歴史を歩く158
36東アジアの激動⑤
4洋務運動の進展
アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱等によって西洋の軍事技術が優れている事を認めた清朝は、1860年頃から西洋の軍事技術等の導入による富国強兵運動を進め、これを洋務運動と呼びます。

天津フランス領事館
北京条約(1860年)によって外国公使が北京に駐在することになり、清朝は1861年に総理各国事務衙門(総理衙門、そうりがもん)を設けて外交事務の処理機関とすると共に、ヨーロッパ文化の摂取に努めました。
洋務運動を推進したのは、太平天国の鎮圧に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠等の漢人官僚でした。

曽 国藩(嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))
曾国藩(1811年~72年)は、郷里である湖南省で湘軍を組織して太平天国鎮圧の中心となり、天京(南京)を攻略して太平天国を滅ぼし、その功によって両江総督・直隷(河北省の旧名)総督・内閣大学士を歴任し、文官出身の漢人としては初めて侯爵を授けられ、直隷総督に任じられました。
彼は漢人官僚台頭の先駆けとなり、洋務運動の中心人物として活躍しました。

李 鴻章(道光3年1月5日(1823年2月15日) - 光緒27年9月27日(1901年11月7日))
李鴻章(1823年~1901年)は安徽省出身、進士に合格しますが(1847年)太平天国の乱が起こると郷里で義勇軍を組織して戦い、曾国藩の幕僚となり(1858年)、後に彼の推薦で江蘇巡撫となり、淮軍を組織して(1862年)太平天国討伐に活躍し、以後両江総督・直隷総督・内閣大学士を努め、清末の最高実力者として内政・外交に活躍しました。
この間、洋務運動の中心人物として軍隊の近代化・軍事工業の育成・近代工業の育成・鉱山の開発・鉄道建設等の富国強兵策を推進しました。

左宗棠
左宗棠(さそうとう、1812年~85年)は湖南省出身、科挙の最終試験(殿試)に3度失敗して帰郷し、太平天国軍が湖南に入ると曾国藩の軍に加わって討伐に従事し、軍功をあげて総督となり、福州に造船所を建設して軍隊の近代化に努める等洋務運動を推進しました。

同治帝(清第10代皇帝(在位:1861年 - 1875年))
当時の同治帝(在位1861年~75年)の治世は、太平天国の乱が鎮圧され、清朝の内政・外交が一時的に安定を取り戻した時期であったので「同治の中興」と呼ばれ、洋務運動が推進された時期でもありました。

洋務運動によって編成された西洋式軍隊
洋務運動の推進者達は「中体西用」をスローガンとしました。
中体西用とは、中国の伝統や学問を本体とし、西洋の科学や技術を応用するという意味で、この様に洋務運動の推進者達は、中国は軍事技術等の面では劣っているが、政治や社会体制の面では中国の方が優れていると考えており、彼等が推進した洋務運動の目的は清朝の支配体制の維持・強化にあったので、ヨーロッパ文化の摂取は単なる技術の導入に偏り、政治体制の変革には至らず、真の富国強兵を達成することが出来なかったのです。
洋務運動とほぼ同じ頃に行われた日本の明治維新は、徹底した西欧化による近代化を推し進めたので、その差が以後の日本と中国の明暗を分けたと云われており、不徹底に終わった洋務運動の欠陥が清仏戦争(1884年~85年)や日清戦争(1894年~95年)の敗戦によって明らかになると、清朝でも日清戦争の敗北後政治体制の変革をめざす変法運動が起こる事になります。
ジョークは如何?
ある男が赤の広場で、「スターリンの大馬鹿野郎!」と叫んでいた。
さっそく秘密警察に逮捕され、強制収容所送りになる。刑期は二十五年。
その内訳は…国家元首侮辱罪で五年。国家機密漏洩罪で二十年。
続く・・・
4洋務運動の進展
アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱等によって西洋の軍事技術が優れている事を認めた清朝は、1860年頃から西洋の軍事技術等の導入による富国強兵運動を進め、これを洋務運動と呼びます。

天津フランス領事館
北京条約(1860年)によって外国公使が北京に駐在することになり、清朝は1861年に総理各国事務衙門(総理衙門、そうりがもん)を設けて外交事務の処理機関とすると共に、ヨーロッパ文化の摂取に努めました。
洋務運動を推進したのは、太平天国の鎮圧に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠等の漢人官僚でした。

