2017/05/07

歴史を歩く157

36東アジアの激動④

3太平天国の興亡

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太平天国の乱100週年切手・中華人民共和国郵政

 清がアヘン戦争(1840年~42年)・アロー戦争(1856年~60年)の対外的な問題に直面している時期、国内では太平天国の乱(1851年~64年)が発生します。

 アヘン戦争による多額の戦費と賠償金の支払いは、銀価の高騰をまねき、又重税となって農民の生活を圧迫し、その上水害・干害・蝗害等の天災が相次ぎ、多くの窮乏化した農民は流民となり、全国に貧民・流民・失業者があふれ、各地で暴動や反乱が相次ぎますが、アヘン戦争の影響が大きかった広東・広西省では太平天国の乱(1851年~64年)が勃発します。

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洪秀全

 太平天国の指導者洪秀全(1813年~64年)は、広東省花県の客家出身でした。
客家(ハッカ)とは部外者の意味で、広東・広西・江西・福建等の山間僻地に住んだ移住民を指す言葉です。
彼等は、外部から移住してきた人達で、元から住んでいた住民から差別され、多くは小作・炭焼き・木こり・鉱山労働・運輸労働等に従事していました。

 洪秀全の家は中農で、彼は幼少の頃から聡明で、7歳頃から塾で学び、村の塾の教師となって科挙の受験勉強に励みますが、30歳過ぎ迄に地方試験を4回挑戦しますがいずれも失敗しています。
洪秀全は3回目の試験に失敗した時に心痛の余り高熱を発し、40日間寝込むのですが、その時病床で夢を見ました。
その夢の中に一人の老人が現れ、彼に一振りの剣を与えて「悪魔を根滅せよ」と命じ、この夢を見たあと病気は治り、再び受験勉強に励み4回目の受験をしてまた落第します。

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勧世良言

 失意の中、彼は偶然に2回目の受験の時に広州の路上でもらった「勧世良言」と云うパンフレットを読み、そこに書かれている内容が病床で見た夢とよく似ていることに驚き、その本を何度も読み返しました。
「勧世良言」はプロテスタントの伝道書でした。

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太平天国における礼拝

 洪秀全は、夢の中に現れた老人はヤハウェ(エホバ)であり、ヤハウェはこの世で苦しむ人を救う為に自分を遣わしたと信ずるようになり、自分はヤハウェの子であり、イエス・キリストの弟であると称し、そして同郷の馮雲山等と上帝会(拝上帝会)と名づけたキリスト教的結社を組織して布教を始めます(1844年以降)。
ここで上帝とはヤハウェを意味しています。

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太平天国の伝道教育

 洪秀全等は、上帝を信仰すれば地上の天国で生き、死ねば天国へ昇ることができると説き、地上の天国は、総ての者が均等に分け与えられるので貧富の差のない世であると説いて、太平天国と呼んだのでした。
上帝会は、広西省を中心に布教し、貧農や鉱山労働者・炭焼き人夫等貧しい人々(多くは客家であった)の間に多くの信者を獲得し、この間、後の太平天国の幹部となる楊秀清(炭焼き)・蕭朝貴(貧農)・韋昌輝(地主)・石達開(地主)等が上帝会に入会していますが、彼等も客家出身でした。

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上帝会信徒が集合した金田村

 洪秀全は、上帝会信徒に広西省金田村に集合するようにという指令を発し(1850年7月頃)、約1万人が金田村に集まりました。
1851年1月、洪秀全は広西省金田村で太平天国の起義を宣言し、国号を太平天国と号し、彼自身は天王と称しました。
太平天国軍は、北に向かって進撃し、永安・桂林・全州を経て湖南省の長沙を包囲したが陥れることが出来ず囲みを解いて北に向かい、益陽で民船千数百艘を得て、その後水路を進み、岳州で多量の武器弾薬を手に入れ、1853年1月にはついに武昌を占領します。

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金田起義

 太平天国軍が湖南省へ進出した頃から貧農や流民が大挙参加し、太平天国軍の兵力は急激に膨張して約50万の大軍となり、太平天国軍は水陸両軍に分かれて長江を下り、1853年3月には終に南京を占領し、天京と改称して都と定めます。

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南京に入城する太平軍

 太平天国軍の最盛期(1854年~55年頃)の兵力は約300万(老弱男女すべてを含めた数)と云われており、太平天国軍がこのように急激に増加した最大の理由は「太平天国に行けば食える」と云う事が最大の理由で、太平天国内では総ての者が均等に分け与えられたと云う事も多くの人々を引きつけた大きな理由でした。

