歴史を歩く127
31自由主義と国民主義③
3ドイツの統一(その1)

1815年のヨーロッパ
ウィーン会議によって、ドイツにはオーストリア・プロイセン以下35の君主国と4自由市から成るドイツ連邦が成立しました。
ドイツ連邦の領域は、旧神聖ローマ帝国の領土を踏襲していた結果、オーストリアは連邦内の領土よりその外にある領土の方が大きく、プロイセンも領土の約4分の1は連邦外に存在していました。
プロイセンは、ウィーン議定書でワルシャワ大公国の北部とザクセンの北半分及びライン中流左岸地域を獲得しましたが、特にドイツで最も工業が発達していたライン地方を獲得したことは、プロイセンの発展にとって非常に有利な条件となったのです。

フリードリッヒ・リスト(Friedrich List, 1789年8月6日 - 1846年11月30日)
ウィーン体制下で、政治的にオーストリアの下に位置したプロイセンが、オーストリアより優位に立つ契機となったのが、歴史学派経済学者のフリードリヒ・リスト(1789年~1846年)によって提唱されたドイツ関税同盟でした。

プロイセンの領土
プロイセンは、領土が東西に二分されていた為、近隣諸国との間に関税同盟を結んで経済圏の統一を図り、1828年にヘッセンと関税同盟を結びます。
同年、中部ドイツ関税同盟・南ドイツ関税同盟が成立していましたが、プロイセンは諸邦と粘り強い交渉を続け、1833年にこれ等3つの関税同盟は、プロイセンの主導下に統合され、翌1834年にドイツ関税同盟が発足しました。
ドイツ関税同盟は次第に加盟国を増やし、オーストリアを除くドイツを経済的に統一し、このドイツ関税同盟の成立によって、ドイツでは政治的統一に先立ち、経済的統一がほぼ完成し、これを主導したプロイセンは政治的統一に於いてもオーストリアに対して優位に成って行きました。

フランクフルト国民議会
1848年の二月革命はドイツにも大きな衝撃を与え、ウィーンの三月革命によってメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は完全に崩壊し、又ベルリンの三月革命では、プロイセン国王に憲法制定を約束させました。
そして1848年5月に、ドイツの統一と全国憲法制定の為にフランクフルト国民議会が開かれます。フランクフルト国民議会では、ドイツの統一の方式を廻って、オーストリア指導の基でドイツ統一を実現しようとする大ドイツ主義とオーストリアを除外してプロイセンを中心にドイツの統一を達成しようとする小ドイツ主義が対立しました。
最終的に小ドイツ主義が勝利を収め、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位1840年~61年)を統一ドイツの皇帝に推しましたが、プロイセン王が革命派からの帝冠を拒否した為に失敗に終わっています。

ケーニヒスベルク城でのヴィルヘルム1世の戴冠式
1861年1月、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の死後、ヴィルヘルム1世(1797年~1888年、プロイセン王(在位1861年~88年)、初代ドイツ皇帝(在位1871年~88年)が即位しました。
ヴィルヘルム1世は、摂政時代からプロイセンの軍制改革に取り組んでいたのですが、軍備拡張の予算案が議会で否決されると、この難局を打開する為にビスマルクを首相に起用します。

ヴィルヘルム1世(Wilhelm I. 1797年3月22日 - 1888年3月9日)
第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 - 1888年3月9日)
北ドイツ連邦主席(在任:1867年7月1日 - 1871年1月18日)
初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 - 1888年3月9日)
ビスマルク(1815年~98年、在任1862年~90年)は、ベルリン西方の小村シェーンハウゼンでユンカー(エルベ川以東の大土地貴族)の家庭に生まれ、ゲッティンゲン大学・ベルリン大学に学んだものの、酒と決闘に明け暮れ、「乱暴者ビスマルク」と呼ばれ、卒業後、一時軍務に就きますが、父の死後は領地の経営に従事していました。
1847年に連邦地方議会議員に選出され、1848年に三月革命が起こると故郷の農民を武装させてベルリンに進撃を計画する等反革命派として活躍し、革命後フランクフルトのドイツ連邦議会にプロイセン代表として派遣され(1851年~59年)、オーストリアと対立して小ドイツ主義者と成り、その後、駐ロシア大使(1859年)・駐フランス大使(1862年)等を歴任し、1862年にヴィルヘルム1世によってプロイセンの首相兼外相に任命されました(1862年9月)。

オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン( Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年4月1日 - 1898年7月30日)
ビスマルクは、首相就任から1週間後に、下院予算委員会において以下、
「・・・ドイツの着眼すべき点は、プ口イセンの自由主義ではなく、その軍備であり、バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデン等の諸邦は、それぞれの自由主義を認めるでありましようが、それゆえにこそ誰もプロイセンに課せられた役割をそれらの諸邦に課するものはないでありましよう。
プロイセンは今迄何回か好機を失って来たのでありますが、これに鑑みてプロイセンは今後の好機に備えて力を結集しておかねばならないのであります。
プロイセンの国境は、健全な国家のそれにふさわしいものではありません。
言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。
言論や多数決は、1848年および1849年の欠陥であり、鉄と血によってこそ問題は解決されるのであります。・・・」
以上、有名な「鉄血演説」を行い、議会による予算案の否決を無視して軍備拡張を実行に移し、議会と対立しました。

デンマーク戦争(1864年2月~64年7月)・反乱を鎮圧し、コペンハーゲンに帰還したデンマーク軍。
こうした状況のなかでシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が発生します。
シュレスヴィヒ・ホルシュタインはユトランド半島の南半分に位置する2つの小公国で、デンマークの主権下に属していましたが、住民の多くはドイツ人でした。
1863年にデンマークが北のシュレスヴィヒ公国の併合を宣言すると、住民はドイツ連邦に援助を要請し、プロイセンとオーストリア両国は同盟してシュレスヴィヒ公国の併合に抗議しますが、デンマークが両国の要求を拒否したため、1864年2月にプロイセン・オーストリア両国はデンマークと開戦し、デンマーク戦争(1864年2月~64年7月)が始まります。
プロイセン・オーストリア両国は、デンマーク軍を破ってシュレスヴィヒ・ホルシュタインを占領し、休戦条約を結び(1864年7月)、10月のウィーン条約でシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国はプロイセン・オーストリア両国の共同管理下に置かれる事となり、翌1865年にプロイセン・オーストリア両国は、プロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインを管理下に置く協定を締結しました。

ナポレオン3世
ビスマルクは、早くから対オーストリア戦を予想して軍備拡張を強行していましたが、1865年にはナポレオン3世と会見し、ライン左岸地方の割譲を匂わせながら対オーストリア戦開始の場合の中立を約束させ、1866年2月には御前会議で対オーストリア開戦政策を決定した上に、同年4月、戦後にヴェネツィア併合を認める事を条件にイタリアと攻守同盟を結びます。
そして、イタリアと攻守同盟を結んだ翌日に、ビスマルクはドイツ連邦議会に、ドイツ全国民の直接選挙により議会を召集するという革命的な提案を行いました。
これに対してオーストリアは、1866年6月にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン処理問題を改めてドイツ連邦議会に提出し、プロイセンとオーストリアの関係は決裂しました。
プロイセンはホルシュタインに兵を進め、ドイツ連邦議会はプロイセンに対する制裁を決議し、ここに普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争、1866年6月15日~66年8月23日)が勃発します。

ケーニヒグレーツの戦い
プロイセンは、開戦と同時に鉄道を利用して電撃的な速さで兵力を集中し、ザクセン・ベーメンに入り、7月3日のサドヴァ(ケーニヒグレーツ)の戦いでオーストリアの主力軍を撃破、ウィーンに迫りました。
オーストリアは開戦後僅か50日で降伏し、7月26日に仮条約が結ばれ、8月23日にプラハ条約が結ばれますが、この様な結果から普墺戦争は7週間戦争とも呼ばれています。

北ドイツ連邦
プラハ条約で、ドイツ連邦解体とプロイセン指導下の北ドイツ連邦の設立・シュレスヴィヒとホルシュタインのプロイセンへの併合・賠償金の支払いが決められ、又オーストリア・イタリア間の平和条約でヴェネツィアのイタリアへの割譲が認められます。
普墺戦争の翌年、1867年7月、終に北ドイツ連邦が成立し、北ドイツ連邦は、オーストリアと南ドイツ諸国を除くマイン川以北の22の諸邦で組織され、プロイセン国王を連邦議長としました。
北ドイツ連邦の成立によってドイツの統一はほぼ達成されますが、一方、普墺戦争に敗れてドイツから除外されたオーストリアでは、ハンガリーの自治が認められ、1867年6月にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年~1916年)がハンガリー王を兼ね、別々の政府と国会を持つオーストリア・ハンガリー帝国(二重帝国)が成立します。
ジョークは如何?
ここはモスクワの街角。
例によっていつものように、パン屋の前には行列がズラリと並んでいる。
それを見た外国の使節団が一言。
中国人「物を買うのに列に並ぶなんて、ロシア人はなんて律儀なのだろう」
日本人「物を買うのに列に並ぶなんて、よほど有名なパン屋さんなのだろう」
韓国人「物を買うのに列に並ばせるなんて、謝罪の要求が殺到するだろう」
北朝鮮人「列に並びさえすれば物を買えるなんて、なんて素晴らしいんだろう」
続く・・・
3ドイツの統一(その1)

