歴史を歩く138
3アメリカ合衆国の発展④
2奴隷制度と南北戦争(その2)

サムター要塞
1861年3月に大統領に就任したリンカーンは連邦の維持を至上目的とし、連邦を脱退した南部諸州に連邦への復帰を呼びかけますが南部は此れに応じず、南部にあった合衆国の要塞や武器庫の接収を試みます。
この動きを見たリンカーンはサウスカロライナ州のサムター要塞への弾薬・物資の補給を命じました。

サムター要塞砲撃
1861年4月12日、南軍はサムター要塞に砲撃を開始し、ここに南北戦争(1861年4月~65年4月)が始まりました。
南北戦争はアメリカでは、the Civil War(内乱)と呼ばれています。
北部は南部諸州の合衆国からの脱退を憲法違反として認めておらず、従ってアメリカ連合国を国家として認めていないので、南部諸州の合衆国に対する内乱という立場を取りました。
これに対して南部は、アメリカ連合国とアメリカ合衆国との戦争という立場をとり、南北戦争をthe War between the States(諸州間の戦い)と呼んでいました。

南北戦争時のアメリカ諸州
南北戦争が始まった時には、北部も南部も戦争は短期間で終わると予測されましたが、予想に反して全面戦争となり、4年間にわたる大内乱に発展します。
近代戦の勝敗を決定するのは経済力を含めた総合的な戦力であり、この点では北部が圧倒的に優勢で、北部(23州)の人口約2200万人に対して南部(11州)は約900万人でしたがその中には、約400万人の奴隷が含まれていました。
経済力では北部が圧倒的に優勢で、北部は近代的な工業力を持ち、当時合衆国内の工場の約81%は北部に存在し、鉄道等の輸送力の面でも北部が断然優れていました。
又海軍力に於いても優位に立つ北部は、南部に対して海上封鎖を行った為、南部は唯一の重要な輸出品である綿花の輸出が不可能になり、更に武器・弾薬・食糧等の輸入も止まり大打撃を受けたのです。

ロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee、1807年1月19日 - 1870年10月12日)と愛馬トラベラー
しかし、開戦初期に於いては南軍が名将リー将軍(1807年~70年)の指揮下に優勢に戦いを進めました。
1862年になると、北部は西部戦線でニューオリンズを占領して(1862年5月)戦いを有利に進めましたが、東部戦線ではリッチモンド(アメリカ連合国の首都)攻略戦が南軍の激しい抵抗にあって敗退を重ね、苦戦を強いられていたのです。

北軍騎兵隊
1862年5月、リンカーンは大統領選挙での公約であったホームステッド法(自営農地法)を制定しました。
これは公有地に5年間定住して開墾に従事した者には160エーカー(約65ha)の土地を無償で与える土地立法で、農民の西部進出と西部開拓が促進され、又北部はこれによって西部の支持を得ることが出来たのです。

南北戦争の愛国カバー:戦意昂揚のための図案を表面に印刷した封書。1861.7.2の消印があります。
リンカーンは奴隷制度には反対でしたが、奴隷制拡大反対論者であり、解放論者では在りません。
彼の南北戦争に於ける最大の目的は連邦の維持であり、その為奴隷制即時廃止論者はリンカーンに奴隷制廃止の為にもっと強い政策をとるように要求しますが、これに対してリンカーンは次の様に回答しています(1862年8月)。
「この戦争に於ける私の至上の目的は連邦を救うことにあります。
奴隷制度を救うことにも、亡ぼすことにもありません。
もし奴隷を一人も解放せずに連邦を救うことが出来るものならば私はそうするでしょう。
そしてもしすべての奴隷を解放することによって連邦を救えるならば私はそうするでしょう。
又もし一部の奴隷を解放し、他の者をそのままにしておくことによって連邦を救えるものならそうもするでしょう。
私が奴隷制度や黒人種についてすることはこれが連邦を救うに役立つと信じているためなのです。」(東京法令出版社、世界史資料集より)

