歴史を歩く206
30 自由を求めて②
2ウィーン体制とその動揺(その1)

ウィーン会議の結果成立したヨーロッパの新しい政治体制は、ウィーン体制と呼ばれます。
ウィーン会議の基本原則である正統主義は、フランス革命前の状態に戻し、その状況を維持していく復古主義であり、ウィーン体制は結果的に保守反動体制と成り、更なる革命や戦争の再発を防ぎ、この新しい国際秩序を守るために、神聖同盟や四国同盟が結成されました。

オスマン=トルコ帝国の領土縮小
神聖同盟は、1815年9月にロシア皇帝アレクサンドル1世(在位1801年~25年)が提唱し、オーストリア皇帝・プロイセン国王の3人の間で結ばれた同盟でしたが、やがてイギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝を除く各国君主が参加しました。
神聖同盟は、各国君主がキリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和維持のために協力することを謳った精神的な盟約で条文等は存在しませんでした。
イギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝は神聖同盟に参加しませんでした。
イスラム教国であるオスマン=トルコはキリスト教君主との同盟を拒否して参加せず、又ローマ教皇は、ロシア皇帝の称えるキリスト教とはギリシア正教であり、カトリックの教理と合致しないこと、そして新教諸国との同盟を避けるために参加していません。
イギリス不参加の理由は簡単ではなく、当時の外相カスルレーは、精神的な盟約で罰則も締結者の義務も定められてない神聖同盟を「気高き神秘主義とナンセンスの紙切れ」と酷評しています。

王政復古・ルイ18世( Louis XVIII、1755年11月17日 - 1824年9月16日)
神聖同盟は、キリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和を維持することを謳っているところから、国際協力による平和維持の思想の先駆とされていますが、その前提になっているのは反動的なウィーン体制の維持にあり、現在の国際連合等とは全く性格が異なるものでした。
1815年11月、同盟国とフランス間で第2次パリ条約が結ばれ、フランス国境を1790年の国境に戻すこととフランスに賠償金を課すことが定められ、この第2次パリ条約と同じ日にイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの間で四国同盟が締結されています。
四国同盟の目的は、四カ国が協力してヨーロッパの平和を維持する、そのためにフランスを監視してボナパルト家の復活やフランスの侵略戦争防止を図るものでしたが。1818年9月には、監視されるはずのフランスの加入が承認され、五国同盟が成立します。
五国同盟の成立によって、その目的はフランスを監視することから、フランス革命やナポレオン支配のもとで目覚めた諸国民の間に起こってきた自由を求める自由主義運動や民族統一と外国支配からの解放を求める国民主義(ナショナリズム)運動を抑圧し、反動的なウィーン体制を守る理念に替わっています。
保守反動政策の中心人物であり、19世紀前半のヨーロッパ外交をリードしたメッテルニヒは、神聖同盟や四国同盟(五国同盟)を自由主義運動の抑圧に利用しましたが、自由を求める運動は、1810年代から20年代にかけてヨーロッパ各地で次々と起こっていきます。

ブルシェンシャフト運動
ドイツでは、1817年10月18日、ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟、1815年に成立したドイツの大学生の団体)が、ルター宗教改革300年祭とライプチヒ戦勝記念式典をワルトブルクの森で行い、自由とドイツの統一を求めてドイツ各地から700~800人の学生が集まり気勢を上げました。
メッテルニヒが学生の自由主義運動の弾圧に乗り出し、彼は、1819年にカールスバードでドイツ連邦議会を開き、ブルシェンシャフトの解散・言論出版の自由の制限・進歩的な教授の追放などを決議し(カールスバード決議、1819年9月)、これによってブルシェンシャフトは壊滅しました。

ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌーニェス (Rafael del Riego y Nuñez 1784年4月9日 - 1823年11月7日)
スペインでは、1820年1月にスペイン立憲革命が起こります。
スペインでは、ナポレオンに対するスペイン反乱(1808年~14年)の最中にコルテス(議会)が成立し、主権在民・男子普通選挙制・出版言論の自由などを定めたスペイン最初の自由主義憲法(1812年憲法)が定められていましたが、ナポレオンの没落後、ブルボン朝が復活すると憲法が廃止され再び専制政治に逆戻りした結果、リェゴ(1785年~1823年)等が立憲革命を起こし、1812年憲法の復活を宣言しました(1820年1月)。
革命が全国に波及するなかで、国王も憲法復活を布告し(1820年3月)、スペイン立憲革命は成功するかに見えましたが、1822年の選挙で急進派が勝利すると国王は神聖同盟に干渉するように要請しました。
これを受けて五国同盟はヴェロナ会議(1822年10月、ヴェロナは北イタリアの小都市)を開き、スペイン革命の鎮圧をフランスに委譲することを決議し、この決議に基づいて、フランスは翌1823年にスペインに出兵してマドリードを占領し(1823年8月)、スペイン立憲革命は挫折し、そしてリェゴは王党派によって処刑されます(1823年)。
このヴェロナ会議で、イギリスはスペインへの干渉に反対し、五国同盟は事実上崩壊しました(1822年10月)。
イギリスが反対したのは、スペイン及びその中南米植民地がイギリス市場及び原料の供給地として価値が高く、それを失うことを恐れた結果でした。
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1822年9月12日、ナポリ革命指導者の絞首刑執行
イタリアでも、カルボナリ(炭焼党)によるナポリ革命(1820年)・ピエモンテ立憲革命(1821年)が起こいます。
カルボナリは、1806年頃、南イタリアで結成された革命的秘密結社で、専制政治の打倒・自由平等の実現を目的とし、1814年以後、北イタリアにも浸透するにつれて立憲自由主義運動としての性格が強まります。
彼等は炭焼き人夫を装って山中に入り、炭焼き小屋で集会を開いたので炭焼党と呼ばれるようになったといわれています。
カルボナリは、1820年7月にナポリで蜂起し、国王にスペインの1812年憲法とほぼ同じ内容の憲法を認めさせ、翌1821年3月にはピエモンテ(北イタリアのポー川上流地方、トリノを州都とする)でも蜂起し、サルデーニャ(サルディニア)国王にスペインの1812年憲法の採用を約束させます。
これに対してメッテルニヒは、オーストリア領の北イタリアに革命が波及することを恐れ、1821年にライバッハで五国会議を開き、イタリア革命に対する武力干渉とオーストリアの出兵を承認させ、オーストリア軍は、1821年3月にナポリを占領し、4月にはピエモンテに侵入してカルボナリを中心とする革命派軍を破り、革命派を徹底的に弾圧します。

デカブリスト(十二月党)の乱
ロシアでは、1825年12月にデカブリスト(十二月党)の乱が起こります。
ナポレオン戦争でフランス軍と戦ったロシアの青年貴族将校達は、自国の後進性を痛感し、フランス軍が強い理由は、フランス軍の中心である農民が農奴から解放された中小土地所有農民であることだと考え、彼等は帰国後秘密結社をつくり(1816年)、専制政治と農奴制の廃止・憲法制定を目標としました。
1825年12月、アレクサンドル1世が急死してニコライ1世(在位1825年~55年)が即位した日に、デカブリストは蜂起したものの鎮圧され、こうして、1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧されました。
ジョークは如何?
カエサルの凱旋行進の際、兵士達が叫んだと伝えられる言葉
「ローマ市民よ女房を隠せ、禿の女たらしのお帰りだ!」
続く・・・
2ウィーン体制とその動揺(その1)

ウィーン会議の結果成立したヨーロッパの新しい政治体制は、ウィーン体制と呼ばれます。
ウィーン会議の基本原則である正統主義は、フランス革命前の状態に戻し、その状況を維持していく復古主義であり、ウィーン体制は結果的に保守反動体制と成り、更なる革命や戦争の再発を防ぎ、この新しい国際秩序を守るために、神聖同盟や四国同盟が結成されました。

オスマン=トルコ帝国の領土縮小
神聖同盟は、1815年9月にロシア皇帝アレクサンドル1世(在位1801年~25年)が提唱し、オーストリア皇帝・プロイセン国王の3人の間で結ばれた同盟でしたが、やがてイギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝を除く各国君主が参加しました。
神聖同盟は、各国君主がキリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和維持のために協力することを謳った精神的な盟約で条文等は存在しませんでした。
イギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝は神聖同盟に参加しませんでした。
イスラム教国であるオスマン=トルコはキリスト教君主との同盟を拒否して参加せず、又ローマ教皇は、ロシア皇帝の称えるキリスト教とはギリシア正教であり、カトリックの教理と合致しないこと、そして新教諸国との同盟を避けるために参加していません。
イギリス不参加の理由は簡単ではなく、当時の外相カスルレーは、精神的な盟約で罰則も締結者の義務も定められてない神聖同盟を「気高き神秘主義とナンセンスの紙切れ」と酷評しています。

