2016/06/13

歴史を歩く198

1フランス革命とナポレオン⑩

7 ナポレオンとその帝国(その3)

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 ナポレオンは、フランス産業の発展をはかり、フランス商品の市場を確保するために、フランス本国及び彼の勢力下にあるイタリア・オランダ等でもイギリス商品の締め出しを画策し、イギリス商品に重税を課した結果、両国の関係は悪化し、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦します(1803年5月)。

 イギリスでは、ピットが再び政権を握り(1804年~1806年)、ナポレオンの皇帝就任を機に、イギリス・ロシア・オーストリアとの間で第3回対仏大同盟(1805年8月~1805年12月)を締結します。
これに対してナポレオンはスペインと結びました。
スペインは、当初フランス革命軍と戦いますが、植民地貿易等でイギリスと対立し、フランス側に回りました。

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ウルムの戦い

 ナポレオンは、直接イギリス攻撃を考え、イギリス本土上陸作戦を計画し、ドーヴァー海峡を望むブーローニュに兵10数万を集結しますが、9月オーストリア軍がバイエルンに侵入すると、ブーローニュの陣を引き上げてバイエルンに急行し、ウルムの戦いでオーストリア軍を完全に包囲したのでオーストリア軍は降伏します(1805年10月20日)。
しかし、その翌日、フランス艦隊がトラファルガーの海戦で壊滅します。

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トラファルガー海戦

 1805年10月21日、ネルソン提督率いるイギリス艦隊(27隻)は、スペインのカディス港を出撃したフランス・スペイン艦隊(33隻)を、ジブラルタル海峡北西のトラファルガー岬沖で捕捉します。ネルソン提督は、旗艦ヴィクトリア号に「イギリスは各人がその義務を果たすことを期待する“England expects that every man will do his duty”」という有名な信号旗を掲げ、これに対してフランス水兵は「皇帝万歳」と叫び、トラファルガー海戦が11時過ぎに開始されました。

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初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン( Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson KB, 1758年9月29日 - 1805年10月21日)

 ネルソン提督は、敵艦隊と並行した進路を進み、砲火を交える普通の戦法でなく、縦陣をとって敵の横陣に突っ込んでいく戦法を取ったのでした。
砲撃技術の差が勝敗の分かれ目となり、激戦の後にイギリス艦隊が圧勝し、フランス・スペイン艦隊は沈没5隻・捕獲17隻、これに対してイギリス艦隊の損失はゼロでした。
しかし、ネルソン提督は敵弾を受けてから3時間後の午後4時半頃に「神に感謝する。余は余の義務を果たせり」と云う言葉を残して亡くなります。

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ネルソン提督の死:ベンジャミン・ウエスト (1806)

 トラファルガー海戦の敗北によってイギリス本土上陸作戦を断念せざるを得なくなったナポレオンは、ウルムの戦いの後更に進んでウィーンに入城します(1805年11月14日)。

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アウステルリッツの戦いのナポレオン:フランソワ・ジェラール 画

 1805年12月2日、7万4千のフランス軍と9万のオーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツ(現在のチェコの地)で激突しました。
このアウステルリッツの戦いは、フランス皇帝ナポレオン1世・ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位1801年~25年)・オーストリア皇帝フランツ2世(在位1792年~1806年)が会戦したことから三帝会戦とも呼ばれます。
戦いは夜明け前に始まり、夕闇が迫る頃迄続いたのですが、ナポレオンの決定的な勝利のうちに終わり、連合軍の戦死者は2万6千、これに対してフランス軍の戦死者は7千と記録されています。

 アウステルリッツの戦いに敗れたオーストリアは、三度屈服してプレスブルク条約(1805年12月)を結び、ヴェネツィアをフランス領のイタリア王国に割譲し、これによって第3回対仏大同盟は崩壊しました。

