歴史を歩く183
25 トルコ世界とイラン世界③
2オスマン帝国の発展②

スレイマン1世(大帝、1494年~1566年、在位1520年~66年)
オスマン帝国は、セリム1世の子、第10代皇帝スレイマン1世(大帝、1494年~1566年、在位1520年~66年)の時に最盛期を迎えました。
スレイマン大帝は、その治世の間に13回の親征を行い、そのうち10回はハンガリー・オーストリア等ヨーロッパに対してであり、残り3回はアジア(イラン)に対するものでした。
モハッチの戦い(1526年)でハンガリー王を敗死させ、1529年にはウィーンを包囲、結果的にウィーンを陥れることは出来ませんでしたが、このウィーン包囲はヨーロッパに大きな衝撃を与え、その後、スレイマン大帝はカール5世を牽制するために、フランス王フランソワ1世と同盟を結び、この時フランソワ1世にカピトゥレーションを与えました。

モハッチの戦い(1526年)
ここでカピトゥレーションとは、オスマン帝国がフランスを初めとするヨーロッパ諸国に与えたトルコ領内での領事裁判権や租税免除の治外法権や身体・財産・住居・企業の安全を保障した特権のことで、オスマン帝国の衰退につれて西欧諸国から不平等条約を押しつけられる足がかりと成りました。
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プレヴェザの海戦
更にスレイマン大帝は、1538年にはプレヴェザの海戦で(プレヴェザはギリシア西岸の地)スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を撃破し地中海の制海権を掌握、東方ではサファヴィー朝と戦ってメソポタミア南部を奪取、北アフリカではチュニスにも侵攻し、こうしてオスマン帝国は、スレイマン大帝の時に最大の領土を領有し、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる当時の世界最強の国家に成長し、ヨーロッパの政局にも大きな影響を与えたのです。
内政では、行政組織や管理機構を強化し、法典の集大成を行い「立法者」と呼ばれ、又学芸を保護したので独自のトルコ民族文化が発達し、トルコ建築の最高峰といわれるスレイマン寺院等壮麗な寺院が建立されますが、晩年には後宮の影響を受けて奢侈におぼれて財政難や2人の王子の反乱を招き、ハンガリー親征中に没しています。

セリム2世(第11代皇帝、在位1566年~74年)
その後、セリム2世(第11代皇帝、在位1566年~74年)の時代に、オスマン海軍はレパントの海戦(1571年)でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊に敗れて地中海の制海権を喪失しました。

第2次ウィーン包囲
オスマン帝国のヨーロッパに対する優位は17世紀中葉迄続きましたが、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗以後は次第にヨーロッパに対して守勢に回るようになり、更にオスマン帝国は、領内に多くの民族を抱える複合民族国家ですが、非イスラム教徒の異民族に対しては寛大な政策を施行し、異教徒はそれぞれの信仰を認められ、宗教別に共同体(ミッレト)を構成し、ミッレトには大幅な自治が認められました。
又オスマン帝国は、政教両権を握り、強大な権力を持つスルタンを頂点とする軍事的な封建国家で、各地の領主はスルタンから授与された土地に対する徴税権を認められ、その土地の広さに応じて軍事的な義務を負担し(ティマール制、イクター制を継承した制度)、彼らは戦時には軍団を指揮し、平時には地方行政を担当しました。
3サファヴィー朝
ティムール帝国の滅亡後、イランでは長期にわたるトルコ民族支配から脱したイラン人がアケメネス朝(紀元前550年~同330年)・ササン朝(226年~651年)に次ぐ久々のイラン民族国家であるサファヴィー朝(1501年~1736年)を樹立しました。

イスマーイール1世(在位1501年~24年)
サファヴィー朝の創始者であるイスマーイール1世(在位1501年~24年)は、イラン西北部で神秘主義教団教主の子に生まれ、神秘主義(スーフィズム=神との合一の境地を理想とするイスラムの神秘主義)集団のトルクメン7部族の支持によって白羊朝を倒してタブリーズで即位し(1501年)、1510年迄にイラン全土を統一しました。
イスマーイール1世は、ササン朝時代に使われたシャー(ペルシア語で「王」・「支配者」の意味)の称号を用い、イラン人の民族意識の高揚に努めると共に、シーア派の中の十二イマーム派(シーア派の主流をなす穏健派で、アリーとファーティマの直系の12人を真のイマーム(指導者)とする派)を国教とし、スンナ派のオスマン帝国と対立します。