王政復古・ルイ18世( Louis XVIII、1755年11月17日 - 1824年9月16日)
神聖同盟は、キリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和を維持することを謳っているところから、国際協力による平和維持の思想の先駆とされていますが、その前提になっているのは反動的なウィーン体制の維持にあり、現在の国際連合等とは全く性格が異なるものでした。
1815年11月、同盟国とフランス間で第2次パリ条約が結ばれ、フランス国境を1790年の国境に戻すこととフランスに賠償金を課すことが定められ、この第2次パリ条約と同じ日にイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの間で四国同盟が締結されています。
四国同盟の目的は、四カ国が協力してヨーロッパの平和を維持する、そのためにフランスを監視してボナパルト家の復活やフランスの侵略戦争防止を図るものでしたが。1818年9月には、監視されるはずのフランスの加入が承認され、五国同盟が成立します。
五国同盟の成立によって、その目的はフランスを監視することから、フランス革命やナポレオン支配のもとで目覚めた諸国民の間に起こってきた自由を求める自由主義運動や民族統一と外国支配からの解放を求める国民主義(ナショナリズム)運動を抑圧し、反動的なウィーン体制を守る理念に替わっています。
保守反動政策の中心人物であり、19世紀前半のヨーロッパ外交をリードしたメッテルニヒは、神聖同盟や四国同盟(五国同盟)を自由主義運動の抑圧に利用しましたが、自由を求める運動は、1810年代から20年代にかけてヨーロッパ各地で次々と起こっていきます。

ブルシェンシャフト運動
ドイツでは、1817年10月18日、ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟、1815年に成立したドイツの大学生の団体)が、ルター宗教改革300年祭とライプチヒ戦勝記念式典をワルトブルクの森で行い、自由とドイツの統一を求めてドイツ各地から700~800人の学生が集まり気勢を上げました。
メッテルニヒが学生の自由主義運動の弾圧に乗り出し、彼は、1819年にカールスバードでドイツ連邦議会を開き、ブルシェンシャフトの解散・言論出版の自由の制限・進歩的な教授の追放などを決議し(カールスバード決議、1819年9月)、これによってブルシェンシャフトは壊滅しました。

ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌーニェス (Rafael del Riego y Nuñez 1784年4月9日 - 1823年11月7日)
スペインでは、1820年1月にスペイン立憲革命が起こります。
スペインでは、ナポレオンに対するスペイン反乱(1808年~14年)の最中にコルテス(議会)が成立し、主権在民・男子普通選挙制・出版言論の自由などを定めたスペイン最初の自由主義憲法(1812年憲法)が定められていましたが、ナポレオンの没落後、ブルボン朝が復活すると憲法が廃止され再び専制政治に逆戻りした結果、リェゴ(1785年~1823年)等が立憲革命を起こし、1812年憲法の復活を宣言しました(1820年1月)。
革命が全国に波及するなかで、国王も憲法復活を布告し(1820年3月)、スペイン立憲革命は成功するかに見えましたが、1822年の選挙で急進派が勝利すると国王は神聖同盟に干渉するように要請しました。
これを受けて五国同盟はヴェロナ会議(1822年10月、ヴェロナは北イタリアの小都市)を開き、スペイン革命の鎮圧をフランスに委譲することを決議し、この決議に基づいて、フランスは翌1823年にスペインに出兵してマドリードを占領し(1823年8月)、スペイン立憲革命は挫折し、そしてリェゴは王党派によって処刑されます(1823年)。
このヴェロナ会議で、イギリスはスペインへの干渉に反対し、五国同盟は事実上崩壊しました(1822年10月)。
イギリスが反対したのは、スペイン及びその中南米植民地がイギリス市場及び原料の供給地として価値が高く、それを失うことを恐れた結果でした。
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1822年9月12日、ナポリ革命指導者の絞首刑執行
イタリアでも、カルボナリ(炭焼党)によるナポリ革命(1820年)・ピエモンテ立憲革命(1821年)が起こいます。
カルボナリは、1806年頃、南イタリアで結成された革命的秘密結社で、専制政治の打倒・自由平等の実現を目的とし、1814年以後、北イタリアにも浸透するにつれて立憲自由主義運動としての性格が強まります。
彼等は炭焼き人夫を装って山中に入り、炭焼き小屋で集会を開いたので炭焼党と呼ばれるようになったといわれています。
カルボナリは、1820年7月にナポリで蜂起し、国王にスペインの1812年憲法とほぼ同じ内容の憲法を認めさせ、翌1821年3月にはピエモンテ(北イタリアのポー川上流地方、トリノを州都とする)でも蜂起し、サルデーニャ(サルディニア)国王にスペインの1812年憲法の採用を約束させます。
これに対してメッテルニヒは、オーストリア領の北イタリアに革命が波及することを恐れ、1821年にライバッハで五国会議を開き、イタリア革命に対する武力干渉とオーストリアの出兵を承認させ、オーストリア軍は、1821年3月にナポリを占領し、4月にはピエモンテに侵入してカルボナリを中心とする革命派軍を破り、革命派を徹底的に弾圧します。

