歴史を歩く186
この度の熊本・大分地域震災によりお亡くなりに成られた方々のご冥福をお祈り申し上げますと共に、被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げます。
27 アメリカ独立革命①
1イギリスの植民地政策

ヴァージニア植民地での感謝祭(後方にネイティブアメリカン)
イギリスは、17世紀初頭、北アメリカ東岸に最初の永続的な植民地であるヴァージニア植民地を建設し(1607年)、18世紀前葉迄に13の植民地を設立しました。
イギリスの13植民地は、信仰の自由や政治的自由を求めて新大陸に移住した人々、又貿易・開拓の利益を求めて移住した人々によって設立されたのです。

ピルグリム・ファーザーズ、ニュープリマス到着
1620年にピルグリム・ファーザーズ(巡礼の父達、メイフラワー号で移住した102名のピューリタンの一派の人々)によって設立されたプリマス植民地(1691年にマサチューセッツ植民地に併合)は信仰の自由を求めて新大陸に移住したピューリタンによって設立された植民地であり、マサチューセッツ植民地も1629年にピューリタンによって建設されました。

ウィリアム・ペン(William Penn、1644年10月14日 - 1718年7月30日)
メリーランド植民地(1634年設立)は、ボルティモア卿が国王から特許状を得て、カトリック教徒の植民地として設立され、又ペンシルヴェニア植民地(1681年設立)は、ウィリアム・ペンによってクウェーカー教徒(17世紀中頃に創設されたプロテスタントの一派、徹底した平和愛好団体で戦争に反対し絶対に武器をとらない)のために建設されました。
現在の世界都市であるニューヨークは、イギリスがオランダからニューアムステルダムを奪取して設立された(1664年)植民地であり、13植民地の最も遅れて最南部に建設されたジョージア植民地は本国の債務・貧困者救済のために建設された(1733年)植民地です。

東部13植民地
このようにして、17世紀初頭から18世紀前半迄の約130年間に北アメリカ東岸に13植民地が建設されましたが、その地域は亜熱帯から亜寒帯に広がっていた為、地域によって経済的には大きな格差が生じていました。
南部では、主に黒人奴隷を使ってたばこ・米・藍等を栽培するプランテーションが盛んであったのに対し、北部では海運・造船・農業・漁業が盛んでした。
各植民地は、本国の議会制度にならって植民地議会を設ける等(最初の植民地議会は1619年にヴァージニア植民地で設立)自治の制度を発達させており、又イギリスからの移住者の多くが中産階級の人々で、13植民地では早くから出版・新聞の発行(1704年)・大学の設立(ハーヴァード大学は1636年に、イェール大学は1701年に設立)が行われたことも重要な特色でした。

イギリス本国とアメリカ植民地の諸問題
イギリス本国は、植民地に対しては植民地の自治を認める一方で、重商主義政策をとり、本国の利益の為に商工業の発展を抑える政策をとり続けます。
例えば、羊毛品法(1699年)では本国の羊毛産業を保護する為に植民地の毛織物の輸出を禁止し、糖蜜法(1733年)は、植民地が西インド諸島の外国植民地から輸入していた安い糖蜜や砂糖に輸入税を課したものですが、これは西インドの英領ジャマイカ産さとうきびプランター(プランテーション経営者)を保護する為の条例で在り、更に鉄法(1750年)では、本国の製鉄業を保護する為に植民地の鋼鉄用溶鉱炉や圧延工場の建設を禁じた法律です。
これらの重商主義諸政策は植民地の経済に打撃を与えた、「有益な怠慢」と云う言葉に表されているように、例えば密輸に対する取り締まりは不十分で、当時フランス植民地から植民地を守るために本国の援助が必要であった事から、本国に対する反抗は発生しませんでした。