1815年のヨーロッパ
ウィーン会議によって、ドイツにはオーストリア・プロイセン以下35の君主国と4自由市から成るドイツ連邦が成立しました。
ドイツ連邦の領域は、旧神聖ローマ帝国の領土を踏襲していた結果、オーストリアは連邦内の領土よりその外にある領土の方が大きく、プロイセンも領土の約4分の1は連邦外に存在していました。
プロイセンは、ウィーン議定書でワルシャワ大公国の北部とザクセンの北半分及びライン中流左岸地域を獲得しましたが、特にドイツで最も工業が発達していたライン地方を獲得したことは、プロイセンの発展にとって非常に有利な条件となったのです。

フリードリッヒ・リスト(Friedrich List, 1789年8月6日 - 1846年11月30日)
ウィーン体制下で、政治的にオーストリアの下に位置したプロイセンが、オーストリアより優位に立つ契機となったのが、歴史学派経済学者のフリードリヒ・リスト(1789年~1846年)によって提唱されたドイツ関税同盟でした。

プロイセンの領土
プロイセンは、領土が東西に二分されていた為、近隣諸国との間に関税同盟を結んで経済圏の統一を図り、1828年にヘッセンと関税同盟を結びます。
同年、中部ドイツ関税同盟・南ドイツ関税同盟が成立していましたが、プロイセンは諸邦と粘り強い交渉を続け、1833年にこれ等3つの関税同盟は、プロイセンの主導下に統合され、翌1834年にドイツ関税同盟が発足しました。
ドイツ関税同盟は次第に加盟国を増やし、オーストリアを除くドイツを経済的に統一し、このドイツ関税同盟の成立によって、ドイツでは政治的統一に先立ち、経済的統一がほぼ完成し、これを主導したプロイセンは政治的統一に於いてもオーストリアに対して優位に成って行きました。

フランクフルト国民議会
1848年の二月革命はドイツにも大きな衝撃を与え、ウィーンの三月革命によってメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は完全に崩壊し、又ベルリンの三月革命では、プロイセン国王に憲法制定を約束させました。
そして1848年5月に、ドイツの統一と全国憲法制定の為にフランクフルト国民議会が開かれます。フランクフルト国民議会では、ドイツの統一の方式を廻って、オーストリア指導の基でドイツ統一を実現しようとする大ドイツ主義とオーストリアを除外してプロイセンを中心にドイツの統一を達成しようとする小ドイツ主義が対立しました。
最終的に小ドイツ主義が勝利を収め、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位1840年~61年)を統一ドイツの皇帝に推しましたが、プロイセン王が革命派からの帝冠を拒否した為に失敗に終わっています。

ケーニヒスベルク城でのヴィルヘルム1世の戴冠式
1861年1月、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の死後、ヴィルヘルム1世(1797年~1888年、プロイセン王(在位1861年~88年)、初代ドイツ皇帝(在位1871年~88年)が即位しました。
ヴィルヘルム1世は、摂政時代からプロイセンの軍制改革に取り組んでいたのですが、軍備拡張の予算案が議会で否決されると、この難局を打開する為にビスマルクを首相に起用します。

ヴィルヘルム1世(Wilhelm I. 1797年3月22日 - 1888年3月9日)
第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 - 1888年3月9日)
北ドイツ連邦主席(在任:1867年7月1日 - 1871年1月18日)
初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 - 1888年3月9日)
ビスマルク(1815年~98年、在任1862年~90年)は、ベルリン西方の小村シェーンハウゼンでユンカー(エルベ川以東の大土地貴族)の家庭に生まれ、ゲッティンゲン大学・ベルリン大学に学んだものの、酒と決闘に明け暮れ、「乱暴者ビスマルク」と呼ばれ、卒業後、一時軍務に就きますが、父の死後は領地の経営に従事していました。
1847年に連邦地方議会議員に選出され、1848年に三月革命が起こると故郷の農民を武装させてベルリンに進撃を計画する等反革命派として活躍し、革命後フランクフルトのドイツ連邦議会にプロイセン代表として派遣され(1851年~59年)、オーストリアと対立して小ドイツ主義者と成り、その後、駐ロシア大使(1859年)・駐フランス大使(1862年)等を歴任し、1862年にヴィルヘルム1世によってプロイセンの首相兼外相に任命されました(1862年9月)。

オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン( Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年4月1日 - 1898年7月30日)
ビスマルクは、首相就任から1週間後に、下院予算委員会において以下、
「・・・ドイツの着眼すべき点は、プ口イセンの自由主義ではなく、その軍備であり、バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデン等の諸邦は、それぞれの自由主義を認めるでありましようが、それゆえにこそ誰もプロイセンに課せられた役割をそれらの諸邦に課するものはないでありましよう。
プロイセンは今迄何回か好機を失って来たのでありますが、これに鑑みてプロイセンは今後の好機に備えて力を結集しておかねばならないのであります。
プロイセンの国境は、健全な国家のそれにふさわしいものではありません。
言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。
言論や多数決は、1848年および1849年の欠陥であり、鉄と血によってこそ問題は解決されるのであります。・・・」
以上、有名な「鉄血演説」を行い、議会による予算案の否決を無視して軍備拡張を実行に移し、議会と対立しました。

デンマーク戦争(1864年2月~64年7月)・反乱を鎮圧し、コペンハーゲンに帰還したデンマーク軍。
こうした状況のなかでシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が発生します。
シュレスヴィヒ・ホルシュタインはユトランド半島の南半分に位置する2つの小公国で、デンマークの主権下に属していましたが、住民の多くはドイツ人でした。
1863年にデンマークが北のシュレスヴィヒ公国の併合を宣言すると、住民はドイツ連邦に援助を要請し、プロイセンとオーストリア両国は同盟してシュレスヴィヒ公国の併合に抗議しますが、デンマークが両国の要求を拒否したため、1864年2月にプロイセン・オーストリア両国はデンマークと開戦し、デンマーク戦争(1864年2月~64年7月)が始まります。
プロイセン・オーストリア両国は、デンマーク軍を破ってシュレスヴィヒ・ホルシュタインを占領し、休戦条約を結び(1864年7月)、10月のウィーン条約でシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国はプロイセン・オーストリア両国の共同管理下に置かれる事となり、翌1865年にプロイセン・オーストリア両国は、プロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインを管理下に置く協定を締結しました。

ナポレオン3世
ビスマルクは、早くから対オーストリア戦を予想して軍備拡張を強行していましたが、1865年にはナポレオン3世と会見し、ライン左岸地方の割譲を匂わせながら対オーストリア戦開始の場合の中立を約束させ、1866年2月には御前会議で対オーストリア開戦政策を決定した上に、同年4月、戦後にヴェネツィア併合を認める事を条件にイタリアと攻守同盟を結びます。
そして、イタリアと攻守同盟を結んだ翌日に、ビスマルクはドイツ連邦議会に、ドイツ全国民の直接選挙により議会を召集するという革命的な提案を行いました。
これに対してオーストリアは、1866年6月にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン処理問題を改めてドイツ連邦議会に提出し、プロイセンとオーストリアの関係は決裂しました。
プロイセンはホルシュタインに兵を進め、ドイツ連邦議会はプロイセンに対する制裁を決議し、ここに普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争、1866年6月15日~66年8月23日)が勃発します。

ケーニヒグレーツの戦い
プロイセンは、開戦と同時に鉄道を利用して電撃的な速さで兵力を集中し、ザクセン・ベーメンに入り、7月3日のサドヴァ(ケーニヒグレーツ)の戦いでオーストリアの主力軍を撃破、ウィーンに迫りました。
オーストリアは開戦後僅か50日で降伏し、7月26日に仮条約が結ばれ、8月23日にプラハ条約が結ばれますが、この様な結果から普墺戦争は7週間戦争とも呼ばれています。

