歴史を歩く147
34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒②
2アラブ民族の覚醒
18世紀に入りオスマン・トルコ帝国が衰退していく中で、西アジアから北アフリカに至るオスマン・トルコの支配下のアラブ地域に於いて民族的な自立を求める動きが始まります。

ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ
( محمد بن عبد الوهاب,Muhammad ibn ʿAbd al-Wahhab; 1703年– 1792年6月22日)
18世紀中庸、アラビア半島でムハンマド・ブン・アブドゥル・ワッハーブ(1703年頃~91年)がイスラム教の改革を唱えてワッハーブ派を創始します。
ワッハーブ派は、スンナ派に対抗して原始イスラムへの復帰を唱え、ムハンマド以来の300年間が正しいイスラム教が行われた時期であるとしてそれ以後の全ての改革を否定すると共に、又極端な禁欲主義を説き、厳正な一神教に従ってコーランと預言者ムハンマドの言行に基づく知識以外は認めない立場を取りました。

イフワーン Ikhwan(サウジアラビアの建国を支えた民兵組織)を従えたアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(2代目ワッハーブ王国(第1次)国王)
ワッハーブ派は、中部アラビアの豪族サウード家と結んでワッハーブ王国(1744年頃~1818年、1823年~89年)を建設し、リヤドを都と定めました。
第1次ワッハーブ王国(1744年頃~1818年)は、オスマン・トルコから征討を命じられたエジプト総督ムハンマド・アリーによって1818年に滅ぼされます。

アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード
( عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود, Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud、1876年 - 1953年11月9日)
サウード家によって再興された第2次ワッハーブ王国(1823年~89年)はリヤドを奪われて滅びましたが(1889年)、サウード家のイブン・サウード(1876年~1953年)が20世紀初頭にリヤドを奪回して再び復活し、1932年には国号をサウジアラビアと改称して現在に至っています。
尚、ワッハーブ派は現在のサウジアラビアでも支配的宗教です。

ムハンマド・アリー・パシャ
( محمد علي باشا, Muḥammad ʿAlī Bāšā, 1769年? - 1849年8月2日)
ワッハーブ派は、イスラム改革の始まりとなり、又アラブ民族主義運動の先駆となりました。
ナポレオンのエジプト遠征(1798年~99年)はアラブ民族主義運動高揚の端緒となり、ナポレオン軍敗退の混乱に乗じて、マケドニア生まれのアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリー(メフメト・アリー、1769年~1849年)は実力によってエジプト太守(総督、パシャ)となり、エジプトの実権を握りました(1805年)。
ムハンマド・アリーはその後エジプト全土を統一し、行政、産業、教育、軍事の西欧化による近代化を進めます。

又、ギリシアの独立戦争(1821年~29年)でオスマン・トルコを援助してクレタ、キプロス島を獲得したムハンマド・アリーは、更にシリアの領有を要求して第1次エジプト・トルコ戦争(1831年~33年)を引き起こしてシリアの領有を認めさせました。
ムハンマド・アリーは、更にエジプト、シリア等の領土世襲権を要求して、第2次エジプト・トルコ戦争(1839年~40年)を起こし、フランスの援助を得てオスマン・トルコに大勝しました。
これを見たイギリスはロシア、プロイセン、オーストリア共に干渉し、ロンドン会議を開いてロンドン四カ国条約成立させ、この条約によってムハンマド・アリーは世襲領域をエジプト、スーダンに限定され、シリアを放棄させられます。

スエズ運河・1869年11月開通
エジプトでは、1840年代以後、イギリスを初めとするヨーロッパからの資本や製品の流入が増大し、列強への経済的従属が進みました。
特にイスマーイール(在位1863年~79年)がスエズ運河の建設、鉄道、用水路、工場の建設等の近代化政策を進めたために、これらの事業によってエジプトには莫大な外債が残されました。
財政難に陥ったエジプトは、スエズ運河の株式をイギリスに売却(1875年)して財政難を切り抜ける事を思案しますが、外債の利子支払いも不可能となり国家財政が破綻し、イギリス、フランスの財務管理下におかれることと成りました。
1877年には国庫歳入の実に79%が債務返済に充てられる状態となり、エジプト農民は重い税負担に苦しめられ、農民が餓死する中でも税の取り立てが行われます。

