歴史を歩く179
国・北九州市は、開発予定地を遺跡公園として整備を!
1800年前の弥生期集落後が残る、城野(じょうの)遺跡を保存しましょう!
24 中国の隣接地域の変遷③
3 朝鮮
高麗(918年~1392年)は、13世紀にモンゴルの侵入を受け、1259年以来モンゴル(元)に服属し、その属国と成りますが、14世紀に入ると倭寇の侵入が激しくなり、高麗はその対策に苦しみ、国力はますます衰退していきます。

恭愍王と1365年に他界した妻の魯国公主
高麗の恭愍王(高麗第31代の王、在位1352年~74年)は、即位すると親元勢力を粛清し、元に反旗をひるがえして朝鮮北部を奪回しました。
1368年、中国で明朝が成立し、元をモンゴル高原に退けると、恭愍王は明に属することを表明したものの宦官によって殺害され、次王辛ぐう(在位1374年~88年)が即位すると、国策は一変し、高麗は再び元(北元)に服属することになります。
高麗は、1388年に大軍を送り、明との戦いを始め、このとき李成桂も数万の軍を率いて遼東に向かいますが、高麗軍には厭戦気分が強く、逃亡する者が続出しる結果に成りました。

李 成桂(イ・ソンゲ、太祖 康献大王 忠粛王4年10月11日(1335年10月28日) - 太宗8年5月24日(1408年6月18日)
明と戦うことに反対であった李成桂は、進軍の中止を決意し、軍を返して首都開城に入り、クーデターを断行して国王を廃し、その子の辛昌(在位1388年~89年)を擁立し、親元派の高官を追放します(1388年)。
李成桂(太祖、1355年~1408年、在位1392年~98年)は、高麗に仕えて武将となり、元末に起こった紅巾の乱の一部が2回にわたって高麗に侵入すると(1359年・1361年、2回目の時は開城を陥れた)、紅巾軍の撃退に大功を立てて頭角を著し、又当時激しくなった倭寇の討伐にも功績を上げます。
特に1380年に半島南部深く侵入してきた倭寇と戦い、これに大勝すると彼の名声は益々上がります。
政治の実権を握った李成桂は、親明政策を執るとともに、田制の改革を断行し、先ず検地を実施し、公私の古い土地台帳を焼却して新たに科田法を実施しました(1391年)。
科田法は、高麗時代の王侯・貴族・高官等の私有地であった農荘(私有地、荘園)を没収し、王族・官僚にはその地位に応じて科田を給し、兵士には軍田を支給する田制です。
この間、李成桂は国王の辛昌を廃し、恭譲王(高麗第34代・最後の王、在位1389年~92年、94年に暗殺)を擁立しますが、田制の改革に成功した彼は部下に推されて、恭譲王にかわって国王の位につき、李氏朝鮮(李朝、1392年~1910年)を建国しました。
太祖(李成桂、在位1392年~98年)は、即位すると国号を朝鮮と改め(1393年)、翌年には漢陽(ソウル)に遷都し、又高麗時代の仏教に代わって儒教(朱子学)を官学に定め、明制に倣って官僚制を強化しました。
太祖は在位7年で、子の定宗に譲位し、定宗は在位2年で弟の太宗に代わっています。
太宗(在位1401年~1418年)は、太祖をたすけて建国に大功が在り、即位後は王権の強化を図り、李朝の支配体制を確立しました。
官制を整備し、学問を奨励し、世界史上最初の銅活字を作らせて書物の印刷を盛んにします。
太宗は在位18年で、子の世宗に譲位しています。

世宗(セジョン、洪武30年4月10日(1397年5月7日) - 景泰元年4月8日(1450年5月18日))
李朝第4代の王、世宗(在位1418年~50年)は若い頃から英明で学を好み、在位32年間を通じて常に政治に意を用いたので国内は良く治まり、李朝第1の名君とされ、韓国の1万ウォン紙幣にその肖像が印刷されています。
世宗の功績のうち最も重要な事象は、訓民正音(ハングル)の制定(1446年公布)で、訓民正音は音標文字で、母音・子音計28字(現在は母音10字、子音14字の24字)の組み合わせで出来ている朝鮮文字です。
又内政では、田制の改革・農業の奨励・儒教の保護と仏教の抑圧・銭貨の鋳造とその通用等に努め、対外的には倭寇の本拠地である対馬の攻撃等を行っています。

世祖(セジョ、永楽15年9月29日(1417年11月7日) - 成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日 - 1468年9月7日)
世宗の後、文宗・端宗を経て世祖(李朝第7代の王、在位1455年~68年)が即位しました。
世祖は甥の端宗から王位を簒奪して即位しましたが、在位13年間、文武両面に優れた業績を残しました。
李朝は、太宗から世祖に至る約70年間に最盛期を現出し、李朝の政治を動かしたのは、高麗に始まり李朝で確立した政治的・社会的特権階級である両班(やんばん)でした。
両班の上層は大土地所有者で官僚、中層は官僚、下層には官僚でない中小土地所有者が多数を占めていました。

