歴史を歩く156
36東アジアの激動③
2アロー戦争とロシア

南京条約によって開港した5港
イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待しましたが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがりませんでした。
イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて首都北京の近くに存在せず、又広州では領事の駐在や居留地設置が延期されるなど、中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めましたが清朝は応じず、そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会を窺っていました。

イギリス国旗を降ろす清国官憲
その時偶然アロー号事件が発生します。
1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小型帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕される事件が発生し、後にこれがアロー号事件呼ばれます。
イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求しました。
これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、又イギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶します。
イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会と捉え、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世も共同で出兵し、アロー戦争(1856年~60年)を引き起こし、アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれています。

大沽砲台を攻撃するイギリス軍の67歩兵隊
イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃しますが、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待ちます。
イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのは、ようやく1857年12月になってからの事でした。
英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くし、翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫ります。

天津条約批准
対外的にはアロー戦争(1856年~60年)、国内では太平天国の乱(1851年~64年)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結びます。
天津条約の主な内容は、
1) 外国公使の北京駐在
2) キリスト教の布教の自由
3) 漢口など10港の開港
4) 外国人の中国内地での旅行の自由
5) 英仏への計600万両の賠償金の支払い
以上を清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていました。
1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現し、英仏艦隊は白河を遡って天津へ進もうとしますが、白河河口には障礙物が施されており、障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退きます。

破壊の惨状を今に伝える円明園
この様な事態に対し英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領しました。
驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めますが、交渉が決裂すると咸豊帝(在位1850年~60年)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行います。

在りし日の円明園
円明園は、北京の北西約10kmの所にあった離宮で、イタリア人のカスティリオーネが設計したヴェルサイユ宮殿を模したバロック式の宮殿・庭園もあり、歴代の皇帝のコレクションである金銀財宝・書画骨董や貴重な書物があったが、英仏連合軍は円明園に侵入して略奪・破壊の限りを尽くし、火を放った。そのため美しい円明園は廃墟と化してしまいます。

北京条約主文
清は屈服し、ロシアの調停によって1860年10月に英仏両国との間に北京条約を締結します。
北京条約は天津条約の批准交換と追加条約として締結され、従って天津条約の外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・外国人の中国内地での旅行の自由はそのまま認められ、開港場については天津が加えられて11港となった上、香港の対岸の九龍半島南部をイギリスに割譲することが追加され、賠償金も800万両となり、アヘン貿易も公認されました。

ロシアが獲得した沿海州
ロシアはこの北京条約を調停した代償として、イギリス・フランスとは別に清と北京条約を結び、ウスリー江以東の地(沿海州)を獲得します。
この北京条約の結果、清はますます諸外国から政治・経済上の圧迫を受けるようになり、大量の外国商品の流入によって国内の産業や社会は深刻な影響を受けるようになります。
ロシアは、清朝が太平天国の乱やアロー戦争に苦戦している状況に乗じて黒竜江(アムール川)の地と沿海州を奪い中国への進出を図ります。

ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Витус Ионассен Беринг,g, 1681年8月 - 1741年12月19日])
ロシアは、17世紀前半に太平洋岸に達すると南下して黒竜江方面に進出して清と衝突、ネルチンスク条約(1689年)によって一時黒竜江方面から退きますが、その後ピョートル1世(在位1682年~1725年)の命によって始まったベーリング(1681年~1741年)の探検後カムチャッカ半島からベーリング海峡方面、さらにアラスカにも進出し、又エカチェリーナ2世(在位1762年~96年)の使節ラクスマンは根室に来航して(1792年)日本に通商を求めるなど、ロシアは東方への関心を強めて行きました。

ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵
(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский、1809年8月23日 - 1881年11月30日)
ムラヴィヨフ(1809年~81年)は、ニコライ1世によって東シベリア総督に任命されると(1847年)、黒竜江の重要性に着目し、クリミア戦争(1853年~56年)中に黒竜江地域に進出しました。
ムラヴィヨフは、清朝が太平天国の乱(1851年~64年)やアロー戦争(1856年~60年)苦戦している時、1858年にアイグン(愛琿)条約を結んで黒竜江(アムール川)以北の地の領有と黒竜江とその支流である松花江の航行権などを認めさせています。