フレンチ・インディアン戦争中のワシントン(1753,54年頃)
しかし、フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)でイギリスが圧勝し、1763年のパリ条約でカナダ及びミシシッピ以東のルイジアナを獲得してフランスの脅威が消滅、又七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の戦費と獲得した広大な領土を統治する為の費用をまかなう必要性から重商主義を強化し、課税を強化したので植民地人の不満が増大しました。
1764年には糖蜜法に代えて砂糖法を制定して密貿易への処罰を強化し、更に翌1765年には印紙法を制定しました。
印紙法は、植民地で発行される全ての法律・商業関係書類、新聞・暦等の刊行物に印紙を貼ることを要求した法律で、その収入を植民地に駐屯する軍の費用に充当する目的で制定された法律で、印紙法は従来の法のように一部の人々にだけ影響を与える法でなく、全植民地の全ての職業・階層の人々に影響を与える法であった毛か結果、植民地住民は強硬に反対し、至る所で反対運動が起こりました。
_convert_20160424183805.jpg)
ヴァージニア植民地議会は、印紙法反対決議案を可決し、ニューヨークでは9植民地の代表が集まって印紙法会議が開かれ、植民地側は、有名な「代表なくして課税なし」、植民地は本国議会に代表を送っていないので、本国議会は植民地人に課税出来ないと云う論理を主張し、イギリス商品の不買運動を行って抵抗した為、イギリス商人は大きな不利益を受け、印紙法は翌年撤廃されます。
しかし、イギリス本国は1767年にタウンゼント諸法を制定し、植民地に輸入されるペンキ・紙・ガラス・茶に輸入税を課し、これに対しても植民地側はイギリス商品の不買運動を行って抵抗し、本国商人もこの動きに同調した結果、輸入税は1770年に茶税を残して撤廃されます。

ボストン茶会事件(Boston Tea Party)
更に1773年には、当時経営難に陥っていた東インド会社を救済する目的で茶法を制定し、東インド会社にアメリカ植民地への茶の直送を認め、茶の独占販売権を与えます。
この茶法は、当然植民地の商人に大きな打撃を与え、彼らと茶法に反対する急進派の人々がネイティブ・アメリカンに変装して、1773年12月16日夜、ボストン港に入港していた東インド会社の3隻の船を襲って茶箱342箱を海中に投棄する出来事が起き、これが有名なボストン茶会事件(Boston Tea Party)と後に呼ばれる出来事で、独立戦争の導火線と成りました。
イギリスは、この事件に対する報復として、翌1774年に強圧的諸法を制定し、ボストン港の閉鎖・マサチューセッツ州の自治権剥奪等を行った為、植民地側は1774年9月にフィラデルフィアで第1回大陸会議(13植民地(13州)の代表で構成された植民地側の最高の連絡・意志統一機関)を開いて本国に抗議し、強圧的諸法の撤廃を求める決議や通商断絶同盟の結成を採択し、こうして植民地側とイギリス本国との戦いは避けがたいものに成っていました。
ジョークは如何?
ある晩餐会で、無口で有名なクーリッジ大統領に、
1人の女性が近づいた。
「わたくし、友人と賭をいたしましたの。あなたに
2語以上しゃべらせることができたら、わたくしの
勝ちですわ」
クーリッジの返答。
「ユー・ルーズ(君は負けた)」
続く・・・
27 アメリカ独立革命①
1イギリスの植民地政策

ヴァージニア植民地での感謝祭(後方にネイティブアメリカン)
イギリスは、17世紀初頭、北アメリカ東岸に最初の永続的な植民地であるヴァージニア植民地を建設し(1607年)、18世紀前葉迄に13の植民地を設立しました。
イギリスの13植民地は、信仰の自由や政治的自由を求めて新大陸に移住した人々、又貿易・開拓の利益を求めて移住した人々によって設立されたのです。

ピルグリム・ファーザーズ、ニュープリマス到着
1620年にピルグリム・ファーザーズ(巡礼の父達、メイフラワー号で移住した102名のピューリタンの一派の人々)によって設立されたプリマス植民地(1691年にマサチューセッツ植民地に併合)は信仰の自由を求めて新大陸に移住したピューリタンによって設立された植民地であり、マサチューセッツ植民地も1629年にピューリタンによって建設されました。