馬上のアラービー・パシャ
こうしたイギリス、フランスの経済支配に対する反対闘争が各地で起こりますが、その先頭に立ったのがアラービー・パシャでした。
アラービー・パシャ(1841年~1911年)は、農民出身の軍人でエジプト人将校の間で祖国党を組織して「エジプト人のためのエジプト」運動を進め、1881年には反乱を起こし、翌年には陸軍大臣に就任して自由主義的な憲法を発布させます(アラービー・パシャの反乱、1881年~82年)。
1875年にスエズ運河の株式を買収していたイギリスは、アラービー・パシャの反乱が起こると彼の辞職を要求し、単独でエジプトに出兵してアラービー・パシャ軍を破り、エジプトを軍事占領して事実上の保護下に置きました。
アラービー・パシャの反乱は、エジプト最初の民族革命であり、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとしたアラービー・パシャの運動はその後のエジプト民族主義運動の原点となったのです。
ジョークは如何?
ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた
「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」
続く・・・
2アラブ民族の覚醒
18世紀に入りオスマン・トルコ帝国が衰退していく中で、西アジアから北アフリカに至るオスマン・トルコの支配下のアラブ地域に於いて民族的な自立を求める動きが始まります。

ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ
( محمد بن عبد الوهاب,Muhammad ibn ʿAbd al-Wahhab; 1703年– 1792年6月22日)
18世紀中庸、アラビア半島でムハンマド・ブン・アブドゥル・ワッハーブ(1703年頃~91年)がイスラム教の改革を唱えてワッハーブ派を創始します。
ワッハーブ派は、スンナ派に対抗して原始イスラムへの復帰を唱え、ムハンマド以来の300年間が正しいイスラム教が行われた時期であるとしてそれ以後の全ての改革を否定すると共に、又極端な禁欲主義を説き、厳正な一神教に従ってコーランと預言者ムハンマドの言行に基づく知識以外は認めない立場を取りました。

イフワーン Ikhwan(サウジアラビアの建国を支えた民兵組織)を従えたアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(2代目ワッハーブ王国(第1次)国王)
ワッハーブ派は、中部アラビアの豪族サウード家と結んでワッハーブ王国(1744年頃~1818年、1823年~89年)を建設し、リヤドを都と定めました。
第1次ワッハーブ王国(1744年頃~1818年)は、オスマン・トルコから征討を命じられたエジプト総督ムハンマド・アリーによって1818年に滅ぼされます。

アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード
( عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود, Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud、1876年 - 1953年11月9日)
サウード家によって再興された第2次ワッハーブ王国(1823年~89年)はリヤドを奪われて滅びましたが(1889年)、サウード家のイブン・サウード(1876年~1953年)が20世紀初頭にリヤドを奪回して再び復活し、1932年には国号をサウジアラビアと改称して現在に至っています。
尚、ワッハーブ派は現在のサウジアラビアでも支配的宗教です。

ムハンマド・アリー・パシャ
( محمد علي باشا, Muḥammad ʿAlī Bāšā, 1769年? - 1849年8月2日)
ワッハーブ派は、イスラム改革の始まりとなり、又アラブ民族主義運動の先駆となりました。
ナポレオンのエジプト遠征(1798年~99年)はアラブ民族主義運動高揚の端緒となり、ナポレオン軍敗退の混乱に乗じて、マケドニア生まれのアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリー(メフメト・アリー、1769年~1849年)は実力によってエジプト太守(総督、パシャ)となり、エジプトの実権を握りました(1805年)。
ムハンマド・アリーはその後エジプト全土を統一し、行政、産業、教育、軍事の西欧化による近代化を進めます。

又、ギリシアの独立戦争(1821年~29年)でオスマン・トルコを援助してクレタ、キプロス島を獲得したムハンマド・アリーは、更にシリアの領有を要求して第1次エジプト・トルコ戦争(1831年~33年)を引き起こしてシリアの領有を認めさせました。
ムハンマド・アリーは、更にエジプト、シリア等の領土世襲権を要求して、第2次エジプト・トルコ戦争(1839年~40年)を起こし、フランスの援助を得てオスマン・トルコに大勝しました。
これを見たイギリスはロシア、プロイセン、オーストリア共に干渉し、ロンドン会議を開いてロンドン四カ国条約成立させ、この条約によってムハンマド・アリーは世襲領域をエジプト、スーダンに限定され、シリアを放棄させられます。

スエズ運河・1869年11月開通
エジプトでは、1840年代以後、イギリスを初めとするヨーロッパからの資本や製品の流入が増大し、列強への経済的従属が進みました。
特にイスマーイール(在位1863年~79年)がスエズ運河の建設、鉄道、用水路、工場の建設等の近代化政策を進めたために、これらの事業によってエジプトには莫大な外債が残されました。
財政難に陥ったエジプトは、スエズ運河の株式をイギリスに売却(1875年)して財政難を切り抜ける事を思案しますが、外債の利子支払いも不可能となり国家財政が破綻し、イギリス、フランスの財務管理下におかれることと成りました。
1877年には国庫歳入の実に79%が債務返済に充てられる状態となり、エジプト農民は重い税負担に苦しめられ、農民が餓死する中でも税の取り立てが行われます。