アイグン(愛琿)条約によってロシアが清国より獲得した地域
更に1860年には清と英仏間のアロー戦争の講和を仲介した代償として、英仏とは別に北京条約を結んでウスリー江以東の地(沿海州)を獲得し、ウラジヴォストーク(東方を支配せよの意味)の軍港を建設し、以後アジア・太平洋進出の拠点とし、19世紀に入るとインドへの通商路・綿花の生産地・豊富な金の産地であった中央アジアに着目し、進出を図る様になります。

19世紀初頭のウズベグ3ハン国
当時、中央アジアにはティムール帝国を滅ぼしたウズベク族が建てたブハラ(ボハラ)・ハン国(1505年~1920年)・ヒヴァ・ハン国(1512年~1920年)・コーカンド・ハン国(1710年~1876年)の3ハン国が分立していましたが、ロシアの前に相次いで屈服し、ブハラ・ハン国は1868年に、ヒヴァ・ハン国は1873年にロシアの保護国となり、コーカンド・ハン国は1876年にロシアに併合されます。
1862年に新疆でイスラム教徒(ウイグル人)の反乱が起こると、ロシアは反乱に乗じて中央アジアのイリ地方に出兵・占領し(イリ事件、1871年~81年)、反乱は清軍によって1877年に鎮圧されましたが、ロシアはイリ地方から撤収せず、清はイリ地方の返還を求め、翌年からロシアと清との間で交渉が続き、1881年にイリ条約が結ばれ、ロシアは占領したイリ地方の東部を返還するに留まり、清はロシアに賠償金を支払い、その上イリ以西の広大な領土を失いました。
ジョークは如何?
「ソ連共産党が70年かけてできなかったのに、エリツィン
が7年でなしとげた事はなにか?」
「社会主義のすばらしさを国民に認識させたこと」
続く・・・
2アロー戦争とロシア

南京条約によって開港した5港
イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待しましたが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがりませんでした。
イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて首都北京の近くに存在せず、又広州では領事の駐在や居留地設置が延期されるなど、中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めましたが清朝は応じず、そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会を窺っていました。

イギリス国旗を降ろす清国官憲
その時偶然アロー号事件が発生します。
1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小型帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕される事件が発生し、後にこれがアロー号事件呼ばれます。
イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求しました。
これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、又イギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶します。
イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会と捉え、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世も共同で出兵し、アロー戦争(1856年~60年)を引き起こし、アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれています。

大沽砲台を攻撃するイギリス軍の67歩兵隊
イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃しますが、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待ちます。
イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのは、ようやく1857年12月になってからの事でした。
英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くし、翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫ります。

天津条約批准
対外的にはアロー戦争(1856年~60年)、国内では太平天国の乱(1851年~64年)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結びます。
天津条約の主な内容は、
1) 外国公使の北京駐在
2) キリスト教の布教の自由
3) 漢口など10港の開港
4) 外国人の中国内地での旅行の自由
5) 英仏への計600万両の賠償金の支払い
以上を清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていました。
1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現し、英仏艦隊は白河を遡って天津へ進もうとしますが、白河河口には障礙物が施されており、障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退きます。

破壊の惨状を今に伝える円明園
この様な事態に対し英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領しました。
驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めますが、交渉が決裂すると咸豊帝(在位1850年~60年)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行います。

在りし日の円明園
円明園は、北京の北西約10kmの所にあった離宮で、イタリア人のカスティリオーネが設計したヴェルサイユ宮殿を模したバロック式の宮殿・庭園もあり、歴代の皇帝のコレクションである金銀財宝・書画骨董や貴重な書物があったが、英仏連合軍は円明園に侵入して略奪・破壊の限りを尽くし、火を放った。そのため美しい円明園は廃墟と化してしまいます。

北京条約主文
清は屈服し、ロシアの調停によって1860年10月に英仏両国との間に北京条約を締結します。
北京条約は天津条約の批准交換と追加条約として締結され、従って天津条約の外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・外国人の中国内地での旅行の自由はそのまま認められ、開港場については天津が加えられて11港となった上、香港の対岸の九龍半島南部をイギリスに割譲することが追加され、賠償金も800万両となり、アヘン貿易も公認されました。

