2016/04/22

歴史を歩く185

26 ムガール帝国

1ムガール帝国の建設と発展

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バーブル(1483年~1530年、在位1526年~30年)

 北インドでは、13世紀初頭から、デリーを都とする5つのイスラム王朝が相次ぎます(デリー・スルタン朝、1206年~1526年)。

 デリー・スルタン朝最後のロディ朝(1451年~1526年)末期に、中央アジアからティムールの子孫であるバーブルが西北インドに侵入します。
バーブル(1483年~1530年、在位1526年~30年)は、ティムールから数えて5代目の直系の子孫で、母方でチンギス・ハンの血を引くと云われています。
ティムール朝末期に侵入してきたウズベク族によって故地を追われ、アフガニスタンのカーブル(カブール)を占領して小王国を建国(1504年)、その後、カーブルを拠点としてティムール帝国の再興を図りますが失敗し、その頃ロディ朝が内紛によって分裂・弱体化している情勢を見て取り、ティムール帝国の再興を捨て、インド征服に乗り出したのでした。

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パーニパットの戦い1526年

 1519年にインダス川を渡ってパンジャーブ地方に侵入しますが、この時はロディ朝の大軍に敗退、しかし、1525年にロディ朝の内紛に乗じて再びパンジャーブ地方に侵入し、翌1526年にパーニパット(デリーの北約140km)の戦いで、自軍の10倍にも達するロディ朝軍を撃破し、デリーを占領してムガール帝国(1526年~1858年)を建国しました。

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ムガール帝国の拡大

 バーブルは、次いでラージプート族(インド西部に居住し、古代のクシャトリアの子孫と自称した)を従え、更にベンガル地方(ガンジス川下流域)の諸勢力を平定してムガール帝国の基礎を築きますが、まもなくティムール帝国の故地を慕いつつカーブルで崩御しています。

 尚、ムガール(Mughal)の語源はモンゴル(Mongol)が変化したものと云われています。(バーブルはティムールの直系の子孫であり、母方でチンギス・ハンの血を引くと云われ、ティムールもチンギス・ハンの子孫と自称したことからモンゴルの呼称を用いたものと考えられます)。

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行軍するフマユーン(在位1530年~56年)

 バーブルの死後、子のフマユーン(在位1530年~56年)が後を継ぎますが、ベンガル遠征で逆にスール朝(1539年~55年、アフガン系スール族が建てた王朝、5代16年間北インドを支配した)の軍に敗走(1539年)、西北インド各地を転々とした後にイランに逃れてサファヴィー朝の保護を受け(1540年~)、その後サファヴィー朝の支援を受けて勢力を回復し、スール朝の内紛に乗じてデリーを奪回するものの(1555年)、その翌年書斎の階段から転落して急死しました。

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渡河するアクバル(大帝、1542年~1605年、在位1556年~1605年)

 ムガール帝国第3代皇帝アクバル(大帝、1542年~1605年、在位1556年~1605年)は、父の急死によって14歳で即位し、重臣のバイラーム・ハーンが後見役を努め、同年スール朝勢力を破り(1556年、第2パーニパットの戦い)、再びムガール帝国の支配を確立すると、やがて頑固なイスラム教徒であった重臣のバイラーム・ハーンを追放して実権を握り(1560年)、ヒンドゥー教徒との融和政策を行いました。

 アクバル大帝は、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との融和を図り、ヒンドゥー教徒(ラージプート族)の王女を王妃に迎え、ヒンドゥー教徒に対する差別待遇を撤廃して、ヒンドゥー教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止しました(1564年)。

 この政策によりムガール帝国に頑強に抵抗してきたヒンドゥー教徒の最有力部族のラージプート族も友好的な同盟者となり、アクバル大帝は1576年迄に、略全北インドを支配下に収め、更にカーブル(1581年)、デカン高原(1593年)に兵を進めて支配領域を拡大し、ムガール帝国はアクバル大帝の時代に最盛期を迎えます。

 アクバル大帝は、アグラに遷都し(1558年)、全国を州・県・郡に分けて中央から官吏を派遣して統治させますが、彼等には土地を与えず、俸給を支給して封建領主化を防ぎ、又全国の耕地を測量させて面積に応じた課税を実施し、良質の銀貨を鋳造して貨幣を統一行って財政の確立に努めました。

 アクバル大帝はイスラム教徒ではありましたが、皇帝を神として崇拝する神聖宗教(ディーネ・イラーヒー)を創始して諸宗教の融合を図るものの、帰依者は少なく、彼の死と共に消滅しました。

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ジャハーンギール(在位1605年~27年)

 アクバル大帝が病死すると、長子が即位してジャハーンギール(在位1605年~27年、「世界の征服者」の意味)と名乗りました。
ジャハーンギールは文芸を愛好して保護・奨励した結果、その宮廷では華やかなムガール文化開花しますが、一方で彼はペルシアの美妃を寵愛し、王妃が政治を左右するようになり政治が乱れを生じさせる事になります。

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シャー・ジャハーン(右)と愛妃ムムターズ・マハル(左)

 ジャハーンギールの死後、第3子のシャー・ジャハーン(在位1628年~58年)が兄弟との帝位継承争いに勝って即位します。
シャー・ジャハーンは、サファヴィー朝からカンダハル(ジャハーンギールの時に失った地)を一時奪回し、デカン高原にも領土を拡大しましたが、この外征が晩年に財政難を引き起こす原因となります。

