歴史を歩く125
31自由主義と国民主義
1イギリスのヴィクトリア時代

ヴィクトリア女王・戴冠式の肖像(Victoria、1819年5月24日 - 1901年1月22日)
イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)
初代インド女帝(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)
1837年、イギリスではヴィクトリア女王(1819年~1901年、在位1837年~1901年)が18歳で即位します。
歴代イギリス国王の中で最長の64年に及ぶ治世は「ヴィクトリア朝時代」と呼ばれ、大英帝国の黄金時代でした。
ヴィクトリア朝時代を代表する偉大な政治家が、保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンで、19世紀後半のイギリスでは、この二人の政治家のもとで、保守党と自由党による典型的な二大政党制が発展します。
トーリー党は、1830年頃から保守党と呼ばれるようになりました。
トーリー党を近代的な保守党に脱皮させたのは、穀物法の廃止(1846年)を断行したピール(首相、在任1834年~35年、1841年~46年)でした。
ホイッグ党も、第1回選挙法改正(1832年)後に自由党と呼ばれるようになります。
30年にわたってイギリス外交をリードしたパーマストン(1784年~1865年、首相(在任1855年~58年、1859年~65年))の死後、グラッドストンが指導権を握り、多くの自由主義改革を行いました。

1840年代のチャーチスト運動
19世紀後半のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正でした。
第1回選挙法改正で、選挙権を獲得できなかった労働者は、チャーティスト運動を起こしますが失敗に終わり、1866年に自由党が提出した4回目の選挙法改正案が否決されると、ロンドンで選挙法改正を要求する大規模なデモが起こり、労働者に選挙権を与えることは避けられない状況となりました。

保守党党首・首相ダービー伯爵
第14代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, PC、1799年3月29日 - 1869年10月23日)
この状況をみて、保守党のディズレーリは、保守党の手で改正を行って民衆の支持を得る方が得策と考え、自由党の改正に応じ、保守党ダービー内閣(第3次、在任1866年~68年)のもとで、1867年8月に第2回選挙法改正が行われ、これにより都市の労働者に選挙権が与えられ、新有権者の数は110万人以上増加しました。
ダービーは、翌1868年に体調を壊して引退し、第1次ディズレーリ内閣(1868年)が成立します。しかし、第2回選挙法改正後に行われた1868年の総選挙では自由党が勝利し、第1次グラッドストン内閣(1868年~74年)が成立、以後、ディズレーリは2回、グラッドストンは4回にわたって内閣を組織しました。

1878年のディズレーリ首相
初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ( Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS、1804年12月21日 - 1881年4月19日)
ディズレーリ(1804年~81年、首相(在任1868年、1874年~80年))は、祖父の代にイギリスに移住したユダヤ人の家系に生まれ、キリスト教に改宗し、弁護士事務所に勤務しながら小説を著しました。
数回の落選を経験した後、1837年に下院議員に当選し、政治小説を書いてトーリー・デモクラシーを主張し、穀物法の廃止(1846年)に反対してピールと袂を分かち、その後保守党保護貿易派の首領となり、ダービー内閣で3度蔵相を務め、第2回選挙法改正(1867年)を行いました。
ダービーの引退後、2回内閣を組織し、スエズ運河株式の買収(1875年)・インド帝国の成立(1877年、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任)・ベルリン会議でロシアの南下策を阻止する等積極的に帝国主義的外交を展開しました。

ホイッグ党党首・首相パーマストン子爵
第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル( Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)
グラッドストン(1809年~98年、首相(在任1868年~74年、1880年~85年、1886年、1892年~94年))は、リヴァプールの豪商の家に生まれ、オックスフォード大学を卒業後、1833年に保守党の下院議員となり、穀物法廃止の際はピールを支持し、その後ピール派として保守党から次第に離れ、1859~66年にパーマストン自由党内閣・ラッセル自由党内閣で蔵相に就任し、ラッセルの引退後は自由党党首として4回首相を務めました。

自由党党首・首相ウィリアム・グラッドストン
ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone [ˈwɪljəm ˈjuːwɑːt ˈglæd.stən], FRS, FSS、1809年12月29日 - 1898年5月19日)
グラッドストンは、主に内政問題に力を注ぎ、1870年には教育法を制定して宗派に関係ない公立学校を増設し、翌1871年には労働組合法を制定して労働組合運動を合法化、更に1884年には第3回選挙法改正を行い、農業労働者及び鉱山労働者に選挙権を与え、これによって有権者は約500万人(成年男子約700万人中)と成りました。
グラッドストンが最も力を入れて取り組んだのがアイルランド問題でした。
アイルランドは、クロムウェルに征服されて(1649年)以来、事実上イギリスの植民地状態におかれ、アイルランド人は宗教・政治・土地所有等の差別に苦しめられた上、1801年に正式にイギリスに併合され、ロンドンの議会に代表を送るようになり、1829年のカトリック教徒解放法で議会に進出しますが、アイルランド人は長い間イギリス人不在地主の小作人に位置した結果、生活は苦しく、1874年にイギリス議会に選出された60~80人のアイルランド選出議員を中心にアイルランド国民党を結成して、アイルランドの自治権獲得をめざす運動を展開しました。

