歴史を歩く190
1フランス革命とナポレオン②
2革命の勃発(その1)

ルイ15世(在位1715年~74年・ルイ・ミシェル・ヴァン・ロー画 ヴェルサイユ宮殿蔵)
フランスは、ルイ14世の晩年には度重なる侵略戦争と宮廷の奢侈により、既に国家財政は破綻の兆しを見せていました。
次のルイ15世(在位1715年~74年、ルイ14世の曾孫)の時代に、ヨーロッパに於けるオーストリア継承戦争(1740年~48年)・七年戦争(1756年~63年)、それと並行して起こった新大陸のジョージ王戦争(1744年~48年)・フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)、更にインドに於ける植民地争奪戦等で莫大な戦費を費やし、国家財政は益々悪化した上にルイ16世(在位1774年~92年、ルイ15世の孫)は、アメリカ独立戦争(1775年~83年)に介入し、20億リーブルの戦費を費やしています。

ルイ16世(在位:1774年5月10日 - 1792年8月10日)
当時のフランスの国庫収入は年間約5億リーブルといわれ、ルイ14世以来の財政赤字は累積し1789年には約45億リーブルに達していたと云われており、その為革命直前のフランスは国庫収入の半分以上を国債の利子の支払いに充てなければならない程の財政危機に陥っていました。

ローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune, 1727年5月10日 - 1781年3月18日)
ルイ16世は、即位後、重農主義者のテュルゴー(1727年~81年)を財務総監に任命し(1774年)財政の立て直しを図ります。
彼は穀物取引の自由化・ギルドの廃止等の自由主義改革による財政再建を企てますが、特権階級の反対を受けて失脚しました(1776年)。

ジャック・ネッケル(Jacques Necker, 1732年9月30日 - 1804年4月9日)
テュルゴーの後、スイス生まれの銀行家であるネッケル(1732年~1804年)が財務総監に任命され(1777年~81年、88年~90年)、ネッケルは宮廷費の削減や貴族への年金の停止等の支出の削減によって財政危機を打開しようと試みましたが、王妃や貴族の猛反発の為辞任を余儀なくされました(1781年)。

シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ(Charles Alexandre de Calonne,1734年1月20日 - 1802年10月30日)
ネッケルの財政政策を批判して1783年に財務総監となったカロンヌ(1734年~1802年)は、当初積極財政を試みるものの成功せず、終に特権身分の免税特権の打破以外に財政危機は解決できないと考えて改革案を作成し、名士会(近代フランスの身分制諮問議会、三部会と異なり、王族・大貴族・司教・知事・高等法院院長・大都市の市長・地方三部会の代表等からなるメンバーは国王の任命による)を召集してその支持を得ようとしますが、強硬な反対を受けて失脚します(1787年)。
特権身分に対する課税の企てを失敗させた貴族は、更に特権身分の免税特権を再確認させようとして、1615年以来開かれていなかった三部会の召集を要求し、第三身分もこれに賛同しました。

三部会
1788年にはネッケルが再び財務総監に就任(88年~90年)、ネッケルもこの頃には特権身分への課税(免税特権の廃止)を主張していましたが、就任の条件として三部会を1789年5月に召集することを要求し、宮廷もこれを承認しました。
三部会の召集が決定すると、貴族は旧来の三部会の召集を要求しましたが、第三身分は第三身分の代表者数を他の身分の倍にすること、又三部会に於いては身分制によらず多数決の議決を要求し、その要求が認められる迄は、租税の支払いを拒否すると云う強硬な態度に出た為、結局貴族は第三身分の代表者数を他の身分の倍にすることを承認し、1789年1月に三部会の召集が公表され、選挙戦が始まりました。