馬上のアラービー・パシャ
こうしたイギリス、フランスの経済支配に対する反対闘争が各地で起こりますが、その先頭に立ったのがアラービー・パシャでした。
アラービー・パシャ(1841年~1911年)は、農民出身の軍人でエジプト人将校の間で祖国党を組織して「エジプト人のためのエジプト」運動を進め、1881年には反乱を起こし、翌年には陸軍大臣に就任して自由主義的な憲法を発布させます(アラービー・パシャの反乱、1881年~82年)。
1875年にスエズ運河の株式を買収していたイギリスは、アラービー・パシャの反乱が起こると彼の辞職を要求し、単独でエジプトに出兵してアラービー・パシャ軍を破り、エジプトを軍事占領して事実上の保護下に置きました。
アラービー・パシャの反乱は、エジプト最初の民族革命であり、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとしたアラービー・パシャの運動はその後のエジプト民族主義運動の原点となったのです。
ジョークは如何?
ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた
「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2017-02-27 21:31 編集
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2017-02-27 23:39 編集
葉山左京様 おはようございます。
寒さの底もいよいよ、脱出です。
朝は7時前、夕方は6時前迄明るくなり、日の出の場所も北に向かって移動しています。
昨日は、草刈の後、以前に集めていた枯葉うや枝を燃やしました。
風も殆んどない時でしたが、空気が乾燥しているので、大変火の回りが早く、久しぶりに焚き火の匂いを嗅ぎました。
これからは、木の芽立ちですが、雑草、害虫もやってきます。
明日から入院ですか。
一日も早く、退院されることをお祈りします。
私の父も心臓関係で、体調管理に神経を使いました。
どうぞ、ご無理をなさらない様に。
2017-02-28 06:34 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-02-28 22:54 編集
葉山左京様 おはようございます。
春と云う言葉を実感できる月になりました。
昨日は、市内の高校で卒業式が行われました。
私が高校を卒業したのは、遥かな昭和の事。
卒業式の文字に当時を思い出します。
2017-03-01 06:34 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-03-02 00:01 編集
葉山左京様 おはようございます。
今月のお彼岸頃からは、ジロくんの朝の散歩も始まります。
休日は、7時位から散歩も出来ますが、これからは気温が高くなるにつれて、散歩の出発も早く成ります。
良いお天気も昨日迄。
今日は、夜明け前に小雨も降った様子です。
雨が降ったり止んだりの1日に成りそうです。
2017-03-02 06:32 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-03-02 23:44 編集
葉山左京様 おはようございます。
子供の頃は、お雛様を飾ったり、劇でお雛様になったりした事を思い出します。
歳をとった今は、昔を懐かしむだけですが、小さなお雛様を飾っています。
卒業式の時期に成り、色々な話題が多いですね。
巣立つ皆さん頑張れ!
2017-03-03 09:13 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
ジロくんの散歩コースの彼岸桜も沢山花を付けて、薄桃色が目に鮮やかです。
明日は「啓蟄」。
既に小さな羽虫が、盛んに飛び回る様になりました。
てんとう虫の姿も間も無く見られる事と思います。
明日は、雨の予報ですが、これから一雨毎に暖かさを感じる事でしょう。
2017-03-04 06:52 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
暖かい毎日が続き、昨日も良いお天気でした。
高い処を薄い雲がゆっくりと流れ、日差しもポカポカでした。
夜、ジロくんの散歩の時も外気は、10度。
寒さを感じません。
このまま、暖かくなってくれる事を願います。
2017-03-05 06:29 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
夜のジロくんの散歩も10度前後あるので、寒さは全く感じません。
日中、止めた車の車内は、暑さを感じる位です。
仕事柄、食料品の管理に神経を使う時期に成っている様です。
2017-03-06 06:24 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
彼岸は満開を迎え、菜の花も黄色い花を沢山付けています。
未だ、春分の日迄、2週間程ありますが、春の雰囲気は十分です。
2017-03-07 09:58 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
昨日は、午後から大荒れの天気になりました。
雨から曇り、雲間から陽が射していると思ったら、今度は激しい雷雨。
寒冷前線の通過ですが、之も春と冬のせめぎ合いです。
暖かさと寒さの一進一退が暫く続く事でしょう。
2017-03-08 06:36 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
昨日は、お昼前に雪が舞いました。
前線の影響と思いますが、寒さが戻った様です。
天気予報では、今日以降最高気温も上昇するとの事なので、安心です。
昨日、その寒さの中、県内の公立高校で、入学試験が行われました。
どうしても、昔の自分を思い出してしまいます。
2017-03-09 06:35 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
帰りにスーパーに寄って帰宅しました。
大変良いお天気に恵まれ、気温も15度前後迄上がっています。
市内の中学校は、今日が卒業式。
快晴の空の下、良い思い出ができた事と思います。
2017-03-10 14:01 秋葉 奈津子 URL 編集