歴史を歩く200
1 フランス革命とナポレオン⑫
8 ナポレオンの没落(その2)

ロシア遠征時のフランス周辺諸国と進軍、撤退経路
ナポレオンは、1812年6月、ニーメン川河畔に「大陸軍」を集結させました。
この時集結した大陸軍はフランス・オーストリア・プロイセン・ライン同盟・ポーランド・イタリア等から成る混成部隊で、その数は約60万人(この数は第一次世界大戦迄破られることがなかった)でした。
これに対するロシア軍の総数は約16万人でした。

ニーメン川(ネマン川)渡河
6月4日、ニーメン川渡河が始まり、数日間続いたのですが、暑さの為に多数の兵士が日射病で倒れ、おびただしい落伍者が発生した為、国境を越えてロシアに侵入した大陸軍は約47.5万人であったものの、ロシア軍は、兵力があまりにも劣勢でひたすら決戦を避け、退却に退却を重ねました。
ロシアに侵入した大陸軍は更に進軍しますが、炎天下の行軍・生野菜の不足・赤痢等で次々と倒れ、ヴィデブスク(国境から約300km)に到達した頃(7月24日)には、37.5万人になっていました。ロシア軍は更にスモレンスク迄退却し、大陸軍もスモレンスクに進軍し、これを攻撃・占領するものの(8月16日)、彼等が入城した時には町は焦土作戦の為猛火に覆われ、ロシア軍は既に撤退しており、しかもスモレンスク占領時の大陸軍は15.5万人に減っていました。

ミハイル・イラリオーノヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ公爵
( Михаил Илларионович Голенищев-Кутузов: 1745年9月16日 - 1813年4月28日)
これより前、ロシア軍事委員会は、敗戦の原因は指揮の不統一にあるとして、ロシア最古参の老将クトゥーゾフ元帥(1745年~1813年)を起用して準備を整えます。

ボロディノの戦い・戦場のナポレオン
クトゥーゾフ元帥は、モスクワの西方約90kmのボロディノで初めて激戦を交えました。
ナポレオンの率いる13万の大陸軍とクトゥーゾフの率いるロシア軍が激突したものの勝敗は決せず、双方とも4万の死者を出し、両軍共に勝利を伝えています(ボロディノの戦い、1812年9月7日)。
1812年9月14日、ナポレオンは終にモスクワに入城したが、街には人影が在りません。
当時モスクワの人口は約30万人、市民の大部分は街を立ち退き、残っていたのは親仏派の人々と貧しい人々5千から1万人と云われています。

モスクワ明け渡しを決断するクトゥーゾフ(Alexey Danilovich Kivshenko画)
14日の夜から、有名な「モスクワの大火」が発生し、モスクワの街は4日間にわたって燃え続け、市域の4分の3を焼き尽くしました。
火事の原因については、ナポレオンの兵士達による失火説もありますが、ロシアの焦土作戦による放火で、食料と居所を失った大陸軍は農村部へ移動せざるを得ませんでした。

冬将軍の到来
ナポレオンは、アレクサンドル1世に手紙を出して和平交渉を試みますが、1ヶ月経っても返事は来なかった上に、ロシアの冬が近づきつつあったのです。
ナポレオンは終にモスクワからの退却を決意し、1812年10月19日、モスクワからの退却が開始されました。
之に呼応する様にナポレオン軍が退却を始めると、ロシア軍・ゲリラが奇襲を仕掛け、しかも11月にはいると「冬将軍」が到来し、激しい寒気が始まり、雪が降り続きます。
ナポレオン軍は、11月8日、やっとスモレンスクに辿り着きます。
ナポレオンの最初の計画ではこのスモレンスクで越冬する予定でしたが、もはやスモレンスクには食料や燃料は殆んど無かったのです。

モスクワ撤退
モスクワを退却時には10万であった軍が、スモレンスクでは3.7万になり、ベレジナ川迄退却した時には3万になっていました。
10万のロシア軍の追撃を受けるなかで、11月26日に始まったベレジナ川渡河は凄惨を極め、3万の兵は8500になり、12月10日、ニーメン川を渡ってロシアの勢力圏を脱出したのは僅か5000にすぎませんでした。
12月18日、ナポレオンは敗軍の将としてパリに戻りました。

ベレジナ川渡河
このナポレオンのロシア遠征については、トルストイ(1828年~1910年)の壮大な長編小説『戦争と平和』(1864年~69年)に詳しく書かれています。
又ロシアの作曲家チャイコフスキー(1840年~93年)も、ナポレオンのロシア遠征を題材として 「序曲1812年」を作曲しました。
ナポレオンがロシアで敗れたとの報はたちまちヨーロッパ各地に広まり、諸国はいっせいに解放戦争に立ち上がり、第6回対仏大同盟(1813年~14年)が結成されました。