アッバース1世(大帝、在位1587年~1629年)
サファヴィー朝は、第5代のシャー、アッバース1世(大帝、在位1587年~1629年)の時に最盛期を迎えました。
アッバース1世は、国内では建国以来の軍人貴族を抑え、親衛隊を強化して専制君主の地位を確立すると共に、対外的には長年にわたってオスマン帝国と抗争し、アゼルバイシャンとイラクの一部を回復し、又ウズベク族の侵入を阻止しました。

イスファハーンは世界の半分
更に新首都イスファハーンを建設してここに遷都し(1597年)、モスク・宮殿・学院・庭園等が次々に建設された壮麗な都市イスファハーンは、当時のコンスタンティノープルと並び称せられ、「イスファハーンは世界の半分」と云われる程繁栄しました。
1622年にはポルトガル人からホルムズ島を奪回、又イギリス人が初めてイラン宮廷を訪れたのもアッバース1世の時代でした。
しかし、アッバース1世の治世を頂点とし、その後は無能なシャーが続いたためにサファヴィー朝は次第に混乱して衰退に向い、1722年にアフガン人に首都を奪われてまもなく滅亡します(1736年)。
サファヴィー朝では、建築・美術・工芸等に代表されるイラン芸術が最高度に発達し、又独特のシーア派神学が完成されました。
ジョークは如何?
「プラハの春」が終わったばかりの頃の酒場で。
5人の男がいた。彼らはめいめい物思いに耽っていた。
一人は、深くため息をつき、一人は悲しげなうめき声をあげた。一人は絶望したというように首を振り、一人は両目いっぱいに涙を溜めていた。
最後の男が、びっくりして叫んだ。
「おいっ、こんな所で政治を語るのは危険だぜ!」
続く・・・
2オスマン帝国の発展②

スレイマン1世(大帝、1494年~1566年、在位1520年~66年)
オスマン帝国は、セリム1世の子、第10代皇帝スレイマン1世(大帝、1494年~1566年、在位1520年~66年)の時に最盛期を迎えました。
スレイマン大帝は、その治世の間に13回の親征を行い、そのうち10回はハンガリー・オーストリア等ヨーロッパに対してであり、残り3回はアジア(イラン)に対するものでした。
モハッチの戦い(1526年)でハンガリー王を敗死させ、1529年にはウィーンを包囲、結果的にウィーンを陥れることは出来ませんでしたが、このウィーン包囲はヨーロッパに大きな衝撃を与え、その後、スレイマン大帝はカール5世を牽制するために、フランス王フランソワ1世と同盟を結び、この時フランソワ1世にカピトゥレーションを与えました。

モハッチの戦い(1526年)
ここでカピトゥレーションとは、オスマン帝国がフランスを初めとするヨーロッパ諸国に与えたトルコ領内での領事裁判権や租税免除の治外法権や身体・財産・住居・企業の安全を保障した特権のことで、オスマン帝国の衰退につれて西欧諸国から不平等条約を押しつけられる足がかりと成りました。
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プレヴェザの海戦
更にスレイマン大帝は、1538年にはプレヴェザの海戦で(プレヴェザはギリシア西岸の地)スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を撃破し地中海の制海権を掌握、東方ではサファヴィー朝と戦ってメソポタミア南部を奪取、北アフリカではチュニスにも侵攻し、こうしてオスマン帝国は、スレイマン大帝の時に最大の領土を領有し、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる当時の世界最強の国家に成長し、ヨーロッパの政局にも大きな影響を与えたのです。
内政では、行政組織や管理機構を強化し、法典の集大成を行い「立法者」と呼ばれ、又学芸を保護したので独自のトルコ民族文化が発達し、トルコ建築の最高峰といわれるスレイマン寺院等壮麗な寺院が建立されますが、晩年には後宮の影響を受けて奢侈におぼれて財政難や2人の王子の反乱を招き、ハンガリー親征中に没しています。

