歴史を歩く159
36東アジアの激動⑥
5日本の変革

マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)
1853年7月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー(1794年~1858年)が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。

黒船来航
江戸幕府は、開国か攘夷かをめぐる激しい対立の中で、翌1854年に日米和親条約を結び、下田・箱館2港の開港や最恵国待遇の供与等を認め、 更に1858年の日米修好通商条約では箱館の他に神奈川・兵庫・新潟・長崎の開港、領事裁判権の承認、自由貿易の原則の確立、関税自主権の放棄等を認めた不平等条約に調印し、又オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の修好通商条約を結んで開国を断行します。

大政奉還
これに対して尊皇攘夷運動や討幕運動がおこるなかで大政奉還が行われ、1868年の明治維新となり、天皇中心の明治新政府が樹立されます。
明治政府は政治・経済・軍事・教育等あらゆる分野の改革を実施して富国強兵を図り、西欧化による近代化を進め、対外的には欧米列強に対しては和親策を取ますが、近隣のアジア諸国に対しては強硬な態度を見せています。

江華島事件
1874年には、琉球の漁民が台湾に漂着し、台湾の原住民に殺されたことを口実に台湾に出兵し、1879年には沖縄県を設置して琉球を併合、翌1875年には江華島事件を機に朝鮮に迫って日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。

大日本帝国憲法発布
又北方ではロシアとの間に1875年に樺太・千島交換条約を結び、全樺太をロシア領・千島全島を日本領とします。
この間、国内では自由民権運動が起こるとこれを抑える一方で、1881年の国会開設の詔によって1890年迄に国会を開設することを約束し、 1889年にドイツ帝国憲法を手本にした大日本帝国憲法を発布し、翌1890年に国会を開設しました。
6朝鮮の開国

李氏朝鮮(1392年~1910年)は、16世紀末に豊臣秀吉の侵入(壬辰・丁酉の倭乱)によって国土が荒廃し、更に17世紀前半には清の侵入を受けてその属国と成りました(1637年)。
この間、党争は更に激化しましたが、18世紀の英祖(在位1724年~76年)・正祖(在位1777年~1800年)は党争を抑えることに努めた結果、党争は下火になりました。

洪景来の乱
しかし、19世紀に入ると純祖・憲宗・哲宗(在位1849~63年)と年少の王が続き、実際の政治は外戚によって行われ、いわゆる勢道政治です。
こうした状況の中で没落官人の洪景来(1784年)は、政権から閉め出されて不満を持つ下級官僚と結び、窮乏した農民・流民・都市の貧民等を指導して反乱を起こします(洪景来の乱、1811年~12年)。農民軍が敗れる中で洪景来は戦死し、反乱は半年で鎮圧されましたが、李朝の官僚支配体制をゆるがす反乱となりました。

興宣大院君(1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日)
1863年、哲宗が急死し、彼には嗣子が居なかった為、王族の中から12歳の少年が選ばれて李朝第26代高宗(在位1863年~1907年)として即位し、実父の大院君(1820年~98年)が摂政となって以後10年間にわたって実権を握ります。
大院君は内政改革を推し進めると共に、キリスト教を弾圧し、フランス・アメリカの艦隊を撃退し、又明治政府からの国書の受け取りを拒否する等鎖国攘夷策を推進しました。

閔妃(1851年10月19日 - 1895年10月8日)
しかし、大院君は1773年に、権力欲が強く野心家であった閔妃(びんひ、高宗の妃、1851年~95年)とその一族によって国王親政の名目で引退させられ、以後閔妃自等が実権を握り、一族と共に政治を専断しました。
雲揚 (砲艦)
こうした状況の中で、1875年9月に江華島事件が起こります。
明治政府は、朝鮮の内紛に乗じて武力による威嚇をもって朝鮮に開国を迫ることを決定し、軍艦雲揚を釜山に派遣して示威を行わせます(1875年5月)。
1875年9月には再び軍艦雲揚を派遣し、雲揚は朝鮮西海岸を北上して江華島に達し、雲揚から降ろされたボートが江華島に接近したときに江華島の砲台から砲撃を受け、これに雲揚が応戦して江華島の砲台を破壊し、水兵を上陸させて民家や官衙を焼き払い、朝鮮兵30数名を戦死させました。
これが江華島事件です。