ライプチヒの戦い
1813年10月16日、ロシア・プロイセン・オーストリアの同盟軍33万とフランス軍15万が激突したライプチヒの戦い(諸国民戦争)は、3日間にわたって激戦が続きましが、フランス側にあったザクセン軍の突然の寝返りの為に同盟軍がナポレオン軍に大勝し、ナポレオンはパリに敗走し、同盟軍はライン川を越え(1814年1月)、1814年3月31日パリに入城します。

エルバ島へ旅立つナポレオン
1814年4月、フランス元老院はナポレオンの廃位を宣言し(4月2日)、ナポレオンは退位宣言に署名し(4月11日)、フォンテンブロー宮に別れを告げ(4月20日)、5月4日にエルバ島に流刑されました。

ルイ18世(Louis XVIII、1755年11月17日 - 1824年9月16日)
1791年以来国外に亡命していたルイ16世の弟が5月に帰国し、ルイ18世(在位1814年~24年)となり、ブルボン朝が復活しました。
ウィーンでは、ナポレオン没落後の秩序再建の為にウィーン会議(1814年9月~1815年6月)が開かれましたが、領土配分をめぐって会議は紛糾します。

ナポレオン エルバ 島 脱出
ナポレオンは、同盟国側によってエルバ島(ナポレオンが生まれたコルシカ島の東48kmの所にある島)に流されましたが、その時同盟国側が示した条件は「ナポレオンはエルバ島に流され、年額補助200万フランを受け取り、皇帝の称号を保持し、400人の近衛兵を保有する」と云う緩やかな条件でした。

ミシェル・ネイ(Michel Ney、1769年1月10日 - 1815年12月7日)
ナポレオンは、ウィーン会議が紛糾している事、又ルイ18世の反動政治に対する国民の不満が高まっているのをみて、1815年2月26日に密かにエルバ島を脱出し、1000人の兵と共に3月1日にカンヌに上陸し、ほとんど抵抗を受けることなく、「皇帝万歳」の声に迎えられてグルノーブル・リヨンを経てパリに進軍します。
ルイ18世が派遣した討伐軍もネイ元帥(1769年~1815年、特にロシア遠征の退却戦で功をたてた名将)をはじめ次々とナポレオンに従い、3月20日、ナポレオンはパリに入城、再び皇帝位に就き、以後再び退位する迄は、ナポレオンの「百日天下」(1815年3月20日~1815年6月22日)と呼ばれています。
当時のパリの新聞の見出しは、ナポレオンが北上するにつれて変わっています。
マスコミの権力者に対する姿勢が見えていて興味深いものがあります。
「怪物、流刑地を脱出」、「コルシカの狼、カンヌ上陸」、「悪霊、グルノーブルを占拠」、「専制皇帝、リヨンに入る」「ボナパルト、北方へ進撃中」「皇帝陛下、フォンテンブローへ入られる」。
ナポレオンのエルバ脱出の報がウィーンに伝えられると、列強は急速に妥協に向かい、6月にウィーン議定書に調印し、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアの間で第7回対仏大同盟(1815年)が結成されました。

ワーテルローの戦い
ナポレオンは、僅か2ヶ月の間に25万の軍を集め、12万の兵を率いてパリを出発し、ベルギー方面へ進出し、6月16日・17日にプロイセン・イギリス軍と戦い、プロイセン軍に打撃を与え,1815年6月18日のワーテルローの戦いに臨みます。

戦場のウェリントン将軍
ナポレオン軍7.4万、ウェリントン(1769年~1852年、イギリスの軍人、後に首相となる)の率いるイギリス軍6.7万が、ベルギーのワーテルローで激突し、午前11時半頃戦いの火ぶたが切られ、フランス軍は攻撃をくり返しましたが、イギリス軍は頑強に守りぬき、午後4時半頃、前日フランス軍に敗れて退却していたプロイセン軍が来援してイギリスと合流すると、イギリス・プロイセン連合軍が優勢となり、午後8時頃フランス軍の突撃が失敗に終わり、フランス軍の敗北は決定的となります。
フランス軍の戦死者4万以上、連合軍の戦死者は2.2万であった。