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ライン連邦の兵士;ヴィッテンベルク兵

 こうした状況の中で、翌1806年7月、西南ドイツのバイエルン以下16の諸邦がナポレオンを盟主としてライン同盟(ライン連邦、1806年~13年)を結成して神聖ローマ帝国から離脱した事からオーストリア皇帝フランツ2世は、神聖ローマ皇帝位を放棄し、ここにオットー大帝以来844年間続いてきた神聖ローマ帝国(962年~1806年)は名実ともに滅亡しました。
ライン同盟には、その後オーストリア・プロイセンの二大国を除く全ドイツ諸邦が加盟します。

 ライン同盟の成立やその加盟国へのフランス軍の駐留は、プロイセンを脅かすこととなり、それまで対仏大同盟に参加せずに中立を保ってきたプロイセンは、イギリス・ロシア・スウェーデンと共にに第4回対仏大同盟(1806年9月~1807年7月)を結び、フランスとの開戦に踏み切ったのです。

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イエナの戦い(1806年)のフランス軍竜騎兵

 ナポレオンはドイツに軍を進め、イエナの戦い(1806年10月14日)でプロイセン軍を破り、プロイセンの国土の大半を占領し、遂にベルリンに入城しました(1806年10月25日)。
そしてこの地で有名な「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を発します(1806年11月21日)。
前文8カ条、本文11カ条からなる大陸封鎖令の本文の主な条文は次の通りで以下、

 第1条 イギリス諸島を封鎖状態におくことを宣言する。
 第2条 イギリス諸島とのあらゆる商取引、通信を禁止する。これにもとづき、イギリスもしくはイギリス人に宛てられた、もしくは英語で書かれた書状、物品は郵送されず、押収される。
 第3条 わが軍隊又は同盟国軍隊の占領地域にある全てのイギリス臣民は、その身分、状態にかかわらず戦争捕虜とされる。
 第4条 イギリス臣民の所有する、もしくはその工場に由来する全ての倉庫、商品、物品は、その性質にかかわらず、正当な戦利品とされる。
 第5条 イギリス商品の取引は禁止される。イギリスに属する全ての商品もしくは、イギリスの工場および植民地に由来する全ての商品は正当な戦利品とされる。

(山川出版社、世界史史料・名言集より)

 トラファルガー海戦の敗北によってイギリス本土上陸作戦を諦めざるを得なくなったナポレオンは、大陸封鎖令によって大陸諸国とイギリスとの通商を禁じて、ヨーロッパ大陸からイギリス商品を閉め出し、イギリスに経済的な打撃を与えると共に、フランス産業の為にヨーロッパ大陸の市場の確保を図りました。

 しかし、大陸封鎖令は、産業革命を経過して経済力を強め、又アジアやラテン・アメリカに広大な市場を持つイギリスに対してはあまり効果が無く、むしろイギリスに穀物や木材を輸出していたロシア・プロイセンをはじめとするヨーロッパ大陸諸国の方が苦しむ結果になりました。

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フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III., 1770年8月3日 - 1840年6月7日)

 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(在位1797年~1840年)は、ケーニヒスベルクに逃れ、同盟国ロシアとともに抵抗を続けていました。
ベルリンに1ヶ月留まったナポレオンは、プロイセン王を追い、ロシア軍を迎え撃つためにベルリンを出発し、ポーランドに入境、解放者として迎えられ、翌1807年、アイラウの戦い(1807年2月)・フリートランドの戦い(1807年6月)でロシア軍と交戦、フリートランドの戦いではフランス軍は大勝し、プロイセン王は更にティルジットに退却し、フランス軍はこれを追って同市を占領し、プロイセン・ロシア両国とティルジット条約(1807年7月)を結びました。

 プロイセンにとって屈辱的な条約であったティルジット条約によって、プロイセンは大幅に領土を喪失半減し、その上に莫大な賠償金を課せられました。
又ロシアは大陸封鎖令への協力を約束させられた上に、旧ポーランド領にはワルシャワ大公国(1807年~1814年)が建てられ、ザクセン王が大公を兼ね、更にプロイセンのエルベ川左岸(以西)全域にウェストファリア王国(1807年~13年)を創り、ナポレオンの弟のジェローム(1784年~1860年)を国王としました。

