歴史を歩く153
35南アジア・東南アジアの植民地化④
4東南アジア大陸部の変動

阮3兄弟
ヴェトナムでは、黎朝(1428年~1527年、1532年~1789年)の衰退に乗じて西山党の阮3兄弟が反乱を起こし(1773年)、黎朝の権臣である阮氏と鄭氏を滅ぼして西山朝(1778年~1802年)を開きます。
後期黎朝(1532年~1789年)のもとで事実上南ヴェトナムを支配していた阮氏一族は1777年に西山朝に滅ぼされ、この時、阮氏一族の中でただ一人阮福映(1762年~1820年)だけがハティエンに逃れ、フランス人宣教師ピニョー(1741年~99年)と出会い、一時タイに亡命した阮福映はタイの援助等によって1788年にサイゴン奪回に成功しました。

ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー (Pierre Joseph Georges Pigneau, 1741年11月2日 - 1799年10月9日)
ベトナム名百多禄(Pedro)
ピニョーは1789年に武器弾薬・義勇兵を集めてサイゴンに戻り、以後西山朝と戦う阮福映を援助しました。
阮福映は、ピニョーの死後(1799年)、更に軍を北に進め、1802年にはハノイを攻略して西山朝を滅ぼし、ヴェトナム全土を統一しました。

嘉隆帝・Gia Long (在位: 1802年 - 1820年)
阮福映は即位して阮朝(1802年~1945年)を開き、国号を安南から越南に改め、年号を嘉隆とし、都をユエに定めます。
清の皇帝から越南国王に封じられた(1804年)嘉隆帝(阮福映、在位1802年~20年)は、中央官制をはじめとする国内の諸制度に清朝の諸制度を採用し、道路・橋・運河の建設等に努め、対外的には西欧諸国に対して鎖国政策を推進しますが、フランス人宣教師ピニョーの功績を認め、フランス人を優遇し、キリスト教には寛大でした。

明命帝・Minh Mạng(1791年5月25日 - 1841年1月20日)
しかし、嘉隆帝の死後、父以上に中国文化の信奉者であった明命帝(在位1820年~41年)が即位して儒教を重んじた結果、ヴェトナム国内では反キリスト教の風潮が強まって行きます。
明命帝は、フランス軍艦が宣教師を密かに上陸させた事件を発端にキリスト教を禁止し(1825年)、以後キリスト教に対する禁圧策が強化されるなかで教会の破壊や宣教師の処刑(1833年)も行われました。
1857年にスペイン人宣教師が処刑されると、翌年フランスのナポレオン3世はスペインと共同で出兵し、1859年にはサイゴン(現在のホーチミン市)を占領し、1862年迄にコーチシナ(フランス人によるヴェトナム南部の呼称)の数省を占領され(仏越戦争、1858年~62年)、阮朝は、1862年にサイゴン条約を結び、コーチシナ東部3省とサイゴンのフランスへの割譲・キリスト教の布教の自由・サイゴン等3港の開港・メコン川の自由航行権等を認めたのでした。

仏越戦争
コーチシナの支配権を握ったフランスは、カンボジアに対するヴェトナムの宗主権の継承を主張してカンボジアに保護条約を押しつけカンボジアを保護国とし(1863年)、更に1867年にはコーチシナ西部3省を領有し、コーチシナ全域を支配下に入れました(ナポレオン3世のインドシナ出兵、1858年~67年)。
その後、ヴェトナム北部のトンキン地方に進出し、1873年と1882年の2度にわたってハノイを占領しますが、この時、劉永福は黒旗軍を率いてフランス軍に勇猛に抗戦します。

劉永福(劉永福紀念像)
劉永福(1837年~1917年)は、広東省の客家(はっか、よそ者の意味で広東・広西・江西・福建省等の山間僻地に住む移住民で差別された人々)出身で幼少の頃から流民として各地を転々とし、秘密結社の「天地会」(清朝を打倒して明朝を復興することを目的とした団体)に入いります。