エマニュエル・ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès、1748年5月3日 - 1836年6月20日)
シェイエス(1748年~1836年)は、1789年の初めに『第三身分とは何か』と題するパンフレットを著し、三部会召集に際して特権身分を攻撃し、「第三身分とは何か・・・すべてである。今日までのその政治的地位はいかなるものであったか・・・無。それは何を求めたか・・・そこで相当なものになること」と述べて第三身分の権利を主張します。
シェイエスは聖職者出身でしたが、三部会には第三身分の代表として選出され、革命初期には理論的指導者として活躍しました。
1789年5月5日、選出された各身分の代表者が各地の陳情書を携えてヴェルサイユに集まり、三部会の開会式が行われます。
三部会の各身分の定数は、300・300・600と定められていましたが、この時ヴェルサイユに集まったのは第一身分(聖職者)代表308名、第二身分(貴族)代表290名、第三身分(平民)代表594名と云われています。
しかし、会議は初めから議決方法をめぐって紛糾します。
第一身分と第二身分は旧来の身分別の議決を、第三身分は一人一票の合同議決(多数決)を主張しました。
身分別議決とは、各身分別部会毎に議決する方法で、例えば特権階級への課税が議題となった時、第一身分と第二身分は反対、第三身分が賛成しても、反対2・賛成1で否決される議決方法です。
その為、この議決方法では第三身分の主張が通る可能性は先ず在りませんでした。
これに対して一人一票の合同議決の場合では、第一身分・第二身分と第三身分はほぼ同数となり、特権身分の中にも第三身分の主張に同調する進歩的な人々が存在した結果、第三身分の方が有利になると考えられており、この為双方共に譲らず三部会は、40日間に亘って紛糾しました。

6月17日国民議会結成 6月22日 テニスコートの誓い
こうした状況のなかで、シェイエスは第三身分の代表者だけで議会をつくることを主張し、第三身分の代表者達は三部会よりの分離を宣言し、第三身分こそ真に国民を代表するものであるとして「国民議会」(1789年6月~1791年9月)と称しました(6月17日)。
第三身分の断固とした態度に動揺した第一身分(聖職者)の部会も国民議会に合流することを議決します(6月19日)。
翌1789年6月20日、国王が議場を閉鎖した結果、議員達はヴェルサイユ宮殿内の室内球戯場に集合して会議を開き、憲法制定迄は解散しない事を誓い、この誓いが有名な「球戯場(テニスコート)の誓い」で、この時の情景は、フランス古典主義の代表的画家であるダヴィドによって劇的に描かれています。
国王は国民議会を武力で解散させようと試みますが、聖職者・貴族の中から次々に同調者が現れて国民議会に合流し、もはや身分別審議が不可能となり、国王は終に国民議会を承認し(6月27日)、国民議会は、憲法制定議会と改称して、憲法の制定に着手しました(7月9日)。
しかし、国民議会を一旦は承認した国王は保守的な貴族に動かされて外国人傭兵隊をパリ郊外に集結させ、武力による議会弾圧を図った為に事態が急迫し、しかもその責任を問うてネッケルを罷免します(7月11日)。

ルシー・シンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins、1760年3月2日 - 1794年4月5日)
翌7月12日、前年からの凶作の為にパンの値上がり・不足に苦しんでいたパリの民衆は、当時民衆に人気のあったネッケルの罷免や数万の軍隊がパリを包囲しつつあることに反感を抱き、パリの数箇所に集まり不満や不安を漏らしていました。
パレ・ロワイヤル広場では、後に革命家として活躍するデムーラン(1760年~94年)が6000人の群衆を前に「市民諸君、武器を取れ」と演説し、これに興奮した民衆は武器商を襲って武器を奪い、市民軍も結成されますが、武器・弾薬が全く不足していました。

バスティーユの占領
1789年7月14日、パリの群衆は廃兵院に数万の小銃が蓄えられているという情報を得、廃兵院を襲って3万2000丁の小銃と20門の大砲を奪取しますが、弾薬は全く不足していました。
多くの弾薬がバスティーユ牢獄にあるとの情報を得た群衆は、次にバスティーユに向かいます。
バスティーユは、15世紀後半に建設された要塞でしたが、当時は政治犯を収容する牢獄になっていたので、バスティーユ牢獄は圧制の象徴と見なされていました。
バスティーユ牢獄に殺到した2万人以上のパリ市民は、100人程の守備隊との間での 2時間を超える激しい砲撃・銃撃戦の末に、夕方にはバスティーユ牢獄を占領して囚人(たった7人だった)を釈放し、バスティーユ牢獄襲撃の翌日に、ラ・ファイエットはパリ国民軍司令官に就任します。
バスティーユ牢獄襲撃をもってフランス革命の勃発とされ、フランス革命開始の日、7月14日はフランスの祭日(パリ祭)となっています。
ジョークは如何?
ヒトラーがゲーリングとともに列車で前線の視察に出た。
帰りは夜行列車。ある駅に停まった時のこと。
ゲーリング「ここはどのあたりですかね」
ヒトラー「こうすればわかるさ」
ヒトラーが窓の外に手を出すと、窓の外にいた誰かが手にキスをしてきた。
ヒトラー「ここはルーマニアだ」
次の駅で同じように手を出すと、唾を吐きかけられた。
ヒトラー「ここはチェコだ」
次の駅では、腕時計をもぎとられた。
ヒトラー「ここはポーランドだ」
次の駅では、何かを手渡された。爆弾だった。
導火線に火がついている。
ゲーリング「わかりますよ。ここはドイツでしょう」
続く・・・
2革命の勃発(その1)