日朝修好条規(江華条約)調印
雲揚が朝鮮の許可なく領海を侵犯し、江華島の砲台を挑発して発砲させたことは明らかでしたが、明治政府は江華島事件を口実として朝鮮を武力で脅し、1876年2月に日朝修好条規(江華条約)を締結しました。
その主な内容は、朝鮮の自主独立、釜山・仁川・元山の開港、日本公使館・領事館の設置、日本人の領事裁判権を認める事等です。
日本は欧米列強から押しつけられた不平等条約を朝鮮に強制し、朝鮮を開国させ、第1条に「朝鮮は自主の邦にして日本国と同等の権を保有せり」とありますが、この条文は朝鮮が清国の属国でないことを明らかにし、清国との宗属関係を否定し、将来日本が朝鮮を属邦とするための布石でした。

守旧派と開化派
この時期の朝鮮では、守旧派と開化派との対立が強まっており、閔氏一族は当初開化的立場を取、軍制改革に着手し、日本から軍事顧問を招いて両班の子弟を中心に近代的な軍隊を創設、日本式の訓練を行いました。
これに対して旧軍隊の間には新式軍隊との差別待遇に対する反発が強まりました。
当時、財政難に陥っていた李朝では軍隊への給与(米で支給)が遅配しており、やっと支給された1ヶ月分の米に砂やぬかが混じっていた事を発端に旧軍隊兵士の不満が爆発しました(1882年7月)。
この旧軍隊の暴動は、武器庫を襲って武装した旧軍隊の兵士に一般の貧民も加わり、大院君の煽動も加わって政府及び日本人に対する暴動に発展しました。
彼等は閔氏派要人や日本人を殺害し、日本大使館を焼き打ちし、大院君を擁立し、大院君は再び摂政の座について政権を掌握します。

壬午政変(壬午軍乱)日本公使館襲撃
日本と清国は直ちに出兵し、特に大軍を送り込んだ清軍は大院君を捕らえて保定(北京南西の都市)へ送って監禁し、閔氏政権が復活しました。
これが壬午政変(壬午軍乱)で、この壬午政変によって清の朝鮮支配が強化され、日本勢力は朝鮮から後退せざるを得ませんでした。
壬午政変後、閔氏は清国に依存して政権の維持を図り、この閔氏を中心とする守旧派は事大党と呼ばれて、これに対して日本は金玉均等の独立党(開化派)との結びつきを強めて行きました。

金 玉均(김옥균、1851年2月23日 - 1894年3月28日)
金玉均(1851年~94年)は、科挙試験文科に主席合格して官界に入り(1872年)、1881年には日本使節団に加わり、又翌1882年には壬午政変の謝罪の為に派遣された修信使節団員として来日しました。
彼は日本の目覚しい近代化・発展に強い刺激を受け、日本と結んで朝鮮の近代化と国政改革を図る事を考え、朴泳孝(1861年~1939年)等同士と共に独立党(開化派)を組織しました。

甲申政変
しかし、独立党は、壬午政変後清国と結んだ閔氏一族の事大党政権の圧迫を受けて次第に劣勢に陥り、金玉均はクーデターによる政権奪取を決意し、清仏戦争での清の敗戦に乗じて日本の武力を借りてクーデターを起こし、事大党政権を倒して政権を奪取します。
それもつかの間、独立党の新政権は清軍の介入によって僅か3日で転覆し、金玉均は朴泳孝らとともに日本に亡命します。
これが甲申政変(甲申事変、1884年12月)です。

洪鐘宇に殺害される金玉均
日本に亡命した金玉均は日本政府によって小笠原・北海道へ移送され、最後は刺客に上海に誘い出されて暗殺されました。
1885年4月、甲申事変の処理に関する天津条約(日清天津条約)が結ばれ、日清両国は即時漢城(ソウル)から撤兵すること、将来朝鮮に出兵する場合は相互に通告すること等を約束しました。
ジョークは如何?
金正男が日本で捕まった。報告をうけて、金正日は言った。
「どの正男だ?」
※補足
影武者が多い
続く・・・
5日本の変革

マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)
1853年7月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー(1794年~1858年)が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。

黒船来航
江戸幕府は、開国か攘夷かをめぐる激しい対立の中で、翌1854年に日米和親条約を結び、下田・箱館2港の開港や最恵国待遇の供与等を認め、 更に1858年の日米修好通商条約では箱館の他に神奈川・兵庫・新潟・長崎の開港、領事裁判権の承認、自由貿易の原則の確立、関税自主権の放棄等を認めた不平等条約に調印し、又オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の修好通商条約を結んで開国を断行します。