ダブリン市にあるジャガイモ飢饉追悼記念像
グラッドストンは、アイルランド人小作人の地位向上の為にアイルランド土地法の制定に取り組ます。
1870年法で適正な地代・小作権売買を認め、1881年法では土地購入権も認め、又1885年法・1891年法では自作農創設の為に小作人の土地購入を促進する法を制定しました。
更にグラッドストンは、議会内第3党となったアイルランド国民党と結んで、1886年にアイルランド自治法を提出しましたが、自由党の一部が反対にまわり、自由党が分裂した為に失敗に終わり、1893年には再度、第2次アイルランド自治法案を議会に提出します。
この時は下院を通過しますが上院で否決され、グラッドストンは翌年政界を引退しました。

20世紀初期のイギリス植民地
当時のイギリスでは、植民地に関して大英国主義と小英国主義が対立していました。
小英国主義は、自由貿易による利益の獲得こそが重要であって、植民地は財政負担を増加させる重荷に過ぎないとして植民地放棄論を唱えて帝国の拡大に反対する立場で、自由党のグラッドストンはこの小英国主義を支持しました。
これに対して保守党のディズレーリは大英国主義を主張し、インド・アフリカ・中国への進出を強めます。
19世紀後半のイギリスは、インド帝国を中心としてオーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・カナダ等に広大な植民地を持ち、第2次イギリス帝国(七年戦争迄に形成された帝国を第1次帝国)を形成していました。
第2次イギリス帝国では、次第に白人植民地の自治が認められ、白人植民地は自治領と成り、まず1867年に、カナダがイギリス帝国内で最初の自治領と成りました。
自治領は、イギリス植民地の中で自治権を与えられた国で、イギリス国王を元首とし、カナダに続いてオーストラリア(1901年)・ニュージーランド(1907年)・南アフリカ連邦(1910年)も自治領に成って行きます。
ジョークは如何?
二日酔いで議会に出席したチャーチル。
女性議員が不謹慎だと批難すると、チャーチルは反論して曰く
「私の二日酔いは明日になれば治るが、あンたのその顔は永遠に治らんよ」
続く・・・
1イギリスのヴィクトリア時代

ヴィクトリア女王・戴冠式の肖像(Victoria、1819年5月24日 - 1901年1月22日)
イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)
初代インド女帝(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)
1837年、イギリスではヴィクトリア女王(1819年~1901年、在位1837年~1901年)が18歳で即位します。
歴代イギリス国王の中で最長の64年に及ぶ治世は「ヴィクトリア朝時代」と呼ばれ、大英帝国の黄金時代でした。
ヴィクトリア朝時代を代表する偉大な政治家が、保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンで、19世紀後半のイギリスでは、この二人の政治家のもとで、保守党と自由党による典型的な二大政党制が発展します。
トーリー党は、1830年頃から保守党と呼ばれるようになりました。
トーリー党を近代的な保守党に脱皮させたのは、穀物法の廃止(1846年)を断行したピール(首相、在任1834年~35年、1841年~46年)でした。
ホイッグ党も、第1回選挙法改正(1832年)後に自由党と呼ばれるようになります。
30年にわたってイギリス外交をリードしたパーマストン(1784年~1865年、首相(在任1855年~58年、1859年~65年))の死後、グラッドストンが指導権を握り、多くの自由主義改革を行いました。

1840年代のチャーチスト運動
19世紀後半のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正でした。
第1回選挙法改正で、選挙権を獲得できなかった労働者は、チャーティスト運動を起こしますが失敗に終わり、1866年に自由党が提出した4回目の選挙法改正案が否決されると、ロンドンで選挙法改正を要求する大規模なデモが起こり、労働者に選挙権を与えることは避けられない状況となりました。

保守党党首・首相ダービー伯爵
第14代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, PC、1799年3月29日 - 1869年10月23日)
この状況をみて、保守党のディズレーリは、保守党の手で改正を行って民衆の支持を得る方が得策と考え、自由党の改正に応じ、保守党ダービー内閣(第3次、在任1866年~68年)のもとで、1867年8月に第2回選挙法改正が行われ、これにより都市の労働者に選挙権が与えられ、新有権者の数は110万人以上増加しました。
ダービーは、翌1868年に体調を壊して引退し、第1次ディズレーリ内閣(1868年)が成立します。しかし、第2回選挙法改正後に行われた1868年の総選挙では自由党が勝利し、第1次グラッドストン内閣(1868年~74年)が成立、以後、ディズレーリは2回、グラッドストンは4回にわたって内閣を組織しました。