ルイ15世(在位1715年~74年・ルイ・ミシェル・ヴァン・ロー画 ヴェルサイユ宮殿蔵)
フランスは、ルイ14世の晩年には度重なる侵略戦争と宮廷の奢侈により、既に国家財政は破綻の兆しを見せていました。
次のルイ15世(在位1715年~74年、ルイ14世の曾孫)の時代に、ヨーロッパに於けるオーストリア継承戦争(1740年~48年)・七年戦争(1756年~63年)、それと並行して起こった新大陸のジョージ王戦争(1744年~48年)・フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)、更にインドに於ける植民地争奪戦等で莫大な戦費を費やし、国家財政は益々悪化した上にルイ16世(在位1774年~92年、ルイ15世の孫)は、アメリカ独立戦争(1775年~83年)に介入し、20億リーブルの戦費を費やしています。

ルイ16世(在位:1774年5月10日 - 1792年8月10日)
当時のフランスの国庫収入は年間約5億リーブルといわれ、ルイ14世以来の財政赤字は累積し1789年には約45億リーブルに達していたと云われており、その為革命直前のフランスは国庫収入の半分以上を国債の利子の支払いに充てなければならない程の財政危機に陥っていました。

ローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune, 1727年5月10日 - 1781年3月18日)
ルイ16世は、即位後、重農主義者のテュルゴー(1727年~81年)を財務総監に任命し(1774年)財政の立て直しを図ります。
彼は穀物取引の自由化・ギルドの廃止等の自由主義改革による財政再建を企てますが、特権階級の反対を受けて失脚しました(1776年)。

ジャック・ネッケル(Jacques Necker, 1732年9月30日 - 1804年4月9日)
テュルゴーの後、スイス生まれの銀行家であるネッケル(1732年~1804年)が財務総監に任命され(1777年~81年、88年~90年)、ネッケルは宮廷費の削減や貴族への年金の停止等の支出の削減によって財政危機を打開しようと試みましたが、王妃や貴族の猛反発の為辞任を余儀なくされました(1781年)。

シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ(Charles Alexandre de Calonne,1734年1月20日 - 1802年10月30日)
ネッケルの財政政策を批判して1783年に財務総監となったカロンヌ(1734年~1802年)は、当初積極財政を試みるものの成功せず、終に特権身分の免税特権の打破以外に財政危機は解決できないと考えて改革案を作成し、名士会(近代フランスの身分制諮問議会、三部会と異なり、王族・大貴族・司教・知事・高等法院院長・大都市の市長・地方三部会の代表等からなるメンバーは国王の任命による)を召集してその支持を得ようとしますが、強硬な反対を受けて失脚します(1787年)。
特権身分に対する課税の企てを失敗させた貴族は、更に特権身分の免税特権を再確認させようとして、1615年以来開かれていなかった三部会の召集を要求し、第三身分もこれに賛同しました。

三部会
1788年にはネッケルが再び財務総監に就任(88年~90年)、ネッケルもこの頃には特権身分への課税(免税特権の廃止)を主張していましたが、就任の条件として三部会を1789年5月に召集することを要求し、宮廷もこれを承認しました。
三部会の召集が決定すると、貴族は旧来の三部会の召集を要求しましたが、第三身分は第三身分の代表者数を他の身分の倍にすること、又三部会に於いては身分制によらず多数決の議決を要求し、その要求が認められる迄は、租税の支払いを拒否すると云う強硬な態度に出た為、結局貴族は第三身分の代表者数を他の身分の倍にすることを承認し、1789年1月に三部会の召集が公表され、選挙戦が始まりました。