曽 国藩(嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))
曾国藩(1811年~72年)は、郷里である湖南省で湘軍を組織して太平天国鎮圧の中心となり、天京(南京)を攻略して太平天国を滅ぼし、その功によって両江総督・直隷(河北省の旧名)総督・内閣大学士を歴任し、文官出身の漢人としては初めて侯爵を授けられ、直隷総督に任じられました。
彼は漢人官僚台頭の先駆けとなり、洋務運動の中心人物として活躍しました。

李 鴻章(道光3年1月5日(1823年2月15日) - 光緒27年9月27日(1901年11月7日))
李鴻章(1823年~1901年)は安徽省出身、進士に合格しますが(1847年)太平天国の乱が起こると郷里で義勇軍を組織して戦い、曾国藩の幕僚となり(1858年)、後に彼の推薦で江蘇巡撫となり、淮軍を組織して(1862年)太平天国討伐に活躍し、以後両江総督・直隷総督・内閣大学士を努め、清末の最高実力者として内政・外交に活躍しました。
この間、洋務運動の中心人物として軍隊の近代化・軍事工業の育成・近代工業の育成・鉱山の開発・鉄道建設等の富国強兵策を推進しました。

左宗棠
左宗棠(さそうとう、1812年~85年)は湖南省出身、科挙の最終試験(殿試)に3度失敗して帰郷し、太平天国軍が湖南に入ると曾国藩の軍に加わって討伐に従事し、軍功をあげて総督となり、福州に造船所を建設して軍隊の近代化に努める等洋務運動を推進しました。

同治帝(清第10代皇帝(在位:1861年 - 1875年))
当時の同治帝(在位1861年~75年)の治世は、太平天国の乱が鎮圧され、清朝の内政・外交が一時的に安定を取り戻した時期であったので「同治の中興」と呼ばれ、洋務運動が推進された時期でもありました。