リンカーン・奴隷制廃止
リンカーンは、内外の世論の支持を得て戦いを有利に展開するために奴隷解放宣言を行うことを決意し、1862年9月に予備宣言を行いました。
以下はその一部です。
「1863年1月1日を以って、如何なる州に於いても、又特に州内で人民が上記年月日に合衆国に対して謀反中と指定される地方に於いて、総て奴隷の身分に置かれている者は、その日より永久に自由人となるべきである。」(山川出版社、史料世界史より)

閣僚と奴隷解放宣言の草稿をねるリンカーン
1863年1月1日に奴隷解放宣言が行われました。
しかし、この時解放されたのは合衆国に反乱を起こしている州内の奴隷で、ミズーリ州など合衆国にとどまった奴隷州(4州)の奴隷は除外されており、合衆国国内の奴隷制度が全面的に廃止されたのは憲法修正第13条(1865年発効)迄待たねば成りませんでした。

ゲティスバーグの戦い
1863年7月、リー将軍は7.5万の南軍の主力を率いてワシントンを迂回し、ペンシルヴァニアに侵入し、北軍8.7万と3日間に渡って戦火を交えます。
この戦いが南北戦争中最大の激戦と云われるゲティスバーグの戦いで、北軍が勝利を収め、南軍は退却を余儀なくされました。
この戦いでは北軍2万、南軍2.5万の戦死者が生じています。

ゲティスバーグ演説
リンカーンは戦死者を祀る国有墓地を設立する為の式典に出席する為にゲティスバーグを訪れ、有名な「ゲティスバーグの演説」を行いました(1863年11月)。
「・・・これら名誉ある戦死者よりいっそうの献身を受け継いで、彼らが最後の全力をあげて身を捧げたその主義の為に尽くすべきであります。
これら戦死者の死を無駄に終わらしめぬよう、ここに固く決意すべきであります。
この国に、神の恵みのもと、自由の新しき誕生をもたらし、又人民の、人民による、人民のための政府が、この地上より消滅する事の無い様にすべきであります。」(山川出版社、史料世界史より)

ユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant、1822年4月27日 - 1885年7月23日)
1864年、グラント将軍(後の第18代大統領、在任1869年~77年)が北軍の総司令官に任命され、彼はリッチモンドを目ざし、此れに呼応してシャーマン将軍の率いる軍がテネシー州からジョージア州に入り、アトランタを陥れ、更に北上してリッチモンドに向かいました。
シャーマンの軍は破壊と略奪の限りを尽くし、南部の市民に多大な恐心を植えつけたのです。

『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン(MGM 1939年作)
映画でも有名なミッチェル(1900年~49年)の『風と共に去りぬ』(1936年)は、南部の立場から南北戦争を描いた名作ですが、その中にも南部の人々がどんな気持ちでシャーマン軍を迎えたかが書かれています。

リンカーン暗殺
1865年4月、北軍がアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領し、4月9日リー将軍が降伏して南北戦争が終結します。
南北戦争が終わって僅か5日後、1865年4月14日、二期目の大統領に就任したばかりのリンカーンが暗殺されました。
その夜、ワシントンのフォード劇場で観劇中のリンカーンは南部出身の俳優ブースに狙撃され、翌朝死去しています。
ジョークは如何?
僕は小さい頃から『誰でも(anybody)大統領になる事が出来るチャンスがある』と聞かされてきました。
今レーガン大統領をみて、本当に誰でも(anybody)大統領になる事が出来るのだという事を知りました。
※補足
*anybodyには『つまらん奴』という意味もある
続く・・・
2奴隷制度と南北戦争(その2)

サムター要塞
1861年3月に大統領に就任したリンカーンは連邦の維持を至上目的とし、連邦を脱退した南部諸州に連邦への復帰を呼びかけますが南部は此れに応じず、南部にあった合衆国の要塞や武器庫の接収を試みます。
この動きを見たリンカーンはサウスカロライナ州のサムター要塞への弾薬・物資の補給を命じました。

サムター要塞砲撃
1861年4月12日、南軍はサムター要塞に砲撃を開始し、ここに南北戦争(1861年4月~65年4月)が始まりました。
南北戦争はアメリカでは、the Civil War(内乱)と呼ばれています。
北部は南部諸州の合衆国からの脱退を憲法違反として認めておらず、従ってアメリカ連合国を国家として認めていないので、南部諸州の合衆国に対する内乱という立場を取りました。
これに対して南部は、アメリカ連合国とアメリカ合衆国との戦争という立場をとり、南北戦争をthe War between the States(諸州間の戦い)と呼んでいました。

