歴史を歩く151
35南アジア・東南アジアの植民地化②
2インド大反乱とインド帝国の成立

シパーヒー(セポイ)の反乱
イギリスによるインド支配が進むにつれて、インドの伝統的な生活が破壊されるなかで、イギリス支配に対するインド人の不満と反感が広い階層に広まりました。
こうした状況を背景として1857年にインド初の民族的大反乱であるシパーヒー(セポイ)の反乱が勃発します。
シパーヒー(セポイ)とはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵で、イギリス東インド会社は彼等を低賃金・低待遇で雇い、インド支配の道具としましたが、反乱は兵士だけのものではなかったので、近年はインド大反乱と呼ばれています。

エンフィールド銃
1857年はプラッシーの戦いから100周年に当たる年で、宗教的指導者の中にはイギリス滅亡の年であると予言する者もあり、インドは異常な熱気に包まれており、同年5月10日、デリー北方のメーラトのシパーヒー部隊が反乱を起こします。
反乱の発端は、東インド会社が新たに採用したエンフィールド銃で、この銃は弾丸を込める際に上質の紙で出来た弾薬包の端を口でかみ切る必要があったが、その弾薬包には銃身での摩擦を少なくするために牛と豚の油脂が塗られていました。

シヴァ神と聖牛ナンディ
牛はヒンドゥー教徒にとっては神聖な動物であり、豚はイスラム教徒にとっては不浄とされた動物で、このためシパーヒーはこの銃の受け取りと使用を拒否したのでした。
このような出来事は既に2月頃から各地の部隊で起きていたので、イギリスは弾薬包を手で破るように改めていたのですが、4月末にメーラトのシパーヒー連隊で90人中85人が弾薬包に手を触れることを拒否し、軍法会議で10年間の強制労働の刑に処せられ、5月9日に85人が投獄された。反乱が起こったのはその翌日でした。

反乱の発端となった、エンフィールド銃の弾丸込め
1857年5月10日、メーラトのシパーヒー部隊が蜂起し、兵器庫を襲って武器・弾薬を奪い、民衆と共に教会・兵営・住宅等を襲い、イギリス人を殺害してその財産を奪い、自分達の仲間が拘留されている監獄を襲って抑留者を解放すると共にシパーヒーは、その夜のうちにデリーに向けて進撃します。

バハードゥル・シャー2世(بہادر شاہ ظفر, Bahadur Shah II, 1775年10月24日 - 1862年11月7日)
翌日反乱軍がデリーに到着すると、デリーのシパーヒーや市民も反乱に加わり、反乱軍はたちまちこの町を占領すると、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世(在位1837年~58年)を擁立し、有名無実になっていたムガル皇帝の統治復活を宣言しました。

反乱軍のシパーヒー
ムガル皇帝の名でインド各地に反乱を呼びかける檄文が送られると、たちまち各地で反乱が連鎖し、北インド全域に及ぶ大反乱に発展、イギリスのインド支配は崩壊するかに思われました。
この反乱には、イギリス支配に不満を持つ旧支配層や近代的な地租制度によって没落した地主・土地を失った農民・綿織物工業の没落で職を失った職人など広範な階層の人々が加わりますが、反乱軍には統一された組織がなく、まとまった目標も存在しなかった為、イギリスが態勢を立て直し、多くの藩王(地方の王侯)を味方につけて反撃に転じると反乱は個別に撃破され、鎮圧されていきます。

降伏するバハードゥル・シャー2世
デリーは、1857年9月に陥落し、ムガル皇帝は捕虜となり、その息子達は処刑され、翌1858年3月にもう一つの反乱の拠点であったラクナウも陥落し、8月にはムガル皇帝は廃位されてビルマに追放され、300年以上続いたムガル帝国(1526年~1858年)は終に滅亡します。