大政奉還
これに対して尊皇攘夷運動や討幕運動がおこるなかで大政奉還が行われ、1868年の明治維新となり、天皇中心の明治新政府が樹立されます。
明治政府は政治・経済・軍事・教育等あらゆる分野の改革を実施して富国強兵を図り、西欧化による近代化を進め、対外的には欧米列強に対しては和親策を取ますが、近隣のアジア諸国に対しては強硬な態度を見せています。

江華島事件
1874年には、琉球の漁民が台湾に漂着し、台湾の原住民に殺されたことを口実に台湾に出兵し、1879年には沖縄県を設置して琉球を併合、翌1875年には江華島事件を機に朝鮮に迫って日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。

大日本帝国憲法発布
又北方ではロシアとの間に1875年に樺太・千島交換条約を結び、全樺太をロシア領・千島全島を日本領とします。
この間、国内では自由民権運動が起こるとこれを抑える一方で、1881年の国会開設の詔によって1890年迄に国会を開設することを約束し、 1889年にドイツ帝国憲法を手本にした大日本帝国憲法を発布し、翌1890年に国会を開設しました。
6朝鮮の開国

李氏朝鮮(1392年~1910年)は、16世紀末に豊臣秀吉の侵入(壬辰・丁酉の倭乱)によって国土が荒廃し、更に17世紀前半には清の侵入を受けてその属国と成りました(1637年)。
この間、党争は更に激化しましたが、18世紀の英祖(在位1724年~76年)・正祖(在位1777年~1800年)は党争を抑えることに努めた結果、党争は下火になりました。

洪景来の乱
しかし、19世紀に入ると純祖・憲宗・哲宗(在位1849~63年)と年少の王が続き、実際の政治は外戚によって行われ、いわゆる勢道政治です。
こうした状況の中で没落官人の洪景来(1784年)は、政権から閉め出されて不満を持つ下級官僚と結び、窮乏した農民・流民・都市の貧民等を指導して反乱を起こします(洪景来の乱、1811年~12年)。農民軍が敗れる中で洪景来は戦死し、反乱は半年で鎮圧されましたが、李朝の官僚支配体制をゆるがす反乱となりました。

興宣大院君(1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日)
1863年、哲宗が急死し、彼には嗣子が居なかった為、王族の中から12歳の少年が選ばれて李朝第26代高宗(在位1863年~1907年)として即位し、実父の大院君(1820年~98年)が摂政となって以後10年間にわたって実権を握ります。
大院君は内政改革を推し進めると共に、キリスト教を弾圧し、フランス・アメリカの艦隊を撃退し、又明治政府からの国書の受け取りを拒否する等鎖国攘夷策を推進しました。

閔妃(1851年10月19日 - 1895年10月8日)
しかし、大院君は1773年に、権力欲が強く野心家であった閔妃(びんひ、高宗の妃、1851年~95年)とその一族によって国王親政の名目で引退させられ、以後閔妃自等が実権を握り、一族と共に政治を専断しました。

雲揚 (砲艦)
こうした状況の中で、1875年9月に江華島事件が起こります。
明治政府は、朝鮮の内紛に乗じて武力による威嚇をもって朝鮮に開国を迫ることを決定し、軍艦雲揚を釜山に派遣して示威を行わせます(1875年5月)。
1875年9月には再び軍艦雲揚を派遣し、雲揚は朝鮮西海岸を北上して江華島に達し、雲揚から降ろされたボートが江華島に接近したときに江華島の砲台から砲撃を受け、これに雲揚が応戦して江華島の砲台を破壊し、水兵を上陸させて民家や官衙を焼き払い、朝鮮兵30数名を戦死させました。
これが江華島事件です。

日朝修好条規(江華条約)調印
雲揚が朝鮮の許可なく領海を侵犯し、江華島の砲台を挑発して発砲させたことは明らかでしたが、明治政府は江華島事件を口実として朝鮮を武力で脅し、1876年2月に日朝修好条規(江華条約)を締結しました。
その主な内容は、朝鮮の自主独立、釜山・仁川・元山の開港、日本公使館・領事館の設置、日本人の領事裁判権を認める事等です。
日本は欧米列強から押しつけられた不平等条約を朝鮮に強制し、朝鮮を開国させ、第1条に「朝鮮は自主の邦にして日本国と同等の権を保有せり」とありますが、この条文は朝鮮が清国の属国でないことを明らかにし、清国との宗属関係を否定し、将来日本が朝鮮を属邦とするための布石でした。

