歴史を歩く168
38アフリカ・太平洋地域の分割
1列強のアフリカ分割(その1)

列強のアフリカ分割・1914年当時
近代ヨーロッパの人々から「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカ大陸のうち、地中海沿岸の北アフリカやインド航路の港、又奴隷貿易が盛んに行われた西アフリカの沿岸部は早くからヨーロッパ人に知られていましたが、それ以外の地域は、その状態がヨーロッパ人に知られるようになったのは、19世紀中頃のリヴィングストン(1813年~73年)やスタンリー(スタンレー、1841年~1904年)の探検以後のことでした。

ジンバブエ、リヴィングストン像・ヴィクトリア滝
リヴィングストンは、1849年以後アフリカ奥地の探検を行ってヴィクトリア瀑布(1855年)を発見した後、最後のナイル川の水源を探る探検の際に一時消息不明になり、彼の捜索に向かったイギリス生まれのアメリカ人ジャーナリスト・探検家スタンリーは、タンガニーカ湖畔で感激の対面を果たし(1871年)、その後コンゴ川を発見し、大陸横断に成功しました(1877年)。
こうした探検によってアフリカ大陸の奥地が資源の宝庫であることが判明し、列強の目がアフリカに注がれるようになりますが、それ以上に列強のアフリカへの関心を高めたのが1869年のスエズ運河の開通でした。
スエズ運河は地中海と紅海を結ぶ全長160kmの運河で、フランス人技師レセップス(1805年~94年)の努力によって開通し、レセップスは国際スエズ株式会社を設立して資金を集め、フランスが約半分の株式を所有し、残りの4分の3をエジプト、4分の1をトルコが所有しました。
スエズ運河は1859年に着工され、1869年に開通します。

スエズ運河の開通
スエズ運河の開通により、ヨーロッパからアジアへの所要時間が喜望峰回りのコースの約3分の1となり、既にアジア諸地域への進出をはかっているヨーロッパ列強にとってその重要性は一層増大します。
こうした状況の中で列強はアフリカに注目し、侵略を企てるようになりました。
列強によるアフリカ分割が盛んとなった1884~85年にビスマルクの提唱によってベルリン会議(コンゴ会議)が開かれ、この会議ではコンゴ自由国が認められ、又「アフリカの海岸で領土を先占する国は先占を尊重させるに必要な権力を確保する義務を持つこと」・「先占の通告を他の締結国に対して行うべきこと」と云うアフリカ分割の原則が定められました。

ベルリン会議
この文言の意味する処は、他国よりも早く武力で占領して他国に通告すればその国の植民地になると云う事であり、このベルリン会議はアフリカの全面的な分割の契機となり、1876年頃には全アフリカの10.8%が植民地化されていたにすぎませんでしたが、1890年迄には90.4%が植民地化され、20世紀初頭にはエチオピア帝国とリベリア共和国を除いてアフリカは全て列強の支配下に置かれたのでした。

馬上のアラービー・パシャ
イギリスは、ディズレーリ内閣の時に、エジプトの財政難に乗じてスエズ運河会社の株式を買収し(1875年)、以後フランスと共にエジプトの財政管理を行うと共に内政に干渉しました。
これに対してアラービー・パシャの反乱(1881年~82年)が起こると、イギリスは単独で出兵してこれを鎮圧し、エジプトを事実上の保護国としました(1882年、正式の保護国化は1914年)。
イギリスがエジプトから更にスーダンへ進出すると、スーダンではマフディーの反乱(1881年~98年)が起こります。

ムハンマド・アフマド
ムハンマド・アフマド(1844年頃~85年)は、スーダンの預言者の一族に生まれ、少年時代から宗教家を志し、彼はエジプトの圧制とスンナ派イスラム教の腐敗に憤激していた民衆の間にマフディーの出現を期待する風潮が強まる中で、アッラーに選ばれた者であるという自覚を持つようになり、1881年に自等マフディー(導かれた者の意味、救世主の意味に使われる)であると宣言し、イスラム教の復興を唱えて民衆を糾合し、ジハード(聖戦)に乗りだし、エジプト軍を各地で撃破しました。