黒旗軍
太平天国の乱にも参加して清軍に追われた劉永福は、ヴェトナムに逃れて阮朝に仕え、1867年に黒旗軍を編成し、1873年~85年にかけてフランス軍と戦い、阮朝がフランスとユエ条約を結ぶと孤立化して帰国しています(1885年)。
フランスは、1883年にはユエを攻撃して占領し、ユエ条約が結ばれました。
ユエ条約は1883年と1884年の2回結ばれており、1883年のユエ条約はフランス共和国総務長官の名をとってアルマン条約とも呼ばれ、アルマン条約はヴェトナムをフランスの保護国(外交・軍事等主権の一部を他国に完全に委任して安全の保障を他国から受けている国、内政面でも多くの干渉を受け植民地に近い場合が多い)とする仮条約であり、1884年のユエ条約は保護国化の内容を確認した条約で、これによってヴェトナムはフランスの保護国(植民地)と成りました。

フランスのベトナム支配変遷
ヴェトナムの宗主国(他国の外交・軍事などの主権の一部を行使する権利(宗主権)を持つ国)であった清朝はフランスのヴェトナム保護国化に強く反対し、このためフランスは、1884年6月に国境付近で清仏両軍の衝突が起こると、これを開戦の口実とし、海軍で台湾・福州を攻撃した為、清もフランスに宣戦を布告し(1884年8月)、清仏戦争(1884年~85年)が始まります。
清は台湾をフランス海軍に封鎖され、澎湖島を占領されたものの、広西から進出した清軍は善戦してしばしばフランス軍を撃破します。
イギリスが両国の調停に乗り出し1885年6月に天津条約が結ばれ、清はヴェトナムに対する宗主権を放棄してフランスの保護国化を承認しました。

トンキン湾を占領したフランス軍
清仏戦争から2年後の1887年10月に、コーチシナ(南部ヴェトナム)・アンナン(中部ヴェトナム)・トンキン(北部ヴェトナム)とカンボジアの4地域を統合したインドシナ連邦(フランス領インドシナ)が成立し、ハノイに総督府が置かれ、更にフランスは1899年にはラオスを保護国化し、これをインドシナ連邦に編入します。

ビルマ最後の王朝、コンバウン朝のティーボー王と王妃スーパヤーラッ
ビルマ(ミャンマー)では、18世紀中頃に成立したビルマ最後の王朝であるコンバウン(アラウンパヤー)朝(1752年~1885年)が18世紀後半に全盛期を迎え、タイのアユタヤ朝を滅ぼし(1767年)、清のビルマ遠征軍を撃退し、その後、コンバウン朝が更に西方へ進出、インドのアッサム地方やアラカン(ベンガル地方の南東)に進出して、インドに於けるイギリス東インド会社領と国境を接するようになるとイギリスとの間で紛争が起こります。

マハ・バンドゥーラ司令官(1782‐1825)・第1次ビルマ戦争時に、ビルマ軍を指揮した英雄
イギリスは第1回ビルマ(ミャンマー)戦争(1824年~26年)でアラカン地方を奪い、第2回ビルマ(ミャンマー)戦争(1852年~53年)ではラングーン(現ヤンゴン)を中心とする下ビルマを併合し、その後ビルマがフランスに接近する機会を捉えて、第3回ビルマ(ミャンマー)戦争(1885年~86年)によってコンバウン朝を滅ぼし、全ビルマを征服してこれをインド帝国に併合しました(1886)。
こうして19世紀末迄には、東南アジアの殆どの地域はヨーロッパ諸国の植民地となり、独立を保つ事が出来たのはイギリスとフランスの緩衝地帯として消極的な独立を保ったタイのみでした。

ラーマ4世
タイでは、18世紀後半に成立したチャクリ(バンコク)朝の第4代国王ラーマ4世(在位1851年~68年)が西欧化による近代化を進める一方、対外的には西方からのイギリス、東からのフランス勢力の進出に対して勢力均衡策を図り、イギリスとの間に不平等条約である通商条約を締結した(1855年)のをはじめ、フランス・アメリカ・プロイセン等の欧米諸国とも不平等条約を結び、独立維持に努めていました。