反乱軍兵士を砲に括り付け、木の弾丸を発射する英軍による見せしめ
1858年8月、東インド会社はシパーヒーの反乱を招いた責任から解散させられ、11月のヴィクトリア女王宣言によってインドは本国政府の直接統治下に置かれる事と成りました。
デリー、ラクナウ等の拠点を失った後も、インド人は各地でゲリラ戦を展開しましが、1859年4月には頑強に抵抗してきたアウドの反乱軍も鎮圧され、3年に及んだインド大反乱はほぼ完全に鎮圧されます。

ヴィクトリア女王にインド人の格好をしたベンジャミン・ディズレーリがインド帝冠とイギリス王冠の交換をする風刺画
イギリスは既に反乱中の1858年にインドを本国政府の直接統治下に置いていましたが、1877年にはインド帝国(1877年~1947年)の成立が宣言され、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる事になります。
インド帝国は直轄領と大小500を越える藩王国(イギリスの支配下で旧地方王侯に内政権を与えて藩王国とした)とから成り、以後イギリスはこれら保守的な藩王国を保護しつつ、巧妙な分割統治によってインドの植民地経営を遂行します。
ジョークは如何?
食べたいのなら上海へ行け
おしゃれしたいのなら香港へ行け
稼ぎたいのなら東京へ行け
叫びたいのならソウルへ行け
死にたいのなら平壌へ行け
続く・・・
2インド大反乱とインド帝国の成立

シパーヒー(セポイ)の反乱
イギリスによるインド支配が進むにつれて、インドの伝統的な生活が破壊されるなかで、イギリス支配に対するインド人の不満と反感が広い階層に広まりました。
こうした状況を背景として1857年にインド初の民族的大反乱であるシパーヒー(セポイ)の反乱が勃発します。
シパーヒー(セポイ)とはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵で、イギリス東インド会社は彼等を低賃金・低待遇で雇い、インド支配の道具としましたが、反乱は兵士だけのものではなかったので、近年はインド大反乱と呼ばれています。

エンフィールド銃
1857年はプラッシーの戦いから100周年に当たる年で、宗教的指導者の中にはイギリス滅亡の年であると予言する者もあり、インドは異常な熱気に包まれており、同年5月10日、デリー北方のメーラトのシパーヒー部隊が反乱を起こします。
反乱の発端は、東インド会社が新たに採用したエンフィールド銃で、この銃は弾丸を込める際に上質の紙で出来た弾薬包の端を口でかみ切る必要があったが、その弾薬包には銃身での摩擦を少なくするために牛と豚の油脂が塗られていました。

シヴァ神と聖牛ナンディ
牛はヒンドゥー教徒にとっては神聖な動物であり、豚はイスラム教徒にとっては不浄とされた動物で、このためシパーヒーはこの銃の受け取りと使用を拒否したのでした。
このような出来事は既に2月頃から各地の部隊で起きていたので、イギリスは弾薬包を手で破るように改めていたのですが、4月末にメーラトのシパーヒー連隊で90人中85人が弾薬包に手を触れることを拒否し、軍法会議で10年間の強制労働の刑に処せられ、5月9日に85人が投獄された。反乱が起こったのはその翌日でした。

反乱の発端となった、エンフィールド銃の弾丸込め
1857年5月10日、メーラトのシパーヒー部隊が蜂起し、兵器庫を襲って武器・弾薬を奪い、民衆と共に教会・兵営・住宅等を襲い、イギリス人を殺害してその財産を奪い、自分達の仲間が拘留されている監獄を襲って抑留者を解放すると共にシパーヒーは、その夜のうちにデリーに向けて進撃します。

バハードゥル・シャー2世(بہادر شاہ ظفر, Bahadur Shah II, 1775年10月24日 - 1862年11月7日)
翌日反乱軍がデリーに到着すると、デリーのシパーヒーや市民も反乱に加わり、反乱軍はたちまちこの町を占領すると、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世(在位1837年~58年)を擁立し、有名無実になっていたムガル皇帝の統治復活を宣言しました。