ロシアが獲得した沿海州
ロシアはこの北京条約を調停した代償として、イギリス・フランスとは別に清と北京条約を結び、ウスリー江以東の地(沿海州)を獲得します。
この北京条約の結果、清はますます諸外国から政治・経済上の圧迫を受けるようになり、大量の外国商品の流入によって国内の産業や社会は深刻な影響を受けるようになります。
ロシアは、清朝が太平天国の乱やアロー戦争に苦戦している状況に乗じて黒竜江(アムール川)の地と沿海州を奪い中国への進出を図ります。

ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Витус Ионассен Беринг,g, 1681年8月 - 1741年12月19日])
ロシアは、17世紀前半に太平洋岸に達すると南下して黒竜江方面に進出して清と衝突、ネルチンスク条約(1689年)によって一時黒竜江方面から退きますが、その後ピョートル1世(在位1682年~1725年)の命によって始まったベーリング(1681年~1741年)の探検後カムチャッカ半島からベーリング海峡方面、さらにアラスカにも進出し、又エカチェリーナ2世(在位1762年~96年)の使節ラクスマンは根室に来航して(1792年)日本に通商を求めるなど、ロシアは東方への関心を強めて行きました。

ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵
(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский、1809年8月23日 - 1881年11月30日)
ムラヴィヨフ(1809年~81年)は、ニコライ1世によって東シベリア総督に任命されると(1847年)、黒竜江の重要性に着目し、クリミア戦争(1853年~56年)中に黒竜江地域に進出しました。
ムラヴィヨフは、清朝が太平天国の乱(1851年~64年)やアロー戦争(1856年~60年)苦戦している時、1858年にアイグン(愛琿)条約を結んで黒竜江(アムール川)以北の地の領有と黒竜江とその支流である松花江の航行権などを認めさせています。

アイグン(愛琿)条約によってロシアが清国より獲得した地域
更に1860年には清と英仏間のアロー戦争の講和を仲介した代償として、英仏とは別に北京条約を結んでウスリー江以東の地(沿海州)を獲得し、ウラジヴォストーク(東方を支配せよの意味)の軍港を建設し、以後アジア・太平洋進出の拠点とし、19世紀に入るとインドへの通商路・綿花の生産地・豊富な金の産地であった中央アジアに着目し、進出を図る様になります。