 太平天国が挙兵から2年余りで南京を攻略できたのは、「軍隊よりは盗賊の方がまし」と云われた様に清の正規軍の腐敗が甚だしかったのに対し、太平天国軍は規律が厳格で、殺人・放火・暴行・略奪等は一切行わず、役人・地主・富豪を襲って租税や田地に関する文書や借金証書を焼き捨てたものの農民には決して手出しをしなかったので民衆の支持を得ることが出来たからでした。
当時の書物には「太平天国軍がやってくれば争って迎え、官軍がやってくればこれを避けて門を閉じた」と書かれています。

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長髪と弁髪

 太平天国は、早くから「滅満興漢」(満州人の王朝である清を滅ぼして漢民族の国家を興すの意味)と云う民族主義的なスローガンを掲げ、清朝が強制した満州人の風習である弁髪を廃止して長髪としたので、太平天国の乱は長髪族の乱とも呼ばれました。
太平天国が理想とした平等主義を最もよく示している事柄が南京占領直後(1853年3月)に発布した「天朝田畝制度」と呼ばれる土地制度で、土地を男女の別なく均等に配分し、余剰生産物はすべて国庫に納入させる方法ですが、実施には至りませんでした。

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天朝田畝制度

 又アヘンの吸飲の禁止・纏足(中国では小足が美人の条件とされていたので、良家の子女の足指を4・5歳頃から足裏の方に曲げて布を堅く巻いて縛り、足の成長を妨げて小さくした風習で五代(907~960)頃に始まったとされている)の禁止等悪習の撤廃・男女の平等と身分制の廃止・租税の軽減等をスローガンに掲げて民衆の支持を得ました。

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太平天国軍高官と兵士

 太平天国は、間も無く清朝の打倒を目指して北伐軍を起こし(1853年5月)、10月には天津に迫りましたが陥れることが出来ず、その後も2年間にわたって戦いを続けましたが、蒙古騎兵の攻撃を受けて壊滅します(1855年)。
北伐と同時に西征の軍を進めましたが、これは曾国藩の湘軍との長い戦いの始まりとなりました。

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忠王府

 この様な状況の中で、天京では太平天国内部で権力争いが起こります。
太平天国の幹部は洪秀全・馮雲山・楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開等でしたが、馮雲山と蕭朝貴はすでに戦死しており(1852年)、その後、楊秀清の権力が強まり彼の横暴に対する反感が強まってくると、洪秀全に支持された韋昌輝が楊秀清とその一族を虐殺しますが(1856)、その韋昌輝も洪秀全に殺され(1856年)、石達開はこうした内紛を嫌って、太平天国を離脱し、長江中流域を転戦した後に四川で清軍に捕えられて処刑されています(1863年)。

 以後、洪秀全は凡庸な一族の者を登用した結果、太平天国は内部から腐敗が始まり、又天朝田畝制度等理想として掲げた政策も実施されなかった為、太平天国は次第に内外の支持を失って行きました。
清の正規軍(八旗や緑営)が弱体化すると、地方の地主や富豪達は自分達の生命や財産を守る為に自分で兵を集めて軍隊を組織します。

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湘軍

 清末に、正規軍の不足を補うために地方官や郷紳(科挙に合格しても官吏とならず、郷里に住んだ地方の有力者、多くは地主であった)が募集した臨時の義勇軍は郷勇と呼ばれ、なかでも曾国藩(1811年~72年)が1853年に郷里の湖南省湘郷県で組織した湘軍や李鴻章(1823年~1901年)が曾国藩の命を受けて1862年に安徽省で組織した淮軍は特に有力で、太平天国討伐の主力となり、正規軍以上に戦果を上げる事になります。

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天京を攻撃するイギリス艦隊

 イギリス等各国は太平天国がキリスト教を奉じているので初めは中立の立場をとっていましたが、太平天国がアヘン貿易や不平等条約を認めないことが判ると、北京条約(1860年)で英仏の要求をそのまま受け入れた清朝が存続した方が有利であると考えて、太平天国鎮圧に協力する様になります。

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戦闘指揮を執るウォード

 アメリカ人のウォード(1831年~62年)は太平天国軍が上海に迫ると(1860年8月)、上海商人の要請によって200人の外人部隊を編成して太平天国軍を撃退し、翌年この部隊を解散して外国人将校の下に中国人傭兵を集めた軍を編成して上海周辺の防衛に活躍し、「常勝軍」の名称を得ています。

