1フランス革命とナポレオン⑤4共和政の成立 1792年9月21日、ヴァルミーの戦いに勝利した中で、男子普通選挙で選ばれた国民公会が開催されました。
国民公会は、開会後ただちに王政の廃止・共和政の樹立を宣言し、この時成立した共和政は、フランス最初の共和政であった結果、第一共和政(1792年9月21日~1804年)と呼ばれます。
新しく召集された国民公会では、議員の大半を共和派が占め、中でもジロンド派とジャコバン派(山岳派)が有力でしたが、更には両派に属さない多くの議員が在籍していました。
ジャコバン・クラブの変遷 ジャコバン派は、1789年にパリのジャコバン修道院内に設立され、92年9月にジャコバン協会と称し、国民公会では91年夏迄は立憲王政派が、92年夏迄はジロンド派が、それ以後は山岳派が主力と成りました。
山岳派は、ジャコバン派最左派で、国民公会で演壇から見て最左翼の高い議席を占めていた結果、個の様に呼ばれました。
ジャコバン派(以下山岳派をジャコバン派)は、下層市民や農民の支持を受け、急進共和主義を主張しました。
国民公会では最初ジロンド派よりも劣勢でしたが、マラー・ダントン・ロベスピエール等に率いられて、革命の徹底を強調し、これ以上の革命の激化を防ごうとするジロンド派と対立しました。
ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 - 1793年7月13日) マラー(1743年~93年)は、医師ですが、革命勃発と共に「人民の友」と名づけた日刊紙を発行してパリの民衆の間で人気を博しました。
国民公会議員に選出され、ジャコバン派の指導者として活躍しましたが、後にジロンド派の女性に自宅の浴室で刺殺されます(1793年7月)。
ジョルジュ・ジャック・ダントン(仏: Georges Jacques Danton, 1759年10月26日 - 1794年4月5日) ダントン(1759年~94年)は、パリで弁護士を営み、革命開始と共にパリで活躍し、ジロンド派内閣では法相に起用され、更に国民公会に選出され、マラー・ロベスピエール等とジャコバン派の指導者となり、公安委員会委員としてジロンド派の逮捕・反革命の鎮圧等に尽力しましたが、後にロベスピエールと対立し、ギロチンで処刑されます(1794年4月)。
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(仏: Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)
ロベスピエール(1758年~94年)は、弁護士から三部会に選出され、国民議会では左派に属して雄弁で知られ、立法議会への現国民議会議員の立候補を禁止する法案を成立させました。
従って立法議会時代は議員でなく、ジャコバン・クラブを指導して対外戦争に反対し、ジロンド派と対立しました。
高潔な人格と清廉の士として評判が高く、国民公会にはパリから首位で選出され、国王裁判・ジロンド派の追放等に活躍し、ジャコバン派の独裁を現出し、恐怖政治を行った中心人物です。
屋内馬術練習場で行われた国王裁判(1793年1月) 国民公会が直面した最大の問題は国王裁判でした。
ジャコバン派は、国王の処刑を主張してジロンド派と争い、国王裁判は11月に始まり、翌1793年1月14日に票決が行われます。
「ルイは有罪か」については、693対28の圧倒的多数で有罪が決定し、「判決には国民の承認を求めるべきか」については大差で否決され、そして「いかなる刑をルイに科すべきか」について票決が行われ、387人が死刑に賛成し、334人は死刑以外の刑に賛成しました。
但し、387人の中には26人の死刑執行猶予の条件付き賛成であったので、もしこれが反対にまわれば、361対360と成り殆ど同数の票決でしたが、「刑の執行を猶予すべきである」とする提案が成されると、これは310対380で否決されました。

断頭台に向かうルイ16世 1793年1月21日、午前11時頃、軍隊と群衆が取り巻く革命広場(現コンコルド広場)で、ルイ16世はギロチン(断頭台)で処刑され、ルイ16世の処刑はヨーロッパ諸国の君主に強い衝撃を与えたのでした。
これより先、1792年秋頃からフランス軍は攻勢に転じ、国境を越えてベルギーやライン地方へ進出してベルギーを占領します(1792年11月)。