ラーマ5世
タイ史上最も傑出した国王とされるラーマ5世(チュラロンコーン、在位1868年~1910年)は15歳で即位し、父ラーマ4世の遺志を継いでタイの独立維持と西欧化による近代化に努め、近代的な行政・司法・徴税制度の確立、郵便・電信事業の導入、鉄道の建設、陸海軍の近代化等を行い、対外的にはイギリス・フランスの要求に屈し、治外法権の一部撤廃と引き換えに、現国境以東をフランスに、現国境以南をイギリスに割譲しながらも独立を維持し続けたのです。
ジョークは如何?
食べたいのなら上海へ行け
おしゃれしたいのなら香港へ行け
稼ぎたいのなら東京へ行け
叫びたいのならソウルへ行け
死にたいのなら平壌へ行け
続く・・・
4東南アジア大陸部の変動

阮3兄弟
ヴェトナムでは、黎朝(1428年~1527年、1532年~1789年)の衰退に乗じて西山党の阮3兄弟が反乱を起こし(1773年)、黎朝の権臣である阮氏と鄭氏を滅ぼして西山朝(1778年~1802年)を開きます。
後期黎朝(1532年~1789年)のもとで事実上南ヴェトナムを支配していた阮氏一族は1777年に西山朝に滅ぼされ、この時、阮氏一族の中でただ一人阮福映(1762年~1820年)だけがハティエンに逃れ、フランス人宣教師ピニョー(1741年~99年)と出会い、一時タイに亡命した阮福映はタイの援助等によって1788年にサイゴン奪回に成功しました。

ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー (Pierre Joseph Georges Pigneau, 1741年11月2日 - 1799年10月9日)
ベトナム名百多禄(Pedro)
ピニョーは1789年に武器弾薬・義勇兵を集めてサイゴンに戻り、以後西山朝と戦う阮福映を援助しました。
阮福映は、ピニョーの死後(1799年)、更に軍を北に進め、1802年にはハノイを攻略して西山朝を滅ぼし、ヴェトナム全土を統一しました。

嘉隆帝・Gia Long (在位: 1802年 - 1820年)
阮福映は即位して阮朝(1802年~1945年)を開き、国号を安南から越南に改め、年号を嘉隆とし、都をユエに定めます。
清の皇帝から越南国王に封じられた(1804年)嘉隆帝(阮福映、在位1802年~20年)は、中央官制をはじめとする国内の諸制度に清朝の諸制度を採用し、道路・橋・運河の建設等に努め、対外的には西欧諸国に対して鎖国政策を推進しますが、フランス人宣教師ピニョーの功績を認め、フランス人を優遇し、キリスト教には寛大でした。

明命帝・Minh Mạng(1791年5月25日 - 1841年1月20日)
しかし、嘉隆帝の死後、父以上に中国文化の信奉者であった明命帝(在位1820年~41年)が即位して儒教を重んじた結果、ヴェトナム国内では反キリスト教の風潮が強まって行きます。
明命帝は、フランス軍艦が宣教師を密かに上陸させた事件を発端にキリスト教を禁止し(1825年)、以後キリスト教に対する禁圧策が強化されるなかで教会の破壊や宣教師の処刑(1833年)も行われました。
1857年にスペイン人宣教師が処刑されると、翌年フランスのナポレオン3世はスペインと共同で出兵し、1859年にはサイゴン(現在のホーチミン市)を占領し、1862年迄にコーチシナ(フランス人によるヴェトナム南部の呼称)の数省を占領され(仏越戦争、1858年~62年)、阮朝は、1862年にサイゴン条約を結び、コーチシナ東部3省とサイゴンのフランスへの割譲・キリスト教の布教の自由・サイゴン等3港の開港・メコン川の自由航行権等を認めたのでした。

仏越戦争
コーチシナの支配権を握ったフランスは、カンボジアに対するヴェトナムの宗主権の継承を主張してカンボジアに保護条約を押しつけカンボジアを保護国とし(1863年)、更に1867年にはコーチシナ西部3省を領有し、コーチシナ全域を支配下に入れました(ナポレオン3世のインドシナ出兵、1858年~67年)。
その後、ヴェトナム北部のトンキン地方に進出し、1873年と1882年の2度にわたってハノイを占領しますが、この時、劉永福は黒旗軍を率いてフランス軍に勇猛に抗戦します。