初代キッチナー伯爵ホレイショ・ハーバート・キッチナー(The Right Honourable Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener, 1850年6月24日 - 1916年6月5日)
マフディー軍は、1885年にはエジプト軍を支援するゴードン(常勝軍を率いて太平天国の乱の鎮圧に活躍)指揮下のイギリス軍をハルツームで破って彼を戦死させるものの、ムハンマド・アフマドも同年に病没します。
マフディーの反乱はその後も続きますが、イギリスはキッチナー将軍の率いる軍隊を派遣してこれを鎮圧し(1898年)、翌年にはエジプト・スーダンを征服しますが、このマフディーの反乱によってイギリスのスーダン進出は約10年遅れたと云われています。

ケープ植民地と周辺地域
イギリスは南アフリカでは、ウィーン会議によってオランダ領からイギリス領となったケープ植民地を根拠地として周辺に進出しました。
ブーア人(ブール人、ボーア人)は、17世紀以降にケープに入植したオランダ人植民者の子孫でケープ植民地を築き、やがてケープ植民地がイギリス領となると(1814年)、北の奥地に追われ、オレンジ自由国(1854年~1902年)とトランスヴァール共和国(1855年~1902年)を建国しました。
オレンジ自由国で1867年に世界屈指のダイヤモンド鉱山が、又トランスヴァール共和国で1886年に世界一の金鉱が発見されると、イギリスは両国の併合を企てます。
セシル・ローズ(1853年~1902年)は牧師の家に生まれ、1870年に南アフリカに渡りました。
彼はオレンジ自由国で発見されたダイヤモンド鉱山の採掘に従事して巨富を得、更にトランスヴァールで発見された金鉱の採掘権を独占しました。

セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)
1890年にはケープ植民地首相となり、イギリス帝国主義を典型的に推進した。「出来ることなら私は惑星をも併合したい」という言葉は、彼の帝国主義思想をよく示しています。
更にセシル・ローズはトランスヴァールの北方の中央アフリカを征服し(1890年~94年)、銅・亜鉛・クローム・ニッケル等の鉱産資源に富むこの地は、彼の名に因んでローデシア(現在のジンバブエ共和国、ザンビア共和国)と呼ばれました。
しかしながら、セシル・ローズはトランスヴァールに対する極端な侵略政策で内外の非難を浴びて失脚し(1896年)、南ア戦争が終わった1902年に病没します。
イギリスは、セシル・ローズの失脚後も、トランスヴァール共和国侵略を諦めた訳でなく、トランスヴァール共和国がブーア人以外の入植者に対して市民権取得資格を制限したのに対して、イギリス人移民の参政権を要求し、そしてこれが拒否されると1899年10月に宣戦を布告し、南ア戦争(ブーア戦争、1899年10月~1902年5月)が勃発します。

ブーア戦争
トランスヴァール共和国はオレンジ自由国と同盟してイギリスに抵抗しましたが、イギリスは大軍をもって両国内に進攻し、翌年一度は併合を宣言しますが、ブーア人はゲリラ戦で頑強に抵抗したので戦争は長期化します。
典型的な帝国主義戦争である南ア戦争を推し進めるイギリスに対しては、世界中から激しい非難が起こり、イギリスは国際的に孤立しましたが、45万の兵力と莫大な戦費をつぎ込み、残虐な戦闘を行ってトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を征服しました。
こうして1910年にケープ・トランスヴァール・オレンジ・ナタールの4州からなる南アフリカ連邦を組織してイギリス帝国内の自治領としました。

ファショダ事件当時の英仏
アフリカの北と南を押さえたイギリスは、エジプトのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶ縦断鉄道を計画し、スーダンを南下してフランスと衝突し、1898年にファショダ事件を起こしました。このエジプトと南アフリカを結ぼうとするイギリスのアフリカでの帝国主義政策を縦断政策(アフリカ縦断政策)と呼んでいます。
更にイギリスは、アフリカの縦断政策とインドを結びつけ、インドのカルカッタ(Calcutta)・エジプトのカイロ(Cairo)・南アフリカのケープタウン(Capetown)を結ぶ三角地帯を勢力下に収めようと考え、このイギリスの帝国主義政策は3つの都市の頭文字をとって3C政策と呼ばれています。
名言集
罪を憎しみ、罪人を愛しなさい。
Hate the sin and love the sinner.
マハトマ・ガンジー
続く・・・
1列強のアフリカ分割(その1)

列強のアフリカ分割・1914年当時
近代ヨーロッパの人々から「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカ大陸のうち、地中海沿岸の北アフリカやインド航路の港、又奴隷貿易が盛んに行われた西アフリカの沿岸部は早くからヨーロッパ人に知られていましたが、それ以外の地域は、その状態がヨーロッパ人に知られるようになったのは、19世紀中頃のリヴィングストン(1813年~73年)やスタンリー(スタンレー、1841年~1904年)の探検以後のことでした。

