2016/05/17

歴史を歩く191

1フランス革命とナポレオン③

2革命の勃発(その2)


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『サン・キュロットに扮した歌手シュナール』(1792年、ボワイユ画)

 バスティーユ牢獄襲撃の報告が夜になってヴェルサイユ宮殿に届いた時、ルイ16世は「なに、パリに叛乱(暴動)が起こったのか?」と尋ね、これに対して侍従は「いいえ陛下、叛乱(暴動)でなく革命でございます」と答えたと云われています。

 ルイ16世(1754年~93年、在位1774年~92年)は、穏和で実直だがお人好しで優柔不断の性格の人物で、趣味は錠前作りと狩猟でした。
特に狩猟を好み3日に1日の割合で狩りに出かけたと云われ、彼の日記には狩猟の事が多く書かれており、狩猟をしなかった日の日記には「何もなし」と書いていました。
7月13日の日記は「何もなし」、そして7月14日の日記は空白で何も書かれていません。

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マリ・アントワネット(1755年~93年)・シャルル・ルブラン1785年作

 ルイ16世の妃が有名なマリ・アントワネット(1755年~93年)で、マリ・アントワネットは、オーストリア女帝マリア・テレジアの末娘に生まれ、ハプスブルク家とブルボン家の政略結婚でフランス皇太子妃となり(1770年)、1774年に王妃となりました。
彼女は良い意味では無邪気・純情で陽気、悪く例えれば気まぐれで軽率、遊び好きでした。
奢侈にふけり、宮廷費を浪費し、又無思慮な行動によって国民の人望を失い、フランス革命が始まると王政維持の為に反革命工作に終始し、生国オーストリアと連絡をとり、ミラボーの死後、オーストリアへの逃亡を図って失敗し(ヴァレンヌ逃亡事件、1791年)、国民の国王への信頼を失墜させたのです。

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ヴァレンヌ逃亡事件

 バスティーユ牢獄襲撃の知らせはたちまち全土に広まり、全国的な農民暴動が起こります。
農民達は貴族領主や大地主の館を襲撃し、封建的な租税や賦役の根拠となった土地台帳を焼却し、抵抗した場合には館に火を付け、領主を殺害しました。
この様な情勢に恐怖を感じた一部の貴族は国外へ逃亡を始めます。

 この「大恐怖」に危機感をもった国民議会は、8月4日に「封建的特権の廃止」を決議しました。この決議は、自由主義貴族が革命の進行を防ぐ目的で提案したものですが、これによって農民の人格的自由が認められ、農奴制・領主裁判権・賦役・十分の一税等が無償で廃止されましたが、生産物や貨幣で領主に納める貢納の廃止は有償とされ、20年乃至25年分の地代に相当する金を領主に支払わねばならなかったので、実際に貢納から解放された農民は僅かな数でした。
又特権身分は免税特権が廃止され、総ての人が収入に応じて税を納めることも決議されたので、全国的な農民暴動は急速に沈静化します。

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フランス人権宣言

 1789年8月26日、国民議会は憲法の前文にあたる「フランス人権宣言(人間および市民の権利の宣言)」を採択しました。

 国民議会は憲法制定議会と改称した後、憲法制定の審議を進めていましたが全国的な暴動が一応沈静化した後に審議は本格化し、8月26日に人権宣言を採択した。ラ・ファイエット等によって起草された人権宣言にはルソーの思想やアメリカ独立宣言の影響が見られます。

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マリー・ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵:(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette、1757年9月6日 - 1834年5月20日)

 ラ・ファイエット(1757年~1834年)は、名門貴族の家庭に生まれ、パリで学んだ後に軍に入隊し、アメリカ独立戦争が起こると義勇兵を率いて、ワシントンの副官として活躍し、自由主義者として名声を博しました。
帰国後、自由主義貴族の代表的存在となり、三部会の召集を主張し、貴族身分の代表となり、バスティーユ牢獄襲撃の翌日にパリ国民軍司令官に就任、人権宣言の起草でも活躍しますが、革命の激化によって保守化し、1792年8月にオーストリアに亡命します。

 人権宣言は、全文と17カ条からなり、主な条文は次の通りです。

 第1条 人間は自由かつ権利に於いて平等なものとして生まれ、又存在する。社会的な差別は共同の利益にもとづいてのみ設けることができる。
 第2条 あらゆる政治的結合(国家)の目的は、人間の自然で時効により消滅することのない権利の保全である。それらの権利は、自由、所有権、安全および圧制への抵抗である。
 第3条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民のうちに存する。いかなる団体、いかなる個人も、国民から明白に由来するものでない権威を行使することは出来ない。
 第4条 自由とは他人を害しない限り、何事をもなし得ることである。・・・。
 第17条 所有権は神聖かつ不可侵の権利であるから、何人も適法に確認された公共の必要が明白にそれを要求する場合であって、また事前の公正な補償の条件の下でなければ、それを奪われることはない。
(山川出版社「詳説世界史」より)

 人権宣言は、総ての人間の自由・平等を高らかに謳いあげ、主権在民・言論の自由・私有権の不可侵など革命の精神を明らかにしたもので、第2条・第17条で所有権の不可侵を主張しているのは、当時の革命を指導した人々が、自由主義貴族や富裕な市民等、多くの財産を持った人々であったことを示しています。

 しかし、ルイ16世は、封建的特権の廃止宣言や人権宣言の承認を拒み、軍隊をヴェルサイユに集めて議会弾圧を企てようとしており、又依然としてパンをはじめ食料品が値上がりして貧しい人々の生活を圧迫していた為、パリの民衆は再び立ち上がりました。

