歴史を歩く194
1フランス革命とナポレオン⑥
5ジャコバン派の独裁

『ナントの溺死刑』 ジャコバン派独裁政治下で行われた溺死処刑
内外の危機に直面したジャコバン派は、1793年6月2日、サンキュロットの力を背景にジロンド派を国民公会から追放して国民公会の指導権を掌握し、以後急進的な諸改革を次々に強行して行きます。
国民公会は、先ず「1793年憲法」を採択しました(1793年6月24日)。
1793年憲法は、ジャコバン憲法とも呼ばれ、人民主権・男子普通選挙・抵抗=蜂起権・人民の生活権等を主な内容とし、1791年憲法に比べて遥かに民主的な憲法でした。
国民投票で承認されたものの、革命の激化で実施が延期され(1793年10月)、結局実施されることは在りませんでした。
又7月には「封建的貢租の無償廃止(封建的特権の無償廃止)」を最終的に確定しました(1793年7月17日)。
封建的貢租の無償廃止はジャコバン派が行った改革のなかで最も重要な改革であり、これによって領主権の無条件・無償廃止が行われました。
1789年8月の封建的特権の廃止宣言では、貢租の廃止は有償とされ、貧しい農民の大部分は依然として貢租を負担し続けてきましたが、この土地改革によって貢租が無償廃止され、多数の農民は中小土地所有者となり、以後フランス社会の中間層を形成していくことに成ります。
同時に国外に逃亡した亡命貴族や聖職者から没収した土地(国有財産)が分割されて競売に付されていきました。
更に徴兵制の実施(1793年8月)・革命暦の制定(1793年10月5日)・理性の崇拝(1793年11月)・メートル法実施の決定等が行われました。
徴兵制は、1793年2月に30万人の募兵を決定し、同年8月には世界史上初めて全国民を対象とする徴兵制が決定されました。

革命歴の寓意画
革命暦は、反キリスト教の立場からイエスの誕生を紀元元年とするグレゴリ暦を否定し、第一共和政が成立した1792年9月22日を紀元第1日とし、1年を12ヶ月、1ヶ月を30日、残りの5日をサンキュロットの日として祭日とし、又1週7日制も廃止されて10日毎に休日を設けた暦で共和暦とも呼ばれます。
月の名前も全て自然現象から命名され、9月22日より30日間はヴァンデミエール(葡萄月)、10月22日より30日間はブリュメール(霧月)、以下霜月・雪月・雨月・風月・芽月・花月・草月・収穫月、7月19日より30日間はテルミドール(熱月)・実月の様に呼ばれました。
革命暦は1793年10月5日に採用が決定され、1805年9月にグレゴリ暦への復帰が決定されて1806年1月1日に正式に廃止される迄存続します。

最高存在の祭典
理性の崇拝は、反キリスト教運動の為に行われた合理主義的な宗教儀式で、1793年秋からパリをはじめとして各地で行われましたが、ロベスピエールは1794年春にこの儀式を廃止して最高存在の崇拝に代えています。
メートル法は、度量衡の統一が行われた1790年から進められ、1793年に国民公会で実施が決定され、1799年に正式に採用されて現在では全世界で使用されています。
パリを通る子午線(地球の周囲)の4000万分の1を1mと定めましたが、これは度量衡の基準を不動なものに求めた合理主義の現れでした。

革命歴2年の公安委員会
ジャコバン派は、急進的な諸改革を進める一方で、公安委員会や保安委員会の権限を掌握し、独裁体制を強化して行きました。
特に事実上の政府とも云うべき公安委員会は、ロベスピエールの加入後(1793年7月26日)権威が高まり、ジャコバン派独裁の中心機関に成長します。
保安委員会は、国民公会内の委員会として設置され(1792年10月)、治安・警察権を担当し、公安委員会に継ぐ権限を有しました。
ジャコバン派は、ジロンド派の追放以後、国民公会の指導権を握り、公安委員会・保安委員会・革命裁判所等を指導下に治め、反対派を圧殺する革命的テロリズム、いわゆる「恐怖政治」(1793年6月~1794年7月)を行ったのでした。

マリ・アントワネットの処刑
特に1793年10月16日のマリ・アントワネットの処刑後、多くのジロンド派の人々や反革命容疑者がギロチンで処刑されます(10月から12月迄に177名)。
徴兵制の実施によって、フランス軍は60万人以上に達し(同盟国軍は計約40万人)、1793年の秋以後、フランス軍は各地で次々と勝利を収め、戦局は好転して対外的な危機は遠のきましたが、ジャコバン派が行った経済統制の成果は上がらず、物価の値上がりは依然として続き、又封建的貢租の無償廃止によって土地を得た農民や経済的な自由を求める商工業者は次第に保守化し、ジャコバン派の独裁に対する不満が高まり、恐怖政治への不安も強まって行きました。