セリム2世(第11代皇帝、在位1566年~74年)
その後、セリム2世(第11代皇帝、在位1566年~74年)の時代に、オスマン海軍はレパントの海戦(1571年)でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊に敗れて地中海の制海権を喪失しました。

第2次ウィーン包囲
オスマン帝国のヨーロッパに対する優位は17世紀中葉迄続きましたが、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗以後は次第にヨーロッパに対して守勢に回るようになり、更にオスマン帝国は、領内に多くの民族を抱える複合民族国家ですが、非イスラム教徒の異民族に対しては寛大な政策を施行し、異教徒はそれぞれの信仰を認められ、宗教別に共同体(ミッレト)を構成し、ミッレトには大幅な自治が認められました。
又オスマン帝国は、政教両権を握り、強大な権力を持つスルタンを頂点とする軍事的な封建国家で、各地の領主はスルタンから授与された土地に対する徴税権を認められ、その土地の広さに応じて軍事的な義務を負担し(ティマール制、イクター制を継承した制度)、彼らは戦時には軍団を指揮し、平時には地方行政を担当しました。
3サファヴィー朝
ティムール帝国の滅亡後、イランでは長期にわたるトルコ民族支配から脱したイラン人がアケメネス朝(紀元前550年~同330年)・ササン朝(226年~651年)に次ぐ久々のイラン民族国家であるサファヴィー朝(1501年~1736年)を樹立しました。

イスマーイール1世(在位1501年~24年)
サファヴィー朝の創始者であるイスマーイール1世(在位1501年~24年)は、イラン西北部で神秘主義教団教主の子に生まれ、神秘主義(スーフィズム=神との合一の境地を理想とするイスラムの神秘主義)集団のトルクメン7部族の支持によって白羊朝を倒してタブリーズで即位し(1501年)、1510年迄にイラン全土を統一しました。
イスマーイール1世は、ササン朝時代に使われたシャー(ペルシア語で「王」・「支配者」の意味)の称号を用い、イラン人の民族意識の高揚に努めると共に、シーア派の中の十二イマーム派(シーア派の主流をなす穏健派で、アリーとファーティマの直系の12人を真のイマーム(指導者)とする派)を国教とし、スンナ派のオスマン帝国と対立します。

アッバース1世(大帝、在位1587年~1629年)
サファヴィー朝は、第5代のシャー、アッバース1世(大帝、在位1587年~1629年)の時に最盛期を迎えました。
アッバース1世は、国内では建国以来の軍人貴族を抑え、親衛隊を強化して専制君主の地位を確立すると共に、対外的には長年にわたってオスマン帝国と抗争し、アゼルバイシャンとイラクの一部を回復し、又ウズベク族の侵入を阻止しました。

