歴史を歩く128
31自由主義と国民主義④
3ドイツの統一(その2)

新生プロイセンと周辺諸国(青枠神聖ローマ帝国)
フランスのナポレオン3世は、プロイセンによるドイツの統一によってフランスの隣に強大な国家が誕生する事を恐れ、ドイツの統一を妨げようとしてしきりにプロイセンに干渉しました。
そのためビスマルクはドイツの統一のためにはフランスとの戦いは避けられないと考え、準備を進める一方で開戦の機会を伺っていたのです。

メキシコ出兵・プエブラの会戦
ナポレオン3世は、国内における威信が低下し、又メキシコ出兵(1861年~67年)の失敗や普墺戦争の際に中立を保った代償として、ライン左岸地方の割譲を要求したものの、ビスマルクに拒否される等外交上の失敗が続いていたので、皇帝の威信を保つ為に必死でした。

レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン
(Leopold von Hohenzollern-Sigmaringen, 1835年9月22日 - 1905年6月8日)
こうした状況の中でたまたま発生したのがスペイン王位継承問題です。
スペインでは1868年に革命が起こり、イサベル2世(在位1833年~68年)が国外に逃亡して空位となり、1870年6月にプロイセン王家の支流ホーエンツォレルン・ジクマリンゲン家のレオポルトが後継者に指名され、レオポルトはこれを受諾しましたが、ナポレオン3世はホーエンツォレルン家によって東西から脅かされることを恐れてレオポルトの即位に猛反対します。
プロイセン王ヴィルヘルム1世はナポレオン3世の抗議を受け入れて、レオポルトに受諾取下げを勧告し、レオポルドも7月に辞退を表明します。

ヴィルヘルム1世(左)と駐独フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(右)。
普仏戦争の原因となるエムス電報事件のきっかけとなった会談の様子
この一連の動きで事件は終わったかに思われましたが、フランスは、7月13日にエムスで静養中のヴィルヘルム1世のもとへプロイセン駐在フランス大使を派遣し、将来もホーエンツォレルン家からスペイン王を出さない保障を迫りますが、ヴィルヘルム1世は将来への保障を拒否し、この件の経過をベルリンのビスマルクへ打電します。

エムス事件でビスマルクの発した電報
電報を受け取ったビスマルクは、故意に電文の一部を削除し、フランス大使がプロイセン王に執拗に迫り、立腹した王が大使を追い返したように書き改めて公表し、ナポレオン3世を挑発しました。これが有名な「エムス電報事件」です。
この電報が新聞に公表されると、ドイツ人は激昂し、フランスは侮辱ととらえ、両国の世論がわきかえる中で、1870年7月19日、ビスマルクの術中にはまったフランスはプロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争(独仏戦争、プロイセン・フランス戦争、1870年7月~71年5月)が始まりました。

ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ(伯爵)・フォン・モルトケ
(Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke, 1800年10月26日 - 1891年4月24日)
モルトケ(1800年~91年、プロイセンの優れた戦術家)の指揮するプロイセンを中心とし、北ドイツ連邦諸国と南ドイツ諸国(ナポレオン3世はフランス側に回ると期待していた)を合わせた約38万のドイツ軍は、瞬く間にフランス国境を越え、連勝を重ねて8月末にフランス軍の主力をメッツに包囲します。
ナポレオン3世はメッツへ救援に赴きますが、セダンで包囲され、9月2日に8万2千の将兵とともに降伏してドイツ軍の捕虜と成りました。

ナポレオン3世とビスマルク
1870年9月4日、パリでは帝政廃止・共和政樹立が宣言され、国民防衛政府が成立した。国民防衛政府は抗戦を続けたが、プロイセン軍は9月19日にはパリを包囲し、プロイセン軍のめざましい勝利を見て、11月にはバイエルン等南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦に加入します。

ドイツ帝国成立
1871年1月18日(プロイセン王国建国170年の記念日)、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間においてプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ドイツ帝国(1871年~1918年)が成立しました。
1月28日にはパリが陥落して休戦条約が結ばれ、2月26日にヴェルサイユで仮講和条約が、そして5月10日にフランクフルトで正式に講和条約が締結されます。

アルザス・ロレーヌ(『最後の授業』 アルフォンス・ドーデ作の舞台)
この条約によって、フランスはアルザス・ロレーヌ両州をドイツに割譲し、50億フランの賠償金を支払うことが決められますが、この苛酷な条約はフランス国民に強い対独復讐心を抱かせ、以後ドイツとフランスの対立が深刻になっていく発端に成りました。