劉永福(劉永福紀念像)
劉永福(1837年~1917年)は、広東省の客家(はっか、よそ者の意味で広東・広西・江西・福建省等の山間僻地に住む移住民で差別された人々)出身で幼少の頃から流民として各地を転々とし、秘密結社の「天地会」(清朝を打倒して明朝を復興することを目的とした団体)に入いります。

黒旗軍
太平天国の乱にも参加して清軍に追われた劉永福は、ヴェトナムに逃れて阮朝に仕え、1867年に黒旗軍を編成し、1873年~85年にかけてフランス軍と戦い、阮朝がフランスとユエ条約を結ぶと孤立化して帰国しています(1885年)。
フランスは、1883年にはユエを攻撃して占領し、ユエ条約が結ばれました。
ユエ条約は1883年と1884年の2回結ばれており、1883年のユエ条約はフランス共和国総務長官の名をとってアルマン条約とも呼ばれ、アルマン条約はヴェトナムをフランスの保護国(外交・軍事等主権の一部を他国に完全に委任して安全の保障を他国から受けている国、内政面でも多くの干渉を受け植民地に近い場合が多い)とする仮条約であり、1884年のユエ条約は保護国化の内容を確認した条約で、これによってヴェトナムはフランスの保護国(植民地)と成りました。

フランスのベトナム支配変遷
ヴェトナムの宗主国(他国の外交・軍事などの主権の一部を行使する権利(宗主権)を持つ国)であった清朝はフランスのヴェトナム保護国化に強く反対し、このためフランスは、1884年6月に国境付近で清仏両軍の衝突が起こると、これを開戦の口実とし、海軍で台湾・福州を攻撃した為、清もフランスに宣戦を布告し(1884年8月)、清仏戦争(1884年~85年)が始まります。
清は台湾をフランス海軍に封鎖され、澎湖島を占領されたものの、広西から進出した清軍は善戦してしばしばフランス軍を撃破します。
イギリスが両国の調停に乗り出し1885年6月に天津条約が結ばれ、清はヴェトナムに対する宗主権を放棄してフランスの保護国化を承認しました。

トンキン湾を占領したフランス軍
清仏戦争から2年後の1887年10月に、コーチシナ(南部ヴェトナム)・アンナン(中部ヴェトナム)・トンキン(北部ヴェトナム)とカンボジアの4地域を統合したインドシナ連邦(フランス領インドシナ)が成立し、ハノイに総督府が置かれ、更にフランスは1899年にはラオスを保護国化し、これをインドシナ連邦に編入します。

ビルマ最後の王朝、コンバウン朝のティーボー王と王妃スーパヤーラッ
ビルマ(ミャンマー)では、18世紀中頃に成立したビルマ最後の王朝であるコンバウン(アラウンパヤー)朝(1752年~1885年)が18世紀後半に全盛期を迎え、タイのアユタヤ朝を滅ぼし(1767年)、清のビルマ遠征軍を撃退し、その後、コンバウン朝が更に西方へ進出、インドのアッサム地方やアラカン(ベンガル地方の南東)に進出して、インドに於けるイギリス東インド会社領と国境を接するようになるとイギリスとの間で紛争が起こります。

マハ・バンドゥーラ司令官(1782‐1825)・第1次ビルマ戦争時に、ビルマ軍を指揮した英雄
イギリスは第1回ビルマ(ミャンマー)戦争(1824年~26年)でアラカン地方を奪い、第2回ビルマ(ミャンマー)戦争(1852年~53年)ではラングーン(現ヤンゴン)を中心とする下ビルマを併合し、その後ビルマがフランスに接近する機会を捉えて、第3回ビルマ(ミャンマー)戦争(1885年~86年)によってコンバウン朝を滅ぼし、全ビルマを征服してこれをインド帝国に併合しました(1886)。
こうして19世紀末迄には、東南アジアの殆どの地域はヨーロッパ諸国の植民地となり、独立を保つ事が出来たのはイギリスとフランスの緩衝地帯として消極的な独立を保ったタイのみでした。