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「パンをよこせ」

 1789年10月5日の早朝、パリの広場に集まった約7000人の主婦が「パンをよこせ」と叫び、やがて国王と議会にパンを要求する為にヴェルサイユに向かって行進を開始し、ラ・ファイエットの率いる2万の市民軍がその後に続きます。
彼等は雨の中を約20km、6時間かけて行進してヴェルサイユに到着しました。

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ヴェルサイユ行進

 この日もルイ16世は狩りに出かけていて、彼等は更に4時間近く待たされ、帰ってきた国王がパンの配給を約束したので事態はやや沈静化しましたが、翌6日の明け方に武装した市民の一部が宮殿内に侵入し、近衛兵と衝突して数名の兵士が殺され、これに興奮した民衆が宮殿に乱入して略奪を行うと共に国王を捕らえ、国王がパリに帰ることを要求し、その日の午後に国王一家をパリに連行しました。
これが有名な「ヴェルサイユ行進(十月事件)」です。

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テュイルリー宮殿への強制移動

 国王一家は、この日からテュイルリー宮殿(パリにある旧王宮、16世紀後半に建造が始まり、ルイ14世時代に完成したが、ヴェルサイユ宮殿が造営されるとそちらに移ったので、以後長く放置されていた)に入りパリ市民の監視下に置かれる事態になり、又国王一家と共に国民議会もパリに移動しました。

 この事件の際、ルイ16世は封建的特権の廃止宣言や人権宣言を承認したので、以後政局は安定に向った様に見えましたが、フランス革命のきっかけとなった財政危機はまったく解決されておらず、国民議会は、その解決策として教会財産の国有化(教会財産の没収)を決議し(1789年12月)、翌1790年に実施に移されました。

 1790年には国民議会は封建的地方制度を廃止して新たに全国の行政区画を定め、又ギルド廃止や度量衡統一等の改革を実施し、又バスティーユ牢獄陥落の1周年を記念して全国連名祭が行われ(1790年7月14日)、ルイ16世は憲法維持を誓いました。

 当時の国民議会を指導していた人物は、自由主義貴族のラ・ファイエットやミラボー等の立憲君主主義者で、彼等は革命がこれ以上進むことを望まず、立憲王政を目指していたのでした。

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ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティ( Honoré-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau, 1749年3月9日 - 1791年4月2日)

 ミラボー(1749年~91年)は、名門貴族の家庭に生まれ、17歳で騎兵隊中尉に任官しますが、放蕩と浪費で身をもちくずして投獄され、釈放後イギリスに渡り(1784年)、帰国後は自由主義貴族として名声を高め、三部会には第三身分の代表として選出され、雄弁をもって知られ、国民議会の成立にも大きな役割を果たしますが、90年3月頃から度々宮廷に出入りし、革命派の内情を知らせて宮廷から多くの裏金を受け取るように成ります。

 ミラボーは、1791年4月に病の為、急死しますが、彼の死によってフランス革命は新たな展開を見せるのです。

ジョークは如何?

某日系商社のプラント輸出に関して

工場長「書類上は、このプラントの能力はフル稼働の70%程度にしておいてください」
日本人「へっ?」
工場長「それをもとにノルマが決まるので・・・」


続く・・・

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コメント

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秋葉奈津子様 こんばんは。

気温が常時25度前後になってきました。
梅雨に入ればもう夏祭りの季節を迎えます。
早いものですね。

少しずつですがそんな風に時間だけが経ってゆくのが怖い感じを受けます。
いつの間にか自分が年を取りこの世から消えていくのではないかと、
不安にもなります。

年は取りたくないですね!

葉山左京様、こんばんは。

私も同様、歳はとりたくないですね。
水着姿で海に行った頃は、遥かな昔に成りました。
若い方々を見ると、何か羨ましく思えるのも歳の為でしょうか。

今日も青空が広がり、暑さを感じる1日でした。
飛行機雲が幾重にも伸びてく姿は、見ていても飽きない光景です。
夜に成っても星座の中を飛行機雲が伸びています。
お天気につられて、さくらんぼの実が赤く色づいてきました。
鳥達がやって来るのももう直ぐです。

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秋葉奈津子様 こんばんは。

29℃にもなり暑い一日でした。
これからはこんな日々が訪れることでしょうね。

冬の寒さから比べれば暑い夏の方が私には合っているようです。
夏は海や山へキャンピング等色んな遊びがあります。
これから楽しい季節の始まりです!

葉山左京様、こんばんは。

今日も良いお天気に恵まれました。
さくらんぼの実は、昨日よりも赤く成り、可也目立つ様に成りました。
ツバメが地面で、一生懸命に地面を啄いています。

この時期、衣類の調整に苦労しますね。
男性の様にドバっと脱ぐことが出来ないのが、本当に辛い処です。
昼に合わせると、朝が寒く、朝に合わせると日中が暑くて困ったものです。

キャンプ等のアウトドアも、最近は億劫に成り、海に行っても風景を眺めて満足する今日この頃。
若い頃が懐かしいものです。

明日も良いお天気の様子、気温も上昇です。

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秋葉奈津子様 おはようございます。

いつもありがとうございます。

明日から4日程用事で出かけます。
その間訪問できませんのでご了解お願いします。
帰ってきましたら今まで通り訪問させていただきますので、
よろしくお願いします。

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葉山左京様、おはようございます。

ご連絡感謝です。

此方、北九州では最高気温が、25度を越える毎日に成りました。
一方、明方の気温は15度以上も在り、時には10度も差があります。
1日の温度変化について行く事も大変ですが、梅雨入りや熱帯夜もそう遠いことでは在りません。

夜のジロくんの散歩でも、アスファルトやコンクリートブロックの塀は、可也の熱を出しています。
子供の頃は、ご近所が土の路地に打ち水をしていたものですが、あのような風景はもう望めません。

良い週末に成ります様に。