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2016/05/21

歴史を歩く192

1フランス革命とナポレオン④

3王政の動揺

脱出
脱出

 ミラボーの死後(1791年4月)、宮廷・貴族を中心とする反革命派の策動はにわかに活発となります。
ミラボーは宮廷に出入りし、財政的な援助を受けて革命派の内情を国王に知らせていた為、彼の死は宮廷にとって大きな打撃でした。
彼の病死で国民議会とのパイプが切れると、国王や王妃は内外の反革命勢力に頼ってパリから脱出し、国外へ逃亡する計画を進めます。

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パリとヴァレンヌの位置関係

 事件を起こしたのは国王ルイ16世と云うよりもマリ・アントワネットですが、1791年6月20日の深夜、国王一家は亡命を企て、王妃マリ・アントワネットの生家オーストリアへ逃れ様と行動を開始します。
王妃の愛人で、スウェーデン貴族フェルゼンを中心に亡命計画が立案されました。
以前から、国王が国外逃亡を計画しているとの噂が在り、宮殿の周辺には警備の兵が詰めていたのですが、警備担当責任者ラ・ファイエットの粋な図らいで、フェルゼンが王妃の部屋へ出入りする入口だけは、警備兵が居なかったと云います。

 国王一家はこの出入口を使って宮殿を抜け出し、用意してあった馬車に乗って国境の町メッツに向かいました。
計画では、パリと国境のほぼ中間に位置する、シャロン近くで騎兵隊と合流し、騎兵隊の警護を受けベルギーとの国境近く迄進み、ベルギー側にはオーストリア軍が待機している計画で、そのメッツには、亡命を手助けするショワズール公が待っている手筈です。
馬車に乗るのは国王、王妃、二人の子供と王の妹、子供の教育係。
八頭立ての大きな馬車(通称ベルリン馬車)ですが、この馬車に多くの荷物を詰め込み、更には王妃の衣装、ワイン等、重量超過で馬車は当然スピードが落ちます。

 無事にパリから出られたのは良いのですが、もともと出発の時刻が2時間近く遅れていた上に馬車の低速が、予定の時間を更にどんどん遅れさせて行きます。
ルイ16世の鷹揚さなのか、危機感が全くなく、途中で古くからの知り合いの屋敷に立ち寄りながらメッツに向かいます。
沿道の要所には軍資金輸送の警備との名目で、亡命を助ける為の兵士が警戒に応っていたのですが、途中から予定の時間より相当に遅れた為、警備の兵が引き揚げてしまい、挙句には連絡が上手く出来なくなりました。
更に、ある村を通過する時、王が窓から顔を出して、待っていた警備部隊の指揮官に声を掛けたのですが、其の姿を革命派の村人に目撃されてしまいます。

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国王一家確保

 「王が、この様な場所に居るのは不自然、国外への亡命を画策しているのではないか」、との知らせを聞いた革命派の軍人が国王を追います。
軍人にも、王に忠誠心を持っている王党派軍人と、革命に理解を示す軍人と両方いる訳ですが、この段階では多くの指揮官クラスの軍人は、国王に同情的です。

 国王の馬車がヴェレンヌの町に来ました。
この町で味方が替え馬を連れて待っている段取りに成っていましたが、王の到着が遅く、もう深夜に成っています。
味方の部隊が見つからず、一行は町に入って、住民をたたき起こして馬の場所を尋ねました。(相当間抜け)
突然の騒動に、付近の住民が集まり、国王の一行を取り囲み、追ってきた革命派の軍人も合流します。
最初、国王は自分の身分を隠しているのですが、遂に国王と認め、すぐにパリに連絡され、国王一家は厳重な警護のもとで、25日の夕方にテュイルリー宮殿へ連れ戻されて以後軟禁状態に置かれました。

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テュイルリー宮殿に軟禁される国王一家

 この有名な「ヴァレンヌ逃亡事件」は国民に大きな衝撃を与え、国王が国民よりも外国の宮廷の方を信頼していた事実から、国民の国王に対する信頼は完全に失われ、以後共和主義が急速に台頭することに成ります。

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レオポルト2世(Leopold II., 1747年5月5日 - 1792年3月1日) 
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フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II., 1744年9月25日 - 1797年11月16日)

 ヴァレンヌ逃亡事件の2ヶ月後、神聖ローマ皇帝(オーストリア皇帝)レオポルト2世(在位1790年~92年、マリ・アントワネットの兄)はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位1786年~97年)とピルニッツで会見し、列国の君主にフランスに対する共同抗議を呼びかけてフランス王権の回復を求める宣言を発し、革命に干渉する用意があることを示しました(ピルニッツ宣言、1791年8月)。
このピルニッツ宣言は、フランス人の愛国心を燃え上がらせ、革命戦争を誘因する結果と成りました。

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1791年憲法発布

 1791年9月3日、国民議会はフランス最初の憲法である「1791年憲法」を採択します。
1791年憲法は、人権宣言を前文として207条からなり、立憲君主制・制限選挙・一院制を主な内容とし、国王は宣戦・条約締結等を除く行政権と議会が決めた法律に対する拒否権を有しており、又選挙権は一定額以上の納税者に与えられました。