守旧派と開化派
この時期の朝鮮では、守旧派と開化派との対立が強まっており、閔氏一族は当初開化的立場を取、軍制改革に着手し、日本から軍事顧問を招いて両班の子弟を中心に近代的な軍隊を創設、日本式の訓練を行いました。
これに対して旧軍隊の間には新式軍隊との差別待遇に対する反発が強まりました。
当時、財政難に陥っていた李朝では軍隊への給与(米で支給)が遅配しており、やっと支給された1ヶ月分の米に砂やぬかが混じっていた事を発端に旧軍隊兵士の不満が爆発しました(1882年7月)。
この旧軍隊の暴動は、武器庫を襲って武装した旧軍隊の兵士に一般の貧民も加わり、大院君の煽動も加わって政府及び日本人に対する暴動に発展しました。
彼等は閔氏派要人や日本人を殺害し、日本大使館を焼き打ちし、大院君を擁立し、大院君は再び摂政の座について政権を掌握します。

壬午政変(壬午軍乱)日本公使館襲撃
日本と清国は直ちに出兵し、特に大軍を送り込んだ清軍は大院君を捕らえて保定(北京南西の都市)へ送って監禁し、閔氏政権が復活しました。
これが壬午政変(壬午軍乱)で、この壬午政変によって清の朝鮮支配が強化され、日本勢力は朝鮮から後退せざるを得ませんでした。
壬午政変後、閔氏は清国に依存して政権の維持を図り、この閔氏を中心とする守旧派は事大党と呼ばれて、これに対して日本は金玉均等の独立党(開化派)との結びつきを強めて行きました。

金 玉均(김옥균、1851年2月23日 - 1894年3月28日)
金玉均(1851年~94年)は、科挙試験文科に主席合格して官界に入り(1872年)、1881年には日本使節団に加わり、又翌1882年には壬午政変の謝罪の為に派遣された修信使節団員として来日しました。
彼は日本の目覚しい近代化・発展に強い刺激を受け、日本と結んで朝鮮の近代化と国政改革を図る事を考え、朴泳孝(1861年~1939年)等同士と共に独立党(開化派)を組織しました。

甲申政変
しかし、独立党は、壬午政変後清国と結んだ閔氏一族の事大党政権の圧迫を受けて次第に劣勢に陥り、金玉均はクーデターによる政権奪取を決意し、清仏戦争での清の敗戦に乗じて日本の武力を借りてクーデターを起こし、事大党政権を倒して政権を奪取します。
それもつかの間、独立党の新政権は清軍の介入によって僅か3日で転覆し、金玉均は朴泳孝らとともに日本に亡命します。
これが甲申政変(甲申事変、1884年12月)です。

