歴史を歩く136
3アメリカ合衆国の発展②
1 民主主義の発達と領土拡張(その2)

アメリカ合衆国の版図拡大
合衆国領土は、独立当時はミシシッピ川以東でしたが、以後次第に西方へ拡大し、1848年にはその領土は終に太平洋岸に到達します。
1803年にはフランスからルイジアナを購入して領土を倍増させた後、1819年にはスペインからフロリダを買収し、1840年代には、合衆国の領土拡張と西方への進出を正当化する考え方として「マニフェスト・ディスティニー(明白な運命)」(合衆国の領土拡張はアメリカ人が神から与えられた運命であるとの意味)と云う言葉が広まりました。

テキサス革命・サンジャシントの戦い1836年4月21日
テキサスは、1821年にスペインから独立したメキシコの領土でしたが、合衆国から多くの移住民が入り込み、奴隷制を持ち込んだ結果、メキシコはそれ以上の移住を禁止し、奴隷制廃止を命じますが、これに対して移住民が反乱を起こし、1836年に独立を宣言して共和国となり、更に合衆国は1845年にテキサスを併合して第28番目の州とします。

アメリカ・メキシコ戦争:ベラクルス包囲戦
翌1846年にはイギリスとオレゴン協定を結び、オレゴン地方を北緯49度(現在の国境線)で南北に分割した上でオレゴンを併合し、更に合衆国はカリフォルニアの獲得を望み、メキシコに売却を求めますが拒否された為、テキサスとメキシコの国境地帯に軍隊を派遣してメキシコを挑発し、アメリカ・メキシコ戦争(1846年~48年)を起こしました。
戦争は合衆国の完勝に終わり、1848年の講和条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得し、合衆国の領土はついに太平洋岸に達します。

西部開拓時代のネイティブアメリカン(実写)
19世紀に於ける合衆国の歴史はフロンティア(辺境)が次第に西方へ移動していく歴史でした。
19世紀を通して西部開拓が進展し、フロンティアは西へ西へと進み、この西方への移住・開拓の動きは総称して西漸運動と呼ばれ、西漸運動は植民地時代にも行われましたが、独立後本格化し、1820年代に急速に促進されました。
西部と云う言葉には、新しく開拓されて文明地域に加えられた地域と云う意味が含まれています。従って西部は時代によって場所が異なり、独立した頃にはアパラチャ山脈の西が西部でしたが、その後は次第に西へ移って行きました。

西部開拓・幌馬車隊の移動
開拓地と未開拓地との境界地帯はフロンティアと呼ばれ、ここでフロンティアとは、1平方マイル(約2.6平方km)につき人口密度が2~6人の人口が希薄な地域を意味しています。
1783年のパリ条約で合衆国の独立が認められ、ミシシッピ川以東の地が合衆国の領土と成りますが、この新しい領土を如何に利用するかは、独立当初の大問題で在り、東部13州で分割する案も提唱されますが、結局1787年に北西部条例が制定され、西部の土地については一定の地域で自由人の成年男子の数が5000人に達すると、准州として自治政府を設け、准州の自由人口が6万人に達したときは連邦議会の承認を得て州に昇格し、最初の13州と同じ資格で連邦に加入させる事と成ります。

黄金の穀倉地帯 グレート・プレーンズGreat Plains
又これより2年前には土地条例が制定され(1785年)、アパラチャ山脈以西の土地1平方マイル(640エーカー)を単位として1エーカー当たり1ドルで売却することが決められていましたが、貧しい農民にとって640ドルは大金であり、もっと買い易くして欲しいと云う要求がくり返され、19世紀に入ると最低売却面積が小さくなり、1820年には80エーカーでも購入が可能に成りました。

ネイティブ・アメリカン(インディアン)
農民や東部で生活が困難な者、ヨーロッパからの移民が西部へ移住し、定着して開墾に従事しますが、彼等は自然やネイティブ・アメリカン(インディアン)と戦いながら荒地を切り開き、丸太小屋を建て、周辺の土地を農地に変えて行きました。
そうした開拓民の生活の中から、自主独立・何事にも屈しない不撓不屈の精神・他人との協力・冒険心に富む楽天的な性格等のアメリカ人気質、所謂フロンティア・スピリット(開拓者精神)が形成され、又西部は伝統や家柄等に縛られない実力主義の自由な社会として発展した結果、アメリカの民主主義をも発展させました。