19世紀初頭のウズベグ3ハン国
当時、中央アジアにはティムール帝国を滅ぼしたウズベク族が建てたブハラ(ボハラ)・ハン国(1505年~1920年)・ヒヴァ・ハン国(1512年~1920年)・コーカンド・ハン国(1710年~1876年)の3ハン国が分立していましたが、ロシアの前に相次いで屈服し、ブハラ・ハン国は1868年に、ヒヴァ・ハン国は1873年にロシアの保護国となり、コーカンド・ハン国は1876年にロシアに併合されます。
1862年に新疆でイスラム教徒(ウイグル人)の反乱が起こると、ロシアは反乱に乗じて中央アジアのイリ地方に出兵・占領し(イリ事件、1871年~81年)、反乱は清軍によって1877年に鎮圧されましたが、ロシアはイリ地方から撤収せず、清はイリ地方の返還を求め、翌年からロシアと清との間で交渉が続き、1881年にイリ条約が結ばれ、ロシアは占領したイリ地方の東部を返還するに留まり、清はロシアに賠償金を支払い、その上イリ以西の広大な領土を失いました。
ジョークは如何?
「ソ連共産党が70年かけてできなかったのに、エリツィン
が7年でなしとげた事はなにか?」
「社会主義のすばらしさを国民に認識させたこと」
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
昨年に比べて朝晩の冷え込みが厳しいように思われます。
そんな気温にはお構いなしに花や雑草は伸びています。
人間も伸び伸びと春を満喫しなければなりませんね。
明日はぶらりとツツジを見に行こうかと考えています。
2017-04-28 22:34 葉山左京 URL 編集
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2017-04-29 00:19 編集
葉山左京様、おはようございます。
最大9日連休の方もいらっしゃると思います。
夜明けも5時半、夕暮れも19時過ぎになり、気温も上昇。
まだ、朝晩と日中の寒暖の差は大きいです。
私は、毎年恒例の店舗応援。
天気も良いので、お客様も多いと思います。
頑張ってきます。
2017-04-29 06:24 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんにちは。
青空がにわかに曇って来て、
雷鳴と雨に強風が吹き荒れました。
一時的でしたが
すごかったですね。
びしょ濡れになった人もいるでしょう。
店舗応援でお忙しいでしょうね。
お体大事にお過ごしください。
2017-04-29 17:44 葉山左京 URL 編集
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2017-04-30 00:09 編集
葉山左京様、おはようございます。
暖かい南風が吹き、心地良い気候です。
今、北九州市内は、至る所でツツジが満開になっています。
半島情勢が緊迫したいますね。
相次ぐミサイルの発射。
アメリカ艦隊の半島接近。
自衛隊のアメリカ艦隊護衛命令。
アメリカにより、対北朝鮮への石油禁輸処置等、太平洋戦争突入前夜に似ています。
何かが、起こらなければ良いのですが。
2017-04-30 06:17 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
今日も暖かい日で半そで姿が目立ちます。
私も休みはほんの少しで、仕事中心の日々が待っています。
北朝鮮情勢緊迫してきましたが、
戦争にならないよう祈るだけですね。
2017-04-30 20:50 葉山左京 URL 編集
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2017-04-30 23:15 編集
葉山左京様、おはようございます。
私も昨日から、日中は半袖の生活に成りました。
「立夏」も目前ですが、昨日は暖かいを通り過ぎて暑い位です。
これから日増しに気温も上昇すると思いますが、水分補給には、用心しなけらばなりませんね。
半島情勢は、日増しに緊迫の度が増しています。
挑発行為を停止しないと、何時火蓋が切られるかわからない状況です。
2017-05-01 06:19 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-05-01 23:02 編集
葉山左京様、おはようございます。
日中の汗ばむ程の陽気で、水分摂取量も増えています。
今日は、部屋の掃除、庭の草取りをして、買い物、残った自家は映画を見ようと思っています。
あ天気の良い時は、気分も上昇しますね。
2017-05-02 07:45 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
京都は相変わらず外国の観光客でいっぱいです。
バスも電車もいっぱいでも、
マナーが良ければいいのですが。
生活習慣の違いでしょうか、
困った人々も多いですね。
つつじも咲きだしましたが、
まだ満開には至りません。
でも、もみじの新芽や広葉樹の新緑が春の光を浴びて輝いています。
郊外に出ないと何となく損をした気分になってしまいます。
2017-05-02 21:35 葉山左京 URL 編集
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2017-05-02 23:09 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨日は、予定通り、庭の草取りをしましたが、あまりに早く伸びる草に驚きました。
2週間位前に刈った場所も小さな草で、いっぱいでした。
これから、ひと雨毎に、草木の成長も進みそうです。
外国人観光客のマナーの問題は、こちらでも九州各地でも問題になっています。
これは、国民性の問題なので、そう簡単には、改善されないでしょうが、日本人も外地で同様な事にならないよう注意が必要ですね。
2017-05-03 06:21 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
5連休が始まりましたね。
行楽地はどこもいっぱいのようでした。
TVニュースでは高速道路大変な渋滞のようでした。
冷たい風が強く吹いて京都は肌寒い一日でした。