洪鐘宇に殺害される金玉均
日本に亡命した金玉均は日本政府によって小笠原・北海道へ移送され、最後は刺客に上海に誘い出されて暗殺されました。
1885年4月、甲申事変の処理に関する天津条約(日清天津条約)が結ばれ、日清両国は即時漢城(ソウル)から撤兵すること、将来朝鮮に出兵する場合は相互に通告すること等を約束しました。
ジョークは如何?
金正男が日本で捕まった。報告をうけて、金正日は言った。
「どの正男だ?」
※補足
影武者が多い
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2017-05-23 23:13 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
降ってきました。
何となく蒸し暑い夕方です。
これから梅雨入りすると、
こんな蒸し暑い日が続くことでしょう。
今年になって初めて、
山科川の土手の雑草刈が始まりました。
今年はなんだか少し早い気がしますが、
雑草の伸び方が遅く感じられるからでしょうか。
2017-05-24 19:07 葉山左京 URL 編集
No title
奈津子さんの話を聞いていると、
美味しそうな海鮮丼は浮かんできます。
私は一度でいいから、大トロのにぎり、しかも
お寿司屋さんがにぎったお寿司を食べてみたいですね。
口に入るととろけるようなお寿司を、
宝くじでも当たらないかぎり無理だけど・・
年を取ると食べるだけが楽しみなんですよね。
今日、税金を払ってきました。
銀行に行ったら、しょうに合わない若い男性が対応してくれたの
ですが、時間がかかって、
窓口にいる女性に方なら、手際よくしてくれるんだけど、
若い男性はもぞもぞ・・
座って待ってる私はいらいら・・
呼ばれて行って、番号札を合わせて
支払いの説明をうけて・・
やっと・・
帰ってこれました。
こればっかりは、対応してくれる
方を選べれないから。。
2017-05-24 22:56 yumiおばさん URL 編集
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2017-05-24 23:03 編集
葉山左京様 こんばんは。
その降り方は、こぬか雨とでも言った方が良い雨で、今ひとつ降り足りない様な気がします。
細かい雨粒が、風に舞いながら落ちてくる、その様な感じです。
この様な雨でも、草木には十分な水分を与えている様です。
此方では、公演等の雑草取りは、まだ行われていませんが、今回の雨で雑草も一気に伸びる事でしょう。
梅雨前には、町内で公演の雑草取りをする事に成りそうです。
2017-05-25 02:26 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
草木のカットや河川の維持管理は、
入札業者がやっているようです。
今の時期は鳥たちのヒナがかえって、
飛翔訓練をしているようです。
燕ばかりでなく、
鴨やカワセミにすずめ、カラス、トンビなど数え上げても無理ですね。
今の時期は命が燃えている感じがします。
2017-05-25 20:40 葉山左京 URL 編集
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2017-05-25 22:46 編集
葉山左京様、おはようございます。
朝の目覚めは、健やかです。
布団が恋しい季節ではないので、5時半過ぎには、起きています。
今日も曇が広がり、梅雨に入った様な感じです。
未だ湿度が低いので、散歩をしても汗をかく事も有りません。
この心地良さももうしばらくの事でしょう。
雛鳥の姿が目に浮かびます。
残念ながら、此方では雛鳥の姿を目にする機会が、殆ど有りません。
ツバメは、一生懸命に餌を運んでいます。
巣が何処かに有るのでしょうが、未だ目に留まりません。
2017-05-26 07:36 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
涼しく感じられました。
この時期が長く続くといいのですが、
梅雨が明けると猛暑が続くのでしょうね。
私も朝早く起きるようになりました。
仕事に行く時は5:00~5:30起きです。
暑く成れば早く起きて涼しいうちに仕事に行く習慣がついてしまったようです。
2017-05-26 22:29 葉山左京 URL 編集
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2017-05-26 23:51 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
近くをぶらぶら歩いていますと、
バラの花が今は盛りと咲いていました。
周辺からはいい香りがしています。
サツキも今はきれいですね。
地下鉄の駅周辺の垣根も鮮やかなピンクに彩られ、
皆の目を楽しませてくれています。
2017-05-27 22:08 葉山左京 URL 編集
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2017-05-27 22:28 編集
葉山左京様、こんばんは。
午前8時前に北九州市を出発、途中で、招待してくださった取引さの方々と合流して10時半過ぎに目的地の会場につきました。
展示会は、乾き物。
当然、魚介類、海藻関係が主力ですが、きのこやドライフルーツ迄、その種類に圧倒されました。
往路、復路とも山陰の海が車窓に広がります。
冬の山陰の海は、黒く荒々しい姿を見せますが、初夏の山陰の海は、見渡す限り青く、静かな姿を見せてくれました。
仕事とは言え、日常を離れた1日でした。
2017-05-27 22:40 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
萩はいいところですね。
私も何度か行ったことがあります。
夕食の新鮮な魚がおいしかった記憶があります。
日常から離れて時には旅をしたいなーと思うことが、
多々あります。
特に海を見るとざわついた心が落ち着きますね。
2017-05-28 21:12 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
通常の業務でも、店舗があるので、時折出かけますが、展示会は招待ですが気分は楽ですね。
今回の展示会。
乾き物、この言葉に私達は完全にしてやられました。
私達は、魚介類と思い込んでいたのですが、この場合の漢字は干し物。
魚、貝、海藻の干物は当然ですが、肉、野菜、果物、キノコ等その種類の多さに圧倒されました。
専務や鮮魚の部長はパンフレット収集、デジカメ撮影、私達女性陣は試食の連続で、結構お腹一杯に成りました。
土曜日は、業者関係のみ、日曜日は一般公開で即売ありの会場になります。
萩は落ち着いた町ですね。
吉田松陰縁の建物や史跡等もあり、時間があれば観光もしたいです。
帰りは、時間が余ったので、角島の海の上を道路をドライブしました。(Googleマップで、山口県角島を検索して見てください)
夏の山陰の海は、碧く穏やかです。
2017-05-28 22:40 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-05-28 23:11 編集