服属する発端と成りました。

康煕帝は、北京を目指して進攻するガルダン・ハンを内モンゴルで撃破し(1690年)、敗れたガルダン・ハンは再起を図りますが、漠北に親征した康煕帝に再びクーロン(現在のウランバートル)で壊滅的な打撃を受け(1696年)、翌年自ら命を絶ちます。
雍正帝は、オイラート部がダライ・ラマを扇動してチベットで反乱を起こさせると、これを平定してチベットに大臣を駐在させます(1724年)。
乾隆帝は、ジュンガル部の内紛に乗じてこれを征服し(1758年)、その領域を準部とした上に翌年には回部(天山山脈以南にすむウイグル人の居住地を指した呼称)を平定し(1759年)、準部と回部を併せて新疆(新領土の意味)と呼称します(新疆省の設置は1882年)。
チベットでは、7世紀に建国された吐蕃が9世紀後半頃から分裂し、以後数世紀にわたって諸侯が割拠する情勢と成りました。
チベット仏教(ラマ教)は、元朝で保護され、明代になっても優遇されて教理も総て堕落し、14世紀末にツォンカパが現れると堕落したラマ教を改革して黄帽派を開闢します。

タンカに描かれたツォンカパ(1357年~1419年)
ツォンカパ(1357年~1419年)は、青海に生まれ、7歳で出家し、16歳乃至17歳頃にチベットに赴いて諸寺院で学んだものの、旧来からのラマ教の堕落を激しく非難し、36歳頃にそれまでのラマ教の紅帽派(黄帽派成立以前のラマ教の諸宗派の総称)を改革して、飲酒・妻帯の厳禁等、厳しい戒律と徳行を主張して黄帽派を開きました。

ダライ・ラマ1世(ゲンドゥン・トゥプ)・1391年〜1474年
ラマ教(黄帽派)の教主はダライ・ラマと呼ばれ、ここでダライは「海」、ラマは「師」の意味で、ダライ・ラマはチベットにおける宗教・政治の最高権力者で、更にラマ教ではダライ・ラマは活仏と考えられました。
活仏とはラマ教の高僧の生まれ変わり、いわゆる転生ラマを意味し、黄帽派では妻帯を厳禁したので、この活仏を教権継承の方法と結びつけて制度化しました。
ダライ・ラマが、生前に予言した転生の方角にその後1年以内に生まれた幼児の内から、神託や夢占い・故人の言行・遺品等を頼りに条件の合う者を選んで転生者としました。
初代ダライ・ラマは、ツォンカパの弟子で、以後のダライ・ラマもツォンカパの弟子の転生者として継承されてきました。
現在のダライ・ラマは、14世で、1959年のチベット反乱の際インドに亡命し現在に至っていますが、1989年にはノーベル平和賞を受賞しており、又ダライ・ラマに次ぐラマ教の副教主は、パンチェン・ラマ(偉大なる学僧の意味)と呼ばれます。

チベット:ダライ・ラマ法王日本代表日事務所公式ページより
清朝がチベットを平定したのは、康煕帝の晩年のことでした。
自害したガルダン・ハンの甥が再びオイラート部を統一し、チベットに侵入してラサを占領します。この報に接した康煕帝はチベットに遠征軍を派遣し、ジュンガル兵を追放してチベットを平定し(1720年)、更に雍正帝は、青海のオイラートがダライ・ラマを扇動して反乱を起こさせると、これを平定し、ラサに大臣を駐在させます(1724年)。
駐チベット大臣はダライ・ラマを監督するだけで、チベットをダライ・ラマを利用して間接的に支配しました。
しかし、乾隆帝はチベットで反乱が起き、駐チベット大臣が殺害されると、反乱を鎮圧し、駐チベット大臣に全チベットの政治・軍事の権力を与え、チベットに対する清の支配権を確立します。
ジョークは如何?
第一日目:神は生き物を作り休息した。
第二日目:神は男を作り休息した。
第三日目:神は女を作った。
その時以来神と男は休息をとるひまはない。
続く・・・
2 モンゴル・トルキスタン・チベット②

アルタン・ハーン(Altan Qaγan、中国語:俺答汗、モンゴル語:Алтан Хаан、1507年 - 1582年1月)
清が興ると、太宗(ホンタイジ)は内モンゴルのチャハル部を服属させましたが(1635年)、外モンゴルのカルカ部は独立を維持していました。
西北モンゴルに拠ったオイラート部は、エセン・ハンの死後(1454年)次第に衰え、又タタール部のアルタン・ハンに討たれ(1552年)更に衰えますが、17世紀に入るとオイラートの一部族でシル川流域を本拠とするジュンガル部が強大となり、ガルダン・ハンの時代に最盛期を迎えました。

ガルダン・ハーン(モンゴル語:Галдан хаан、中国語:噶尔丹 汗、1644年 - 1697年)
ガルダン・ハン(1644年~97年、在位1671年~97年)は、当初チベット、ラサのダライ・ラマのもとで僧として修行を重ねましたが、兄の死後(1671年)ダライ・ラマの援助を受けて帰国を果たし、即位すると、たちまち部族を統一して全オイラート部の指導者となり、東トルキスタン(回部)を服属させ、青海・チベットをも勢力下に置きました(1677年)。
ガルダン・ハンは、更に全モンゴル統一を意図し、外モンゴルカルカ部に侵入し、これを撃ち破って外モンゴルも支配下に置きます(1688)年。
カルカ部は清朝に保護を求め、以後清朝に服属する発端と成りました。