ジンバブエ、リヴィングストン像・ヴィクトリア滝
リヴィングストンは、1849年以後アフリカ奥地の探検を行ってヴィクトリア瀑布(1855年)を発見した後、最後のナイル川の水源を探る探検の際に一時消息不明になり、彼の捜索に向かったイギリス生まれのアメリカ人ジャーナリスト・探検家スタンリーは、タンガニーカ湖畔で感激の対面を果たし(1871年)、その後コンゴ川を発見し、大陸横断に成功しました(1877年)。
こうした探検によってアフリカ大陸の奥地が資源の宝庫であることが判明し、列強の目がアフリカに注がれるようになりますが、それ以上に列強のアフリカへの関心を高めたのが1869年のスエズ運河の開通でした。
スエズ運河は地中海と紅海を結ぶ全長160kmの運河で、フランス人技師レセップス(1805年~94年)の努力によって開通し、レセップスは国際スエズ株式会社を設立して資金を集め、フランスが約半分の株式を所有し、残りの4分の3をエジプト、4分の1をトルコが所有しました。
スエズ運河は1859年に着工され、1869年に開通します。

スエズ運河の開通
スエズ運河の開通により、ヨーロッパからアジアへの所要時間が喜望峰回りのコースの約3分の1となり、既にアジア諸地域への進出をはかっているヨーロッパ列強にとってその重要性は一層増大します。
こうした状況の中で列強はアフリカに注目し、侵略を企てるようになりました。
列強によるアフリカ分割が盛んとなった1884~85年にビスマルクの提唱によってベルリン会議(コンゴ会議)が開かれ、この会議ではコンゴ自由国が認められ、又「アフリカの海岸で領土を先占する国は先占を尊重させるに必要な権力を確保する義務を持つこと」・「先占の通告を他の締結国に対して行うべきこと」と云うアフリカ分割の原則が定められました。

ベルリン会議
この文言の意味する処は、他国よりも早く武力で占領して他国に通告すればその国の植民地になると云う事であり、このベルリン会議はアフリカの全面的な分割の契機となり、1876年頃には全アフリカの10.8%が植民地化されていたにすぎませんでしたが、1890年迄には90.4%が植民地化され、20世紀初頭にはエチオピア帝国とリベリア共和国を除いてアフリカは全て列強の支配下に置かれたのでした。

馬上のアラービー・パシャ
イギリスは、ディズレーリ内閣の時に、エジプトの財政難に乗じてスエズ運河会社の株式を買収し(1875年)、以後フランスと共にエジプトの財政管理を行うと共に内政に干渉しました。
これに対してアラービー・パシャの反乱(1881年~82年)が起こると、イギリスは単独で出兵してこれを鎮圧し、エジプトを事実上の保護国としました(1882年、正式の保護国化は1914年)。
イギリスがエジプトから更にスーダンへ進出すると、スーダンではマフディーの反乱(1881年~98年)が起こります。

ムハンマド・アフマド
ムハンマド・アフマド(1844年頃~85年)は、スーダンの預言者の一族に生まれ、少年時代から宗教家を志し、彼はエジプトの圧制とスンナ派イスラム教の腐敗に憤激していた民衆の間にマフディーの出現を期待する風潮が強まる中で、アッラーに選ばれた者であるという自覚を持つようになり、1881年に自等マフディー(導かれた者の意味、救世主の意味に使われる)であると宣言し、イスラム教の復興を唱えて民衆を糾合し、ジハード(聖戦)に乗りだし、エジプト軍を各地で撃破しました。

初代キッチナー伯爵ホレイショ・ハーバート・キッチナー(The Right Honourable Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener, 1850年6月24日 - 1916年6月5日)
マフディー軍は、1885年にはエジプト軍を支援するゴードン(常勝軍を率いて太平天国の乱の鎮圧に活躍)指揮下のイギリス軍をハルツームで破って彼を戦死させるものの、ムハンマド・アフマドも同年に病没します。
マフディーの反乱はその後も続きますが、イギリスはキッチナー将軍の率いる軍隊を派遣してこれを鎮圧し(1898年)、翌年にはエジプト・スーダンを征服しますが、このマフディーの反乱によってイギリスのスーダン進出は約10年遅れたと云われています。