セント・ヘレナにて
ナポレオンは、パリに敗走(6月21日)、6月22日に退位し、7月に入って連合軍がパリに入城(7年3月)、ルイ18世が再び即位しました(7月8日)。
ナポレオンは連合軍の決議によって、アフリカ西岸の遥か1800kmにある絶海の孤島、イギリス領のセント・ヘレナに流され(1815年10月)、1821年5月5日に波乱の生涯を終えました。
その死因については胃ガン説が有力ですが、ヒ素による毒殺説も存在します。
ジョークは如何?
このたび、ソ連の誇る自転車工場が創立10周年を迎えた。
それを祝う式典には、自転車修理を依頼した、工場最初のお客を呼ぶことになった。
華やかな式典のクライマックスでは、ファンファーレが鳴り響く中、彼を称える祝
辞と共に立派なトロフィーが手渡される。
式次第も最後となり、来賓として演説台に上った彼は、会場を埋め尽くした工員達
を前に照れながら、祝辞とトロフィーへの返礼の挨拶を述べた。
「普段厚かましく生きているつもりの私が照れてしまうほどのお褒めの言葉と一緒
に、このような立派な記念品までいただいて・・・
ところで話は変わりますが、私がお願いした自転車は、いつ直るのでしょうか?」
続く・・・
8 ナポレオンの没落(その2)

ロシア遠征時のフランス周辺諸国と進軍、撤退経路
ナポレオンは、1812年6月、ニーメン川河畔に「大陸軍」を集結させました。
この時集結した大陸軍はフランス・オーストリア・プロイセン・ライン同盟・ポーランド・イタリア等から成る混成部隊で、その数は約60万人(この数は第一次世界大戦迄破られることがなかった)でした。
これに対するロシア軍の総数は約16万人でした。

ニーメン川(ネマン川)渡河
6月4日、ニーメン川渡河が始まり、数日間続いたのですが、暑さの為に多数の兵士が日射病で倒れ、おびただしい落伍者が発生した為、国境を越えてロシアに侵入した大陸軍は約47.5万人であったものの、ロシア軍は、兵力があまりにも劣勢でひたすら決戦を避け、退却に退却を重ねました。
ロシアに侵入した大陸軍は更に進軍しますが、炎天下の行軍・生野菜の不足・赤痢等で次々と倒れ、ヴィデブスク(国境から約300km)に到達した頃(7月24日)には、37.5万人になっていました。ロシア軍は更にスモレンスク迄退却し、大陸軍もスモレンスクに進軍し、これを攻撃・占領するものの(8月16日)、彼等が入城した時には町は焦土作戦の為猛火に覆われ、ロシア軍は既に撤退しており、しかもスモレンスク占領時の大陸軍は15.5万人に減っていました。

ミハイル・イラリオーノヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ公爵
( Михаил Илларионович Голенищев-Кутузов: 1745年9月16日 - 1813年4月28日)
これより前、ロシア軍事委員会は、敗戦の原因は指揮の不統一にあるとして、ロシア最古参の老将クトゥーゾフ元帥(1745年~1813年)を起用して準備を整えます。

ボロディノの戦い・戦場のナポレオン
クトゥーゾフ元帥は、モスクワの西方約90kmのボロディノで初めて激戦を交えました。
ナポレオンの率いる13万の大陸軍とクトゥーゾフの率いるロシア軍が激突したものの勝敗は決せず、双方とも4万の死者を出し、両軍共に勝利を伝えています(ボロディノの戦い、1812年9月7日)。
1812年9月14日、ナポレオンは終にモスクワに入城したが、街には人影が在りません。
当時モスクワの人口は約30万人、市民の大部分は街を立ち退き、残っていたのは親仏派の人々と貧しい人々5千から1万人と云われています。

モスクワ明け渡しを決断するクトゥーゾフ(Alexey Danilovich Kivshenko画)
14日の夜から、有名な「モスクワの大火」が発生し、モスクワの街は4日間にわたって燃え続け、市域の4分の3を焼き尽くしました。
火事の原因については、ナポレオンの兵士達による失火説もありますが、ロシアの焦土作戦による放火で、食料と居所を失った大陸軍は農村部へ移動せざるを得ませんでした。

冬将軍の到来
ナポレオンは、アレクサンドル1世に手紙を出して和平交渉を試みますが、1ヶ月経っても返事は来なかった上に、ロシアの冬が近づきつつあったのです。
ナポレオンは終にモスクワからの退却を決意し、1812年10月19日、モスクワからの退却が開始されました。
之に呼応する様にナポレオン軍が退却を始めると、ロシア軍・ゲリラが奇襲を仕掛け、しかも11月にはいると「冬将軍」が到来し、激しい寒気が始まり、雪が降り続きます。
ナポレオン軍は、11月8日、やっとスモレンスクに辿り着きます。
ナポレオンの最初の計画ではこのスモレンスクで越冬する予定でしたが、もはやスモレンスクには食料や燃料は殆んど無かったのです。