ネイティブ・アメリカン(インディアン)
しかし、西部開拓歴史は、先住民のネイティブ・アメリカン(インディアン)にとって白人による抑圧・迫害の歴史で在った事を忘れては成りません。
「ジャクソニアン・デモクラシー」を推進したジャクソンは、1830年にネイティブ・アメリカン(インディアン)強制移住法を制定し、ネイティブ・アメリカン(インディアン)はミシシッピ川以西の土地へ移住を強制され、従わない部族は武力で討伐されていきます。

ネイティブ・アメリカン(インディアン)実写
南北戦争後、西部開拓が大規模に進められるようになると、追いつめられたネイティブ・アメリカン(インディアン)は各地で激しい抵抗を繰り返しますが、1871年にはネイティブ・アメリカン(インディアン)は特定の居留地に押し込められることになり、1890年頃迄にその抵抗はすべて鎮圧され、その為、アメリカ独立当事約115万人と推定されたネイティブ・アメリカン(インディアン)の人口は、1890年頃には25万人に迄減少していました。
ジョークは如何?
先生がジョニーに尋ねた。
「ジョニー、ワシントンが『庭の桜の木を切ったのは僕です』と正直に告白した時、
ワシントンのお父さんは叱らずに許してやりました。なぜかしら?」
「はーい。ワシントンがまだ手に斧を持っていたからです」とジョニー
続く・・・
1 民主主義の発達と領土拡張(その2)

アメリカ合衆国の版図拡大
合衆国領土は、独立当時はミシシッピ川以東でしたが、以後次第に西方へ拡大し、1848年にはその領土は終に太平洋岸に到達します。
1803年にはフランスからルイジアナを購入して領土を倍増させた後、1819年にはスペインからフロリダを買収し、1840年代には、合衆国の領土拡張と西方への進出を正当化する考え方として「マニフェスト・ディスティニー(明白な運命)」(合衆国の領土拡張はアメリカ人が神から与えられた運命であるとの意味)と云う言葉が広まりました。

テキサス革命・サンジャシントの戦い1836年4月21日
テキサスは、1821年にスペインから独立したメキシコの領土でしたが、合衆国から多くの移住民が入り込み、奴隷制を持ち込んだ結果、メキシコはそれ以上の移住を禁止し、奴隷制廃止を命じますが、これに対して移住民が反乱を起こし、1836年に独立を宣言して共和国となり、更に合衆国は1845年にテキサスを併合して第28番目の州とします。

アメリカ・メキシコ戦争:ベラクルス包囲戦
翌1846年にはイギリスとオレゴン協定を結び、オレゴン地方を北緯49度(現在の国境線)で南北に分割した上でオレゴンを併合し、更に合衆国はカリフォルニアの獲得を望み、メキシコに売却を求めますが拒否された為、テキサスとメキシコの国境地帯に軍隊を派遣してメキシコを挑発し、アメリカ・メキシコ戦争(1846年~48年)を起こしました。
戦争は合衆国の完勝に終わり、1848年の講和条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得し、合衆国の領土はついに太平洋岸に達します。

西部開拓時代のネイティブアメリカン(実写)
19世紀に於ける合衆国の歴史はフロンティア(辺境)が次第に西方へ移動していく歴史でした。
19世紀を通して西部開拓が進展し、フロンティアは西へ西へと進み、この西方への移住・開拓の動きは総称して西漸運動と呼ばれ、西漸運動は植民地時代にも行われましたが、独立後本格化し、1820年代に急速に促進されました。
西部と云う言葉には、新しく開拓されて文明地域に加えられた地域と云う意味が含まれています。従って西部は時代によって場所が異なり、独立した頃にはアパラチャ山脈の西が西部でしたが、その後は次第に西へ移って行きました。

西部開拓・幌馬車隊の移動
開拓地と未開拓地との境界地帯はフロンティアと呼ばれ、ここでフロンティアとは、1平方マイル(約2.6平方km)につき人口密度が2~6人の人口が希薄な地域を意味しています。
1783年のパリ条約で合衆国の独立が認められ、ミシシッピ川以東の地が合衆国の領土と成りますが、この新しい領土を如何に利用するかは、独立当初の大問題で在り、東部13州で分割する案も提唱されますが、結局1787年に北西部条例が制定され、西部の土地については一定の地域で自由人の成年男子の数が5000人に達すると、准州として自治政府を設け、准州の自由人口が6万人に達したときは連邦議会の承認を得て州に昇格し、最初の13州と同じ資格で連邦に加入させる事と成ります。

黄金の穀倉地帯 グレート・プレーンズGreat Plains
又これより2年前には土地条例が制定され(1785年)、アパラチャ山脈以西の土地1平方マイル(640エーカー)を単位として1エーカー当たり1ドルで売却することが決められていましたが、貧しい農民にとって640ドルは大金であり、もっと買い易くして欲しいと云う要求がくり返され、19世紀に入ると最低売却面積が小さくなり、1820年には80エーカーでも購入が可能に成りました。

