歴史を歩く184
25 トルコ世界とイラン世界・番外編
日本とトルコ、友好の架け橋となった一つの事件
1 イラン・イラク戦争

イラン・イラク戦争
1985年3月17日、イラン・イラク戦争の最中、当時のサダム・フセイン イラク大統領は「48時間後にイラン領空にいる外国機を無差別攻撃する」と宣言し、各国政府は48時間の執行猶予期間にイランに居る自国民救出の為、飛行機を首都テヘランに派遣させます。

イラン・イラク戦争当時の日本航空機の塗装 ボーイング747SR-46(国内線)
しかし、日本政府は自衛隊機を派遣出来ませんでした。
当時の自衛隊法は、自衛隊の外国における活動を人道目的をも含めて想定しておらず、又、イラン迄ノンストップで飛行できる航空機が配備されていなかったため、自衛隊を派遣する事は事実上不可能でした。
今日、同様の事案が発生した場合には航空自衛隊の日本国政府専用機を、機内の首相執務室や会議室等を撤去し、座席を設置して運用する事と成っています。
加えて当時世界各地に路線網を持っていた、日本航空も乗務員、機材の安全が保証出来ないとして乗務員組合の反対から臨時便を出さず、テヘラン居た日本人215人が孤立する事態に陥りました。
他国の救援機には、自国民分の席の確保がやっとで、日本人215人は警告期限が迫る中、パニックに陥っていました。
(この時、同年8月12日の日本航空123便墜落事故で亡くなった海上自衛隊出身の高濱雅巳機長は、真っ先に救援便の運行乗務員に志願していたと云われています。)

1985年当時のトルコ航空 ボーイング727-200と1番機の機長を務めたオルハン・スヨルジュさん
この様な不足の事態に、在イラン日本大使はトルコ大使に窮状を訴えたところ、「私たちはエルトゥールル号の時の恩を知っています。今こそ恩返しさせていただきます」との言葉で要請を快諾。
トルコ政府の要請を受けたトルコ航空機2機によって215人全員が無事脱出し、トルコ経由で日本に帰国を果たしました。
この時、飛行機がイラン領空を脱出したのは攻撃数時間前と云う、当に間一髪の時間だったのです。
2 オスマン帝国海軍 装甲フリーゲート艦 エルトゥールル号

エルトゥールル号
この邦人テヘラン脱出事件から約100年前の1889年7月14日、当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号は、1887年に行われた小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応える事を目的に、更には航海訓練を兼ねて大日本帝国(当時)へ、皇帝アブデュルハミト2世の命によって派遣されることになりました。

オスマン・パシャと使節団
明治天皇に謁見する為、オスマン・パシャ以下650人の使節団を乗せてイスタンブールを出帆、スエズ運河、インド洋を経由、途中各地のイスラム諸国の歓迎とオスマン帝国の威信をかけて苦難の11ヶ月の航海を乗り切り、1890年6月7日横浜港に到着、天皇へ親書に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として大歓迎を受けました。
しかしながら、今回の航海に使用されたエルトゥールル号は木造船であり、就役から既に25年以上を過ぎ、今回の長距離航海で船体の消耗は激しく、更に資金の欠乏、乗組員の間に発生したコレラの問題もあり、出航が伸びていました。

アブデュルハミト2世
日本政府は船体の消耗の激しさと台風の多い季節である9月を避ける様、トルコ側に忠告します。
しかし、エルトゥールル号が派遣されたもう一つの理由として、インド・東南アジアのイスラム国家にイスラムの盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の強い意志が在り、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためとも云われています。

遭難
9月15日に横浜港を出港し、帰国の途に就いたエルトゥールル号ですが、翌16日21時頃和歌山県串本沖を航行中、折からの台風に遭い座礁、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半頃に沈没、650人の内オスマン・パシャを含む587人が死亡するという大惨事に成りました。
3 嵐の中の救助作業