北ドイツ連邦
プラハ条約で、ドイツ連邦解体とプロイセン指導下の北ドイツ連邦の設立・シュレスヴィヒとホルシュタインのプロイセンへの併合・賠償金の支払いが決められ、又オーストリア・イタリア間の平和条約でヴェネツィアのイタリアへの割譲が認められます。
普墺戦争の翌年、1867年7月、終に北ドイツ連邦が成立し、北ドイツ連邦は、オーストリアと南ドイツ諸国を除くマイン川以北の22の諸邦で組織され、プロイセン国王を連邦議長としました。
北ドイツ連邦の成立によってドイツの統一はほぼ達成されますが、一方、普墺戦争に敗れてドイツから除外されたオーストリアでは、ハンガリーの自治が認められ、1867年6月にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年~1916年)がハンガリー王を兼ね、別々の政府と国会を持つオーストリア・ハンガリー帝国(二重帝国)が成立します。
ジョークは如何?
ここはモスクワの街角。
例によっていつものように、パン屋の前には行列がズラリと並んでいる。
それを見た外国の使節団が一言。
中国人「物を買うのに列に並ぶなんて、ロシア人はなんて律儀なのだろう」
日本人「物を買うのに列に並ぶなんて、よほど有名なパン屋さんなのだろう」
韓国人「物を買うのに列に並ばせるなんて、謝罪の要求が殺到するだろう」
北朝鮮人「列に並びさえすれば物を買えるなんて、なんて素晴らしいんだろう」
続く・・・
スポンサーサイト
コメント
管理人のみ閲覧できます
2016-11-09 00:09 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
晴れなのに雨が降ってきました。
北の雲からの雨なのでしょうが、
北風に乗って雨が降り注いだようです。
木枯らし一号が吹き荒れたと報道されていました。
本格的な寒い冬がやってきました!
2016-11-09 22:46 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-09 23:08 編集
葉山左京様、おはようございます。
未だ、放射冷却はなく、寒さもそれ程感じません。
まだ。木枯らしの話は聞きません。
昨日は、北九州でもお天気は良いのに雨が降りましたが、日中は暖かい1日でした。
雨が降ったお陰で、夜の星空は綺麗でした。
冬は寒くはなりますが、ジロくんとの夜の散歩は、空気も良く気持ちが良いです。
2016-11-10 06:30 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
並木のイチョウの葉が大分黄色くなってきました。
太陽に照らされて真っ黄色な葉が青空に映えます。
楓はまだまだですが、
もみじも少しは上の方が赤く色が変わりだしたようです。
北九州はいかがでしょうか。
2016-11-10 21:26 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-10 23:46 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
私としては暖かい冬の方がいいのですが、
冬野菜類には寒い方がいいのでしょうね。
今からは熱い鍋料理やおでんなど暖かいものがいいですね。
野菜の高騰には困ります。
一般家庭の経済が破綻をきたすほど、
値を上げていますね。
2016-11-11 05:52 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日は、朝日が眩しく、冬の雲が所々に浮かぶ青空が広がっています。
気温もジロくんの散歩には、ちょうど良く、足取りも大変軽やかです。
今日は、空気が澄んでいるので、遠く山並みもはっきりと見えています。
やはり、初冬は気持ちが良いですね。
そうなんですよ!
冬⇒寒い⇒鍋の季節⇒(鮮魚の売上が伸びる)
只、今年は野菜が高騰しているので、スキヤキにしても鍋にしても、野菜の方が高い結果に成っているので心配です。
2016-11-11 09:13 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-12 00:17 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
もうすぐ日の出でしょう。
12月の冬至に向かってどんどん日の出が遅くなってきました。
最近は一日ではなく、
一月の経つのが早くなってきました。
年末に向けて皆さん忙しくなることでしょうね。
お体に気を付けください。
2016-11-12 05:58 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
此方は、やっと東の空が明るく成ってきました。
朝晩も寒さを感じませんが、木曜日の様に11月下旬の日があったり、一気に上昇したりと、気温が安定しません。
紅葉も足踏みのようです。
天気が良くて暖かい日が、一番ですね。
未だ、本格的な動きはありませんが、年末商戦に向けた準備は、始まっています。
役割分担や人員配置、又店舗のアルバイト募集等結構大変です。
2016-11-12 06:30 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
昇る朝日を見る機会が、多いですが、本当に綺麗ですね。
茜色の空とは、あの様な風景を意味するのかと思ってしまいます。
これから冬至迄、どんどん昼間が短くなります。
季節の移り変わりを早く感じます。
2016-11-13 06:30 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
暑いくらいの一日でした。
着物姿の観光客も多くみられ、
外人でもなかなか着物姿はいいものですね。
紅葉が一段ときれいになってきたようです。
20日過ぎくらいがピークでしょうか。