ネイティブ・アメリカン(インディアン)
農民や東部で生活が困難な者、ヨーロッパからの移民が西部へ移住し、定着して開墾に従事しますが、彼等は自然やネイティブ・アメリカン(インディアン)と戦いながら荒地を切り開き、丸太小屋を建て、周辺の土地を農地に変えて行きました。
そうした開拓民の生活の中から、自主独立・何事にも屈しない不撓不屈の精神・他人との協力・冒険心に富む楽天的な性格等のアメリカ人気質、所謂フロンティア・スピリット(開拓者精神)が形成され、又西部は伝統や家柄等に縛られない実力主義の自由な社会として発展した結果、アメリカの民主主義をも発展させました。

ネイティブ・アメリカン(インディアン)
しかし、西部開拓歴史は、先住民のネイティブ・アメリカン(インディアン)にとって白人による抑圧・迫害の歴史で在った事を忘れては成りません。
「ジャクソニアン・デモクラシー」を推進したジャクソンは、1830年にネイティブ・アメリカン(インディアン)強制移住法を制定し、ネイティブ・アメリカン(インディアン)はミシシッピ川以西の土地へ移住を強制され、従わない部族は武力で討伐されていきます。

ネイティブ・アメリカン(インディアン)実写
南北戦争後、西部開拓が大規模に進められるようになると、追いつめられたネイティブ・アメリカン(インディアン)は各地で激しい抵抗を繰り返しますが、1871年にはネイティブ・アメリカン(インディアン)は特定の居留地に押し込められることになり、1890年頃迄にその抵抗はすべて鎮圧され、その為、アメリカ独立当事約115万人と推定されたネイティブ・アメリカン(インディアン)の人口は、1890年頃には25万人に迄減少していました。
ジョークは如何?
先生がジョニーに尋ねた。
「ジョニー、ワシントンが『庭の桜の木を切ったのは僕です』と正直に告白した時、
ワシントンのお父さんは叱らずに許してやりました。なぜかしら?」
「はーい。ワシントンがまだ手に斧を持っていたからです」とジョニー
続く・・・
スポンサーサイト
コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
こちらは今年雪が多く感じます。
その分寒さが厳しいのでしょうね。
蠟梅が咲き、沈丁花が蕾を膨らませています。
毎年のことながら寒い中にも、
春の誘いの印が出てきています。
早く暖かい春になってほしいものです。
2017-01-21 22:06 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-01-22 00:30 編集
葉山左京様、おはようございます。
気温も低く、手先が冷たいです。
去年の今日、明日は雪で、特に月曜日の朝は、出勤が大変でした。
今年もそうならなければ良いのですが。
梅、椿の花が開いています。
未だ、僅かですが、此れから花を付ける事でしょう。
周辺の山の頂き付近には、雪の姿はありませんが、今日辺りは積もるかもしれませんね。
春は未だ先です。
2017-01-22 06:33 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-01-22 23:38 編集
葉山左京様、おはようございます。
最高気温も5度前後、最低気温は氷点下には成りませんが、それでも3度前後です。
毎日のように雨か雪が降り、自動車の運転も神経を使います。
私は。早朝に動く事が大半なので、路面の凍結等本当に怖いです。
今週は、木曜日、金曜日付近は気温も10度台迄回復しそうですが、雨になるかもせれません。
暖かい陽気が待ち遠しいです。
2017-01-23 06:25 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
京都市内も雪がちらついています。
今日は0℃、明日は-1℃です。
日本人の横砂が誕生しましたね。
やっと、という感じですが
19年ぶりとは機関が空き過ぎる感じがします。
何はともあれ、
喜ばしい事だと思います。
2017-01-23 20:27 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-01-24 00:03 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨日は、朝方北九州でも少し雪が積りました。
福岡市は高速道路が閉鎖になった程なので、あちらの方が酷かったようです。
天気予報では、今日以降気温も上昇との事なので、一安心です。
やはり、暖かい季節が一番ですね。
日本人横綱の誕生は、嬉しいですが、19年ぶりと云う事にも驚きです。
確かに、近年の関取の方々は、外国人が多い事を改めて実感したものです。
2017-01-24 09:08 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-01-26 00:18 編集
No title
アメリカ合衆国のは世界中から恨みをかっています。
国力が落ちたら、世界中から袋叩きにされます。
日本もその時が日米同盟を解消するタイミングですね。
あと、50年以上は先のはなしですけど。
2017-05-29 22:21 taka URL 編集