デカブリスト(十二月党)の乱
ロシアでは、1825年12月にデカブリスト(十二月党)の乱が起こります。
ナポレオン戦争でフランス軍と戦ったロシアの青年貴族将校達は、自国の後進性を痛感し、フランス軍が強い理由は、フランス軍の中心である農民が農奴から解放された中小土地所有農民であることだと考え、彼等は帰国後秘密結社をつくり(1816年)、専制政治と農奴制の廃止・憲法制定を目標としました。
1825年12月、アレクサンドル1世が急死してニコライ1世(在位1825年~55年)が即位した日に、デカブリストは蜂起したものの鎮圧され、こうして、1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧されました。
ジョークは如何?
カエサルの凱旋行進の際、兵士達が叫んだと伝えられる言葉
「ローマ市民よ女房を隠せ、禿の女たらしのお帰りだ!」
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
ツクツクボウシの鳴き声も響いてきます。
秋の気配が感じられるようになりました。
暑さは相変わらずですが。
来週の火曜日から学校が始まるようです。
今は8月いっぱいの休みは少ないようです。
京都だけなのでしょうか?
2016-08-20 18:59 葉山左京 URL 編集
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2016-08-20 23:48 編集
葉山左京様、おはようございます。
関東方面は、台風の影響で、大荒れのお天気だったようですが、京都方面に影響は無いようですね。
7月の梅雨明け以来、にわか雨以外、まとまった雨が全く降っていません。
地面の乾燥も限界に達しています。
まとまった雨が欲しいです。
今年は、夏休みを8月27日の日曜を最後にしている市町村が多いようです。
北九州市は、28日が始業式になります。
2016-08-21 06:31 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
今の子供たちは休みが少ないのでしょうね。
私の時代と大きく違いますが、
その分むつかしいことをいっぱい勉強しているのでしょうね!
遊歩道の夕方はトンボがたくさん飛び回り、
歩いている私にぶつかりそうになります。
それでも心得たもので、
ぶつかりそうになるとスーイと避けていきます。
何となく秋の夕暮れを感じます。
2016-08-21 21:46 葉山左京 URL 編集
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2016-08-21 23:46 編集
葉山左京様、おはようございます。
何かと話題の多い、今年の夏でした。
赤とんぼの姿は、やっと此方でも見ることができています。
之も自宅の周辺から田畑が消えた結果でしょうか。
子供の頃は、沢山飛んでいた記憶があります。
北九州も30度台前半の毎日。
外に出ると強烈に熱を感じます。
昨晩は、虫の音が聞こえてきました。
ゆっくりと秋が、やって来ています。
2016-08-22 06:13 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
何となくほっとした瞬間でした。
今は虫の声が良く聞こえています。
確実に秋は近ずいて来ているのでしょうが、
やはり出る言葉は暑い!でした。
2016-08-22 23:14 葉山左京 URL 編集
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2016-08-22 23:40 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨日は、お昼前にまとまった雨が降りました。
只、直ぐにお天気が回復したので、その雨も見る間に乾いてしまいました。
今日の朝は、何時もより涼しく感じられます。
夜は、虫の音が良く聞こえて来ます。
でも、昼間は暑いですね。
2016-08-23 06:19 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
ツクツクボウシの鳴き声が夕方遅くまで聞こえて来て、
涼しい秋を連想します。
空にはうろこ雲が見られるようになりました。
入道雲が姿を消したように思えます。
この暑い夏に、
京の都に通じる旧街道口に地蔵尊を回る
六地蔵巡りが22日行われたようです。
私も何年か前に参加したことがあります。
2016-08-23 20:26 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-08-23 23:53 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
雨が降るといいのですが、
最近はほとんど降りません。
涼しくありませんが、
太陽が照らない分涼しく感じるのでしょうか。
関東以北は台風の影響でかなり被害が出ているようですね。
北海道では農作物の被害、
また値が上がります。
困ったことですね。
2016-08-24 05:54 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
関東から東北、北海道の雨は、1ヶ月分が1日で降る等本当に異常です。
これから、九州も台風シーズンを迎えますから、心配が大きいです。
前庭の雑草がお盆以来伸び放題になっていたので、昨日から今日の朝の日程を立てていました。
午前5時30分起床、6時から6時30分迄ジロくんの散歩、帰宅後直ぐに作業着に着替えて除草(今日は電動草刈機使用)8時迄に作業を終え、入浴と洗濯、予定通りにできました。
未だ日中の作業は、熱中症等も心配ですが、地面の照り返しが思いのほか強く、しかもカラカラに乾燥しているので、大変なことになります。
今日は後で買い物、郵便局行きを済ませて、夕方迄ゆっくりしたいと思っています。
2016-08-24 08:40 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-08-24 23:42 編集
葉山左京様、おはようございます。
少し風もあるので、朝としては、心地よく感じます。
天気予報では、土曜日、日曜日あたりで、雨の予報です。
本当に1日良いから、降って欲しいと思います。
9月になれば、少しは涼しくなるでしょうね。
2016-08-25 06:16 秋葉 奈津子 URL 編集