ウィリアム・ペン(William Penn、1644年10月14日 - 1718年7月30日)
メリーランド植民地(1634年設立)は、ボルティモア卿が国王から特許状を得て、カトリック教徒の植民地として設立され、又ペンシルヴェニア植民地(1681年設立)は、ウィリアム・ペンによってクウェーカー教徒(17世紀中頃に創設されたプロテスタントの一派、徹底した平和愛好団体で戦争に反対し絶対に武器をとらない)のために建設されました。
現在の世界都市であるニューヨークは、イギリスがオランダからニューアムステルダムを奪取して設立された(1664年)植民地であり、13植民地の最も遅れて最南部に建設されたジョージア植民地は本国の債務・貧困者救済のために建設された(1733年)植民地です。

東部13植民地
このようにして、17世紀初頭から18世紀前半迄の約130年間に北アメリカ東岸に13植民地が建設されましたが、その地域は亜熱帯から亜寒帯に広がっていた為、地域によって経済的には大きな格差が生じていました。
南部では、主に黒人奴隷を使ってたばこ・米・藍等を栽培するプランテーションが盛んであったのに対し、北部では海運・造船・農業・漁業が盛んでした。
各植民地は、本国の議会制度にならって植民地議会を設ける等(最初の植民地議会は1619年にヴァージニア植民地で設立)自治の制度を発達させており、又イギリスからの移住者の多くが中産階級の人々で、13植民地では早くから出版・新聞の発行(1704年)・大学の設立(ハーヴァード大学は1636年に、イェール大学は1701年に設立)が行われたことも重要な特色でした。

イギリス本国とアメリカ植民地の諸問題
イギリス本国は、植民地に対しては植民地の自治を認める一方で、重商主義政策をとり、本国の利益の為に商工業の発展を抑える政策をとり続けます。
例えば、羊毛品法(1699年)では本国の羊毛産業を保護する為に植民地の毛織物の輸出を禁止し、糖蜜法(1733年)は、植民地が西インド諸島の外国植民地から輸入していた安い糖蜜や砂糖に輸入税を課したものですが、これは西インドの英領ジャマイカ産さとうきびプランター(プランテーション経営者)を保護する為の条例で在り、更に鉄法(1750年)では、本国の製鉄業を保護する為に植民地の鋼鉄用溶鉱炉や圧延工場の建設を禁じた法律です。
これらの重商主義諸政策は植民地の経済に打撃を与えた、「有益な怠慢」と云う言葉に表されているように、例えば密輸に対する取り締まりは不十分で、当時フランス植民地から植民地を守るために本国の援助が必要であった事から、本国に対する反抗は発生しませんでした。

フレンチ・インディアン戦争中のワシントン(1753,54年頃)
しかし、フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)でイギリスが圧勝し、1763年のパリ条約でカナダ及びミシシッピ以東のルイジアナを獲得してフランスの脅威が消滅、又七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の戦費と獲得した広大な領土を統治する為の費用をまかなう必要性から重商主義を強化し、課税を強化したので植民地人の不満が増大しました。
1764年には糖蜜法に代えて砂糖法を制定して密貿易への処罰を強化し、更に翌1765年には印紙法を制定しました。
印紙法は、植民地で発行される全ての法律・商業関係書類、新聞・暦等の刊行物に印紙を貼ることを要求した法律で、その収入を植民地に駐屯する軍の費用に充当する目的で制定された法律で、印紙法は従来の法のように一部の人々にだけ影響を与える法でなく、全植民地の全ての職業・階層の人々に影響を与える法であった毛か結果、植民地住民は強硬に反対し、至る所で反対運動が起こりました。
_convert_20160424183805.jpg)
ヴァージニア植民地議会は、印紙法反対決議案を可決し、ニューヨークでは9植民地の代表が集まって印紙法会議が開かれ、植民地側は、有名な「代表なくして課税なし」、植民地は本国議会に代表を送っていないので、本国議会は植民地人に課税出来ないと云う論理を主張し、イギリス商品の不買運動を行って抵抗した為、イギリス商人は大きな不利益を受け、印紙法は翌年撤廃されます。
しかし、イギリス本国は1767年にタウンゼント諸法を制定し、植民地に輸入されるペンキ・紙・ガラス・茶に輸入税を課し、これに対しても植民地側はイギリス商品の不買運動を行って抵抗し、本国商人もこの動きに同調した結果、輸入税は1770年に茶税を残して撤廃されます。

