歴史を歩く187
27 アメリカ独立革命②
2独立戦争

パトリック・ヘンリー(1736年~99年)
植民地側は、第1回大陸会議(1774年)を開いてボストン港の閉鎖やマサチューセッツ州の自治権剥奪等に対してイギリス本国に抗議しますが、本国政府と国王は態度を変えず、植民地側とイギリス本国との戦争は避けがたい情勢となりました。
当時、ヴァージニア植民地議会議員として印紙法に反対して独立運動の急先鋒となり、熱烈な雄弁家として知られたパトリック・ヘンリー(1736年~99年)は、1775年3月に開かれた非合法の植民地協議会で「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」という有名な演説によって本国との武力抗争が避けられないことを説いています。

レキシントン・コンコードの戦い
1775年4月、ボストンに駐屯していたイギリス本国軍は、ボストン郊外のコンコードに植民地民兵の武器・弾薬が相当集められているとの情報を得てこれら物資を押収しょうと考え、4月19日早朝、ボストン郊外のレキシントンに到着した約800名のイギリス兵とこれを待ちかまえていた約50名の植民地民兵の間で武力衝突が起こり、アメリカ独立戦争(1775年~83年)の火ぶたが切られました。
レキシントン・コンコードでの武力衝突の知らせはたちまち全植民地に伝えられ、各地から義勇兵が続々と集結し、5月には第2回大陸会議が開かれ、6月にワシントンが植民地軍総司令官に任命されます。

青年将校時代のジョージ・ワシントン
ワシントン(1732年~99年)は、ヴァージニアの富裕なプランター(プランテーションの経営者)の子に生まれ、兄の死後農場を継ぎ(1752年)、フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)にイギリス軍少佐として従軍し、その後ヴァージニア植民地議会議員に就任、イギリス本国の課税に反対し、独立戦争が始まると第2回大陸会議で植民地軍総司令官に任命されました(1775年)。
1775年4月に独立戦争が勃発しますが、独立戦争を支持・推進した独立派(愛国派、パトリオット)はプランター・自営農民・商工業者に支持され、その勢力は植民地人口の約3分の1であり、これに対して独立に反対した国王派(忠誠派、ロイヤリスト)も約3分の1を占め、残りの約3分の1は中立派か無関心であったといわれています。
忠誠派(ロイヤリスト)の多くは高級官吏・大商人・大地主でした。

トマス・ペイン)1737年1月29日 - 1809年6月8日)
このような状況にあった植民地の人々の気持ちを一挙に独立の方向に向かわせたものが、1776年1月に出版されたトマス・ペインの『コモン・センス(常識)』でした。

『コモン・センス(常識)』
トマス・ペイン(1737年~1809年)は、イギリス生まれの文筆家・革命思想家で、ロンドンでフランクリンと出会ってアメリカに渡り(1774年)、独立戦争が起きると小さなパンフレットである『コモン・センス(常識)』を出版し、独立の必要と共和政の長所を力説し、独立して共和国になることが常識であると説きました。
『コモン・センス(常識)』は数ヶ月で12万部も売れ、独立への機運を盛り上げたのです。

トマス・ジェファーソン(1743年~1826年)
更に1776年7月4日、大陸会議はフィラデルフィアでトマス・ジェファーソン(1743年~1826年)等が起草した『独立宣言』を発表しました。
「我々は、次のことが自明の真理であると信ずる。
すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。
その中には生命、自由、幸福の追求がふくまれていること。
これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意に基づかねばならないこと。
もしどんな形の政府であっても、これらの目的を破壊するものになった場合には、 その政府を改革し、あるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理に基づき、そのような形で権力を形づくる新しい政府を設けることが人民の権利であること。・・・」
(山川出版社「詳説世界史」より)と云う有名な文言で始まる『独立宣言』は、まず基本的人権・人民主権・革命権等を主張し、次に当時のイギリス国王ジョージ3世(在位1760年~1820年)の暴政を列挙し、最後に13州の独立を宣言したもので、後のフランス革命の『人権宣言』と共に近代民主政治の基本原理となりますが、独立宣言の冒頭の部分である基本的人権・人民主権・革命権等の主張には、イギリスの啓蒙思想家ロックの思想的影響が強く表れています。