洋務運動によって編成された西洋式軍隊
洋務運動の推進者達は「中体西用」をスローガンとしました。
中体西用とは、中国の伝統や学問を本体とし、西洋の科学や技術を応用するという意味で、この様に洋務運動の推進者達は、中国は軍事技術等の面では劣っているが、政治や社会体制の面では中国の方が優れていると考えており、彼等が推進した洋務運動の目的は清朝の支配体制の維持・強化にあったので、ヨーロッパ文化の摂取は単なる技術の導入に偏り、政治体制の変革には至らず、真の富国強兵を達成することが出来なかったのです。
洋務運動とほぼ同じ頃に行われた日本の明治維新は、徹底した西欧化による近代化を推し進めたので、その差が以後の日本と中国の明暗を分けたと云われており、不徹底に終わった洋務運動の欠陥が清仏戦争(1884年~85年)や日清戦争(1894年~95年)の敗戦によって明らかになると、清朝でも日清戦争の敗北後政治体制の変革をめざす変法運動が起こる事になります。
ジョークは如何?
ある男が赤の広場で、「スターリンの大馬鹿野郎!」と叫んでいた。
さっそく秘密警察に逮捕され、強制収容所送りになる。刑期は二十五年。
その内訳は…国家元首侮辱罪で五年。国家機密漏洩罪で二十年。
続く・・・
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コメント
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2017-05-16 22:54 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
何となくうす曇りとか薄日が射すような、
ぼんやりした天候が続いています。
週末ごろから気温が上がりだしそうで、
海や山はにぎわいそうです。
まだ夏休みには程遠いですが、
そんな気分に浸りそうな温度です。
2017-05-17 21:57 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
何時も、霞がかかり、遠くはぼんやりとして、春霞の様です。
カラッとした青空は、どこに行ったのでしょうか?
朝晩と昼間の温度差もお大きいですね。
昼間を基準にすると、朝晩は長袖を1枚羽織る事になります。
気温の変化に草木も敏感に反応しています。
2017-05-18 02:59 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
愚痴ってると天候も察してくれたのか、
すっきりと遠くの山が見えました。
こんな天気が続くといいのですが。
一日の気温の差がほんとに激しすぎますね。
体調維持に気を付けないといけません。
一枚羽織って昼間暑くなれば脱がないと仕方ないですね。
お体大事にお過ごしください。
2017-05-18 20:32 葉山左京 URL 編集
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2017-05-18 23:18 編集
葉山左京様、おはようございます。
本当に愚痴が聞こえたのでしょうか!
朝晩は長袖、昼間は半袖と衣類の調整が大変です。
この様な時、男性は簡単に1枚2枚と上着を脱ぐ事が出来ますが、私達はちょっと大変です。
未だ梅雨には、少し間がありますが、庭や散歩道の紫陽花が沢山の花目を付けています。
紫陽花を見ると、梅雨が近い事を改めて実感します。
2017-05-19 07:33 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
山科川のそばの梢から鶯のなく声を聴きました。
久し振りの鳴き声です。
ホーホケキョの声を聴くと、
何となく気持ちが和みます。
川面には燕のヒナたちが飛ぶ訓練をしています。
長距離飛行の訓練は結構長いですね。
生きるための必死さが伝わってきます。
2017-05-19 20:51 葉山左京 URL 編集
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2017-05-19 23:44 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
窓から注がれています。
外に出ると風がヒンヤリですが、
家の中は暑いくらいですね。
晴れた青空に引き寄せられて、
郊外へ出たくなります。
今日は31℃と言っていますので、
海は賑わうことでしょう。
2017-05-20 05:49 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
何時もは都市高速と国道3号線を利用するのですが、気分転換で、筑豊を通過するコースに変えました。
このコース、香春、田川、飯束と旧産炭地を通ります(青春の門の舞台)。
北九州を出発する10時の気温が25度、香春・田川・飯束を通過する11時前後の気温が28度、正午前に到着した福岡市は27度でした。
帰り道、午後1時から1時半に通過した筑豊の気温は31度。
道路は逃げ水現象が起り、熱気が昇るのが分かる程でした。
やはり、盆地になる筑豊は暑い事を実感しました。
帰宅した午後2時過ぎ、北九州は27度、真夏の温度差はもっと大きくなるでしょうが、これ程近距離で、気温が変わる事に驚きました。
2017-05-20 07:42 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-05-20 23:13 編集
葉山左京様 こんばんは。
未だ。蒸し暑さが全くないので、汗をかく事もありません。
ジロくんと散歩の時、ミニチュアダックスフンドが、こんにちはの挨拶です。
ジロくんに比べると、本当に小さな体で、一生懸命挨拶してました。
お友達が又、増えたようです。
2017-05-21 01:43 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
散歩が楽しみでしょうね。
今日も30℃越の真夏日になりました。
これほど気温が上がるとさすがに暑いですね。
まだアジサイが咲くのには早いですが、
遊歩道には沢山の夏草が背を伸ばし、
名もわからない花がたくさん咲いています。
群れて咲くときれいですね。
2017-05-21 20:53 葉山左京 URL 編集
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2017-05-21 22:48 編集
葉山左京様 こんばんは。
昼間の気温は、30度に近づき、道路から陽炎が立っていました。
この様なお天気の中、ツバメが高い処を舞い、時折超低空飛行を繰り返していましたが、ツバメは速いですね。
時折、昆虫を追いかけている光景に出会います。
今、ドクダミがどんどん伸びて広がっています。
余り増えると、他の草木が負けてしまうので、広がり過ぎない様に用心しています。
朝は5時前、夕方は19時すぎ迄明るく成りました。
朝が辛くない事が、嬉しいです。
ジロくんの何時の間にか、お友達が増えました。
2017-05-22 01:00 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
今日は31.8℃だったようです。
遊歩道沿いの菜の花が散って、
菜種になってきました。
毎年花が散り種が落ちて、
川の中州に春には
黄色い花を咲かせます。
川が増水したときに流されてしまわないものかと思うのですが、
自然の不思議さでしょうか。
2017-05-22 21:43 葉山左京 URL 編集
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2017-05-22 22:59 編集
葉山左京様、おはようございます。
湿度か低く、異常乾燥注意報が出されています。
勤務先は、窓全開。
関門海峡から海の香りが届きます。
心地良い時期も間もなく終わり、蒸し暑い本当の夏がやってきます。
私の住んでいる小倉南区は、小倉北区に向かって流れる紫川があります。
結構大きな川で、上流は菅生(すがお)の滝が種発点です。
この紫川、護岸工事も成されていますが、上流、中流は昔の姿を敢えて残しています。
春には、菜の花が一面に咲きます。
普段は静かな川ですが、大雨が降ると一気に増水し中洲も護岸も全て水没します。
それでも、菜の花は毎年、何もなかった様に黄色いを花を咲かせています。
生命力の強さを感じますね。
2017-05-23 07:51 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
種は落ちてもしっかり地中深く芽を伸ばしているようですね。
生物の繁殖にはすごいものがあるようです。
暑くなってきて、暑いーと言いながらも、
私には夏の方がいいようです。
体がスムーズに動きます。
2017-05-23 22:17 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
今日は、雨に予報です。
地面がカラカラに乾き切っているので、恵みの雨に成りそうです。
昨晩から、扇風機が稼働しました。
2017-05-24 03:06 秋葉 奈津子 URL 編集