ボストン茶会事件(Boston Tea Party)
更に1773年には、当時経営難に陥っていた東インド会社を救済する目的で茶法を制定し、東インド会社にアメリカ植民地への茶の直送を認め、茶の独占販売権を与えます。
この茶法は、当然植民地の商人に大きな打撃を与え、彼らと茶法に反対する急進派の人々がネイティブ・アメリカンに変装して、1773年12月16日夜、ボストン港に入港していた東インド会社の3隻の船を襲って茶箱342箱を海中に投棄する出来事が起き、これが有名なボストン茶会事件(Boston Tea Party)と後に呼ばれる出来事で、独立戦争の導火線と成りました。
イギリスは、この事件に対する報復として、翌1774年に強圧的諸法を制定し、ボストン港の閉鎖・マサチューセッツ州の自治権剥奪等を行った為、植民地側は1774年9月にフィラデルフィアで第1回大陸会議(13植民地(13州)の代表で構成された植民地側の最高の連絡・意志統一機関)を開いて本国に抗議し、強圧的諸法の撤廃を求める決議や通商断絶同盟の結成を採択し、こうして植民地側とイギリス本国との戦いは避けがたいものに成っていました。
ジョークは如何?
ある晩餐会で、無口で有名なクーリッジ大統領に、
1人の女性が近づいた。
「わたくし、友人と賭をいたしましたの。あなたに
2語以上しゃべらせることができたら、わたくしの
勝ちですわ」
クーリッジの返答。
「ユー・ルーズ(君は負けた)」
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2016-04-24 22:57 編集
暑くなってきました。
明日は28℃の予報です。
牡丹の花が咲きだし、
アヤメやカキツバタも咲いています。
初夏の暑い日差しがうれしい日々ですが、
熊本には雨は降らないでほしいものです。
地震はまだ収まらないようですね。
2016-04-25 21:34 葉山左京 URL 編集
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2016-04-25 23:26 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日も暖かく成りそうです。
福岡県は来月に予定されているサミットに向けて、警備が厳重に成ってきました。
5月1日、2日は地元北九州で環境関連の大臣サミットが開催されるため、特に沿岸部は警備が厳重になり、各事業所にも警察関係の文書が配布されています。
何事も無く終われば良いですね。
2016-04-26 06:25 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-04-26 23:43 編集
晴れた日に郊外に出かけると
新緑が目に飛び込んできます。
緑が鮮やかです。
アヤメや藤の花、牡丹に芍薬も咲きだし初夏の気候です。
気分がさわやかになりますね。
サミットが何事もなく無事に終わればいいですね!
2016-04-27 22:39 葉山左京 URL 編集
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2016-04-27 23:15 編集
葉山左京様、おはようございます。
私達流通業に携わる者にとっては、お休みでは無く、仕事の毎日が続きます。
今日は、代休、明日から店舗の応援になります。
只、今年は熊本震災の影響で、此方九州では、余りGWを騒ぐ状況では無く、更に5月1日、2日のサミットで、市内へのマイカー自粛の呼びかけも在る程です。
本当に無事に終わって欲しいものです。
お天気はまずまずですが、ムードとしては、静かなGW前です。
2016-04-28 08:43 秋葉 奈津子 URL 編集
明日からGWですね。
私も仕事で休みはほんの少しです。
海外へ行く人も多いようです。
GW期間は20℃超えの暑い日が続きそうです。
もう初夏ですから、
燕のヒナがかえり醍醐の駅ビルは飛び交う燕で賑やかです。
時には我々にぶつかりそうな飛び方の子燕もいるようです。
2016-04-28 22:20 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
反対に平日を休むことになります。
北九州も昨日の午後から、気温が下がりました。
今は、暖房稼働中です。
冬ならば、暖かく感じる気温でも、20度半ばが続くと寒く感じてしまいます。
油断大敵ですね。
2016-04-29 07:16 秋葉 奈津子 URL 編集