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1807年公国憲法を授与するナポレオン

 1807年頃、ナポレオンはオーストリア・プロイセン・ロシアを屈服させ、7王国・30公国がナポレオンの支配下に編成されました。

 ナポレオン一族も、兄ジョゼフがスペイン王に、弟ルイはオランダ王に、そして末弟の ジェロームはウェストファリア国王になり、妹達もそれぞれ大公妃・元帥夫人等に成っていきます。

 ナポレオンと皇后ジョセフィーヌとの間には子がなく、そのため嗣子を得るため、そしてボナパルト家の家柄を高めるために離婚を決意し、1809年にジョセフィーヌを離婚し、翌1810年にオーストリアのハプスブルク家の皇女マリ・ルイーズ(1791年~1847年、フランツ2世の娘、マリ・アントワネットの姪)と結婚し、ボナパルト家はヨーロッパ第一の名門ハプスブルク家と姻戚になりました。マリ・ルイーズは、翌年王子を出産し、皇子(ナポレオン2世、1811年~32年)にはただちに「ローマ王」の称号が与えられます。

 この時期がナポレオンの絶頂期でした。

ジョークは如何?

イギリス人はジョーク好きで有名です
彼らはジョーク一つにつきに三回笑います

・ジョークを聞いた時
・その意味を教えてもらった時
・家に帰って意味を理解した時

続く・・・

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コメント

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No title

秋葉奈津子様 こんばんは。

夏至の今日は蒸し暑さが止まりません。
今までは朝晩涼しかったのですが、
今日は全く涼しくなりません。

いよいよ真夏到来の兆しです。
朝晩涼しいと本当に助かるのですが。
しかしビールがおいしくなりました。
ビヤホールやビヤガーデンにも
多くの若い女性がグループで押しかけているようです。
女性専用のビヤーガーデンもあるとか?


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葉山左京様、おはようございます。

北九州は未明から、又雨になりました。
一昨日の豪雨が、再びやって来る確率が高い様です。
昨日は夏至でした。
本当なら20時近くまで薄らと明るい筈ですが、雲の厚さに阻まれて18時位から暗くなってしまいました。
降らない雨も困りものですが、降り過ぎる雨も困ったものです。
これ以上、被害が出ない事を祈ります。

No title

秋葉奈津子様 こんばんは。

言われる通り、
降らない雨も困りますが、
降り過ぎても困ります。
適度にと言うことはできないものでしょうか。
将来台風や雨、風をコントロるする
マシンが開発されるといいのですが。

今は新茶が出ていますね。
近郊の茶畑のお茶摘みが盛んなようです。
新茶の香ばしい香りがとてもいいですね。

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秋葉奈津子様 おはようございます。

昨夜からの激しい雨が今朝も降っています。
梅雨の雨が当分降りそうです。
南の海の高気圧のせいのようです。

東の醍醐の山々が雲に覆われています。
ここは東からの風が吹くと雨になります。
蒸し暑さが異常です。
健康に気を付けください。

葉山左京様、おはようございます。

何時も、梅雨や台風、地震や洪水等のニュースに絶する度に思うのですが、人間の力が自然に対してなんと脆弱なことでしょう。
それだけ、人間にとって自然は、立ち向かってはならないものと、感じてしまいます。
広大な宇宙の中の小さな存在でしかない、私達の星。
でも、その崩壊が、宇宙全体に与える影響も考えねば成りません。

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葉山左京様、おはようございます。

毎日のご訪問ありがとうございます。

昨日は時折、雲が切れるお天気でしたが、今日は明方に雷と激しい雨が降りました。
今は止んでいますが、空は厚い雲に覆われています。
雨のない梅雨も困りますが、降り過ぎる梅雨も困ったものです。