反乱軍のシパーヒー
ムガル皇帝の名でインド各地に反乱を呼びかける檄文が送られると、たちまち各地で反乱が連鎖し、北インド全域に及ぶ大反乱に発展、イギリスのインド支配は崩壊するかに思われました。
この反乱には、イギリス支配に不満を持つ旧支配層や近代的な地租制度によって没落した地主・土地を失った農民・綿織物工業の没落で職を失った職人など広範な階層の人々が加わりますが、反乱軍には統一された組織がなく、まとまった目標も存在しなかった為、イギリスが態勢を立て直し、多くの藩王(地方の王侯)を味方につけて反撃に転じると反乱は個別に撃破され、鎮圧されていきます。

降伏するバハードゥル・シャー2世
デリーは、1857年9月に陥落し、ムガル皇帝は捕虜となり、その息子達は処刑され、翌1858年3月にもう一つの反乱の拠点であったラクナウも陥落し、8月にはムガル皇帝は廃位されてビルマに追放され、300年以上続いたムガル帝国(1526年~1858年)は終に滅亡します。

反乱軍兵士を砲に括り付け、木の弾丸を発射する英軍による見せしめ
1858年8月、東インド会社はシパーヒーの反乱を招いた責任から解散させられ、11月のヴィクトリア女王宣言によってインドは本国政府の直接統治下に置かれる事と成りました。
デリー、ラクナウ等の拠点を失った後も、インド人は各地でゲリラ戦を展開しましが、1859年4月には頑強に抵抗してきたアウドの反乱軍も鎮圧され、3年に及んだインド大反乱はほぼ完全に鎮圧されます。

