2017/07/03

歴史を歩く165

7帝国主義の成立と列強の国情⑤

5ロシア

 1861年の農奴解放以後、徐々に発展したロシアの資本主義は、1890年代に入ると、特に露仏同盟の成立後(1891年~94年に成立)、フランス資本の援助が増大して重工業を中心に急速に発展しますが、ロシアは国内市場が狭小の為、市場を求めて極東や中央アジアに進出して行きました。

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シベリア鉄道の地図(1897年当時の路線、ドイツで出版されたもの)

 ヨーロッパ・ロシアと極東を結ぶ世界最長の鉄道(全長6484km)であるシベリア鉄道の工事は、フランス資本の援助のもとで1891年に始まり、1905年迄に東清鉄道と結ぶ路線が完成し、(北方領内線の完成は1916年)シベリア鉄道はシベリア開発やロシアの極東政策の推進に大きな役割を果たしました。

 資本主義の発達と共に都市では大工業が成長し、工場労働者の数が急増する中で低賃金等の劣悪な労働条件に苦しむ労働者の間には社会主義思想が広まります。
やがて1898年にはプレハーノフ(1856年~1918年、ロシアのマルクス主義の父とされている)やレーニン(1870年~1924年)等によってロシア社会民主労働党が結成されますが、政府の弾圧を受け、指導者の多くは国外に亡命します。

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ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)

 ロシア社会民主労働党は、1903年にロンドンで開かれた第2回大会で党の綱領決定を巡って、レーニンの率いるボリシェヴィキとマルトフ(1873年~1923年)・プレハーノフの率いるメンシェヴィキに分裂しました。

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ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ(Георгий Валентинович Плеханов, 1856年12月11日 - 1918年5月30日()

 ボリシェヴィキ(多数派の意味)が党を労働者・農民を基礎とする少数の革命家の集団とすることを主張したのに対し、メンシェヴィキ(少数派の意味)は広く大衆に基礎をおいて中産階級とも妥協して漸進的な革命を主張しました。

 ロシア社会民主労働党に続いて、1901年には社会革命党(エスエル)が結成され、社会革命党はナロードニキの流れをくみ、農民を地盤として専制の打倒と土地分配を主張し、更に1905年には立憲民主党(カデット)が結成され、立憲民主党はブルジョワの自由主義者が結成した政党で立憲君主制の確立を目ざしました。

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血の日曜日事件

 日露戦争の戦況が不利になると国民の不満が高まり、1905年1月22日の日曜日、首都ペテルブルクで血の日曜日事件が発生します。
この日、僧ガポン(1870年~1906年)に率いられたストライキ中の労働者を中心とするペテルブルクの十数万人の労働者とその家族は生活の窮乏を訴えた請願書を持って冬宮へ請願行進をしました。しかし、如何なるデモも認められていなかった為、軍隊がこの行進に発砲し、冬宮前広場等で2000人を越える死傷者が発生します。

戦艦ポチョムキン号反乱
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督「戦艦ポチョムキン」(1925)より。

 この血の日曜日事件をきっかけに、工場労働者のストライキ・農民一揆が各地で起こり、6月には戦艦ポチョムキン号反乱が起き、革命は軍隊に迄波及し、更に10月に入ると全国的なゼネストが起こり、各地でソヴィエトが結成されました。

 これをロシア第一次革命(第一次ロシア革命、ロシア第一革命、1905年1月~5月12日)と呼びます。
労働者は革命を進める為に工場を母体に選挙で代表会議を組織しました。
これがソヴィエトで、ソヴィエトとはロシア語で会議・評議会を意味します。

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セルゲイ・ユリエヴィチ・ヴィッテ( Сергей Юльевич Витте, 1849年6月29日 - 1915年3月13日)

 ポーツマス条約を締結して(1905年9月)帰国した自由主義者のヴィッテ(ウィッテ、1849年~1915年)は、この情勢を見て皇帝に改革を進言しました。
ニコライ2世(在位1894年~1917年)は、革命の鎮静を図る為にヴィッテの進言を容れ、1905年10月に十月宣言(十月勅令)を発し、国会(ドゥーマ)の開設と憲法の制定そして思想・言論・集会・結社の自由を約束し、その翌日ヴィッテを首相に任命しました。