両班の特権
李朝の官僚は、文班(東班)と武班(西班)に分けられていたので、これを併せて両班(両は二つの意味)と称し、両班は種々の特権を持ち、官職や官僚を独占、李朝の官僚はその地位に応じて一定の土地を与えられ、両班は儒教の教養を身につけて科挙に合格して官僚となり、立身出世して土地を手に入れることを目的としました。
李朝では15世紀末頃から16世紀中頃にかけて、「士禍」と呼ばれる党争が激しくなります。
士禍は、新興の士林(両班の地方新興勢力で、儒教振興策に乗じて中央に進出した)と特権官僚(守旧派)の間に起こった党争で、士林側がしばしば弾圧されました。
士林派と守旧派間の激しい抗争の中で、有力な大官のもとに多くの人々が結集して「朋党」が組織され、16世紀後半には官界に2つの党派「東人」と「西人」が生まれ、あらゆる官僚・士林はどちらかの派に属して激しい党争を展開します。

壬辰の倭乱(文禄の役)蔚山城の戦い
李朝内で激しい党争が展開されていた時期に最大の国難が降りかかってきます。
豊臣秀吉の朝鮮侵略です。
壬辰の倭乱(1592年~93年、日本では文禄の役)と丁酉(ていゆう)の倭乱(1597年~98年、日本では慶長の役)によって、朝鮮全土が戦場と化し、日本・朝鮮・明の大軍が激突し、都市も農村も全く荒廃し、李朝は急速に衰退に向い、又明にとっても朝鮮へ大軍を送ったことから財政窮乏が増々激しくなり、明滅亡の大きな原因となりました。

丁酉の倭乱(慶長の役)順天城の戦い
豊臣秀吉の朝鮮侵略に際し、水軍(海軍)を強化して日本水軍を徹底的に撃破した人物が、名将李舜臣(1545年~98年)です。
李舜臣は有名な亀甲船(甲板を覆い、船底にひそんだ兵士が火砲を放つ、亀の甲羅の形をした装甲軍艦)を主力とした水軍を率いて奮戦し、日本水軍を撃破して日本の補給を断ち、日本の戦争継続を断念させますが、李舜臣は最後の海戦で流れ弾に当たって戦死し、国民的英雄である李舜臣の像は各地に建てられています。

李舜臣将軍の亀甲船、秀吉の倭軍を閑山島沖で撃破
豊臣秀吉の侵略は、李舜臣の活躍・明の援軍・民衆の義兵の活躍によって何とか切り抜けることができましたが、李朝ではその後も党争が続き、又16世紀後半以後中国東北地方で女真族が台頭すると、女真族・清軍の侵入に苦しむ結果となり、李朝は1636年に清に服属しました。
ジョークは如何?
世界で最も広い国はポーランドである。
領土は欧州に、首都はモスクワに、国民はシベリアにいる。
続く・・・
1800年前の弥生期集落後が残る、城野(じょうの)遺跡を保存しましょう!
24 中国の隣接地域の変遷③
3 朝鮮
高麗(918年~1392年)は、13世紀にモンゴルの侵入を受け、1259年以来モンゴル(元)に服属し、その属国と成りますが、14世紀に入ると倭寇の侵入が激しくなり、高麗はその対策に苦しみ、国力はますます衰退していきます。

恭愍王と1365年に他界した妻の魯国公主
高麗の恭愍王(高麗第31代の王、在位1352年~74年)は、即位すると親元勢力を粛清し、元に反旗をひるがえして朝鮮北部を奪回しました。
1368年、中国で明朝が成立し、元をモンゴル高原に退けると、恭愍王は明に属することを表明したものの宦官によって殺害され、次王辛ぐう(在位1374年~88年)が即位すると、国策は一変し、高麗は再び元(北元)に服属することになります。
高麗は、1388年に大軍を送り、明との戦いを始め、このとき李成桂も数万の軍を率いて遼東に向かいますが、高麗軍には厭戦気分が強く、逃亡する者が続出しる結果に成りました。