『国民公会でのロベスピエールの打倒』マックス・アダモ (de:Max Adamo) 作(1870年)
こうした状況の中で、ジャコバン派の指導者内部にも対立が生じ、ロベスピエールは過激派のエベールや穏健派のダントンを処刑して、ますます独裁を強化して行きます。

ジャック=ルネ・エベール(Jacques René Hébert, 1757年11月15日 - 1794年3月24日)
エベール(1757年~94年)は、大衆新聞を発行してパリ民衆に大きな影響力を持つようになり、民衆運動の指導者と成り、ジャコバン派に属して8月10日事件を指導して台頭し、恐怖政治時代にはサンキュロットを代表して最高価格令や理性の崇拝等を要求してエベール派(ジャコバン派の左派)を率いましたが、やがてロベスピエール派と対立し、公安委員会への反乱を企て、逆に逮捕・処刑されます(1794.年3月)。

ダントン処刑
ダントンは、ジャコバン派の右派の中心人物として、ダントン派を形成し、革命の過激化を嫌い、恐怖政治の緩和を主張してロベスピエールと対立し、1794年4月に処刑されました。
ロベスピエールは、ダントン処刑以後完全な独裁権を握り、革命の徹底化を図り、反対する者を反革命容疑で続々と逮捕・処刑し、その恐怖政治は絶頂に達しました。
1794年5月には346人が、6月には689人が、そしてピークの7月には936人がギロチンによって処刑されています。
この間、ロベスピエールの独裁に反感を持つ人々によって反ロベスピエール派が形成され、彼等はロベスピエール打倒に動き始めます。
ジャコバン派の国民公会議員の中にも、その地位を利用して私腹を肥やしてきた人士等、ロベスピエールの告発を恐れる人々が存在し、彼等は自分がギロチンに送られる前に、先手をうってロベスピエールを倒そうと考え、ジャコバン派以外の国民公会議員と結んで反ロベスピエール派を形成しました。
1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、この日開かれた国民公会は反ロベスピエール派による演説妨害・ロベスピエールへの攻撃演説で大混乱に陥り、その混乱の中でロベスピエール派の逮捕が決定されます。

「テルミドール10日の朝」に於ける瀕死のロベスピエール
ロベスピエールは一旦逮捕されて監獄に送られますが、収監を拒否されてパリ市役所に逃れるものの、翌28日午前2時頃、市役所は反ロベスピエール派の国民公会部隊に襲われ、ロベスピエールはピストル自殺を図るも、顎を砕いただけで失敗に終わり、再び逮捕され革命裁判所で形式的な尋問を受けただけで死刑の宣告を受け、28日の夕方に処刑されました。
この一連の事件が有名な「テルミドールのクーデター(テルミドールの反動)」で、これによってジャコバン派の独裁と恐怖政治は終わりを告げました。
ジョークは如何?
モスクワの街頭にて。
「今度「プラウダ」が懸賞つきで政治ジョークを募集するらしいぜ」
「へえ、一等賞はなんだい?」
「シベリア送りさ」
続く・・・
5ジャコバン派の独裁

『ナントの溺死刑』 ジャコバン派独裁政治下で行われた溺死処刑
内外の危機に直面したジャコバン派は、1793年6月2日、サンキュロットの力を背景にジロンド派を国民公会から追放して国民公会の指導権を掌握し、以後急進的な諸改革を次々に強行して行きます。
国民公会は、先ず「1793年憲法」を採択しました(1793年6月24日)。
1793年憲法は、ジャコバン憲法とも呼ばれ、人民主権・男子普通選挙・抵抗=蜂起権・人民の生活権等を主な内容とし、1791年憲法に比べて遥かに民主的な憲法でした。
国民投票で承認されたものの、革命の激化で実施が延期され(1793年10月)、結局実施されることは在りませんでした。
又7月には「封建的貢租の無償廃止(封建的特権の無償廃止)」を最終的に確定しました(1793年7月17日)。
封建的貢租の無償廃止はジャコバン派が行った改革のなかで最も重要な改革であり、これによって領主権の無条件・無償廃止が行われました。
1789年8月の封建的特権の廃止宣言では、貢租の廃止は有償とされ、貧しい農民の大部分は依然として貢租を負担し続けてきましたが、この土地改革によって貢租が無償廃止され、多数の農民は中小土地所有者となり、以後フランス社会の中間層を形成していくことに成ります。
同時に国外に逃亡した亡命貴族や聖職者から没収した土地(国有財産)が分割されて競売に付されていきました。
更に徴兵制の実施(1793年8月)・革命暦の制定(1793年10月5日)・理性の崇拝(1793年11月)・メートル法実施の決定等が行われました。
徴兵制は、1793年2月に30万人の募兵を決定し、同年8月には世界史上初めて全国民を対象とする徴兵制が決定されました。