 ブルジョワ自由主義者は十月勅令に熱狂し、これによって革命は大きく後退し鎮静化しましたが、労働者・農民はこれに満足せず、12月にはモスクワ等で武装蜂起が起こるものの鎮圧され、ロシア第一次革命は終わりを告げました。

 1906年5月、十月勅令で約束された国会(ドゥーマ)が開かれ、この時召集された議会は帝国参議院(半数が勅選議員)と帝国議会(ドゥーマ)の二院から構成されていましたが、立法権は皇帝・帝国参議院・帝国議会の三者が共有し、全ての法律案の発議権は皇帝のみに存在した為、国会は立法の協賛権を持つだけでほとんど権限が無く、国会が混乱のうちに解散されるとストルイピンが首相に就任します(1906年7月)。

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ピョートル・アルカージエヴィチ・ストルイピン(Пётр Арка́дьевич Столы́пин, 1862年4月14日 - 1911年9月18日)

 ストルイピン(1862年~1911年、在任1906年~11年)は貴族地主出身の政治家で、内務官僚となり、国会が開かれた時に内務大臣に就任、国会が解散されると首相に就任し、革命派の徹底的弾圧などの反動政治を強行し、又土地改革を中心とする内政改革を行いました。

 所謂「ストルイピンの反動」の時期(1906年~11年)に約4000人が処刑されたと云われ、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれたのです。

 ストルイピンの内政改革の中で最も重要な改革は土地改革(1906年11月)でした。
農奴解放令(1861年)では、農地の分与は有償で在り、買戻金が支払えない多くの農民の土地はまとめてミール(農村共同体)に引き渡され、ミールの共有地となりました。

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1861年勅令を読む農奴たち

 ストルイピンの土地改革は、ミール(農村共同体)を解体し、農民がミールを離れることを許し、農民に土地を分与して自作農になる道を開くものであったので、これによって1916年迄に全農家の22%がミールを離脱し、約200万戸の自作農が創出されました。

 ストルイピンの土地改革の目的は、自作農になった農民の中から富農を育成して「帝政の支柱」にすることに成ったのですが、独立した自作農の半分以上が自由競争に敗れて多くは労働者に転落し、農村内部では富農と貧農の対立が激しくなり、改革が行きづまる中で、皇帝・地主との対立が深まり、ストルイピンは警察のスパイに暗殺されてしまいます(1911年9月)。

 社会不安が増大する中で、ロシアは国民の不満を反らす為にバルカンへの進出を強め、ドイツ・オーストリアと衝突して国際的な緊張を高めて行きました。

ジョークは如何?

ソ連崩壊後のNATO諸国と東側および旧ソ連諸国が年例で開いた会議に
旧ソ連諸国が軒並み代表の外相を送ってこなかった.。
出席の西側からは会議を軽く見てるのではないかなどと文句が起こった。

そこで議長がとりなして言うには
「派遣費用が出せず欠席する旨、複数の国よりご連絡いただいております」


続く・・・

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秋葉奈津子様 おはようございます。

7月も中旬になり暑さも厳しくなってきました。
もう梅雨明けでしょうか?

京都の街は祇園祭一色です。
着物を着た若者であふれています。
今日、明日と宵々山、宵山で
17日先祭巡行が控えています。

街中は観光客でいっぱいです。
雨が降らずにいい天気が続きそうです。

葉山左京様 こんばんは。

良いお天気に恵まれました。
暑いのですが、蒸し暑さが例年より、少なく感じます。
べっとり汗をかく感覚ではありません。

今日は小倉祇園太鼓の中日で、共演会が行なわれました。
今日だけは、小倉城の回りは、太鼓の音色に包まれた1日です。
今週は、祇園太鼓の見物に周辺の市町村からも多数訪れ、市内は交通規制も行われ、市の中心部には自動車の乗り入れはできません。
バスもこの期間は、一部路線が変わります。
それと、最近は留学生等外国人の方の参加も目を引きます(住んでいる場所が、祇園太鼓参加町内なら住民として参加できます)。

これから北九州市は、来週戸畑提灯山笠、次の週に黒崎祇園と夏まつりが続きます。

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葉山左京様 おはようございます。

7月中旬、やっと蝉の合唱が聞こえる様になりました。
ツバメが飛び、カエルの鳴き声もやっと普段の姿になりました。
この様な中に身を置くと、小学生時代、夏休みをワクワクして待った頃を思い出します。
当時は、暑いと言っても扇風機で、十分。
窓を開ければ、涼しい風が通り抜けたものでした。
あの頃が懐かしいです。