ジョン・アダムス(1735年10月19日〜1826年7月4日)
尚、独立宣言の起草者5人の中には、トマス・ジェファーソン(後の第3代大統領)の他にフランクリンやジョン・アダムス(後の第2代大統領)も入っています。
独立宣言を発表した翌年に、大陸会議はアメリカ最初の憲法である「アメリカ連合規約」を承認し、「アメリカ合衆国(United States of America)」の名称を採択しました(1777年11月)。

サラトガの戦い
この間独立軍は、当初武器・弾薬・食料の不足で苦戦を続けていたが、ワシントンの指揮下で善戦し、サラトガの戦い(1777年10月)でイギリス軍数千を降伏させます。
この勝利を見て、翌年フランスはアメリカ合衆国を承認し、米仏同盟を結んでイギリスに宣戦して参戦し(1778年)、このフランスの参戦には、駐仏大使として活躍したフランクリン(1706年~90年、独立宣言の起草者の一人、新聞発行・出版業・ジャーナリズムの他に政治・外交・科学の分野でも活躍)が大きな役割を果たしました。
又スペインもフランスと同盟してイギリスに宣戦した(1779年)。

マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵[1][2](Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette、1757年9月6日 - 1834年5月20日)
更にフランスの自由主義貴族ラ・ファイエット(1777年~81年に義勇軍を率いて独立軍に参加)やポーランドの愛国者であるコシューシコ(1776年~84年ワシントンの副官として活躍)、そしてフランスの空想的社会主義者のサン・シモン等のヨーロッパ人が義勇兵として独立軍に参加しました。

コシューシコ(1746年2月4日 - 1817年10月15日)
1780年には、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱によって、ロシア・スウェーデン・デンマーク・プロイセン・ポルトガルが武装中立同盟を対決します。
武装中立同盟は、イギリスの中立国船舶規制に対抗し、中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資の通商の自由を主張したものでしたが、イギリスを完全に孤立させ、独立軍の士気を高める役割を果たしました。

ヨークタウンの戦い(1781年)コーンウォリスの降伏
このように国際情勢が独立軍に有利に展開する中で、ついにヨークタウンの戦い(1781年)で、米仏連合軍に包囲された7000名のイギリス軍は降伏し、大勢は決したのです。
イギリスは1783年のパリ条約で、アメリカ合衆国の完全独立を承認し、合衆国にミシシッピ川以東のルイジアナを割譲し、此処にアメリカ合衆国が誕生しました。
ジョークは如何?
「共産主義ってのは、船旅に似てるな。」
「どんなところが?」
「展望だけは素晴らしいんだが、どこに向かってるんだかさっぱりわからない。
その上吐き気がする。おまけに降りられない」
続く・・・
2独立戦争

パトリック・ヘンリー(1736年~99年)
植民地側は、第1回大陸会議(1774年)を開いてボストン港の閉鎖やマサチューセッツ州の自治権剥奪等に対してイギリス本国に抗議しますが、本国政府と国王は態度を変えず、植民地側とイギリス本国との戦争は避けがたい情勢となりました。
当時、ヴァージニア植民地議会議員として印紙法に反対して独立運動の急先鋒となり、熱烈な雄弁家として知られたパトリック・ヘンリー(1736年~99年)は、1775年3月に開かれた非合法の植民地協議会で「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」という有名な演説によって本国との武力抗争が避けられないことを説いています。

レキシントン・コンコードの戦い
1775年4月、ボストンに駐屯していたイギリス本国軍は、ボストン郊外のコンコードに植民地民兵の武器・弾薬が相当集められているとの情報を得てこれら物資を押収しょうと考え、4月19日早朝、ボストン郊外のレキシントンに到着した約800名のイギリス兵とこれを待ちかまえていた約50名の植民地民兵の間で武力衝突が起こり、アメリカ独立戦争(1775年~83年)の火ぶたが切られました。
レキシントン・コンコードでの武力衝突の知らせはたちまち全植民地に伝えられ、各地から義勇兵が続々と集結し、5月には第2回大陸会議が開かれ、6月にワシントンが植民地軍総司令官に任命されます。