革命歴の寓意画
革命暦は、反キリスト教の立場からイエスの誕生を紀元元年とするグレゴリ暦を否定し、第一共和政が成立した1792年9月22日を紀元第1日とし、1年を12ヶ月、1ヶ月を30日、残りの5日をサンキュロットの日として祭日とし、又1週7日制も廃止されて10日毎に休日を設けた暦で共和暦とも呼ばれます。
月の名前も全て自然現象から命名され、9月22日より30日間はヴァンデミエール(葡萄月)、10月22日より30日間はブリュメール(霧月)、以下霜月・雪月・雨月・風月・芽月・花月・草月・収穫月、7月19日より30日間はテルミドール(熱月)・実月の様に呼ばれました。
革命暦は1793年10月5日に採用が決定され、1805年9月にグレゴリ暦への復帰が決定されて1806年1月1日に正式に廃止される迄存続します。

最高存在の祭典
理性の崇拝は、反キリスト教運動の為に行われた合理主義的な宗教儀式で、1793年秋からパリをはじめとして各地で行われましたが、ロベスピエールは1794年春にこの儀式を廃止して最高存在の崇拝に代えています。
メートル法は、度量衡の統一が行われた1790年から進められ、1793年に国民公会で実施が決定され、1799年に正式に採用されて現在では全世界で使用されています。
パリを通る子午線(地球の周囲)の4000万分の1を1mと定めましたが、これは度量衡の基準を不動なものに求めた合理主義の現れでした。

革命歴2年の公安委員会
ジャコバン派は、急進的な諸改革を進める一方で、公安委員会や保安委員会の権限を掌握し、独裁体制を強化して行きました。
特に事実上の政府とも云うべき公安委員会は、ロベスピエールの加入後(1793年7月26日)権威が高まり、ジャコバン派独裁の中心機関に成長します。
保安委員会は、国民公会内の委員会として設置され(1792年10月)、治安・警察権を担当し、公安委員会に継ぐ権限を有しました。
ジャコバン派は、ジロンド派の追放以後、国民公会の指導権を握り、公安委員会・保安委員会・革命裁判所等を指導下に治め、反対派を圧殺する革命的テロリズム、いわゆる「恐怖政治」(1793年6月~1794年7月)を行ったのでした。

マリ・アントワネットの処刑
特に1793年10月16日のマリ・アントワネットの処刑後、多くのジロンド派の人々や反革命容疑者がギロチンで処刑されます(10月から12月迄に177名)。
徴兵制の実施によって、フランス軍は60万人以上に達し(同盟国軍は計約40万人)、1793年の秋以後、フランス軍は各地で次々と勝利を収め、戦局は好転して対外的な危機は遠のきましたが、ジャコバン派が行った経済統制の成果は上がらず、物価の値上がりは依然として続き、又封建的貢租の無償廃止によって土地を得た農民や経済的な自由を求める商工業者は次第に保守化し、ジャコバン派の独裁に対する不満が高まり、恐怖政治への不安も強まって行きました。

『国民公会でのロベスピエールの打倒』マックス・アダモ (de:Max Adamo) 作(1870年)
こうした状況の中で、ジャコバン派の指導者内部にも対立が生じ、ロベスピエールは過激派のエベールや穏健派のダントンを処刑して、ますます独裁を強化して行きます。

ジャック=ルネ・エベール(Jacques René Hébert, 1757年11月15日 - 1794年3月24日)
エベール(1757年~94年)は、大衆新聞を発行してパリ民衆に大きな影響力を持つようになり、民衆運動の指導者と成り、ジャコバン派に属して8月10日事件を指導して台頭し、恐怖政治時代にはサンキュロットを代表して最高価格令や理性の崇拝等を要求してエベール派(ジャコバン派の左派)を率いましたが、やがてロベスピエール派と対立し、公安委員会への反乱を企て、逆に逮捕・処刑されます(1794.年3月)。