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清朝官吏の衣装を纏うゴードン

 ウォードの戦死後、イギリス人ゴードン(1833年~85年)が指揮官となり(1863年)、3000人の部隊を率いて江蘇省各地を転戦して太平天国鎮圧に大きな役割を果たしました。

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太平軍と清国軍の戦闘
 
李鴻章の淮軍と常勝軍は江蘇省・浙江省の太平天国の占領地を次々に奪回して東から天京に迫り、曾国藩の湘軍は西から天京に迫り、太平天国では李秀成(1823年~64年)が奮戦しましたが、1864年3月、湘軍によって天京(南京)は包囲され、洪秀全は毒を仰いで自殺し(1864年6月)、1864年7月、終に天京(南京)が陥落して太平天国(1851年~64年)は滅亡しました。

 太平天国運動は近代中国に於ける民族運動の先駆となり、その後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼし、又これによって清朝の権威は失墜し、太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が台頭するきっかけと成りました。

ジョークは如何?

とある国の君主が戦争に臨んで:
国王「将軍、今度の戦はことのほか厳しそうだ。何か良い策はあるのか?」
将軍「難しゅう御座います。勝敗は時の運で御座いましょう」
国王「それでは困る!何とか必勝の策は出ないのか?」
将軍「左様、2つ御座います。一つは、王が私めの采配に口を差し挟まないこと。
もう一つは、敵将の采配に王が口を差し挟むこと」

続く・・・
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コメント

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秋葉奈津子様 こんばんは。

夕方からの雨が黄砂を洗い流してくれそうです。
でも降りが足りない気がします。
黄砂のためにきれいな新緑が
霞んでしまいました。

15日に京都三大祭りの一つ、「葵祭」
が開催されます。
私は仕事で、
写真を撮れないのが残念です。

事前の催物として、
上賀茂神社での流鏑馬神事が開催されました。
一つの祭りに事前のイベントが色々あるものですね。

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葉山左京様 こんばんは。

乾燥した地面には良い雨で、草木も喜んでいる様です。
芍薬に大きな、蕾が出来ました。
今、柑橘系の花が咲き、その香りも雨で一段と強まり、家の中迄漂ってきます。
芍薬も香りの強い花なので、開くと一段と香る事でしょう。

京都では、もう夏まつりが始まるのですね。
葵祭は写真でしか見た事が有りませんが、京都のお祭りは、歴史を感じるお祭りですね。
やはりお祭りは、夏や秋が一番です。

秋葉奈津子様 こんばんは。

午後から雨が しとしと降っていましたが、
夜になって東の空に満月が出ていました。
西の方は雲がありますが、
醍醐寺の山の上には星も瞬いています。

明日は晴れるでしょうか。

韓国の大統領は左派系になりましたが、
日本に対してはどんな対応をするのでしょうか。
これからが大変ですね。


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葉山左京様、おはようございます。

昨日はお昼迄雨が残りました。
気温も21度、おまけに風が強かったので、寒さを感じました。
でも、人間の感覚は、暑い様な毎日に慣れてしまうと、少し気温が下がると寒く感じるのですね。
これが、3月位なら、暖かさに大喜びしていたことでしょう。
人は、良い環境に直ぐに慣れてしまいます。

韓国の新大統領は、北になびく事でしょう。
日本も英断の時が、来るかもしれませんが、その時は、バッサリ切り落として欲しいものです。
あの国は、私個人として、信用できません。

秋葉奈津子様 こんばんは。

そうですね、
隣国なのにイマイチ信用できませんね。
考えていることや、
やっていることが、
低俗的な気がします。
精神的にゆとりのない民族なのでしょうか。
その隣の大国も同じだろうと思います。

いよいよ真夏の気温になってきましたね。
わたしも服装は夏仕様に変えました。

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葉山左京様、おはようございます。

昨日から、急に気温が上がり暑くなりました。
おまけに今日は、午後から雨の予報で、此方はまとまった雨に成りそうです。

庭の芍薬の蕾が開きました。
大変良い香りが、漂っています。

半島の国は、常に日本と対等と思い、劣った面は激しい嫉妬、憎悪を持つ民族の国家です。
これは、彼等が昭和20年8月15日迄、日本や大陸国家の属国として、生き続けた結果と考えます。
信用出来ない、国際法も国際的な慣習も一切通用しない、ポピュリズムに冒された国家。
それは、第二次世界大戦前夜の全体主義国家の姿に見えます。