イギリスは、其れまで革命に好意的で不干渉主義の立場を示していましたが、フランス軍がネーデルランド方面に進出すると、フランスを敵視してオランダを支援し、やがてルイ16世の処刑が実行されると、イギリスはフランスと国交断絶を通告、これに対して国民公会はイギリスとオランダに宣戦を布告し(1793年2月)、更にスペインにも宣戦しました(1793年3月)。
ウィリアム・ピット(William Pitt (the Younger)、1759年5月28日 - 1806年1月23日)
この様な状況の中でイギリス首相ピット(1759年~1809年)の提唱によって、オーストリア・プロイセンの同盟にイギリス・オランダ・スペイン・ロシアが加わり、第1回対仏大同盟(1793年~97年)が結成さます。
この為、フランスは全ヨーロッパを敵にまわして戦わねばならなくなり、国内でも王党派による反革命内乱が起こり、ジャコバン派とジロンド派の対立が激化する等、フランスは内外の危機に曝される事に成りました。
この内外の危機を克服する為に、ジャコバン派は革命裁判所(1793年3月)・公安委員会(1793年4月)を設置し、更に最高価格令を公布して(1793年5月)、民衆の協力によって危機を克服しようと試みました。
反動反革命分子の連行 革命裁判所は、政治犯審理の為にパリに設置され、反革命分子や政敵を逮捕すると簡単な審理でギロチンに送り、恐怖政治の重要な一機関として機能します。
公安委員会は、国民公会内部委員会として設けられましたが、ロベスピエールの加入(1793年7月)以後は、政治・軍事の最高指導機関として、事実上の政府機能を果たすことに成ります。
又最高価格令は、インフレと生活必需品の欠乏から国民を守る為に、先ず穀物に、9月以後は全生活必需品に適用範囲を広げ、最高価格の設定に伴い、違反者は反革命容疑者として逮捕されたのです。
ジョークは如何?
フランスを訪れたソ連の経済学者が、フランスの蔵相に向かって言った。
「貴国の経済はひどい状態ですな。こんな貧困をみるのは初めてですよ」
「おっしゃる意味が分かりませんね」と蔵相は答えた。
「我が国の商店にはあらゆる種類の商品が山と積まれていますが」
するとソ連の経済学者が言った。
「しかしですな、一人として手が出せないようなありませんか。貴国に滞在中、
私はただの一度も、人々が行列しているところを見かけませんでしたよ」
続く・・・
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コメント
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2016-05-24 23:22 編集
やっと用事も終わり今日から仕事についています。
夕方からパラパラ降り出した雨も、
降ったり止んだりの慈雨でしょうか。
また応援の訪問できるようになりましたので、
これからもよろしくお願いします。
2016-05-26 21:48 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
庭の紫陽花の花が、少しづつですが、薄いピンク色に染まり始めました。
空も何時も雲が直ぐ傍に有る様な、錯覚を覚えるほど低く垂れこめて、梅雨の走りの様に感じます。
未だ、暑さを感じるには、もう暫く時間がありそうですが、ジメジメとした梅雨は嫌ですね。
今年は、カタツムリの姿を良く目にします。
昨年は少なかったカタツムリですが、今年は普段通りの様です。
今年の梅雨は陽性でしょうか?
2016-05-26 23:19 秋葉 奈津子 URL 編集
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2016-05-27 00:25 編集
葉山左京様、おはようございます。
月日の流れが本当に早く感じる様に成りました。
今日は朝から曇り空が広がり、ジロくんの散歩の時には、ポツリポツリと雨粒が。
でも其れで終わったのでホッとしました。
ツバメ達が元気に餌を探して飛び回っていますが、超低空飛行です。
やはり、お天気も下り坂でしょうか?
2016-05-27 08:38 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
なかなか草刈が出来ず、今回の雨で又ボウボウに成りそうです。
紫陽花の花が、色付き始めました。
今年の梅雨は、雨が多いのか気にかかります。
2016-05-28 06:33 秋葉 奈津子 URL 編集