樫野崎灯台
事故後、生存者が崖を攀じ登り、近くの樫野崎灯台に駆け込み灯台守に助けを求めますが、灯台守は応急手当を行うものの、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難し艦船がオスマン帝国海軍軍艦である事を初めて知りました。
灯台守の知らせを受けた近くの大島村の住民達は、暴風雨の中総出で救助活動と介抱を行い、村の学校や寺に運び乗組員達に着物を着せ、台風の為漁にでることも出来ず、残り僅かだった自分達の食料や非常食として飼われていた鶏を与える等、献身的に看病した結果69人が生還を果たしましたが、残る587名は死亡若しくは行方不明と成りました。
翌朝、事故の知らせを聞いた大島村の村長は、神戸の外国公館に乗組員を神戸の病院に搬送する手配を要請し、生存者は一旦神戸の病院に入院します。
合わせて、和歌山県を通じて日本政府に連絡し、これを聞いた明治天皇は心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示を出し、又新聞各紙が大々的に報じ、全国から弔慰金や義捐金が送られました。
4 帰還・その後
救助された69人は一旦東京へ向かい、事故から20日後の10月5日に大日本帝国海軍のコルベット艦「比叡」と「金剛」(共に初代)に乗り帰国、1891年1月2日イスタンブールに到着しました。
尚この2隻の内、「比叡」には秋山 真之が海兵17期生少尉候補生として乗り組んでいます。

秋山 真之
事故はオスマン帝国本国でも大きく取り上げられ、救助に全力を尽くした大島村民と日本政府に対して、オスマン国民は感謝と共に遠い日本に対し好印象を抱く結果となり、これがトルコを親日国とした事件と云われ、代々トルコ国民の間で語り継がれるように成りました。
_convert_20160415221033.jpg)
エルトゥールル号遭難事件
しかし、日本人で事故のことを知る者は地元の串本町民以外殆どおらず、長らく公に出ることは在りませんでしたが、今世紀に入って事故の話が前述の逸話と共に紹介されるようになり、昨年「海難1890」として映画化される迄に成りました。
ジョークは如何?
日本軍内のジョーク
「サンボウ」とは何か?
無謀
乱暴
凶暴
の三つを併せ持った軍人の意
続く・・・
日本とトルコ、友好の架け橋となった一つの事件
1 イラン・イラク戦争

イラン・イラク戦争
1985年3月17日、イラン・イラク戦争の最中、当時のサダム・フセイン イラク大統領は「48時間後にイラン領空にいる外国機を無差別攻撃する」と宣言し、各国政府は48時間の執行猶予期間にイランに居る自国民救出の為、飛行機を首都テヘランに派遣させます。

イラン・イラク戦争当時の日本航空機の塗装 ボーイング747SR-46(国内線)
しかし、日本政府は自衛隊機を派遣出来ませんでした。
当時の自衛隊法は、自衛隊の外国における活動を人道目的をも含めて想定しておらず、又、イラン迄ノンストップで飛行できる航空機が配備されていなかったため、自衛隊を派遣する事は事実上不可能でした。
今日、同様の事案が発生した場合には航空自衛隊の日本国政府専用機を、機内の首相執務室や会議室等を撤去し、座席を設置して運用する事と成っています。
加えて当時世界各地に路線網を持っていた、日本航空も乗務員、機材の安全が保証出来ないとして乗務員組合の反対から臨時便を出さず、テヘラン居た日本人215人が孤立する事態に陥りました。
他国の救援機には、自国民分の席の確保がやっとで、日本人215人は警告期限が迫る中、パニックに陥っていました。
(この時、同年8月12日の日本航空123便墜落事故で亡くなった海上自衛隊出身の高濱雅巳機長は、真っ先に救援便の運行乗務員に志願していたと云われています。)

1985年当時のトルコ航空 ボーイング727-200と1番機の機長を務めたオルハン・スヨルジュさん
この様な不足の事態に、在イラン日本大使はトルコ大使に窮状を訴えたところ、「私たちはエルトゥールル号の時の恩を知っています。今こそ恩返しさせていただきます」との言葉で要請を快諾。
トルコ政府の要請を受けたトルコ航空機2機によって215人全員が無事脱出し、トルコ経由で日本に帰国を果たしました。
この時、飛行機がイラン領空を脱出したのは攻撃数時間前と云う、当に間一髪の時間だったのです。
2 オスマン帝国海軍 装甲フリーゲート艦 エルトゥールル号