私は今日は一日休みですが明日からまた仕事です。
どこも人でいっぱいならまだ仕事していた方がいい気がします。
2017-05-03 18:15 葉山左京 URL 編集
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2017-05-03 22:50 編集
葉山左京様、おはようございます。
特に九州は、昨年熊本地震の影響で、自粛ムードでしたが、今年はその反動のようです。
お天気も今日までは上々、明日は午後から雨とちょっと心配です。
空気の乾燥も凄いですよ。
私もGW期間中は、ま年恒例の店舗応援です。
この時期は、余り動き回らない方が、得策と思っています。
2017-05-04 06:13 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
天気もいいですし、
気温もあまり暑くなく、
買い物やウインドウショッピングに最適な気候でしょう。
お客さんたちが大勢押しかけているのではないですか。
仕事の忙しさに負けず、
体壊されないようご自愛ください。
2017-05-04 21:28 葉山左京 URL 編集
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2017-05-04 23:16 編集
葉山左京様、おはようございます。
3日から5日がピークですね。
市場に来店のお客様の自動車のナンバープレートを見ると、西日本は関西方面迄ほぼ網羅されています。
遠い所では、横浜、川崎、所沢、新潟、秋田、バイクでは旭川が在りました。
最近は、キャンピングカーも増え、国産車から本場アメリカ製の巨体迄姿を見せています。
やはり、キャンピングカーは、羨望も眼差しで見れますが、乗っている方は若い方より実年世代がほとんどです。
御夫婦で、ゆっくり観光地を回っている様で、道の駅が移動先の拠点とか。
羨ましい限りです。
2017-05-05 04:26 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
街のあちらこちらで子供たちの姿を多く見かけます。
出生率が下がっている今、
もっと子供を産める環境作りが必要ですね。
今の政府がしっかりと環境作りをしてほしいものです。
京都も遠来の観光客のバスや車のナンバーを見かけます。
高速道路が発達したので、
遠方からも来易くなったのでしょうが、
渋滞がないと一番いいのですが。
2017-05-05 20:49 葉山左京 URL 編集
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2017-05-05 23:02 編集
葉山左京様、おはようございます。
昨日は、「立夏」。
いよいよ、暦の上でも夏になりました。
今日は、夜半から弱い雨が降っています。
乾燥が続いていたので、草木には良い雨ですね。
確かに子供さんの数は減りました。
私の町内も昨年、遂に子ども会が解散。
子ども会の行事が、消滅してしまいました。
思い出せば、私が子供の頃、朝の通学時間は学校に向かう行列が途切れる事は無く、午後は外で遊ぶ子供たちの声や姿で、いっぱいでした。
寂しい事です。
2017-05-06 04:56 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
段々衣の数も減って来て、
体も軽くなった気がします。
GWも明日で終わり、
本格的な夏を迎えますね。
夏は夏で暑い暑いの連発でしょうが、
私は寒い冬より暑い夏の方が好きですね。
山や海に行けますし、
キャンプも楽しみです。
2017-05-06 20:52 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-05-06 23:49 編集
葉山左京様 こんばんは。
GWの店舗応援も明日で合わりです。
昨年のお盆の応援から、私達本社応援の女性は、フラガール姿です。
今年のGWは、天候に恵まれ、私達もハワイかグアムに行った位、焼けました。
以前の長靴に長ズボン、エプロン姿に比べると、格段に涼しくて快適でした。
人間、暑いと気候の良い春、秋を思い、寒いと暑い夏を思う様です。
昨日帰宅すると、橙の花の香りが庭いっぱいに広がっていました。
私も夏の方が好きですよ。
2017-05-07 02:36 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
今日は一日体を休める癒しの日でしょうか。
朝から快晴とはいかないようです。
薄日射す日曜なのでしょう。
帰省ラッシュのTVニュースを見ると、
近場で過ごしたい気がします。
特に東京方面はすごいですね。
2017-05-07 05:46 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-05-07 23:27 編集
葉山左京様、おはようございます。
九州で、5月上旬の黄砂は、大変珍しい事です。
昨日で、GWも終わりましたが、私は今日お休みを頂きました。
明日から、月初の業務が始まります。
今年のGWは、曜日に並びが大変良かったので、遠出された方も多かったですね。
市場の応援も例年以上に忙しかっらです。
駐車場のナンバーを見ても、遠い地名が多かったですよ。
2017-05-08 08:04 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
東山36峰が薄茶色に見えます。
今は緑がきれいなのにです。
雨が降ると黄砂も地上に落ちてしまうでしょうが、
明日の雨に期待したいものです。
GW、秋葉さんはお忙しかったようですね。
こちらも
朝出勤時の地下鉄に日常が戻って来て、
満員の列車になりました。
2017-05-08 21:29 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
でも、買い物に行くと、やはり店内は静かです。
GWは休むと確かに楽しいですが、明けて日常に戻る時が、一番辛い思いをしました。
黄砂は相変わらずです。
遠くは霞み、夜は月が辛うじて見える程度。
雨で洗い流して欲しいものです。
2017-05-09 03:23 秋葉 奈津子 URL 編集