李 成桂(イ・ソンゲ、太祖 康献大王 忠粛王4年10月11日(1335年10月28日) - 太宗8年5月24日(1408年6月18日)
明と戦うことに反対であった李成桂は、進軍の中止を決意し、軍を返して首都開城に入り、クーデターを断行して国王を廃し、その子の辛昌(在位1388年~89年)を擁立し、親元派の高官を追放します(1388年)。
李成桂(太祖、1355年~1408年、在位1392年~98年)は、高麗に仕えて武将となり、元末に起こった紅巾の乱の一部が2回にわたって高麗に侵入すると(1359年・1361年、2回目の時は開城を陥れた)、紅巾軍の撃退に大功を立てて頭角を著し、又当時激しくなった倭寇の討伐にも功績を上げます。
特に1380年に半島南部深く侵入してきた倭寇と戦い、これに大勝すると彼の名声は益々上がります。
政治の実権を握った李成桂は、親明政策を執るとともに、田制の改革を断行し、先ず検地を実施し、公私の古い土地台帳を焼却して新たに科田法を実施しました(1391年)。
科田法は、高麗時代の王侯・貴族・高官等の私有地であった農荘(私有地、荘園)を没収し、王族・官僚にはその地位に応じて科田を給し、兵士には軍田を支給する田制です。
この間、李成桂は国王の辛昌を廃し、恭譲王(高麗第34代・最後の王、在位1389年~92年、94年に暗殺)を擁立しますが、田制の改革に成功した彼は部下に推されて、恭譲王にかわって国王の位につき、李氏朝鮮(李朝、1392年~1910年)を建国しました。
太祖(李成桂、在位1392年~98年)は、即位すると国号を朝鮮と改め(1393年)、翌年には漢陽(ソウル)に遷都し、又高麗時代の仏教に代わって儒教(朱子学)を官学に定め、明制に倣って官僚制を強化しました。
太祖は在位7年で、子の定宗に譲位し、定宗は在位2年で弟の太宗に代わっています。
太宗(在位1401年~1418年)は、太祖をたすけて建国に大功が在り、即位後は王権の強化を図り、李朝の支配体制を確立しました。
官制を整備し、学問を奨励し、世界史上最初の銅活字を作らせて書物の印刷を盛んにします。
太宗は在位18年で、子の世宗に譲位しています。

世宗(セジョン、洪武30年4月10日(1397年5月7日) - 景泰元年4月8日(1450年5月18日))
李朝第4代の王、世宗(在位1418年~50年)は若い頃から英明で学を好み、在位32年間を通じて常に政治に意を用いたので国内は良く治まり、李朝第1の名君とされ、韓国の1万ウォン紙幣にその肖像が印刷されています。
世宗の功績のうち最も重要な事象は、訓民正音(ハングル)の制定(1446年公布)で、訓民正音は音標文字で、母音・子音計28字(現在は母音10字、子音14字の24字)の組み合わせで出来ている朝鮮文字です。
又内政では、田制の改革・農業の奨励・儒教の保護と仏教の抑圧・銭貨の鋳造とその通用等に努め、対外的には倭寇の本拠地である対馬の攻撃等を行っています。

世祖(セジョ、永楽15年9月29日(1417年11月7日) - 成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日 - 1468年9月7日)
世宗の後、文宗・端宗を経て世祖(李朝第7代の王、在位1455年~68年)が即位しました。
世祖は甥の端宗から王位を簒奪して即位しましたが、在位13年間、文武両面に優れた業績を残しました。
李朝は、太宗から世祖に至る約70年間に最盛期を現出し、李朝の政治を動かしたのは、高麗に始まり李朝で確立した政治的・社会的特権階級である両班(やんばん)でした。
両班の上層は大土地所有者で官僚、中層は官僚、下層には官僚でない中小土地所有者が多数を占めていました。

両班の特権
李朝の官僚は、文班(東班)と武班(西班)に分けられていたので、これを併せて両班(両は二つの意味)と称し、両班は種々の特権を持ち、官職や官僚を独占、李朝の官僚はその地位に応じて一定の土地を与えられ、両班は儒教の教養を身につけて科挙に合格して官僚となり、立身出世して土地を手に入れることを目的としました。
李朝では15世紀末頃から16世紀中頃にかけて、「士禍」と呼ばれる党争が激しくなります。
士禍は、新興の士林(両班の地方新興勢力で、儒教振興策に乗じて中央に進出した)と特権官僚(守旧派)の間に起こった党争で、士林側がしばしば弾圧されました。
士林派と守旧派間の激しい抗争の中で、有力な大官のもとに多くの人々が結集して「朋党」が組織され、16世紀後半には官界に2つの党派「東人」と「西人」が生まれ、あらゆる官僚・士林はどちらかの派に属して激しい党争を展開します。

壬辰の倭乱(文禄の役)蔚山城の戦い
李朝内で激しい党争が展開されていた時期に最大の国難が降りかかってきます。
豊臣秀吉の朝鮮侵略です。
壬辰の倭乱(1592年~93年、日本では文禄の役)と丁酉(ていゆう)の倭乱(1597年~98年、日本では慶長の役)によって、朝鮮全土が戦場と化し、日本・朝鮮・明の大軍が激突し、都市も農村も全く荒廃し、李朝は急速に衰退に向い、又明にとっても朝鮮へ大軍を送ったことから財政窮乏が増々激しくなり、明滅亡の大きな原因となりました。