エルトゥールル号
この邦人テヘラン脱出事件から約100年前の1889年7月14日、当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号は、1887年に行われた小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応える事を目的に、更には航海訓練を兼ねて大日本帝国(当時)へ、皇帝アブデュルハミト2世の命によって派遣されることになりました。

オスマン・パシャと使節団
明治天皇に謁見する為、オスマン・パシャ以下650人の使節団を乗せてイスタンブールを出帆、スエズ運河、インド洋を経由、途中各地のイスラム諸国の歓迎とオスマン帝国の威信をかけて苦難の11ヶ月の航海を乗り切り、1890年6月7日横浜港に到着、天皇へ親書に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として大歓迎を受けました。
しかしながら、今回の航海に使用されたエルトゥールル号は木造船であり、就役から既に25年以上を過ぎ、今回の長距離航海で船体の消耗は激しく、更に資金の欠乏、乗組員の間に発生したコレラの問題もあり、出航が伸びていました。

アブデュルハミト2世
日本政府は船体の消耗の激しさと台風の多い季節である9月を避ける様、トルコ側に忠告します。
しかし、エルトゥールル号が派遣されたもう一つの理由として、インド・東南アジアのイスラム国家にイスラムの盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の強い意志が在り、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためとも云われています。

遭難
9月15日に横浜港を出港し、帰国の途に就いたエルトゥールル号ですが、翌16日21時頃和歌山県串本沖を航行中、折からの台風に遭い座礁、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半頃に沈没、650人の内オスマン・パシャを含む587人が死亡するという大惨事に成りました。
3 嵐の中の救助作業

樫野崎灯台
事故後、生存者が崖を攀じ登り、近くの樫野崎灯台に駆け込み灯台守に助けを求めますが、灯台守は応急手当を行うものの、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難し艦船がオスマン帝国海軍軍艦である事を初めて知りました。
灯台守の知らせを受けた近くの大島村の住民達は、暴風雨の中総出で救助活動と介抱を行い、村の学校や寺に運び乗組員達に着物を着せ、台風の為漁にでることも出来ず、残り僅かだった自分達の食料や非常食として飼われていた鶏を与える等、献身的に看病した結果69人が生還を果たしましたが、残る587名は死亡若しくは行方不明と成りました。
翌朝、事故の知らせを聞いた大島村の村長は、神戸の外国公館に乗組員を神戸の病院に搬送する手配を要請し、生存者は一旦神戸の病院に入院します。
合わせて、和歌山県を通じて日本政府に連絡し、これを聞いた明治天皇は心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示を出し、又新聞各紙が大々的に報じ、全国から弔慰金や義捐金が送られました。
4 帰還・その後
救助された69人は一旦東京へ向かい、事故から20日後の10月5日に大日本帝国海軍のコルベット艦「比叡」と「金剛」(共に初代)に乗り帰国、1891年1月2日イスタンブールに到着しました。
尚この2隻の内、「比叡」には秋山 真之が海兵17期生少尉候補生として乗り組んでいます。