康煕帝は、北京を目指して進攻するガルダン・ハンを内モンゴルで撃破し(1690年)、敗れたガルダン・ハンは再起を図りますが、漠北に親征した康煕帝に再びクーロン(現在のウランバートル)で壊滅的な打撃を受け(1696年)、翌年自ら命を絶ちます。
雍正帝は、オイラート部がダライ・ラマを扇動してチベットで反乱を起こさせると、これを平定してチベットに大臣を駐在させます(1724年)。
乾隆帝は、ジュンガル部の内紛に乗じてこれを征服し(1758年)、その領域を準部とした上に翌年には回部(天山山脈以南にすむウイグル人の居住地を指した呼称)を平定し(1759年)、準部と回部を併せて新疆(新領土の意味)と呼称します(新疆省の設置は1882年)。
チベットでは、7世紀に建国された吐蕃が9世紀後半頃から分裂し、以後数世紀にわたって諸侯が割拠する情勢と成りました。
チベット仏教(ラマ教)は、元朝で保護され、明代になっても優遇されて教理も総て堕落し、14世紀末にツォンカパが現れると堕落したラマ教を改革して黄帽派を開闢します。

タンカに描かれたツォンカパ(1357年~1419年)
ツォンカパ(1357年~1419年)は、青海に生まれ、7歳で出家し、16歳乃至17歳頃にチベットに赴いて諸寺院で学んだものの、旧来からのラマ教の堕落を激しく非難し、36歳頃にそれまでのラマ教の紅帽派(黄帽派成立以前のラマ教の諸宗派の総称)を改革して、飲酒・妻帯の厳禁等、厳しい戒律と徳行を主張して黄帽派を開きました。

ダライ・ラマ1世(ゲンドゥン・トゥプ)・1391年〜1474年
ラマ教(黄帽派)の教主はダライ・ラマと呼ばれ、ここでダライは「海」、ラマは「師」の意味で、ダライ・ラマはチベットにおける宗教・政治の最高権力者で、更にラマ教ではダライ・ラマは活仏と考えられました。
活仏とはラマ教の高僧の生まれ変わり、いわゆる転生ラマを意味し、黄帽派では妻帯を厳禁したので、この活仏を教権継承の方法と結びつけて制度化しました。
ダライ・ラマが、生前に予言した転生の方角にその後1年以内に生まれた幼児の内から、神託や夢占い・故人の言行・遺品等を頼りに条件の合う者を選んで転生者としました。
初代ダライ・ラマは、ツォンカパの弟子で、以後のダライ・ラマもツォンカパの弟子の転生者として継承されてきました。
現在のダライ・ラマは、14世で、1959年のチベット反乱の際インドに亡命し現在に至っていますが、1989年にはノーベル平和賞を受賞しており、又ダライ・ラマに次ぐラマ教の副教主は、パンチェン・ラマ(偉大なる学僧の意味)と呼ばれます。

チベット:ダライ・ラマ法王日本代表日事務所公式ページより
清朝がチベットを平定したのは、康煕帝の晩年のことでした。
自害したガルダン・ハンの甥が再びオイラート部を統一し、チベットに侵入してラサを占領します。この報に接した康煕帝はチベットに遠征軍を派遣し、ジュンガル兵を追放してチベットを平定し(1720年)、更に雍正帝は、青海のオイラートがダライ・ラマを扇動して反乱を起こさせると、これを平定し、ラサに大臣を駐在させます(1724年)。
駐チベット大臣はダライ・ラマを監督するだけで、チベットをダライ・ラマを利用して間接的に支配しました。
しかし、乾隆帝はチベットで反乱が起き、駐チベット大臣が殺害されると、反乱を鎮圧し、駐チベット大臣に全チベットの政治・軍事の権力を与え、チベットに対する清の支配権を確立します。
ジョークは如何?
第一日目:神は生き物を作り休息した。
第二日目:神は男を作り休息した。
第三日目:神は女を作った。
その時以来神と男は休息をとるひまはない。
続く・・・
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コメント
寒さが戻りましたが、
湯歩道の土手にはたくさんの土筆の姿が見られ、
沈丁花の花が満開になり、良い香りが漂っています。
早咲きの八重桜も、タンポポやホトケノザ等春の七草も
咲きだしました。
まさに春になったようです。
2016-03-10 23:27 葉山左京 URL 編集
今日は朝から東日本大震災から5年と言うことで、
各局放映していますが、
原発再稼働反対、原発全面的に廃止の取材はありませんでした。
政府は原発事故の怖さを無視して、
再稼働に力を注いでいますね。
困った安倍内閣ですね。
2016-03-11 21:12 葉山左京 URL 編集
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2016-03-11 23:28 編集
葉山左京様、こんばんは。
気温も低めで、肌寒く、本当に安定したお天気は、望めません。
東北の震災から5年、未だ未だ爪痕の残る被災地の姿は、辛いものが在ります。
2016-03-12 00:04 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-03-12 23:07 編集