ラーマ4世
タイでは、18世紀後半に成立したチャクリ(バンコク)朝の第4代国王ラーマ4世(在位1851年~68年)が西欧化による近代化を進める一方、対外的には西方からのイギリス、東からのフランス勢力の進出に対して勢力均衡策を図り、イギリスとの間に不平等条約である通商条約を締結した(1855年)のをはじめ、フランス・アメリカ・プロイセン等の欧米諸国とも不平等条約を結び、独立維持に努めていました。

ラーマ5世
タイ史上最も傑出した国王とされるラーマ5世(チュラロンコーン、在位1868年~1910年)は15歳で即位し、父ラーマ4世の遺志を継いでタイの独立維持と西欧化による近代化に努め、近代的な行政・司法・徴税制度の確立、郵便・電信事業の導入、鉄道の建設、陸海軍の近代化等を行い、対外的にはイギリス・フランスの要求に屈し、治外法権の一部撤廃と引き換えに、現国境以東をフランスに、現国境以南をイギリスに割譲しながらも独立を維持し続けたのです。
ジョークは如何?
食べたいのなら上海へ行け
おしゃれしたいのなら香港へ行け
稼ぎたいのなら東京へ行け
叫びたいのならソウルへ行け
死にたいのなら平壌へ行け
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
桜が満開なので花見に一番いい時期に雨降りです。
残念ですが、
明日も雨のようです。
気温は28℃になり日本海側の豊岡市は夏日になりました。
半そで姿の親子がTVニュースに出ていました。
春になったら、急激な温度の上昇です。
異常気象にびっくりです。
2017-04-08 18:56 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-04-08 23:19 編集
葉山左京様、おはようございます。
桜の花も散り始め、土手が薄桃色になっている場所がありました。
桜の季節は短いですね。
今年は2月の半ばに3月末並の気温になりましたが、寒い日よりも異常高温の方が印象に残る冬でした。
これからは、気温が上がり、虫たちの姿も見る様になります。
昨晩は、一匹の蛾が、電灯の光にやって来て、周りを回って飛んで行きました。
2017-04-09 06:28 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
ソメイヨシノが満開で、紅枝垂れ桜も多少蕾を残している感じです。
鈍色の空も桜の明るい色で染まった感じです。
風が冷たくコートがいるようでしたが、
花見客は最高の人出でした。
北九州では散りだしているのですね。
2017-04-09 21:21 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-04-09 22:44 編集
葉山左京様、おはようございます。
桜の花が散り始め、いたるところで、薄桃色の絨毯が広がっています。
桜の季節は短いですね。
市内の学校も新学期を迎え、朝の通学シーンが戻ってきました。
街中にも、真新しい制服やスーツ姿が目立っています。
2017-04-10 06:25 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
今日は強風が夜吹き荒れています。
ガラス窓から木々の揺さぶられている音や
風のヒューヒュー言う音がやかましいように聞こえます。
この風でかなり桜の花が散ってしまったのではないでしょうか。
そして明日は一日雨模様らしいです。
そちらはいかがですか?
2017-04-10 22:25 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-04-10 23:41 編集
葉山左京様、おはようございます。
この雨で桜も散り始める事でしょう。
気温も少し低めの15度位ですが、寒い季節の15度は暖かいですが、この時期の15度は、寒く感じます。
人間の感覚は、面白いせすね。
夜になると、小さな虫達が電灯に集まつ様になってきました。
冬枯れの木々にも緑の新芽が託さな増えています。
2017-04-11 09:08 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
桜の花はまだ散ってはいないようです。
市内の祇園や東山周辺は着物姿の観光客が目立ちます。
ほとんどが外国の人たちが着ているのですが、
結構着こなしていますね。
話を聞くと結構、憧れの着物のようです。
貸衣装やが軒数も増え、大繁盛です。
2017-04-11 21:49 葉山左京 URL 編集
おはようございます。
数日の雨で、雑草が一気に伸びました。
その生命力には、改めて関心してしまいます。
桜の季節が過ぎようとしています。
4月ももう中旬になりました。
着物姿。
思い出せば、大学の卒業式の時、留学生が着てましたね。
フランスとドイツの方だったと思いますが、似合ってましたよ。
2017-04-12 06:20 秋葉 奈津子 URL 編集