イスファハーンは世界の半分
更に新首都イスファハーンを建設してここに遷都し(1597年)、モスク・宮殿・学院・庭園等が次々に建設された壮麗な都市イスファハーンは、当時のコンスタンティノープルと並び称せられ、「イスファハーンは世界の半分」と云われる程繁栄しました。
1622年にはポルトガル人からホルムズ島を奪回、又イギリス人が初めてイラン宮廷を訪れたのもアッバース1世の時代でした。
しかし、アッバース1世の治世を頂点とし、その後は無能なシャーが続いたためにサファヴィー朝は次第に混乱して衰退に向い、1722年にアフガン人に首都を奪われてまもなく滅亡します(1736年)。
サファヴィー朝では、建築・美術・工芸等に代表されるイラン芸術が最高度に発達し、又独特のシーア派神学が完成されました。
ジョークは如何?
「プラハの春」が終わったばかりの頃の酒場で。
5人の男がいた。彼らはめいめい物思いに耽っていた。
一人は、深くため息をつき、一人は悲しげなうめき声をあげた。一人は絶望したというように首を振り、一人は両目いっぱいに涙を溜めていた。
最後の男が、びっくりして叫んだ。
「おいっ、こんな所で政治を語るのは危険だぜ!」
続く・・・
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コメント
曇り空ですが暑いくらいの気温でした。
遊歩道沿いのピンクの八重の桜も咲きだしましたが、
白に近い薄いピンクは大きな花を咲かせ満開です。
実は大きくなりますが、
花はちいちゃな可憐な花のカリンも満開です。
いたるところにきれいな花が咲いています。
2016-04-10 20:04 葉山左京 URL 編集
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2016-04-11 00:10 編集
葉山左京様、おはようございます。
今度の休みこそ、前庭の草刈をしないと、大変なことに成りそうです。
八重桜が開き始め、ツツジも蕾が目立つように成りました。
ツツジは、市内の街路樹に数多く植えられているので、此れから暫くは、目を楽しませてくれることでしょう。
体調管理にご注意下さい。
2016-04-11 06:22 秋葉 奈津子 URL 編集
急に寒くなりましたね。
燕が飛び交いつつじも少し咲きだしたのに、
こんなに寒くなるなんて、
花冷えとは言えない寒さです。
でも花が咲くことで世の中が明るくなりました!
2016-04-11 21:12 葉山左京 URL 編集
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2016-04-11 23:39 編集
朝は冷え込んでいます。
4℃です。
4月に入ったのに
こんなに冷え込むなんて異常気象でしょうか?
醍醐の山から太陽が今出ようとしています。
今日も晴天のようです。
良い一日でありますように!
2016-04-12 05:52 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
でも、北九州は12度以上ありますの寒い感覚は殆んど在りません。
今、勤務先の駐車場の回りは、遅咲きの八重桜が見頃です。
今日のお昼休み、自分の車に戻って、シートを倒し、パラパラと揺れ落ちる花びらを眺めていました。
この様な時は、格別ゆっくりと時間が流れる様で、1時間の休憩時間が長く感じました。
さて、午後の業務再開とドアを開けると、あちらでも此方でも、人の姿が。
皆考える事は同じですね。
明日は、午後から雨模様、これで桜も散ることでしょう。
2016-04-12 23:44 秋葉 奈津子 URL 編集
月にむら雲、花に嵐と言いますが、
今日の天候はまさに花に嵐のごとくでした。
八重桜も咲きだし、
ハナミズキは満開を迎え、
つつじも少し花を開いてきました。
今の時期、世の中が明るくなります。
これと同じように政治も経済も明るくなるといいのですが。
2016-04-13 21:48 葉山左京 URL 編集
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2016-04-13 23:15 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日の朝は、曇っているのか、朝霧なのか解りませんが、雨は止んでいます。
この時期、チューリップが花を咲かせるのですが、何時も強い風で散ってしまいます。
今回の雨で、ツツジが一斉に開き始めました。
ツツジは長く咲く花なので、此れから目を楽しませてくれます。
季節は春ですが、政治の世界は国内、国外共に冬ですね。
2016-04-14 06:10 秋葉 奈津子 URL 編集
今TVニュースで熊本で震度7の地震ニュースがありました。
北九州ではいかがでしたでしょうか。
被害がなければいいですね。
私は神戸大震災の時京都は震度5.5で大変揺れた経験があるので、
どうかなーと心配でした。
天災は突然にやってくるので怖いですね。
お気を付けください。
2016-04-14 22:33 葉山左京 URL 編集
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2016-04-14 23:42 編集
葉山左京様
幸い此方では、被害も在りませんが、昨晩から今迄で私が感じた余震は5回でした。
これ程余震を感じた、地震は珍しく、先に福岡西方沖地震でもここまでは無かったと記憶しています。
九州は、地震に関しては敏感な地域ですが、今回の地震でも震源地に近い地域では、被害が大きく、更に拡大している様です。
早く沈静化することを祈るのみです。
2016-04-15 08:06 秋葉 奈津子 URL 編集
北九州は被害がないようで良かったですね。
熊本の震源地は被害がかなり拡大していますね。
本当に早く終息してくれることを願うのみです。
今シャクナゲがきれいですね。
つつじも咲いてきて
アヤメ科のシャガも満開です。
2016-04-15 22:01 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日の午前1時半前に大きな揺れが来ました。
それから今迄、6回程度の揺れを感じています。
活断層が動いた直下型地震ですが、これから1週間程度は、強い揺れに用心とのことです。
自然相手では、どうにも成りませんが、1日も早く収束に向かって貰いたいですね。
此方では、ツツジが開き始めました。
芍薬は未だ蕾が見えません。
2016-04-16 08:27 秋葉 奈津子 URL 編集