ヴィクトリア女王にインド人の格好をしたベンジャミン・ディズレーリがインド帝冠とイギリス王冠の交換をする風刺画
イギリスは既に反乱中の1858年にインドを本国政府の直接統治下に置いていましたが、1877年にはインド帝国(1877年~1947年)の成立が宣言され、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる事になります。
インド帝国は直轄領と大小500を越える藩王国(イギリスの支配下で旧地方王侯に内政権を与えて藩王国とした)とから成り、以後イギリスはこれら保守的な藩王国を保護しつつ、巧妙な分割統治によってインドの植民地経営を遂行します。
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
日が照ると春らしく感じられますが、
雨ではまだ真冬のようです。
春分の日も過ぎて気温はたしょうはあがりましたが、
まだ寒さは残りますね。
朝晩の暖かさが欲しいものです。
2017-03-21 21:12 葉山左京 URL 編集
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2017-03-21 23:49 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨日は、お彼岸のお参りに行きました。
出発する時は雨でしたが、福岡市に近づくにつれて、お天気も回復。
福岡の都市高速の事故で、上り線が閉鎖されていたので、帰りは福岡市内を出るだけで1時間を要しました。
都市高速の恩恵が身にしみます。
夕方から又まとまった雨になり、ジロくんの散歩もできませんでしたが、お彼岸のお参りが無事に終わってホッとしました。
2017-03-22 06:31 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
日が出ていましたが、
寒さは相変わらずでしょうか。
明るい桜の花が早く見たいものです。
お彼岸のお参りに行かれたのですね。
私は少しずれそうです。
今は沈丁花の香りが強くしています。
遊歩道沿いや、団地の歩道沿いにたくさん植えてあります。
2017-03-22 21:01 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
大慌て出勤したので、帰宅してご飯を準備する事を忘れていました。
完全に曜日の勘違いで、私も歳を取ったと思ったものです。
今日は、薄曇りのお天気ですが、暖かい1日でした。
陽が沈んでも気温は、10度以上と寒さを忘れてしまいます。
此方では、彼岸桜が葉桜に変わり始めました。
菜の花は今満開です。
2017-03-23 23:31 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-03-24 00:02 編集
葉山左京様、おはようございます。
学校が春休みに入り、登校する生徒さんの姿も無く、空間が大きくなっています。
鹿児島県出水平野の鶴の北帰行が続いていますが、未だツバメの姿を観ません。
一昨日は、南寄りの強い風も吹きましたが・・・。
ツバメの姿を見ると、春になった事をより実感できます。
2017-03-24 09:21 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
風が冷たく今月いっぱいは暖かさは無理なようです。
この寒さで彼岸花は咲かないままでした。
今は沈丁花の香りと雪柳の小さな白い花が咲きだしました。
ソメイヨシノはまだ先のようです。
2017-03-24 19:12 葉山左京 URL 編集
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2017-03-24 23:35 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨晩から雲が厚みを増してきました。
今回は、南からお天気が崩れそうなので、太平洋側の気圧が優勢になってきています。
今、北九州は菜の花が、盛りを迎えています。
河川敷や田畑の畦等至るところに、黄色い花の姿を目にします。
その様な場所では、土筆を取る人の姿も見えて、暖かさを実感します。
2017-03-25 06:22 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
多少は寒さに我慢しながら、
体力のトレーニングのため、
府立植物園に行ってきました。
ソメイヨシノはまだまだですが、
カラミ桜、ホソイ桜、大カンザクラ、椿寒桜、寒緋桜など
咲きだしています。
植物園の表示通りの桜の木々ですが、
今まで聞いたことのない名前もありました。
もうすぐ枝垂れ桜も咲くでしょう。
2017-03-25 21:23 葉山左京 URL 編集
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2017-03-26 00:03 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日は、午後から雨になるかもしれません。
寒さを感じる事も殆んどなくなりました。
自宅の庭の水仙は、今回ダメですが、勤務先の花壇では、黄色いラッパ水仙が見頃です。
大きな花が新緑に映えています。
自宅の芍薬は、10cm位に伸び赤茶色の茎がはっきりとしてきました。
2017-03-26 06:27 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
ソメイヨシノはまだですが、
いつもの遊歩道沿いの寒緋桜が咲きだしました。
白い雪柳もかなり目立つようになりました。
カラスノエンドウや小さな空色のオオイヌノフグリ、ナズナなどが咲いていました。
春の花が咲きだし、後は気温が上がるのを待つだけですね。
2017-03-26 18:07 葉山左京 URL 編集
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2017-03-26 23:36 編集
葉山左京様、おはようございます。
週末は、もう4月です。
昨日の夕方から雨になり、雷も鳴っています。
時折、ゴロゴロと体に振動が、伝わってきます。
雷の苦手なジロくんには、辛い季節になりました。
昨日の夜、道路から湯気が上がっていました。
地面の温度が高く、雨が蒸発しています。
この時期に良く、遭遇する光景です。
2017-03-27 06:35 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-03-27 23:35 編集
葉山左京様、おはようございます。
夜は、少し寒さを感じる位に気温も下がっています。
その様なお天気にも関わらず、木々の新芽は日増しに大きくなってきました。
地面の熱や太陽の光をいっぱいに浴びているのが分かります。
春らしい、暖かい日が続くと良いですね。
2017-03-28 06:30 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
最低気温が10℃以上になると、
暖かく感じるのですが。
近くの公園の桜も咲きだし、
もう完全に春景色です。
でもソメイヨシノはまだなようです。
九州はもう咲いていますでしょうか。
開花は大分早いのではないでしょうか。
2017-03-28 21:30 葉山左京 URL 編集
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2017-03-28 23:37 編集
葉山左京様、おはようございます。
新芽が開くのも間近に思えます。
夜の気温も10度ギリギリ。
足元が少し寒いですね。
3月も残り僅かになりました。
春休みの最中ですが、子供達の姿をほとんど見ません。
2017-03-29 06:27 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
体調がよくなってきます。
このまま暖かくなってほしいものです。
明日の予報は19℃と表示されています。
これで一挙にソメイヨシノが咲くのではないでしょうか。
2017-03-29 21:00 葉山左京 URL 編集
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2017-03-29 23:48 編集
葉山左京様、こんにちは。
朝と日中では、衣類の調整が必要です。
今日は、早朝出勤で昼過ぎに帰宅しましたが、燕の姿を遂に見る事が出来ました。
昨年より8日程遅い、燕の確認です。
明日で3月も終わりですが、2月は逃げる、3月は去るの例え通り、早い2ヶ月だった様に思います。
2017-03-30 13:51 秋葉 奈津子 URL 編集