エマニュエル・ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès、1748年5月3日 - 1836年6月20日)
シェイエス(1748年~1836年)は、1789年の初めに『第三身分とは何か』と題するパンフレットを著し、三部会召集に際して特権身分を攻撃し、「第三身分とは何か・・・すべてである。今日までのその政治的地位はいかなるものであったか・・・無。それは何を求めたか・・・そこで相当なものになること」と述べて第三身分の権利を主張します。
シェイエスは聖職者出身でしたが、三部会には第三身分の代表として選出され、革命初期には理論的指導者として活躍しました。
1789年5月5日、選出された各身分の代表者が各地の陳情書を携えてヴェルサイユに集まり、三部会の開会式が行われます。
三部会の各身分の定数は、300・300・600と定められていましたが、この時ヴェルサイユに集まったのは第一身分(聖職者)代表308名、第二身分(貴族)代表290名、第三身分(平民)代表594名と云われています。
しかし、会議は初めから議決方法をめぐって紛糾します。
第一身分と第二身分は旧来の身分別の議決を、第三身分は一人一票の合同議決(多数決)を主張しました。
身分別議決とは、各身分別部会毎に議決する方法で、例えば特権階級への課税が議題となった時、第一身分と第二身分は反対、第三身分が賛成しても、反対2・賛成1で否決される議決方法です。
その為、この議決方法では第三身分の主張が通る可能性は先ず在りませんでした。
これに対して一人一票の合同議決の場合では、第一身分・第二身分と第三身分はほぼ同数となり、特権身分の中にも第三身分の主張に同調する進歩的な人々が存在した結果、第三身分の方が有利になると考えられており、この為双方共に譲らず三部会は、40日間に亘って紛糾しました。

6月17日国民議会結成 6月22日 テニスコートの誓い
こうした状況のなかで、シェイエスは第三身分の代表者だけで議会をつくることを主張し、第三身分の代表者達は三部会よりの分離を宣言し、第三身分こそ真に国民を代表するものであるとして「国民議会」(1789年6月~1791年9月)と称しました(6月17日)。
第三身分の断固とした態度に動揺した第一身分(聖職者)の部会も国民議会に合流することを議決します(6月19日)。
翌1789年6月20日、国王が議場を閉鎖した結果、議員達はヴェルサイユ宮殿内の室内球戯場に集合して会議を開き、憲法制定迄は解散しない事を誓い、この誓いが有名な「球戯場(テニスコート)の誓い」で、この時の情景は、フランス古典主義の代表的画家であるダヴィドによって劇的に描かれています。
国王は国民議会を武力で解散させようと試みますが、聖職者・貴族の中から次々に同調者が現れて国民議会に合流し、もはや身分別審議が不可能となり、国王は終に国民議会を承認し(6月27日)、国民議会は、憲法制定議会と改称して、憲法の制定に着手しました(7月9日)。
しかし、国民議会を一旦は承認した国王は保守的な貴族に動かされて外国人傭兵隊をパリ郊外に集結させ、武力による議会弾圧を図った為に事態が急迫し、しかもその責任を問うてネッケルを罷免します(7月11日)。

ルシー・シンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins、1760年3月2日 - 1794年4月5日)
翌7月12日、前年からの凶作の為にパンの値上がり・不足に苦しんでいたパリの民衆は、当時民衆に人気のあったネッケルの罷免や数万の軍隊がパリを包囲しつつあることに反感を抱き、パリの数箇所に集まり不満や不安を漏らしていました。
パレ・ロワイヤル広場では、後に革命家として活躍するデムーラン(1760年~94年)が6000人の群衆を前に「市民諸君、武器を取れ」と演説し、これに興奮した民衆は武器商を襲って武器を奪い、市民軍も結成されますが、武器・弾薬が全く不足していました。