1878年のディズレーリ首相
初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ( Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS、1804年12月21日 - 1881年4月19日)
ディズレーリ(1804年~81年、首相(在任1868年、1874年~80年))は、祖父の代にイギリスに移住したユダヤ人の家系に生まれ、キリスト教に改宗し、弁護士事務所に勤務しながら小説を著しました。
数回の落選を経験した後、1837年に下院議員に当選し、政治小説を書いてトーリー・デモクラシーを主張し、穀物法の廃止(1846年)に反対してピールと袂を分かち、その後保守党保護貿易派の首領となり、ダービー内閣で3度蔵相を務め、第2回選挙法改正(1867年)を行いました。
ダービーの引退後、2回内閣を組織し、スエズ運河株式の買収(1875年)・インド帝国の成立(1877年、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任)・ベルリン会議でロシアの南下策を阻止する等積極的に帝国主義的外交を展開しました。

ホイッグ党党首・首相パーマストン子爵
第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル( Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)
グラッドストン(1809年~98年、首相(在任1868年~74年、1880年~85年、1886年、1892年~94年))は、リヴァプールの豪商の家に生まれ、オックスフォード大学を卒業後、1833年に保守党の下院議員となり、穀物法廃止の際はピールを支持し、その後ピール派として保守党から次第に離れ、1859~66年にパーマストン自由党内閣・ラッセル自由党内閣で蔵相に就任し、ラッセルの引退後は自由党党首として4回首相を務めました。

自由党党首・首相ウィリアム・グラッドストン
ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone [ˈwɪljəm ˈjuːwɑːt ˈglæd.stən], FRS, FSS、1809年12月29日 - 1898年5月19日)
グラッドストンは、主に内政問題に力を注ぎ、1870年には教育法を制定して宗派に関係ない公立学校を増設し、翌1871年には労働組合法を制定して労働組合運動を合法化、更に1884年には第3回選挙法改正を行い、農業労働者及び鉱山労働者に選挙権を与え、これによって有権者は約500万人(成年男子約700万人中)と成りました。
グラッドストンが最も力を入れて取り組んだのがアイルランド問題でした。
アイルランドは、クロムウェルに征服されて(1649年)以来、事実上イギリスの植民地状態におかれ、アイルランド人は宗教・政治・土地所有等の差別に苦しめられた上、1801年に正式にイギリスに併合され、ロンドンの議会に代表を送るようになり、1829年のカトリック教徒解放法で議会に進出しますが、アイルランド人は長い間イギリス人不在地主の小作人に位置した結果、生活は苦しく、1874年にイギリス議会に選出された60~80人のアイルランド選出議員を中心にアイルランド国民党を結成して、アイルランドの自治権獲得をめざす運動を展開しました。

ダブリン市にあるジャガイモ飢饉追悼記念像
グラッドストンは、アイルランド人小作人の地位向上の為にアイルランド土地法の制定に取り組ます。
1870年法で適正な地代・小作権売買を認め、1881年法では土地購入権も認め、又1885年法・1891年法では自作農創設の為に小作人の土地購入を促進する法を制定しました。
更にグラッドストンは、議会内第3党となったアイルランド国民党と結んで、1886年にアイルランド自治法を提出しましたが、自由党の一部が反対にまわり、自由党が分裂した為に失敗に終わり、1893年には再度、第2次アイルランド自治法案を議会に提出します。
この時は下院を通過しますが上院で否決され、グラッドストンは翌年政界を引退しました。