丁酉の倭乱(慶長の役)順天城の戦い
豊臣秀吉の朝鮮侵略に際し、水軍(海軍)を強化して日本水軍を徹底的に撃破した人物が、名将李舜臣(1545年~98年)です。
李舜臣は有名な亀甲船(甲板を覆い、船底にひそんだ兵士が火砲を放つ、亀の甲羅の形をした装甲軍艦)を主力とした水軍を率いて奮戦し、日本水軍を撃破して日本の補給を断ち、日本の戦争継続を断念させますが、李舜臣は最後の海戦で流れ弾に当たって戦死し、国民的英雄である李舜臣の像は各地に建てられています。

李舜臣将軍の亀甲船、秀吉の倭軍を閑山島沖で撃破
豊臣秀吉の侵略は、李舜臣の活躍・明の援軍・民衆の義兵の活躍によって何とか切り抜けることができましたが、李朝ではその後も党争が続き、又16世紀後半以後中国東北地方で女真族が台頭すると、女真族・清軍の侵入に苦しむ結果となり、李朝は1636年に清に服属しました。
ジョークは如何?
世界で最も広い国はポーランドである。
領土は欧州に、首都はモスクワに、国民はシベリアにいる。
続く・・・
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コメント
晴れた青空ですが今日の日曜は風が冷たく、
春が遠のくようです。
それでも土筆が生え、
カラスノエンドウのかわいいピンクの花が川の土手に咲いています。
少し草花を見ないといつの間にか花が咲き、
季節が変わるようになりました。
風邪をひき薬を飲んで早く今夜は寝ます。
2016-03-13 21:36 葉山左京 URL 編集
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2016-03-13 23:45 編集
葉山左京様、こんばんは。
気温もあまり上がらず、暖房器具のお世話になりました。
そのようなお天気なので、思い切ってWindows10にアップグレードしました。
未だ不慣れな面が多いのですが、サクサクと気持ちよく動きます。
7時代の設定は、すべてそのままなので、戸惑いは在りませんし、周辺機材もすべて問題なく稼働しています。
これからあたらしい機能に慣れようにしていきます。
2016-03-14 23:07 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-03-14 23:16 編集
急激な冷たい北風と寒さが体力を奪っていくようです。
風邪が少し長引きそうで、
気が滅入ります。
私もWindows10にアップグレードしましたので、
以前より遥かに快適に作業できるようになりました。
今ではアップグレードしてよかったと思っています。
2016-03-15 22:45 葉山左京 URL 編集
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2016-03-15 23:48 編集
寒さも今日までのようで、明日は20℃になるそうで、
春の暖かい日が来るようです。
このまま暖かくなればいいのですが。
京都は今東山花灯路が始まっています。
21日までですが連夜人ばかり、
それも外国の観光客が多いですね。
2016-03-16 20:17 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
その南には、冬の星座オリオン座が西に向かって傾き、季節の移り変わりを実感します。
夕暮れの時刻も19時前迄は、西の空が明るく、確実に日中の時間が伸びています。
もう直ぐお彼岸、暑さ寒さも彼岸迄。
春本番がやって来ます。
2016-03-16 22:31 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-03-16 23:47 編集
いつもありがとうございます。
今日は21℃になり、
春になった暖かさです。
菜の花も咲き、雪小柳が真っ白に咲き、黄色のレンギョウも咲きだしました。
もうあまり寒くはならないでしょうね。
2016-03-17 21:57 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
但し、お天気は下り坂で、明日は雨の1日に成りそうです。
この雨で、菜の花や木蓮が一斉に咲くことになるかもしれません。
春霞に包まれた世界は、何故か子供時代に眺めた風景を思い出してしまいます。
2016-03-17 23:23 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-03-17 23:47 編集
春霞ですか。
幻想的できれいでしょうね!
京都も昼間20℃になりました。
暖かくなってきましたね。
明日は朝12℃の予報で起きるのも楽になります。
桜はもうすぐ花開くようです。
2016-03-18 05:56 葉山左京 URL 編集
Re: タイトルなし
春霞と言えば幻想的な雰囲気ですが、黄砂なのか、大陸からの塵なのか今一つはっきりしません。
此方北九州は昨日、今日の朝と雨模様です。
大変暖かく、木々の新芽も一斉に青い葉を開き始めました。
彼岸桜は地面に薄桃色の絨毯を作り始めました。
お天気は悪いですが、鶯やヒヨドリの鳴き声で、朝を迎えています。
此れから日増しに暖かさが、増して行くことでしょう。
2016-03-19 09:15 秋葉 奈津子 URL 編集