ケープ植民地と周辺地域
イギリスは南アフリカでは、ウィーン会議によってオランダ領からイギリス領となったケープ植民地を根拠地として周辺に進出しました。
ブーア人(ブール人、ボーア人)は、17世紀以降にケープに入植したオランダ人植民者の子孫でケープ植民地を築き、やがてケープ植民地がイギリス領となると(1814年)、北の奥地に追われ、オレンジ自由国(1854年~1902年)とトランスヴァール共和国(1855年~1902年)を建国しました。
オレンジ自由国で1867年に世界屈指のダイヤモンド鉱山が、又トランスヴァール共和国で1886年に世界一の金鉱が発見されると、イギリスは両国の併合を企てます。
セシル・ローズ(1853年~1902年)は牧師の家に生まれ、1870年に南アフリカに渡りました。
彼はオレンジ自由国で発見されたダイヤモンド鉱山の採掘に従事して巨富を得、更にトランスヴァールで発見された金鉱の採掘権を独占しました。

セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)
1890年にはケープ植民地首相となり、イギリス帝国主義を典型的に推進した。「出来ることなら私は惑星をも併合したい」という言葉は、彼の帝国主義思想をよく示しています。
更にセシル・ローズはトランスヴァールの北方の中央アフリカを征服し(1890年~94年)、銅・亜鉛・クローム・ニッケル等の鉱産資源に富むこの地は、彼の名に因んでローデシア(現在のジンバブエ共和国、ザンビア共和国)と呼ばれました。
しかしながら、セシル・ローズはトランスヴァールに対する極端な侵略政策で内外の非難を浴びて失脚し(1896年)、南ア戦争が終わった1902年に病没します。
イギリスは、セシル・ローズの失脚後も、トランスヴァール共和国侵略を諦めた訳でなく、トランスヴァール共和国がブーア人以外の入植者に対して市民権取得資格を制限したのに対して、イギリス人移民の参政権を要求し、そしてこれが拒否されると1899年10月に宣戦を布告し、南ア戦争(ブーア戦争、1899年10月~1902年5月)が勃発します。

ブーア戦争
トランスヴァール共和国はオレンジ自由国と同盟してイギリスに抵抗しましたが、イギリスは大軍をもって両国内に進攻し、翌年一度は併合を宣言しますが、ブーア人はゲリラ戦で頑強に抵抗したので戦争は長期化します。
典型的な帝国主義戦争である南ア戦争を推し進めるイギリスに対しては、世界中から激しい非難が起こり、イギリスは国際的に孤立しましたが、45万の兵力と莫大な戦費をつぎ込み、残虐な戦闘を行ってトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を征服しました。
こうして1910年にケープ・トランスヴァール・オレンジ・ナタールの4州からなる南アフリカ連邦を組織してイギリス帝国内の自治領としました。