20世紀初期のイギリス植民地
当時のイギリスでは、植民地に関して大英国主義と小英国主義が対立していました。
小英国主義は、自由貿易による利益の獲得こそが重要であって、植民地は財政負担を増加させる重荷に過ぎないとして植民地放棄論を唱えて帝国の拡大に反対する立場で、自由党のグラッドストンはこの小英国主義を支持しました。
これに対して保守党のディズレーリは大英国主義を主張し、インド・アフリカ・中国への進出を強めます。
19世紀後半のイギリスは、インド帝国を中心としてオーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・カナダ等に広大な植民地を持ち、第2次イギリス帝国(七年戦争迄に形成された帝国を第1次帝国)を形成していました。
第2次イギリス帝国では、次第に白人植民地の自治が認められ、白人植民地は自治領と成り、まず1867年に、カナダがイギリス帝国内で最初の自治領と成りました。
自治領は、イギリス植民地の中で自治権を与えられた国で、イギリス国王を元首とし、カナダに続いてオーストラリア(1901年)・ニュージーランド(1907年)・南アフリカ連邦(1910年)も自治領に成って行きます。
ジョークは如何?
二日酔いで議会に出席したチャーチル。
女性議員が不謹慎だと批難すると、チャーチルは反論して曰く
「私の二日酔いは明日になれば治るが、あンたのその顔は永遠に治らんよ」
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
かなり強めの雨脚でした。
風は冷たく20℃を切っていたようです。
冬のような寒さです。
コスモスの写真を掲載の丹波亀岡市にも今日山鉾巡行がありました。
京都祇園祭と同じような山鉾巡行でした。
明日は暑いようですが、
その後は本格的な寒い秋が訪れそうです。
2016-10-25 21:18 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-10-25 23:37 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
こんな日が続くとありがたいですが。
暖冬だと言っても真冬はやはり雪が舞い、
寒さは厳しいですね。
地球温暖化で南の海の魚が北上し、
海藻類も北へ上がっています。
北海道周辺が暖流になることは、
ないでしょうか?
2016-10-26 05:45 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨晩から時折雨が降り、南東の風が吹いていたので、気温も上がったようですが、体調管理には本当に苦労します。
海の中は、大きく状況が変わっています。
山陰付近でも、普通長崎、五島灘付近でないといない魚が捕れたり、又常識破りの大きさに成長したマンボウやエイを見る事があると、取引先の水産会社の方は話されていました。
海の中は、亜熱帯に成っているようです。
10月も残り僅か。
1年早いものですね。
2016-10-26 06:36 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
日中は暖かいでしょうか?
でも、明日は又雨模様に成りそうです。
中々、お天気が定まりません。
今年の秋は、秋らしい、青空を眺める事が殆んどありません。
2016-10-27 06:28 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
暮れなずむ青空に一段と輝いて、
美しい星空を連想させます。
宇宙の彼方からメッセージが届きそうな錯覚を覚えます。
ヒンヤリした風に身が引き締まりますが、
自然はきれいな色どりを見せてくれます。
秋の夜も良いですね。
2016-10-27 21:46 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-10-28 00:00 編集
葉山左京様 おはようございます。
気温は高めで、助かりますが、今日は外出予定があるので、少々辛いです。
これから、冬を迎えますが、夜空は冬が一番綺麗な季節になります。
空気が澄んでいれば、星達の瞬きは、一層綺麗に見える事でしょう。
星空を眺めていると、その広大な宇宙に広がりを実感し、そして人間の営みが宇宙の其れに対して如何に小さなものかが、分かるような気がします。
最近、山手の市内で、猪の遭遇が多く報告されています。
冬を前に餌の確保でしょうが、山にも食べ物が無いのですね。
異常気象で、自然界の営みが変わってしまえば、生き物は、生きるために必死になります。
此れは、やがて私達にもやって来る事と思います。
2016-10-28 07:58 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
完全に赤とか黄色ではないですが、
緑の葉が薄い黄緑とか黄色ぽっくなって来ています。
もうすぐ11月ですからいくら温暖化が進んでも、
紅葉はやってきますね。
山科川をえさ場にしている白鷺は、
夏場には見られない冬の朝の集団の集いがあります。
10数羽固まっていますね。
寒さをしのぐためではないように思えますが。
2016-10-28 21:26 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-10-28 23:38 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
今年は晴れの日が少ないようですね。
日照時間が例年より少ないと報道していました。
山に食べ物がなくて熊や、猪が人間の生活地帯に入り込んでくるのでしょうが、
人間を襲ったりしますので、
とても危険ですね。
天候の異常が生んだ結果でしょうね。
2016-10-29 05:56 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
10月ももう直ぐ終わりですが、大変暖かい朝を迎えています。
確かに季節が狂い、開発が進み、自然が破壊されて久しいですが、昭和40年代の反動が異常気象として現れていると思います。
特に近年の中華人民共和国は、工業も農業も漁業も制御の効かない、不良組織です。
工業は周辺諸国に公害を撒き散らし、北京では住むことさえ困難な程、大気汚染が進み、更には過剰生産の調整も出来ない。
農業は、各種農薬の使用で、安心して口に入れられない。
漁業は、乱獲で全ての魚を取り尽くす。
この様なモラルの無い国家は今まで聞いた事がありません。
自宅近くの高校では、文化祭が行われます。
私が高校生の頃は、結構寒かった記憶があるのですが、今年は屋外の模擬店も大丈夫ですね。
高校3年生には、高校生活最後のイヴェント。
良い思い出が出来ます様に。
2016-10-29 09:13 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日も昨日に続いて、良いお天気に成りそうです。
朝晩の冷え込みが続くと、いよいよ紅葉の季節を迎えそうです。
今年は、雨が多いので、少しでも良いお天気が続く事を願っています。
2016-10-30 06:28 秋葉 奈津子 URL 編集