モスクワ撤退
モスクワを退却時には10万であった軍が、スモレンスクでは3.7万になり、ベレジナ川迄退却した時には3万になっていました。
10万のロシア軍の追撃を受けるなかで、11月26日に始まったベレジナ川渡河は凄惨を極め、3万の兵は8500になり、12月10日、ニーメン川を渡ってロシアの勢力圏を脱出したのは僅か5000にすぎませんでした。
12月18日、ナポレオンは敗軍の将としてパリに戻りました。

ベレジナ川渡河
このナポレオンのロシア遠征については、トルストイ(1828年~1910年)の壮大な長編小説『戦争と平和』(1864年~69年)に詳しく書かれています。
又ロシアの作曲家チャイコフスキー(1840年~93年)も、ナポレオンのロシア遠征を題材として 「序曲1812年」を作曲しました。
ナポレオンがロシアで敗れたとの報はたちまちヨーロッパ各地に広まり、諸国はいっせいに解放戦争に立ち上がり、第6回対仏大同盟(1813年~14年)が結成されました。

ライプチヒの戦い
1813年10月16日、ロシア・プロイセン・オーストリアの同盟軍33万とフランス軍15万が激突したライプチヒの戦い(諸国民戦争)は、3日間にわたって激戦が続きましが、フランス側にあったザクセン軍の突然の寝返りの為に同盟軍がナポレオン軍に大勝し、ナポレオンはパリに敗走し、同盟軍はライン川を越え(1814年1月)、1814年3月31日パリに入城します。

エルバ島へ旅立つナポレオン
1814年4月、フランス元老院はナポレオンの廃位を宣言し(4月2日)、ナポレオンは退位宣言に署名し(4月11日)、フォンテンブロー宮に別れを告げ(4月20日)、5月4日にエルバ島に流刑されました。

ルイ18世(Louis XVIII、1755年11月17日 - 1824年9月16日)
1791年以来国外に亡命していたルイ16世の弟が5月に帰国し、ルイ18世(在位1814年~24年)となり、ブルボン朝が復活しました。
ウィーンでは、ナポレオン没落後の秩序再建の為にウィーン会議(1814年9月~1815年6月)が開かれましたが、領土配分をめぐって会議は紛糾します。

ナポレオン エルバ 島 脱出
ナポレオンは、同盟国側によってエルバ島(ナポレオンが生まれたコルシカ島の東48kmの所にある島)に流されましたが、その時同盟国側が示した条件は「ナポレオンはエルバ島に流され、年額補助200万フランを受け取り、皇帝の称号を保持し、400人の近衛兵を保有する」と云う緩やかな条件でした。

ミシェル・ネイ(Michel Ney、1769年1月10日 - 1815年12月7日)
ナポレオンは、ウィーン会議が紛糾している事、又ルイ18世の反動政治に対する国民の不満が高まっているのをみて、1815年2月26日に密かにエルバ島を脱出し、1000人の兵と共に3月1日にカンヌに上陸し、ほとんど抵抗を受けることなく、「皇帝万歳」の声に迎えられてグルノーブル・リヨンを経てパリに進軍します。
ルイ18世が派遣した討伐軍もネイ元帥(1769年~1815年、特にロシア遠征の退却戦で功をたてた名将)をはじめ次々とナポレオンに従い、3月20日、ナポレオンはパリに入城、再び皇帝位に就き、以後再び退位する迄は、ナポレオンの「百日天下」(1815年3月20日~1815年6月22日)と呼ばれています。
当時のパリの新聞の見出しは、ナポレオンが北上するにつれて変わっています。
マスコミの権力者に対する姿勢が見えていて興味深いものがあります。
「怪物、流刑地を脱出」、「コルシカの狼、カンヌ上陸」、「悪霊、グルノーブルを占拠」、「専制皇帝、リヨンに入る」「ボナパルト、北方へ進撃中」「皇帝陛下、フォンテンブローへ入られる」。
ナポレオンのエルバ脱出の報がウィーンに伝えられると、列強は急速に妥協に向かい、6月にウィーン議定書に調印し、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアの間で第7回対仏大同盟(1815年)が結成されました。

ワーテルローの戦い
ナポレオンは、僅か2ヶ月の間に25万の軍を集め、12万の兵を率いてパリを出発し、ベルギー方面へ進出し、6月16日・17日にプロイセン・イギリス軍と戦い、プロイセン軍に打撃を与え,1815年6月18日のワーテルローの戦いに臨みます。