ファショダ事件当時の英仏
アフリカの北と南を押さえたイギリスは、エジプトのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶ縦断鉄道を計画し、スーダンを南下してフランスと衝突し、1898年にファショダ事件を起こしました。このエジプトと南アフリカを結ぼうとするイギリスのアフリカでの帝国主義政策を縦断政策(アフリカ縦断政策)と呼んでいます。
更にイギリスは、アフリカの縦断政策とインドを結びつけ、インドのカルカッタ(Calcutta)・エジプトのカイロ(Cairo)・南アフリカのケープタウン(Capetown)を結ぶ三角地帯を勢力下に収めようと考え、このイギリスの帝国主義政策は3つの都市の頭文字をとって3C政策と呼ばれています。
名言集
罪を憎しみ、罪人を愛しなさい。
Hate the sin and love the sinner.
マハトマ・ガンジー
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2017-08-14 10:50 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
勿論、観光客の数も増えていますが。
明後日16日は五山の送り火です。
すごい人出が予想されます。
夜なので見に行けますが、
余りにも人が多いと嫌になりますね。
窓を開けるとヒンヤリした夜気が、
入ってきました。
少しずつ気温も下がってほしいですね!
2017-08-14 21:02 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
深夜には、相当な雨が降り、今は熊本県には避難勧告が発表されています。
熊本は、昨年の震災、7月の豪雨と自然災害が、連続しています。
これ以上、被害が広がらなければ良いのですが。
昨日はお盆の中日。
やはり、初盆は、結構忙しい1日でした。
今日の夜、送り火を灯す頃、雨が降らない事を願います。
京都五山の送り火は16日でしたね。
私も一度は見てみたいと思っています。
昨日は帰省ラッシュも帰宅もピークを迎えていました。
お天気が悪かったので、運転も大変だったと思います。
2017-08-15 06:23 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
明日は曇の予報ですが、
雨が降らないように祈らないといけません。
今日は朝から強い雨降りで、
気温も28℃が最高でした。
やはり30℃切りますと涼しいですね。
明日夜は五山の送り火に行けるといいのですが。
2017-08-15 21:58 葉山左京 URL 編集
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2017-08-15 23:54 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
順調に終わりました。
昨年は雨が降り大変でしたが。
今年も人ごみの中を歩くのも大変で、
京都放送のTV中継で送り火を見ました。
地元の人間は多少は遠慮して、
観光客の方に見せてあげる方がいいでしょう。
何て理屈こねていきませんでした。
2017-08-16 22:25 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
午前2時頃から時折、外が雷光で明るくなり、午前3時頃から雷鳴と共に激しい雨が、断続的に明け方迄続きしました。
今回の雨も又、九州中部の方が酷く、被災地が激しい雨に祟られる等、本当にはがゆいものがあります。
夏らしい天候も殆ど記憶にないまま、今年の8月は過ぎて行きそうです。
五山の送り火も雨にならずに無事に終わりましたね。
光景は、テレビで見ましたは、何時見ても何時かは、時分の目で見てみたいと思ってしまいます。
本来、地元の方の送り火ですから、地元優先で良いのですが。
之は、長崎の精霊流しと全く同様です。
2017-08-16 23:13 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-08-16 23:29 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
日中は暑いですが、
朝夕は秋の前触れでしょうか、
涼しくなりました。
九州の方は雨が多いですね。
こちらは結構晴れていますので、
日照時間は多いのではないでしょうか。
全国的に日照時間が今年は減っているようです。
作物にも影響しますね。
やはり地球温暖化の影響ですね。
2017-08-17 21:13 葉山左京 URL 編集
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2017-08-17 22:46 編集
葉山左京様、おはようございます。
本当に雨が多い毎日です。
夕方7時の気温が25度。
びっくりするくらい、気温が下がってしまいました。
激しい夕立が暑気払いをした結果ろ思いますが、8月中旬でこの気温は、低すぎに思います。
昨晩は、雨が空の汚れも掃除してくれたので、冬の夜空を見るように星が瞬いていました。
虫の音も日増しに大きく成っています。
秋の気配が日増しに濃くなる様です。
2017-08-18 08:25 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
蒸し暑く汗びっしょりです。
湿度が高いのでしょう。
でも夜は虫の声が聞こえてきます。
涼しい風も吹き込んできました。
晩夏から初秋への季節の移ろいでしょうか。
最近月をあまり見られません。
夜曇りや雨が多いせいでしょうか。
満月を見るには秋を待たないと無理なのでしょうか。
2017-08-18 20:25 葉山左京 URL 編集
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2017-08-19 00:05 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
朝焼けは10時ごろから天候が変わる前触れでしょうか?
一日晴れると良いのですが。
窓からヒンヤリとした空気が入ってきます。
秋色の空気です。
今までのセミの声が今朝はあまり聞こえてきません。
萩の花はまだ咲きませんが、
背が高くなってきました。