ドイツ帝国版図
1871年に成立したドイツ帝国は、22の君主国と3つの自由市から成る連邦制国家で、連邦を構成する各邦はそれぞれ政府と議会を持ちますが、主導権はプロイセンが握っていました。
1871年4月に制定されたドイツ帝国憲法(大日本帝国憲法はこの憲法を範としている)によって、ドイツ皇帝はプロイセン王ヴィルヘルム1世が兼任し、皇帝によって任命される帝国宰相にもプロイセン首相のビスマルクが就任しました。
尚、帝国宰相は、議会に対してではなく皇帝に対してのみ責任を負ったのです。
立法府は連邦参議院と帝国議会から成り、25諸邦代表から成る連邦参議院が立法・宣戦・外交等大きな権限を持ち、議長は帝国宰相が兼任しました。
帝国議会は男子普通選挙で選出された議員で構成されますが、その権限は弱く、諮問議会的な存在で、立憲主義は外見に過ぎませんでした(外見的立憲主義)。
ビスマルクは帝国宰相として、以後約20年間にわたって内政・外交に独裁的な権力を持ち、ビスマルク時代(1871年~90年)を現出します。

文化闘争の風刺画
ビスマルクは、統一後、反プロイセン(プロイセンは新教・ルター派)的なカトリック教会を国家の統制に従わせようと試みますが、これに対して南ドイツのカトリック教徒は中央党を組織して(1870年)反対した結果、ビスマルクとカトリック教会及び中央党との間で文化闘争(1871年~80年)と呼ばれる争いが起こり、ビスマルクはカトリック教会の支配下にあった学校も国家の支配下に置こうと試みますが、カトリック教徒は屈せず、中央党の勢力は逆に増大していきました。
ビスマルクは、1870年代後半から強くなってきたもう一つの敵対勢力である社会主義勢力を抑えるために、又自由貿易主義から保護関税政策へ転換する為に帝国議会の第2党であった中央党の支持を必要とし、反ビスマルクの教皇ピウス9世の死(1878年)を機にカトリック教徒と妥協し、文化闘争を終息させます。

ドイツ労働運動の先駆者。
カール・マルクス(中央)、アウグスト・ベーベル(左上)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(右上)、カール・ヴィルヘルム・テルケ(左下)、ラッサール(右下)
ドイツ資本主義は、ドイツの統一によって急速に発展しました。
ビスマルクは、初め自由貿易主義に沿った政策をすすますが、ドイツが工業国に発展してくるとイギリスとの競争の為に国家の保護が必要となり、保護関税政策に転換していきました(1879年)。
資本主義の発展に伴って多くの労働者が生み出され、1875年にドイツ社会主義労働者党が成立し、労働運動・社会主義運動が盛んとなった結果、労働者対策も必要と成ります。

社会主義者鎮圧法の風刺画
1878年に皇帝狙撃事件が起きると、ビスマルクはこれを社会主義者弾圧の口実とし、1878年に社会主義者鎮圧法を制定し、社会主義的政党・労働組合・集会・出版を厳禁し、社会主義労働者党を弾圧しますが、その一方では疾病・災害・養老等の社会保険制度も実施しています。
ジョークは如何?
Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。
A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー
続く・・・
3ドイツの統一(その2)

新生プロイセンと周辺諸国(青枠神聖ローマ帝国)
フランスのナポレオン3世は、プロイセンによるドイツの統一によってフランスの隣に強大な国家が誕生する事を恐れ、ドイツの統一を妨げようとしてしきりにプロイセンに干渉しました。
そのためビスマルクはドイツの統一のためにはフランスとの戦いは避けられないと考え、準備を進める一方で開戦の機会を伺っていたのです。

メキシコ出兵・プエブラの会戦
ナポレオン3世は、国内における威信が低下し、又メキシコ出兵(1861年~67年)の失敗や普墺戦争の際に中立を保った代償として、ライン左岸地方の割譲を要求したものの、ビスマルクに拒否される等外交上の失敗が続いていたので、皇帝の威信を保つ為に必死でした。

レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン
(Leopold von Hohenzollern-Sigmaringen, 1835年9月22日 - 1905年6月8日)
こうした状況の中でたまたま発生したのがスペイン王位継承問題です。
スペインでは1868年に革命が起こり、イサベル2世(在位1833年~68年)が国外に逃亡して空位となり、1870年6月にプロイセン王家の支流ホーエンツォレルン・ジクマリンゲン家のレオポルトが後継者に指名され、レオポルトはこれを受諾しましたが、ナポレオン3世はホーエンツォレルン家によって東西から脅かされることを恐れてレオポルトの即位に猛反対します。
プロイセン王ヴィルヘルム1世はナポレオン3世の抗議を受け入れて、レオポルトに受諾取下げを勧告し、レオポルドも7月に辞退を表明します。