バスティーユの占領
1789年7月14日、パリの群衆は廃兵院に数万の小銃が蓄えられているという情報を得、廃兵院を襲って3万2000丁の小銃と20門の大砲を奪取しますが、弾薬は全く不足していました。
多くの弾薬がバスティーユ牢獄にあるとの情報を得た群衆は、次にバスティーユに向かいます。
バスティーユは、15世紀後半に建設された要塞でしたが、当時は政治犯を収容する牢獄になっていたので、バスティーユ牢獄は圧制の象徴と見なされていました。
バスティーユ牢獄に殺到した2万人以上のパリ市民は、100人程の守備隊との間での 2時間を超える激しい砲撃・銃撃戦の末に、夕方にはバスティーユ牢獄を占領して囚人(たった7人だった)を釈放し、バスティーユ牢獄襲撃の翌日に、ラ・ファイエットはパリ国民軍司令官に就任します。
バスティーユ牢獄襲撃をもってフランス革命の勃発とされ、フランス革命開始の日、7月14日はフランスの祭日(パリ祭)となっています。
ジョークは如何?
ヒトラーがゲーリングとともに列車で前線の視察に出た。
帰りは夜行列車。ある駅に停まった時のこと。
ゲーリング「ここはどのあたりですかね」
ヒトラー「こうすればわかるさ」
ヒトラーが窓の外に手を出すと、窓の外にいた誰かが手にキスをしてきた。
ヒトラー「ここはルーマニアだ」
次の駅で同じように手を出すと、唾を吐きかけられた。
ヒトラー「ここはチェコだ」
次の駅では、腕時計をもぎとられた。
ヒトラー「ここはポーランドだ」
次の駅では、何かを手渡された。爆弾だった。
導火線に火がついている。
ゲーリング「わかりますよ。ここはドイツでしょう」
続く・・・
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コメント
このところ夏日が続いています。
山科川遊歩道沿いの土手の雑草もかなり伸びてきたと思っていましたら、
今日造園業者の人が雑草を刈りに来ていました。
誰しも考えることは一緒だと感じました。
2016-05-14 23:19 葉山左京 URL 編集
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2016-05-14 23:58 編集
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2016-05-15 04:52 編集
葉山左京様、おはようございます。
何時の間にか、庭の紫陽花の花芽が姿を見せています。
散歩道の到る処でカエルの合唱が聞こえ、ツバメが一生懸命、餌探しをしています。
思えば、この様な光景は、私の小学生、中学生時代には、普通の風景でしたが、今では限られた場所でしか見る事が出来ません。
良い日曜日になりますように。
2016-05-15 07:26 秋葉 奈津子 URL 編集
気温は29℃の予報ですが、窓から吹き込む風はヒンヤリしています。
窓からは醍醐の山の新緑が鮮やかに見えます。
今日は「葵祭」下鴨神社から上賀茂神社と巡り、祭典.東遊.走馬の儀があります。
また西の嵐山では「三船祭」平安貴族の舟遊びが開かれます。
京都は観光都市なので何かを催しておるようです。
2016-05-15 09:51 葉山左京 URL 編集
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2016-05-15 23:02 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日の朝は、今の処止んでいますが、気温は高く20度を軽く越えています。
庭の雑草が一段と伸びましたが、改めた雑草の力強さを感じます。
この様なお天気ですが、ツバメや鳩、雲雀は元気に餌を探しています。
京都は流石に神社、仏閣が多いだけに行事も多いですね。
やはり、良いお天気が一番です。
2016-05-16 06:37 秋葉 奈津子 URL 編集
今宵は雨が降り風が強く吹いています。
明日の朝までに晴れてくれるといいのですが。
そいえば、このところ朝晩に鶯の鳴き声が聞こえてきます。
久しぶりに聞く鶯の声が、
懐かしく感じられます。
メジロには春先から遭遇しますが、
鶯にはなかなか会えません。
2016-05-16 22:01 葉山左京 URL 編集
今日、茄子とトマトときゅうりとズッキーニの苗を植えました。トマトは3種類、ミニトマトと桃太郎と中玉のトマト
うまく育つか心配です。なすはプランターに
明日植えようと思います。
成長過程を時間が取れたらブログに載せますね。
2016-05-16 23:07 yumiおばさん URL 編集
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2016-05-16 23:10 編集
昨夜からの雨がまだ尾を引いているようです。
まだかなり降っています。
仕事に行く時は雨止んでくれるといいのですが。
まだ梅雨入りには早いですね。
2016-05-17 05:51 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
当に、雲一つない青空が広がっています。
昨日は夕方迄、猛烈な雨に見舞われました。
ジロくんとの散歩コースも至る所に、大量の雨水が流れた跡がはっきりと判る程です。
私の勤務先も雨漏りで、机やロッカーを動かす等大変な1日でした。
夜は、気温もグッと下がり、暖房器具が必要な位の寒さです。
5月中旬ですが、お天気が今一つ安定しません。
沖縄は梅雨入りですが、今年の梅雨も心配です、
2016-05-17 08:21 秋葉 奈津子 URL 編集