 シャー・ジャハーンも学者・文人を保護した為、ムガール文化はシャー・ジャハーンの時代に最盛期を迎え、特に彼が、愛妃ムムターズ(愛称タージ)・マハルを偲んでアグラ郊外に造営した(1532年~53年)タージ・マハル廟はインドを代表するイスラム建築で、白大理石の巨大なドームと美しい庭園で知られ、世界で最も美しい建築の一つとして有名です。

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アウラングゼーブ(在位1658年~1707年)

 しかし、シャー・ジャハーンが晩年に病にかかると帝位継承争いが起こり(1657年)、シャー・ジャハーンは第3子アウラングゼーブによってアグラ城に幽閉されて没します(1658年)。
   
 ムガール帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位1658年~1707年)は、シャー・ジャハーンの第3子でしたが、父の病気に乗じて父帝を監禁し、兄弟4人の帝位継承争いに勝利し、兄弟達を殺害して帝位に就いた人物です。

 アウラングゼーブは、長い治世の大半を外征に費やし、自等軍を率いてデカン遠征を行い(1681年)、1689年頃迄にデカン高原南端の一部を除いて略全インドを領有し、ムガール帝国の領土は最大となりますが、インド史の中で、略全インドが統一されたのはマウリヤ朝のアショーカ王時代とムガール帝国のアウラングゼーブの時代だけです。
 
 アウラングゼーブは厳格なイスラム教のスンナ派で、曾祖父のアクバル大帝が廃止したヒンドゥー教徒に対するジズヤ(人頭税)を復活し(1679年)、ヒンドゥー教寺院を破壊し、ヒンドゥー教・シーア派等を弾圧しました。

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ラージプート族の戦士

 この為、ヒンドゥー教徒のラージプート族が反乱を起こし(1680年)、更にマラータ族やシーク教徒も反乱を起こしますが、特にマラータ族は、この反乱を通じてデカン高原西部にマラータ王国(17世紀中期頃~1818年)を建設しています。

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ムガール帝国版図の変遷

 アウラングゼーブの死後、デカン高原・ベンガルの地方政権が相次いで自立し、マラータ同盟(1708年~1818年、マラータ諸侯の緩やかな連合体)は首都デリーを脅かし、又イギリス・フランス等西ヨーロッパ諸国が沿岸の都市を拠点として内陸部にも勢力を伸ばし始めた結果、ムガール帝国は急速に衰退に向かいます。

2インド・イスラム文化

 インドでは、デリー・スルタン朝のもとで外来のイスラム文化と伝統的なヒンドゥー文化との融合が進み、インド・イスラム文化が成立し、特にムガール帝国の時代に成熟しました。

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ウルドゥー語

 デリー・スルタン朝時代に、ヒンディー語(北インドの共通語、現在のインドの主要な公用語)を基礎としてアラビア語・ペルシア語・トルコ語の語彙を多く取り入れたウルドゥー語が使われるようになり、ウルドゥー語はムガール帝国の民衆の間でも広く用いられ、現在のパキスタンの国語になっています。

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ナーナク(1469年~1538年)
 
 宗教面では、16世紀初頭にナーナク(1469年~1538年)がヒンドゥー教とイスラム教を折衷してシク教を創始しました。
シク教はヒンドゥー教の改革派で、イスラム教の影響を受けて、その教義は一神教的であり、偶像を否定し、カースト制にも反対しています。
シク教の信仰の中心はパンジャーブ地方のアムリットサルで、その信者はパンジャーブ地方に多く、その数は現在約1800万人と云われています。

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タージ・マハル

 美術分野では、シャー・ジャハーンが建てたタージ・マハルはインド・イスラム文化を代表する建築であり、絵画ではムガール絵画やラージプート絵画が発達しました。
ムガール絵画は、イランから伝来したミニアチュール(細密画)から発達し、アクバル大帝、ジャハーンギール帝の保護を受けて盛んとなり、宮廷風俗・花鳥・動物・肖像画等を写実的に描いています。

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ミニアチュールの婦人画

 これに対してラージプート族諸王の宮廷の保護を受けて発達したラージプート絵画は庶民的であり、ヴィシュヌ信仰やそれと関連ある民間信仰の神々を題材とする宗教的な・神秘的な絵画が描かれています。

ジョークは如何?

実は在韓米軍など存在しない。
現在、韓国に駐留しているのは、国連軍だからだ


続く・・・

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秋葉奈津子様 こんばんは。

今日は26℃の夏日でした。
暑かったですね。
寒さがなくなり、
暑くなるのはいいですね。

道のそばに真っ黄色のヤマブキが咲きだしました。

秋葉奈津子様 おはようございます。

インドの歴史はあまり知られていませんね。
歴史の教科書にもあまり紹介されていないと思います。
インド周辺の国々のこと楽しく勉強させてもらっています。

暑くなってきました。
お体にご注意ください。

葉山左京様、おはようございます。

ヤマブキは、私の散歩道には無いですね。
七重八重のヤマブキとの古語も在りますが、中々目にする機会が在りません。
今の散歩道は、菜の花とツツジ、チューリップとパンジーが良く目に止まります。

日本で高校で教える世界史は、中国史とヨーロッパ、古代ギリシャやローマが中心で、韓国、東南アジア、インド、南アメリカの歴史については、極めて簡単な記述しか在りません。
ところが、これらの地域からヨーロッパ、中国、アメリカを見ると、当に侵略の歴史を繰り返す事に気がつきます。
歴史は、時代を上下するだけでではなく、同時代の他地域との比較も重要な要素です。
記事を読んで頂きありがとうございます。