秋山 真之
事故はオスマン帝国本国でも大きく取り上げられ、救助に全力を尽くした大島村民と日本政府に対して、オスマン国民は感謝と共に遠い日本に対し好印象を抱く結果となり、これがトルコを親日国とした事件と云われ、代々トルコ国民の間で語り継がれるように成りました。
_convert_20160415221033.jpg)
エルトゥールル号遭難事件
しかし、日本人で事故のことを知る者は地元の串本町民以外殆どおらず、長らく公に出ることは在りませんでしたが、今世紀に入って事故の話が前述の逸話と共に紹介されるようになり、昨年「海難1890」として映画化される迄に成りました。
ジョークは如何?
日本軍内のジョーク
「サンボウ」とは何か?
無謀
乱暴
凶暴
の三つを併せ持った軍人の意
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2016-04-15 23:18 編集
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2016-04-16 21:27 編集
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2016-04-17 21:54 編集
熊本の地震が拡大していますね。
九州全域に及んでいるようです。
北九州は地震の影響はありませんでしょうか。
熊本の被害は計り知れないほどの被害のようで心を痛めております。
少しでも役に立てばと寄付を考えています。
地震が早く収まり終息してほしいですね。
2016-04-17 22:43 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
北九州と鹿児島方面を結ぶ、主要幹線が壊滅しているため、鹿児島に物資を送ることが出来ず、又トラックの手配も、宅急便も南部への送り込みが一切出来ません。
主要幹線道路も熊本に近づくと、災害派遣車両や救援物資輸送車両が最優先されるため、思う様に車両の掌握さえ出来なく成っています。
体に感じる地震の数は、減っていますが、揺れの中心が東に移動しており、山口県沖の周防灘でも地震が発生しています。
此れは、熊本県、大分県、福岡県、山口県に連なる活断層の影響です。
この様に揺れが続くと、神経的な疲労が蓄積しています。
地震だけでも、終息して貰いたいものです。
2016-04-17 22:54 秋葉 奈津子 URL 編集
今回の熊本を発生源の地震の規模は、
大規模な地震に発展しましたね。
今日の地震情報は少し間が開くようになった気がします。
終息の気配がする感じです。
早く終息しないと救援物資も届かない状態になりますね。
被害者の方に早く立ち直っていただきたいですね。
2016-04-18 21:50 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-04-18 22:20 編集
昨日と変わって青空が望めそうです。
醍醐の山の頂からもうすぐ太陽が顔を出すでしょう。
今日は暑くなりそうです。
4月も花見シーズと思っていたら、
もう下旬になります。
早く過ぎていく時を思うと、
その分自身が年を取った証拠でしょうか。
2016-04-19 05:58 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
此方も風は凄かったです。
残っていた桜も総て散ってしまいましたが、今度はツツジが至る処で花を開いています。
私の自宅の周辺でも、家庭菜園に被害が出て、復旧作業が進んでいます。
日の出の位置が、随分と北側に移動して、午前6時前には散歩出来る位明るくなりました。
地震はやっと有感地震の回数が減ってきましたが、熊本県の状況は変わりません。
2016-04-19 08:36 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-04-19 23:13 編集
今街路樹のハナミズキが満開できれいです。
自動車ばかりの街路に、
ハナミズキの白や、ピンクに赤などが映えます。
ツツジも京都では咲きだしました。
今の時期はどこへ行っても花がきれいです。
心が休まります。
2016-04-20 22:02 葉山左京 URL 編集
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2016-04-20 23:07 編集
桜の季節は過ぎようとしていますが、
近くの遊歩道沿いの八重桜は満開です。
多くの道行く人が携帯などで写真を撮っています。
今日は雨の予報で、雨が降れば散ってしまいそうです。
来週末ごろから連休に入りますね。
もうこんな時期です。
2016-04-21 05:54 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
先日、草刈をした庭が、もう薄らと緑色に見えます。
今回の雨で、木々の若葉が一斉に開いた様で、庭の空間が緑で覆われ始めました。
4月も終盤に入り、寒い日々とはお別れ出来そうです。
今年の連休は、自粛ムードの連休になりますね。
一時連休を連呼していたCMは、九州では放映されいません。
今回のGWは静かなお休みに成りそうです。
2016-04-21 06:19 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-04-21 23:25 編集
今はどこもツツジがきれいになりました。
道路沿いも、家庭の庭にも赤に、白にピンクのきれいな花が咲いています。
小てまりやヒメジョオンの花もきれいです。
モンシロチョウやアゲハチョウも飛び交いだしました。
もう初夏の気温でしょうか、
明日は26度の予報です。
一気に気温が上がってきましたね。
2016-04-22 21:20 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
北九州でも、暖房器具は、そろそろ片付けて良い頃です。
この時期、衣類の調整が難しいですね。
午前中と午後の温度差が大きく、本当に悩みます。
今日からお天気も下り坂です。
ツツジはこれから暫くは、見頃が続きます。
蜜を求めて、ミツバチや蝶が舞っている姿を良く見かける様に成りました。
2016-04-23 06:28 秋葉 奈津子 URL 編集