ダントン処刑
ダントンは、ジャコバン派の右派の中心人物として、ダントン派を形成し、革命の過激化を嫌い、恐怖政治の緩和を主張してロベスピエールと対立し、1794年4月に処刑されました。
ロベスピエールは、ダントン処刑以後完全な独裁権を握り、革命の徹底化を図り、反対する者を反革命容疑で続々と逮捕・処刑し、その恐怖政治は絶頂に達しました。
1794年5月には346人が、6月には689人が、そしてピークの7月には936人がギロチンによって処刑されています。
この間、ロベスピエールの独裁に反感を持つ人々によって反ロベスピエール派が形成され、彼等はロベスピエール打倒に動き始めます。
ジャコバン派の国民公会議員の中にも、その地位を利用して私腹を肥やしてきた人士等、ロベスピエールの告発を恐れる人々が存在し、彼等は自分がギロチンに送られる前に、先手をうってロベスピエールを倒そうと考え、ジャコバン派以外の国民公会議員と結んで反ロベスピエール派を形成しました。
1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、この日開かれた国民公会は反ロベスピエール派による演説妨害・ロベスピエールへの攻撃演説で大混乱に陥り、その混乱の中でロベスピエール派の逮捕が決定されます。

「テルミドール10日の朝」に於ける瀕死のロベスピエール
ロベスピエールは一旦逮捕されて監獄に送られますが、収監を拒否されてパリ市役所に逃れるものの、翌28日午前2時頃、市役所は反ロベスピエール派の国民公会部隊に襲われ、ロベスピエールはピストル自殺を図るも、顎を砕いただけで失敗に終わり、再び逮捕され革命裁判所で形式的な尋問を受けただけで死刑の宣告を受け、28日の夕方に処刑されました。
この一連の事件が有名な「テルミドールのクーデター(テルミドールの反動)」で、これによってジャコバン派の独裁と恐怖政治は終わりを告げました。
ジョークは如何?
モスクワの街頭にて。
「今度「プラウダ」が懸賞つきで政治ジョークを募集するらしいぜ」
「へえ、一等賞はなんだい?」
「シベリア送りさ」
続く・・・
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コメント
テンプレートのご利用ありがとうございます
早速リンクいたしました
2016-05-27 20:35 てつぼちゃん URL 編集
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2016-05-28 00:11 編集
Re: テンプレートのご利用ありがとうございます
宜しくお願い致します。
2016-05-28 06:34 秋葉 奈津子 URL 編集
No title
霧雨の降る朝から夕方は青空が見られました。
梅雨入りはまだのようですが、
少しずつ雨の日が多くなってきた感じです。
オバマ大統領の広島訪問と演説は素晴らしいものでした。
核廃絶はこれからの厳しい戦いになるでしょうが、
人類のためには絶対必要事項ですね。
2016-05-28 20:41 葉山左京 URL 編集
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2016-05-28 23:34 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日の北九州市は、市内の小学校の運動会・・・、ですがお天気は下り坂。
今も厚い雲に覆われ、何時雨に成るか解りません。
運動会を楽しみにしている子供達も又、お弁当を作るお母さん達も気をもんでいることでしょう。
オバマ大統領の広島訪問と演説。
評価は、日本、アメリカ、周辺諸国に色々と有るようですが、歴史的な出来事と思います。
2016-05-29 06:39 秋葉 奈津子 URL 編集
No title
夕方からの雨が気温を下げ、ヒンヤリした風を吹かせています。
もうすぐ6月ですが、
6月に入ればこちらは夏祭り、
祇園祭の準備に入ります。
小倉祇園太鼓の夏祭りも7月でしたね。
一度ゆっくり見に行きたいと思っています。
2016-05-29 21:29 葉山左京 URL 編集
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2016-05-29 22:50 編集
No title
明日で5月も終わります。
いよいよ暑さが本格化しそうですね。
梅雨入りのようでまだ宣言はされていません。
今年の梅雨はどうなっているのでしょう。
ひょっとしたら空梅雨の恐れもありますね。
2016-05-30 22:02 葉山左京 URL 編集
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2016-05-30 22:44 編集
葉山左京様、こんばんは。
少し霞のかかった青空に、飛行機雲が真っ直ぐに伸びて行く姿は、綺麗ですね。
其れが、また一本、また一本と増えていきます。
紫陽花の花が一段と色濃く成っています。
明日はもう6月、梅雨本番が近づいてきました。
2016-05-31 00:38 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-05-31 22:18 編集