南北戦争時のアメリカ諸州
南北戦争が始まった時には、北部も南部も戦争は短期間で終わると予測されましたが、予想に反して全面戦争となり、4年間にわたる大内乱に発展します。
近代戦の勝敗を決定するのは経済力を含めた総合的な戦力であり、この点では北部が圧倒的に優勢で、北部(23州)の人口約2200万人に対して南部(11州)は約900万人でしたがその中には、約400万人の奴隷が含まれていました。
経済力では北部が圧倒的に優勢で、北部は近代的な工業力を持ち、当時合衆国内の工場の約81%は北部に存在し、鉄道等の輸送力の面でも北部が断然優れていました。
又海軍力に於いても優位に立つ北部は、南部に対して海上封鎖を行った為、南部は唯一の重要な輸出品である綿花の輸出が不可能になり、更に武器・弾薬・食糧等の輸入も止まり大打撃を受けたのです。

ロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee、1807年1月19日 - 1870年10月12日)と愛馬トラベラー
しかし、開戦初期に於いては南軍が名将リー将軍(1807年~70年)の指揮下に優勢に戦いを進めました。
1862年になると、北部は西部戦線でニューオリンズを占領して(1862年5月)戦いを有利に進めましたが、東部戦線ではリッチモンド(アメリカ連合国の首都)攻略戦が南軍の激しい抵抗にあって敗退を重ね、苦戦を強いられていたのです。

北軍騎兵隊
1862年5月、リンカーンは大統領選挙での公約であったホームステッド法(自営農地法)を制定しました。
これは公有地に5年間定住して開墾に従事した者には160エーカー(約65ha)の土地を無償で与える土地立法で、農民の西部進出と西部開拓が促進され、又北部はこれによって西部の支持を得ることが出来たのです。

南北戦争の愛国カバー:戦意昂揚のための図案を表面に印刷した封書。1861.7.2の消印があります。
リンカーンは奴隷制度には反対でしたが、奴隷制拡大反対論者であり、解放論者では在りません。
彼の南北戦争に於ける最大の目的は連邦の維持であり、その為奴隷制即時廃止論者はリンカーンに奴隷制廃止の為にもっと強い政策をとるように要求しますが、これに対してリンカーンは次の様に回答しています(1862年8月)。
「この戦争に於ける私の至上の目的は連邦を救うことにあります。
奴隷制度を救うことにも、亡ぼすことにもありません。
もし奴隷を一人も解放せずに連邦を救うことが出来るものならば私はそうするでしょう。
そしてもしすべての奴隷を解放することによって連邦を救えるならば私はそうするでしょう。
又もし一部の奴隷を解放し、他の者をそのままにしておくことによって連邦を救えるものならそうもするでしょう。
私が奴隷制度や黒人種についてすることはこれが連邦を救うに役立つと信じているためなのです。」(東京法令出版社、世界史資料集より)

リンカーン・奴隷制廃止
リンカーンは、内外の世論の支持を得て戦いを有利に展開するために奴隷解放宣言を行うことを決意し、1862年9月に予備宣言を行いました。
以下はその一部です。
「1863年1月1日を以って、如何なる州に於いても、又特に州内で人民が上記年月日に合衆国に対して謀反中と指定される地方に於いて、総て奴隷の身分に置かれている者は、その日より永久に自由人となるべきである。」(山川出版社、史料世界史より)

閣僚と奴隷解放宣言の草稿をねるリンカーン
1863年1月1日に奴隷解放宣言が行われました。
しかし、この時解放されたのは合衆国に反乱を起こしている州内の奴隷で、ミズーリ州など合衆国にとどまった奴隷州(4州)の奴隷は除外されており、合衆国国内の奴隷制度が全面的に廃止されたのは憲法修正第13条(1865年発効)迄待たねば成りませんでした。