2016-11-13 22:06 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-13 23:36 編集
葉山左京様、おはようございます。
此れから、一雨事に寒さが増して来ることでしょう。
街路樹の銀杏や紅葉が、一斉に紅葉し始めました。
咲きそろう花々とは、違った美しさがありますね。
2016-11-14 06:30 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
風も結構強く、
あちらこちらで赤や黄色の落ち葉の絨毯を作っています。
紅葉しだしたと思ったら、
瞬く間に落ち葉です。
北九州はいかがでしょうか。
2016-11-14 20:45 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-15 00:27 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
気温が上がったり、下がったりして
次第に冬に向かうのでしょうが、
暖かい方がありがたいですね。
もう11月も半分過ぎます。
もうすぐクリスマスに正月を迎える時期になってきました。
今年も暖冬だといいのですが。
2016-11-15 05:46 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
気温は高く、暖房もホットカーペットだけで十分です。
気温の上下が激しく、衣類の調整が大変です。
この様な時は、上着等を簡単に脱げる男性が羨ましいです。
昨晩のスーパームーンは残念ながら、全く見る事が出来ませんでした。
11月も今日で半分が過ぎました。
街中でも、イルミネーションが、灯り始め年末近しを感じます。
2016-11-15 06:35 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-15 23:29 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
イチョウの葉が真っ黄色です。
川の土手に立っている楓は太陽に照らされて、全身真っ赤に燃えているようです。
山科川の土手の雑草もきれいに刈り取られ、
来年の春まで刈られることはないでしょう。
正月に向けての準備が着々と進んでいるようです。
2016-11-16 22:28 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、こんばんは。
しかも厚い雲に覆われて、全く月の姿は見えませんでした。
お天気の回復は早く、先程ジロくんと散歩した時は、月も明るく、可也低い位置にある星の姿もはっきりと見えるほど、空気が澄んでいました。
明日の朝は、冷え込むかもしれませんが、段々冬らしい気候に成ってきたようです。
ポツリ、ポツリとイルミネーションが、輝き始めました。
こちらでも銀杏や桜が色付き初めています。
見頃迄には、もう少し時間がかかりそうです。
2016-11-16 23:24 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
南禅寺や永観堂など観光名所の紅葉は団体客でいっぱいです。
次から次へと大きなバスが入ってきます。
毎年見慣れている地元の人間も、
もみじや満天星ツツジの紅葉は
きれいだなーと感心しますから、
観光客の人たちが喜ぶのも当たり前かもしれませんね。
2016-11-17 22:11 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-17 23:55 編集
葉山左京様、こんばんは。
この時の月は、特に大きく見えますが、背後から昇る月の光で、山の木々がシルエットの様にみえます。
本当に綺麗な瞬間ですが、長く続か無いのが残念です。
やはり冬になると空気が乾燥して、大気中のチリも少ないので、夜空は格段に綺麗です。
木々の葉も色付き始めましたが、未だ未だ見頃には、程遠い状況です。
でも薄緑の中に黄色や赤色が際立って見えます。
この時期の京都は、綺麗えしょうね。
私の場合、この時期にまとまった休みを取れないので、訪問する事は出来ませんが、何れは訪れたいものです。
季節も暦も進みました。
2016-11-18 00:13 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
気温が下がってもあまり寒く感じなくなってきました。
服装も冬支度だからでしょうか。
秋から冬にかけては空の透明感が違いますね。
月も青白く光り寒々とした感じを与えますが、
景色がきれいですね。
スーパームーンの時はこちらも曇っていまして、見れませんでした。
残念です!
2016-11-18 20:31 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-19 00:28 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
久し振りの雨ですが、
日照時間が短いので冬野菜には打撃でしょうか。
今朝は冷え込みもなく、
窓ガラスに結露がついていません。
暖かい一日になりそうです。
良き週末になりますように!
2016-11-19 05:46 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨日は、午後から雨になり、今日の夜半頃から、激しい雷雨が明方まで続きました。
この様な長い雷雨は、初めての経験です。
雨になった為か、今日は比較的気温が高くなっています。
今日は、今年最後のジロくんのフェラリア投与の日。
毎月の動物病院行きも来年4月迄、お休みになります。
予約時間頃、雨が降らない事を祈ります。
2016-11-19 09:59 秋葉 奈津子 URL 編集