ヴィルヘルム1世(左)と駐独フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(右)。
普仏戦争の原因となるエムス電報事件のきっかけとなった会談の様子
この一連の動きで事件は終わったかに思われましたが、フランスは、7月13日にエムスで静養中のヴィルヘルム1世のもとへプロイセン駐在フランス大使を派遣し、将来もホーエンツォレルン家からスペイン王を出さない保障を迫りますが、ヴィルヘルム1世は将来への保障を拒否し、この件の経過をベルリンのビスマルクへ打電します。

エムス事件でビスマルクの発した電報
電報を受け取ったビスマルクは、故意に電文の一部を削除し、フランス大使がプロイセン王に執拗に迫り、立腹した王が大使を追い返したように書き改めて公表し、ナポレオン3世を挑発しました。これが有名な「エムス電報事件」です。
この電報が新聞に公表されると、ドイツ人は激昂し、フランスは侮辱ととらえ、両国の世論がわきかえる中で、1870年7月19日、ビスマルクの術中にはまったフランスはプロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争(独仏戦争、プロイセン・フランス戦争、1870年7月~71年5月)が始まりました。

ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ(伯爵)・フォン・モルトケ
(Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke, 1800年10月26日 - 1891年4月24日)
モルトケ(1800年~91年、プロイセンの優れた戦術家)の指揮するプロイセンを中心とし、北ドイツ連邦諸国と南ドイツ諸国(ナポレオン3世はフランス側に回ると期待していた)を合わせた約38万のドイツ軍は、瞬く間にフランス国境を越え、連勝を重ねて8月末にフランス軍の主力をメッツに包囲します。
ナポレオン3世はメッツへ救援に赴きますが、セダンで包囲され、9月2日に8万2千の将兵とともに降伏してドイツ軍の捕虜と成りました。

ナポレオン3世とビスマルク
1870年9月4日、パリでは帝政廃止・共和政樹立が宣言され、国民防衛政府が成立した。国民防衛政府は抗戦を続けたが、プロイセン軍は9月19日にはパリを包囲し、プロイセン軍のめざましい勝利を見て、11月にはバイエルン等南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦に加入します。

ドイツ帝国成立
1871年1月18日(プロイセン王国建国170年の記念日)、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間においてプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ドイツ帝国(1871年~1918年)が成立しました。
1月28日にはパリが陥落して休戦条約が結ばれ、2月26日にヴェルサイユで仮講和条約が、そして5月10日にフランクフルトで正式に講和条約が締結されます。

アルザス・ロレーヌ(『最後の授業』 アルフォンス・ドーデ作の舞台)
この条約によって、フランスはアルザス・ロレーヌ両州をドイツに割譲し、50億フランの賠償金を支払うことが決められますが、この苛酷な条約はフランス国民に強い対独復讐心を抱かせ、以後ドイツとフランスの対立が深刻になっていく発端に成りました。

ドイツ帝国版図
1871年に成立したドイツ帝国は、22の君主国と3つの自由市から成る連邦制国家で、連邦を構成する各邦はそれぞれ政府と議会を持ちますが、主導権はプロイセンが握っていました。
1871年4月に制定されたドイツ帝国憲法(大日本帝国憲法はこの憲法を範としている)によって、ドイツ皇帝はプロイセン王ヴィルヘルム1世が兼任し、皇帝によって任命される帝国宰相にもプロイセン首相のビスマルクが就任しました。
尚、帝国宰相は、議会に対してではなく皇帝に対してのみ責任を負ったのです。
立法府は連邦参議院と帝国議会から成り、25諸邦代表から成る連邦参議院が立法・宣戦・外交等大きな権限を持ち、議長は帝国宰相が兼任しました。
帝国議会は男子普通選挙で選出された議員で構成されますが、その権限は弱く、諮問議会的な存在で、立憲主義は外見に過ぎませんでした(外見的立憲主義)。
ビスマルクは帝国宰相として、以後約20年間にわたって内政・外交に独裁的な権力を持ち、ビスマルク時代(1871年~90年)を現出します。