青年将校時代のジョージ・ワシントン
ワシントン(1732年~99年)は、ヴァージニアの富裕なプランター(プランテーションの経営者)の子に生まれ、兄の死後農場を継ぎ(1752年)、フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)にイギリス軍少佐として従軍し、その後ヴァージニア植民地議会議員に就任、イギリス本国の課税に反対し、独立戦争が始まると第2回大陸会議で植民地軍総司令官に任命されました(1775年)。
1775年4月に独立戦争が勃発しますが、独立戦争を支持・推進した独立派(愛国派、パトリオット)はプランター・自営農民・商工業者に支持され、その勢力は植民地人口の約3分の1であり、これに対して独立に反対した国王派(忠誠派、ロイヤリスト)も約3分の1を占め、残りの約3分の1は中立派か無関心であったといわれています。
忠誠派(ロイヤリスト)の多くは高級官吏・大商人・大地主でした。

トマス・ペイン)1737年1月29日 - 1809年6月8日)
このような状況にあった植民地の人々の気持ちを一挙に独立の方向に向かわせたものが、1776年1月に出版されたトマス・ペインの『コモン・センス(常識)』でした。

『コモン・センス(常識)』
トマス・ペイン(1737年~1809年)は、イギリス生まれの文筆家・革命思想家で、ロンドンでフランクリンと出会ってアメリカに渡り(1774年)、独立戦争が起きると小さなパンフレットである『コモン・センス(常識)』を出版し、独立の必要と共和政の長所を力説し、独立して共和国になることが常識であると説きました。
『コモン・センス(常識)』は数ヶ月で12万部も売れ、独立への機運を盛り上げたのです。

トマス・ジェファーソン(1743年~1826年)
更に1776年7月4日、大陸会議はフィラデルフィアでトマス・ジェファーソン(1743年~1826年)等が起草した『独立宣言』を発表しました。
「我々は、次のことが自明の真理であると信ずる。
すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。
その中には生命、自由、幸福の追求がふくまれていること。
これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意に基づかねばならないこと。
もしどんな形の政府であっても、これらの目的を破壊するものになった場合には、 その政府を改革し、あるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理に基づき、そのような形で権力を形づくる新しい政府を設けることが人民の権利であること。・・・」
(山川出版社「詳説世界史」より)と云う有名な文言で始まる『独立宣言』は、まず基本的人権・人民主権・革命権等を主張し、次に当時のイギリス国王ジョージ3世(在位1760年~1820年)の暴政を列挙し、最後に13州の独立を宣言したもので、後のフランス革命の『人権宣言』と共に近代民主政治の基本原理となりますが、独立宣言の冒頭の部分である基本的人権・人民主権・革命権等の主張には、イギリスの啓蒙思想家ロックの思想的影響が強く表れています。

ジョン・アダムス(1735年10月19日〜1826年7月4日)
尚、独立宣言の起草者5人の中には、トマス・ジェファーソン(後の第3代大統領)の他にフランクリンやジョン・アダムス(後の第2代大統領)も入っています。
独立宣言を発表した翌年に、大陸会議はアメリカ最初の憲法である「アメリカ連合規約」を承認し、「アメリカ合衆国(United States of America)」の名称を採択しました(1777年11月)。

サラトガの戦い
この間独立軍は、当初武器・弾薬・食料の不足で苦戦を続けていたが、ワシントンの指揮下で善戦し、サラトガの戦い(1777年10月)でイギリス軍数千を降伏させます。
この勝利を見て、翌年フランスはアメリカ合衆国を承認し、米仏同盟を結んでイギリスに宣戦して参戦し(1778年)、このフランスの参戦には、駐仏大使として活躍したフランクリン(1706年~90年、独立宣言の起草者の一人、新聞発行・出版業・ジャーナリズムの他に政治・外交・科学の分野でも活躍)が大きな役割を果たしました。
又スペインもフランスと同盟してイギリスに宣戦した(1779年)。

マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵[1][2](Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette、1757年9月6日 - 1834年5月20日)
更にフランスの自由主義貴族ラ・ファイエット(1777年~81年に義勇軍を率いて独立軍に参加)やポーランドの愛国者であるコシューシコ(1776年~84年ワシントンの副官として活躍)、そしてフランスの空想的社会主義者のサン・シモン等のヨーロッパ人が義勇兵として独立軍に参加しました。

コシューシコ(1746年2月4日 - 1817年10月15日)
1780年には、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱によって、ロシア・スウェーデン・デンマーク・プロイセン・ポルトガルが武装中立同盟を対決します。
武装中立同盟は、イギリスの中立国船舶規制に対抗し、中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資の通商の自由を主張したものでしたが、イギリスを完全に孤立させ、独立軍の士気を高める役割を果たしました。