秋葉奈津子様 こんばんは。

以前は
今の暑さはなかったですから。
6月くらいから春ゼミが鳴き、
田んぼには雨カエルがゲコゲコと鳴いていましたね。

そんな時代は今のように無差別に人を殺したりしませんでしたですね。
今の時代は世界中の人間の人間性が
変ってきた気がします。

自然の破壊と共に、
人間性も破壊されたようです。

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秋葉奈津子様 こんばんは。

こちらもセミの鳴き声が朝から聞こえてきます。
アブラゼミにクマゼミもやっと出てきた感じがします。
いつもの時期にいつもの生き物の鳴き声を聞きますと、
日本の平和さがしみじみと感じられます。

夕方雷鳴と共にかなり土砂降りの雨が降りました。
お陰で夜は窓から涼しい風が入ってきます。

北九州市は五市合併して広いですから、
祭もあちらこちらとあるようですね。

葉山左京様 こんばんは。

何時の間にか梅雨が明けて、夏本番に成ったようです?
空模様は、梅雨の雲と夏の雲と秋の雲が、同居している様に見えます。
午後、遥か山陰沖には、巨大な入道雲が沸き立ち、ゆっくりと陸地の方に移動していました。
入道雲を見ると、夏を実感しますが、雷は怖いですね。
明日から普段の毎日が戻ってきます。

確かに5市合併で市街地は広いですが、市街地が幾つかの山で分断されています。
市内でも高層ビルが立ち並び、その中をモノレールと高速道路が走る都会的な風景から、コンビナート地帯、一転里山や漁村の風景迄、北九州市の中で見る事ができます。
実は、私はもう50年以上北九州市に住んでいますが、未だに行った事の無い場所が、沢山あります。

ご指摘の様に五つの町が一緒になっているので、祭の旧5市の祭が、そのまま継承されています。
ただ、人口が小倉地区と黒崎・八幡地区に集中しているので、一部の祭は継承者がいません。

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秋葉奈津子様 おはようございます。

祭の継承者がだんだん少なくなってきますね。
京都祇園祭の山鉾を引く人出が少なくなっています。
小さな山の一つは外人さんばかりの山もあります。
日本の人口が減少傾向にあるのが、
一つの原因かもしれませんが。
やはり年寄りばかりの世では困りますね。

若い世代が多くならないといけません。

葉山左京様、こんばんは。

今日は、未明から大荒れのお天気です。
午前3時頃から、雷の閃光で空が光はじめましたが、雷鳴は全く聞こえません。
たがて午前4時位から、雷鳴以上の轟音を伴う雨が降り始め、僅かな間に側溝が溢れ出す程に。
先週雨漏りした箇所から、又もや雨漏りが始まり、先週同様シートを広げて大騒ぎになりました。
雨は1日中降ったり止んだりを繰り返しています。
ニュースでは、東京で雹が降ったとか。
此方も雷雨注意報は、解除されていません。
今年の夏は、荒れた夏に成りそうです。

人口減少は、戸畑区、門司区、若松区で顕著です。
一方、小倉北区、同南区、八幡西区、同東区は、他の区からの移住者が増えていて、南区と東区は人口が25万人を突破した昭和末期から区の再編計画が、良く話されています。
今回の祇園太鼓でも、留学生や企業研修に外人さんが、見事なバチさばきを披露して、拍手喝采でした。
祭の国際化は私たちも歓迎です。
確かに、若い世代も頑張ってもらわないといけません。

葉山左京様、こんばんは。

今日もお天気が不安定な1日でした。
雲が切れる事が、殆どありません。
真夏の太陽がやって来るのは、何時の事でしょう。
豪雨から2週間目、猛暑の中、被災地では復旧作業が続いています。
自衛隊のはじめ、関係者の皆さんには、頭が下がります。

秋葉奈津子様 こんばんは。

毎日のような猛暑日ですが、
今夕は涼しい風が窓から吹き込んできました。
初秋を思わせるような涼しい風です。
真っ赤な赤トンボではありませんが、
秋ごろに見かけるトンボの群れを見つけました。

暑い暑いの連発ですが、
暑い中にも季節は移ろいつつあるようです。

やはり北九州市も都心に人口集中ですか。
京都も京都市周辺の市に集中しています。