 憲法制定の役割を終えた国民議会は解散し(1791年9月30日)、1791年10月1日に立法議会が召集されますが、立法議会ではフイヤン派とジロンド派を発生させました。

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バルナーヴの変節「1789年は民衆の人、1791年は宮廷の人」

 フイヤン派は、自由主義貴族や富裕市民を代表する立憲君主派で、ラ・ファイエットやバルナーヴ(1761年~93年、第三身分の代表として国民議会で活躍、ヴァレンヌ事件以後国王に接近した)らが指導者でした。
これに対してジロンド派は、中産階級や商工業者を地盤とし、穏和な共和主義を唱え、有力議員がジロンド県から選出されていたところからこの名称で呼ばれていました。

 立法議会が直面した最大の問題は対外戦争でした。
この頃、亡命貴族が外国と結んで国境に軍隊を集め、国内でも反革命の動きが活発になり、ジロンド派の中でも、戦争によって内外の反革命勢力を一挙に倒してしまおうとする主戦論が強まっていたのです。

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『ジロンド派の最後の晩餐』

 1792年3月、ジロンド派内閣が成立すると、国王に迫ってオーストリアに宣戦させ(1792年4月20日)、ここにフランス革命戦争(1792年4月~1799年1799年~1815年迄はナポレオン戦争と呼ばれる)が始まりましたが、開戦はしたものの、貴族の司令官には戦意がなく亡命する者が続出し、ベルギー戦線では敗北と後退が続き、6月にはジロンド内閣が崩壊、更にオーストリアと同盟を結んだプロイセン軍がライン地方に集結し、フランス国境に迫っていました。

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祖国は危機にあり!

 その報を受けた立法議会は「祖国危機に瀕す」とした非常事態宣言を発し(1792年7月11日)、これに応じて各地から義勇軍がパリに集まります。
義勇軍は、今迄の豊かな市民を中心に結成された国民軍とは異なり、一般の民衆や農民が祖国と革命の防衛の為に自発的に参加た義勇兵から構成され、装備や訓練は不十分でしたが闘志にあふれていました。

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「ラ・マルセイエーズ」

 この時、マルセイユから来た義勇軍によって歌われて広まった歌が、現在のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」で、「起て、祖国の子らよ 今ぞ、光栄の日は来た!吾らに向いて圧制の血なまぐさき旗ひるがえる!君聞くや、野に山に、かの暴兵どもの吼えわめく声を?彼らはすでに吾らの腕に迫り、吾らの子、吾らの妻を殺さんとする!武器を取れ、市民たちよ!汝らの軍隊を作れ!進め!進め! けがれた血で吾らの畝をうるおそう。」(山川出版社、史料世界史より)

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『ライン軍団の歌』を謳うリール大尉

 工兵大尉ルージュ・ド・リールが作曲したこの革命歌は、初めは「ライン軍の歌」として歌われたのですが、南方のマルセイユ方面に伝わり、そこからやってきた兵士達によって広められた結果、ラ・マルセイエーズと呼ばれるようになり、1875年に正式にフランス国歌に制定されます。

 「祖国危機に瀕す」とした非常事態宣言が出され、各地から義勇軍が集まり、前線に赴きますが、この危機に直面しても国王は義勇軍を認めず、かえって外国と通謀し、王妃は敵軍の司令官に一刻も早くパリに入り国王一家を救出してくれるように要請しました。

 これを受けて同盟軍側の指揮官は「もし王室に少しでも危害が加えられるならば、パリ全市を破壊して、永久に記念となるような復讐をするであろう」とする威嚇宣言を発っています。

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サンキュロット

 かねてから国王がオーストリアと通謀していることを疑っていたパリ民衆(サンキュロット、革命派の都市民衆は、当時の貴族や富裕市民が着用していた半ズボン(キュロット)をはかない者の意味でサンキュロットと呼ばれた)と義勇兵は、ジャコバン派の指導のもとで、1792年8月10日早朝、テュイルリー宮殿を強襲した王宮内に侵入し、近くの議場に難を避けていた国王を捕らえた(8月10日事件)。

 立法議会は、直ちに王権の停止を宣言し、男子普通選挙による国民公会の召集を決議し、3日後に国王一家はタンプル塔(12世紀に造られた城のなかの高い石の塔)に幽閉されました。

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ヴァルミーの戦い

 この間も、戦況は依然として不利でしたが、1792年9月20日、フランス軍はパリ東方の小村ヴァルミーでパリに迫ろうとしていたプロイセン軍を初めて撃退し(ヴァルミーの戦い)、この戦いは民衆の義勇軍が歴戦の職業軍人の軍隊に勝利をおさめた事で歴史的な戦いでも在りました。

 この戦いをプロイセン軍の陣中で目撃していたドイツの文豪ゲーテ(1749年~1832年)は「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と書き記しています。

ジョークは如何?

ナポレオンは部下に武器の掃除と靴磨きを命じた。
しかし部下はそっぽをむいて言った。
「もうすぐ遠征でしょ?今掃除したところですぐ汚れてしまいますよ」

その夜、部下達の食卓に夕食が並んでいない。
不平を言う彼らにナポレオンは言った。
「食事をとったところで諸君はまたすぐ腹が減ってしまうんだろう?」

続く・・

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