花が見られるのも、もうすぐですね。
2017-08-19 05:45 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
流石に日中は、気温も上がりますが、30度少々、湿度も例年に比べて低く感じます。
私が、夜本格的にエアコンを使った事が数回しかありません。
涼しくなるのは、嬉しいのですが、9月の台風が怖いです。
冷夏の時は、九州に上陸する台風が、多いので大変気になる処です。
処で、昨日、私は勤務先から福岡市に向かおうとした時、異様な胸騒ぎを感じて、予定を延期しました。
福岡市は、私用も含めて1ヶ月に数回は、訪問しますが、この様な感覚は初めてです。
とりあえず、身近ななニュースを見ても、大きな事故も無いのですが、仏様に守って貰ったと思っています。
2017-08-19 22:10 秋葉 奈津子 URL 編集
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2017-08-20 00:17 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
昼間は青空が広がり暑いですが
夜は虫の声が聞こえてきます。
もう秋の気配たっぷりなのですが、
気温が下がらないので困ります。
明日は35℃~6℃の予報です。
異様な胸騒ぎを感じられたようですね。
そんな時は慎重にですね。
福岡市行中止されてよかったのではないでしょうか。
事故が起こってから悔やんでも後の祭りになりますから。
自分を大事にされてください!
2017-08-20 21:27 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
やっと東の空が明るくなって、
涼しい風が入ってきました。
お盆過ぎたら急激に秋の気配が漂ってきます。
あの喧しかったセミの鳴き声が、
今は全く聞こえません。
今日は曇りかな?
太陽が出てきません。
日照時間が木になりますね。
2017-08-21 05:49 葉山左京 URL 編集
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2017-08-21 22:38 編集
葉山左京様 こんばんは。
陽の登る位置も6月中旬に比べると、15度位南に移動しています。
夕暮れも19時半前に成ってきました。
今日は朝から曇り空。
風が有るのが幸いですが、降りそう降らない、嫌な空模様です。
今年は、とうとう夏らしい青空を見る事なく、秋が深まっています。
蝉の鳴き声も可也少なくなりました。
一方で、夜の虫の音は、少しですが大きく成ったようです。
何かと日本周辺が騒がしくなっていますが、何事も起こらない事を祈ります。
実際、韓国等は、慰安婦、徴用工で騒いでいる場合ではないはずですが。
この様なところに、北や中国の陰謀が見え隠れしています。
2017-08-21 22:54 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
蒸し暑さは依然として変わらずです。
まだまだ冷房がいりますね。
北朝鮮の動きが気になる時期に、
慰安婦問題など韓国の大統領何考えているのやら?です。
自分たちに向けてくる国民の矛先を
かわすための慰安婦問題かもしれませんね。
中国が自分たち政治家に向けられる非難を、
日本憎しに据替ましたからね。
2017-08-22 22:04 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-08-22 23:16 編集
葉山左京様 こんばんは。
今回は、異様な胸騒ぎも無く、普段通りでしたが、前回の事もあるので、運転は慎重に慎重にでした。
私は、最近福岡市まで、筑豊を通る国道201号線を利用します。
北九州市を出る時の車載温度計は32度(午後1時)、筑豊は34度から36度(午後1時半〜2時)、福岡市33度(2時半過ぎ)でした。
やはり、盆地に近い筑豊は、暑いですね。
帰路でも37度を示していました。
緑の多い筑豊は、目にも鮮やかで、運転していても気持ちが良い道路です。
途中、山間部では、所々で野生の百合が、白い花を付けていました。
日本を批判すれば、支持率が上がる程度の民度の国民が多数の国ですから、北朝鮮の事は念頭に無いのでしょう。
中国は、最近日本批判は控えているのは、やはり貿易面、経済面で振りが多い事を知っているからです。
韓国の現在の大統領は、新北系なので、北を批判する事は無いでしょうが、何れ国が無くなる日が来るかもしれません。
その様な時、日本に難民が押し寄せる事は、断固阻止したい気持ちです。
2017-08-23 00:47 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
明日は京都37℃の予報です。
処暑になったのですから、
暑さは静まっても良いのでは、
と思うのですが。
それでも虫や草花は季節到来をわかるのでしょうね。
遊歩道を歩いているとアキアカネがぶつかりそうに飛んできます。
今年は数が多いように見受けます。
言われる通り、
朝鮮や中国の避難民断固として拒否したいですね。
2017-08-23 20:46 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
的を得た表現と思います。
今日の北九州市は、真夏の暑さに逆もどりしました。
湿度も高く、アスファルトの上は、焦熱地獄です。
気温は、33度なのですが、湿度が75%もあり、少しでも動くと汗が滲みでてきます。
蝉の鳴き声は、ツクツクホウシが主力になりました。
今日で、高校野球も終わり、夏の行事もほぼ終了です。
小学生、中学生時代、この時期になると、何時も慣れた家での生活を思い、一抹の寂しさを覚えたものでした。
私は、中学生の時から北の友人が、近くに住んでいます。
彼女は何時も、韓服を纏っていましたが、昨年からは何時も洋服です。
曰く、何かと共和国が日本に迷惑ばかり掛けていて、時節柄、韓服は宜しくないと思う。
何か、在日の方々の方が、日本に猛烈に気を遣っている姿は、本当に哀れに思えてなりません。
北の将軍様は、自国民が日本にもいる事を理解しているのでしょうか?
2017-08-23 22:46 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-08-24 00:16 編集