秋葉奈津子様 こんばんは。

最近ではアマガエルの鳴き声をあまり聞きませんが、
久し振りにゲコゲコの鳴き声を聞きました。

自然が失われていくからでしょうが、
小動物や植物を大事にしないと、
人間がだめになってゆくのではないでしょうか。

明日は雨模様なのでしょうね。
今はシャクナゲに牡丹が咲いていますが、
芍薬も咲く時期ですね。
きれいな花に囲まれると、
人間の心は不思議に安らぐようです。



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葉山左京様、おはようございます。

昨日は、天気予報通りの雨でしたが、草木には恵みの雨でした。
朝、雨が降らない内にジロくんと散歩に行きました。
途中で、カエルの大合唱です。
良く見ると、まだ小さなカエルがいっぱい居ました。
カエルの合唱を聞ける場所も少なくなりましたが、街中には殆ど自然は残っていません。

秋葉奈津子様 こんばんは。

今日は雨が降って肌寒く感じられました。
まだまだ真夏とは言えませんが、
アヤメや菖蒲、カキツバタが咲きだしたようです。
近くに菖蒲やスイレンで有名な勸修寺がるのですが、
まだ行けていません。
スイレンはまだ早いですね。

近くには神社仏閣が多いので、
自転車でも回れるのですが、
ついつい休みの日はぐうたらになっています。

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葉山左京様 こんばんは。

土曜日は、先週同様、午前中は雨、お昼前には良いお天気になりました。
初夏の日差しが戻り、芍薬の花が一斉に咲き始めました。
甘い香りが漂っています。

葉山様の周囲は、自然が多く残っていますね。
此方は、昭和の名残も消えてしまいそうです。
遠くに見える山々が、以前と変わらない姿を見せてくれます。

秋葉奈津子様 こんばんは。

そうですね。
自然が残っています。
京都は同じ市街地でも
旧市街地は(中京、下京、上京区)町屋ばかりですが、
左京区や右京区、伏見区、東山区などは自然がすぐ近くにあります。
東山36峰というくらいですから、
山がすぐ近くにありです。

その分神社仏閣が多いです。

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葉山左京様 こんばんは。

京都は自然が残っているのですね。
北九州市の場合、緑は多いですが、それは作られた物で、自然の物では有りません。
今、私の住んでいる地区では、約1800年前の弥生期の遺構が、多数見つかり、保存運動が起こっています。
私も、保存推進派です。
私の住んでいる地域は、平成に入り、昭和の姿は殆ど無くなりました。
何とか、遺構は残したいものです。

秋葉奈津子様 こんばんは。

いよいよ暑くなってきました。
しかし風がさわやかでまだ凌ぎやすいですね。

約1800年前の弥生期の遺構が見つかったのですか、
それは保存が必要ですよね!
私も保存推進派を応援いたします。
弥生時代のものでしたら、
歴史的にも重要な遺構でしょうから。
頑張ってください。

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おはようございます。

今日の朝は、少し肌寒さ感じます。
長袖のトレーナーを1枚多めに着て丁度良い感じです。
日中は、暑く成りそうですが、未だ湿度が低いので、サラッとして心地良い1日に成りそうです。
後1ヶ月すれば、梅雨に入ります。
ジメジメ、ムシムシの毎日は、嫌ですね。

今、私の地域は、遺跡保存運動が活発になっています。
著名な研究者の公演や、遺跡の歴史的意義等のパンフレットが盛んに配布されています。
場所は、以前陸軍から国の保有地になり、近年北九州市に移管された土地で、区内でも小学校1校分位の面積が在ります。
遺跡と一言で言いますが、墳墓、多数の住居後、埋葬地、農耕地、そして冶金場所の遺構も有り、一つ国であった可能性もあります。
何とか保存したいものです。

秋葉奈津子様 こんばんは。

弥生時代の遺構が保存されることを祈っています。
歴史的価値がある素晴らしい遺構ですね。

昨日葵祭が終わりました。
6世紀半ばに始まったとされ、
平安初期には皇女らも加えた豪華な行列が
京の街を練り歩いたようです。

京都御所を出発して、下賀茂神社、上賀茂神社までの行程を
7時間かけて終えたようです。

葉山左京様 こんばんは。

葵祭、6世紀中葉に始まったのですか。
物凄く歴史を感じさせるお祭りですね。
7時間の行脚、きっと沿線は、外人さんが多かった事でしょう。
京都のお祭りは、ゆっくりと時間が流れて行く様です。

此方の遺跡も何とか保存して、後世に伝えたいものです。