戦場のウェリントン将軍
ナポレオン軍7.4万、ウェリントン(1769年~1852年、イギリスの軍人、後に首相となる)の率いるイギリス軍6.7万が、ベルギーのワーテルローで激突し、午前11時半頃戦いの火ぶたが切られ、フランス軍は攻撃をくり返しましたが、イギリス軍は頑強に守りぬき、午後4時半頃、前日フランス軍に敗れて退却していたプロイセン軍が来援してイギリスと合流すると、イギリス・プロイセン連合軍が優勢となり、午後8時頃フランス軍の突撃が失敗に終わり、フランス軍の敗北は決定的となります。
フランス軍の戦死者4万以上、連合軍の戦死者は2.2万であった。

セント・ヘレナにて
ナポレオンは、パリに敗走(6月21日)、6月22日に退位し、7月に入って連合軍がパリに入城(7年3月)、ルイ18世が再び即位しました(7月8日)。
ナポレオンは連合軍の決議によって、アフリカ西岸の遥か1800kmにある絶海の孤島、イギリス領のセント・ヘレナに流され(1815年10月)、1821年5月5日に波乱の生涯を終えました。
その死因については胃ガン説が有力ですが、ヒ素による毒殺説も存在します。
ジョークは如何?
このたび、ソ連の誇る自転車工場が創立10周年を迎えた。
それを祝う式典には、自転車修理を依頼した、工場最初のお客を呼ぶことになった。
華やかな式典のクライマックスでは、ファンファーレが鳴り響く中、彼を称える祝
辞と共に立派なトロフィーが手渡される。
式次第も最後となり、来賓として演説台に上った彼は、会場を埋め尽くした工員達
を前に照れながら、祝辞とトロフィーへの返礼の挨拶を述べた。
「普段厚かましく生きているつもりの私が照れてしまうほどのお褒めの言葉と一緒
に、このような立派な記念品までいただいて・・・
ところで話は変わりますが、私がお願いした自転車は、いつ直るのでしょうか?」
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2016-07-07 23:05 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
セミの声でやっと夏が来たなーと、
思えます。
連日の猛暑日ですが、まだ梅雨明けにはなっていないようですね。
西の海上の台風一号が通り過ぎると
梅雨明けでしょうか。
大型台風なので被害が出なければいいですが。
2016-07-07 23:06 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
今年の夏は、暑いのでしょうか?
今日の夜半から雨になりました。
深夜には、雷が家を揺らし、雨足も激しいものでした。
今は、小康状態なのか、雨も弱まっています。
南の台風の影響で、前線が刺激された結果だと思いますが、梅雨明けはお預けのようです。
今後の雨が心配です。
2016-07-08 10:05 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-07-08 14:16 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
明日は台風の余波でしょうか、
かなりの雨のようです。
北九州はひどいようですね。
雨が降ると多少は気温が下がり、
凌ぎやすい温度です。
祇園祭の山鉾が立ち出す時期になりましたので強い風や雨には困ったものです。
2016-07-08 21:05 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-07-08 23:23 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
風は穏やかです。
週末の天気に崩れは、
海や山への計画が駄目になってしまいます。
祭の準備にも影響がなければいいのですが。
2016-07-09 06:02 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
湿度が高く、風は無く、空気も重い感じが強い1日でした。
山や丘の斜面に設けられた、排水口からは、水が流れ出て、止まる気配が在りません。
地面も水分を吸収しすぎて、喘いでいる様にもみえます。
青空が懐かしく感じる程に成りました。
2016-07-09 23:23 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-07-09 23:26 編集
葉山左京様、おはようございます。
曇り空が広がり、風も全く無く、空気が重く感じます。
本来なら、今週の末辺りが、梅雨明けなのですが、九州南部は大雨に警戒が続いています。
湿度が高く、体調を壊しやすい毎日、先ずは水分補給を小まめにやっています。
2016-07-10 06:32 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-07-10 23:26 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
烏丸四条周辺は祇園祭の山鉾の組み立てが今日から始まり、
交通規制も出てきました。
17日の山鉾巡行は見に行けそうです。
雨が降らなければいいのですが。
小倉の祇園太鼓ももうすぐですね。
全国の皆さんは夏祭りに胸が躍っているのではないでしょうか。
2016-07-10 23:27 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
雨が降り過ぎています。
昨日、所用で外出した時、トンネルの連続する区間を走ったのですが、トンネルの中だけが雨が降った様に湿っていました。
壁面からも水が大量に滲み出していることがはっきり判り、怖かったです。
余りの雨の多さに山も悲鳴を上げている様です。
祇園太鼓の練習も雨が続き、今一つ盛り上がらない様です。
本番は大丈夫でしょうか?
2016-07-11 07:57 秋葉 奈津子 URL 編集