文化闘争の風刺画
ビスマルクは、統一後、反プロイセン(プロイセンは新教・ルター派)的なカトリック教会を国家の統制に従わせようと試みますが、これに対して南ドイツのカトリック教徒は中央党を組織して(1870年)反対した結果、ビスマルクとカトリック教会及び中央党との間で文化闘争(1871年~80年)と呼ばれる争いが起こり、ビスマルクはカトリック教会の支配下にあった学校も国家の支配下に置こうと試みますが、カトリック教徒は屈せず、中央党の勢力は逆に増大していきました。
ビスマルクは、1870年代後半から強くなってきたもう一つの敵対勢力である社会主義勢力を抑えるために、又自由貿易主義から保護関税政策へ転換する為に帝国議会の第2党であった中央党の支持を必要とし、反ビスマルクの教皇ピウス9世の死(1878年)を機にカトリック教徒と妥協し、文化闘争を終息させます。

ドイツ労働運動の先駆者。
カール・マルクス(中央)、アウグスト・ベーベル(左上)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(右上)、カール・ヴィルヘルム・テルケ(左下)、ラッサール(右下)
ドイツ資本主義は、ドイツの統一によって急速に発展しました。
ビスマルクは、初め自由貿易主義に沿った政策をすすますが、ドイツが工業国に発展してくるとイギリスとの競争の為に国家の保護が必要となり、保護関税政策に転換していきました(1879年)。
資本主義の発展に伴って多くの労働者が生み出され、1875年にドイツ社会主義労働者党が成立し、労働運動・社会主義運動が盛んとなった結果、労働者対策も必要と成ります。

社会主義者鎮圧法の風刺画
1878年に皇帝狙撃事件が起きると、ビスマルクはこれを社会主義者弾圧の口実とし、1878年に社会主義者鎮圧法を制定し、社会主義的政党・労働組合・集会・出版を厳禁し、社会主義労働者党を弾圧しますが、その一方では疾病・災害・養老等の社会保険制度も実施しています。
ジョークは如何?
Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。
A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2016-11-20 00:35 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
紅葉がきれいでどこに行っても人,人でした。
晴れていますと一段と紅葉が映えるのですが、
時々青空が出てもすぐに雲が覆い駄目ですね。
今の時期になると山科川に川鵜が飛んできます。
黒い頭を時々水面へ出して一息入れているようです。
2016-11-20 22:16 葉山左京 URL 編集
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2016-11-20 23:44 編集
葉山左京様、こんばんは。
紅葉は、進んでいますが、未だ足踏みの所も多いようです。
庭の雑草の生え方も可也ゆっくりになってきました。
今月、最後草取りができれば、多分年内は大丈夫でしょう。
川鵜ですか。
此方は、海鵜が結構います。
それも新日本製鉄の工場の前です。
京都と違って、此方はメカニカルな中の自然ですね。
2016-11-20 23:48 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
ですが、この様な気候は、衣類の調整の苦労します。
11月も残り10日を切りました。
年末が近づきます。
2016-11-21 06:30 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
今週はあまり晴れは望めない予報です。
それでも気温が高めで助かっています。
日本海側の漁港ではズワイガニの漁が始まっています。
土、日には宣伝のため無料で蟹入りの味噌汁や、ゆで蟹が提供されているようです。
わたしも行って見たいと思うのですが、
中々いけません。
残念ですが。
2016-11-21 21:13 葉山左京 URL 編集
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2016-11-21 23:48 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日の朝は、良いお天気で、星が見えます。
寒さも殆んど感じないので、布団から出るのは、それ程辛くありません。
此れからは、蟹、アンコウ等鍋に格好の具材が提供されますね。
只、野菜の値段が大変高いので、財布の中身と相談です。
北九州市近郊の漁港では、毎週日曜日の早朝、朝市が立って大変な賑わいです。
東日本で、又大きな地震です。
被害が大きくなければ良いのですが。
2016-11-22 06:34 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
あまり寒さを感じませんね。
でも明日からは冷え込む予報でした。
福島沖のマグニチュード7.4の地震は、
あまり被害が出ていないようで良かったとおもいます。
津波の発生もあまり大きな波ではなかったようですね。
被害がないのが一番です!
2016-11-22 22:59 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2016-11-22 23:21 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
急激な温度降下です。
寒さが身に沁みます。
体調を崩し今日は一日家の中でした。
やはり元気で仕事で動き回っている方がいいですね。
2016-11-23 20:38 葉山左京 URL 編集
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2016-11-23 23:32 編集
葉山左京様、こんばんは。
昨日は、雲の多い、しかも時々小雨が降る、肌寒さを感じる一日でした。
今日も天気は、不安定なようです。
11月も残り、1週間ですが、関東方面は雪の予報で驚いています。
どうぞ、体調管理には、ご注意下さい。
2016-11-24 00:15 秋葉 奈津子 URL 編集