ヨークタウンの戦い(1781年)コーンウォリスの降伏
このように国際情勢が独立軍に有利に展開する中で、ついにヨークタウンの戦い(1781年)で、米仏連合軍に包囲された7000名のイギリス軍は降伏し、大勢は決したのです。
イギリスは1783年のパリ条約で、アメリカ合衆国の完全独立を承認し、合衆国にミシシッピ川以東のルイジアナを割譲し、此処にアメリカ合衆国が誕生しました。
ジョークは如何?
「共産主義ってのは、船旅に似てるな。」
「どんなところが?」
「展望だけは素晴らしいんだが、どこに向かってるんだかさっぱりわからない。
その上吐き気がする。おまけに降りられない」
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2016-04-28 23:50 編集
GW初日は晴れた青空でしたが、
冷たい風が吹いていました。
寒い祭日でした。
明日朝も7℃の予報ですが昼は22℃暖かくなるでしょう。
寒い日はもういらないですね。
秋葉さんは店舗応援でお忙しいでしょうね。
お体に気を付けてお過ごしください。
2016-04-29 21:58 葉山左京 URL 編集
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2016-04-29 23:30 編集
葉山左京様、おはようございます。
寒暖の差が大きくて、この時期の店舗応援は、衣類の調整に苦労します。
男性の様に1枚2枚と服を脱ぎにくい事が、本当に大変です。
昨日の午後、今度は大分で震度5の地震が在りました。
震源地が東に向かって移動している事が、はっきりと判ります。
地震発生から2週間が過ぎ、鉄道、道路と復旧が始まりましたが、肝心の家屋の方は、未だ未だの状況です。
余震が治まる事を願うばかりです。
2016-04-30 06:36 秋葉 奈津子 URL 編集
GWを迎え明日から気温が高い日が続きそうです。
ツツジやアヤメが満開になってきました。
今は新緑も鮮やかで一番いい季節を迎えているようです。
私もほとんどが仕事になりそうです。
今年も海外へ多くの人が出かけるようですね。
海外でのトラブルに巻き込まれないように、
注意してくれるといいですが。
2016-04-30 21:44 葉山左京 URL 編集
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2016-04-30 23:38 編集
醍醐の山から太陽がやっと昇ってきました。
今日は28℃の予報で暑くなりそうです。
とうとう5月に入りました。
月日が過ぎてゆくのは本当に早く感じられます。
今月もよろしくお願いします。
熊本の地震が早く収まってくれることを祈ります。
2016-05-01 05:57 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨晩、22時頃には、東の空にさそり座のアンタレスを見ることが出来ました。
本当に月日の経つのが、子供の頃に比べて早く感じます。
ついこの前、年始云々と思っていましたら、もう5月、そして今日は八十八夜です。
夏が近づいてきました。
地震の震源が、東に移動している事が心配です。
2016-05-01 06:36 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-05-01 23:58 編集
今日は31℃の暑さでした。
もう、初夏を通り越して
真夏の温度です。
地球温暖化で季節も温度も狂いだしました。
と同時に人間も狂ってきた感じを受けます。
親が子を殺し、
子が親を殺し、
精神の果てしない荒野が続いています。
日本はどうなっていくのでしょうか?
2016-05-02 22:05 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
朝晩、庭の芍薬が未だつぼみですが、香っています。
今年は、つぼみが沢山出来ていて、花が開く時が楽しみです。
天気予報通り、今日は雨。
昨晩は、暖かい南風が吹きました。
今回の天気回復は早そうです。
親殺し、子殺し。
人間の心が、荒んできた証ですね。
物質文明に慣れた人間の一面かもしれません。
良い連休になります様に。
2016-05-03 06:34 秋葉 奈津子 URL 編集
今日は夕方から雨と強風です。
今も窓が揺れるほどの風が吹いています。
折角咲いたツツジや藤の花が散りそうです。
言われる通り親殺し、子殺しは
人間の心が荒んできた証拠と思います。
また海外での自爆テロも同じでしょう。
人間同士お互いの幸せを
認め合わなければいけませんね。
2016-05-03 21:25 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-05-03 21:33 編集