ゲティスバーグの戦い
1863年7月、リー将軍は7.5万の南軍の主力を率いてワシントンを迂回し、ペンシルヴァニアに侵入し、北軍8.7万と3日間に渡って戦火を交えます。
この戦いが南北戦争中最大の激戦と云われるゲティスバーグの戦いで、北軍が勝利を収め、南軍は退却を余儀なくされました。
この戦いでは北軍2万、南軍2.5万の戦死者が生じています。

ゲティスバーグ演説
リンカーンは戦死者を祀る国有墓地を設立する為の式典に出席する為にゲティスバーグを訪れ、有名な「ゲティスバーグの演説」を行いました(1863年11月)。
「・・・これら名誉ある戦死者よりいっそうの献身を受け継いで、彼らが最後の全力をあげて身を捧げたその主義の為に尽くすべきであります。
これら戦死者の死を無駄に終わらしめぬよう、ここに固く決意すべきであります。
この国に、神の恵みのもと、自由の新しき誕生をもたらし、又人民の、人民による、人民のための政府が、この地上より消滅する事の無い様にすべきであります。」(山川出版社、史料世界史より)

ユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant、1822年4月27日 - 1885年7月23日)
1864年、グラント将軍(後の第18代大統領、在任1869年~77年)が北軍の総司令官に任命され、彼はリッチモンドを目ざし、此れに呼応してシャーマン将軍の率いる軍がテネシー州からジョージア州に入り、アトランタを陥れ、更に北上してリッチモンドに向かいました。
シャーマンの軍は破壊と略奪の限りを尽くし、南部の市民に多大な恐心を植えつけたのです。

『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン(MGM 1939年作)
映画でも有名なミッチェル(1900年~49年)の『風と共に去りぬ』(1936年)は、南部の立場から南北戦争を描いた名作ですが、その中にも南部の人々がどんな気持ちでシャーマン軍を迎えたかが書かれています。

リンカーン暗殺
1865年4月、北軍がアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領し、4月9日リー将軍が降伏して南北戦争が終結します。
南北戦争が終わって僅か5日後、1865年4月14日、二期目の大統領に就任したばかりのリンカーンが暗殺されました。
その夜、ワシントンのフォード劇場で観劇中のリンカーンは南部出身の俳優ブースに狙撃され、翌朝死去しています。
ジョークは如何?
僕は小さい頃から『誰でも(anybody)大統領になる事が出来るチャンスがある』と聞かされてきました。
今レーガン大統領をみて、本当に誰でも(anybody)大統領になる事が出来るのだという事を知りました。
※補足
*anybodyには『つまらん奴』という意味もある
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
このまま春になればいいのですが、
異常気象なので3月の気候が続くことはないでしょうね。
インフルエンザの患者がすごいようです。
私も仕事に行く途中はマスクをして地下鉄に乗ります。
咳をしている乗客、結構多く見受けます。
気温の上下が激しいので風邪やインフルエンザにはご注意ください。
2017-01-27 22:17 葉山左京 URL 編集
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2017-01-27 23:55 編集
葉山左京様、おはようございます。
明方前の夜空を見るたびに6月頃の陽気を思い出してしまいます。
そして、夕暮れが少しですが、長くなりました。
昨日の日中は、雨が降ったり陽が射したりと、不安定な1日でした。
気になっている庭掃除も出来ず、がっかりです。
未だ暖かい毎日は続く様ですが、日曜日、月曜日付近は余りお天気も良く無さそうです。
早く、本当に暖かい毎日が来れば、嬉しいですね。
風邪は勤務先でも猛威をふるっており、次々に休む人間が増えています。
日本とアメリカ。
今後、どの様になって行くのか、気掛かりです。
2017-01-28 06:27 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-01-29 00:14 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日は曇り、明日は雨模様かもしれませんが、もうしばらく春の陽気は続きそうです。
今日は、北九州市議会議員選挙の投票日。
投票に行って、今後の市政を託します。
2017-01-29 06:24 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんにちは。
曇り空に薄日が射しています。
気温が高いと体が楽に動きますね。
大阪女子マラソンが開催されています。
雨が降りそうですが、このまま持ってくれるといいのですが。
春の花がまだ咲いていませんが、
ホトケノザが咲いているようです。
山科川にはありませんが。
2017-01-29 14:04 葉山左京 URL 編集
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2017-01-30 00:07 編集