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2017/09/16

歴史を歩く172

39アジア諸国の変革と民族運動②

2変法運動と義和団事件

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下関条約(日本名)馬関条約(中国名)

 日清戦争の敗北は中国の知識人(士大夫)層に深刻な衝撃を与えました。
下関条約調印の報が伝わると、折から会試(科挙の第2段階)のために北京に集まっていた挙人(郷試に合格して会試を受ける資格の出来た者)1200余人が康有為の呼びかけに応じて連名で「条約を拒否し、政治制度の改革を行って屈辱から抜けだそう」という上書を清朝に提出しました(1895年4月)。

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康有為

 この出来事の中心人物であった康有為(1858年~1927年)は、広東省の名門に生まれ、初め儒学や仏教学を学ぶ一方で欧米思想にも接して西洋に関する書物を広く読み、後に公羊学(くようがく、孔子を革命主義者としてとらえ、政治的実践を尊ぶ学説)に転じて変法運動を提唱し、1888年には光緒帝に上書し、科挙合格後(1895年)もしばしば上書しています。

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変法運動(欧米式兵器の導入)

 変法運動(変法自強)は、洋務運動が西洋の軍事技術の導入を中心として政治の改革に至らなかったことを批判し、その反省から日本の明治維新を手本にして国会を開き憲法を制定して立憲君主制を樹立するという政治改革(変法)を主張する運動でした。
変法運動が広まっていく中で、革新的な若い知識人達は各地に結社(学会)をつくり、新聞や学校を通じて啓蒙運動を行い、特に梁啓超(1873年~1929年)は科挙に失敗した後、康有為に師事し、上海で新聞を発行して変法自強の論を広め(1896年)、又翻訳を通じてヨーロッパの学芸紹介に努めました。

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光緒帝

 康有為の度々の上書は若い光緒帝(在位1874年~1908年)の心をつかみ、光緒帝を動かしました。1898年6月、光緒帝は変法の詔書を発布し、康有為・梁啓超・譚嗣同(たんしどう、1865年~98年)ら変法派を登用し、戊戌(ぼじゅつ)の変法(1898年6月~98年9月)を開始しました。

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西太后(道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))

 科挙の改革、近代的な学校の建設、農工商業の振興、新式陸軍の建設、官庁の整理等の詔勅が次々に発布されますが、中央・地方の守旧派官僚の非協力等の為に改革はほとんど実現されませんでした。
改革に反対する保守派は西太后を動かして変法派の弾圧を画策します。
西太后(1835年~1908年)は、清朝末期の咸豊帝(かんぽうてい、在位1850年~61年)の妃で同治帝(在位1861年~74年)の生母であり、満州旗人(八旗に所属し、各種の特権と土地を与えられた満州人貴族)の出身で、18歳で咸豊帝の側室となり、同治帝を生み、同治帝が5歳で即位すると咸豊帝の皇后(東太后)とともに摂政となり、西太后と呼ばれるようになった人物です。

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同治帝(在位1861年 - 1875年)

 西太后は、嗣子のない同治帝が没すると(死因は天然痘とされているが西太后によって毒殺されたとも云われている)自分の妹の子で僅か3歳の光緒帝を強引に擁立して自ら摂政となり、東太后の急死(1881年、西太后が関係していると云われている)以後は独裁権を振るいました。

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頤和園

 西太后は、光緒帝が親政を開始すると(1887年)離宮の頤和園に退きますが、依然として政治に干渉し、実権を握り続け、これに反発する光緒帝が康有為等を起用して戊戌の変法を行うと保守派と結んでこれを弾圧しました。
1898年9月、西太后は光緒帝を幽閉し、変法派を逮捕・処刑し、康有為や梁啓超は日本に亡命しますが、譚嗣同は処刑され、新政は僅か3ヶ月で終わり(百日維新)、この出来事を戊戌の政変(1898年9月)と云います。
光緒帝は以後紫禁城内に幽閉され、1908年11月に急死し、その翌日に西太后も崩御しました。
戊戌の政変後、西太后は三度摂政となり、保守・排外派が政治を動かすように成りますが、その頃、中国では民衆による排外運動が激化していました。

 1860年の北京条約でキリスト教の布教が認められ、内地への伝道が開始されると、各地で仇教運動と呼ばれるキリスト教排斥運動が起こり、まず地方の役人や郷紳が教会を敵視し、彼等の指導する軍隊や民衆による教会の襲撃や宣教師の殺害・信者への迫害事件が各地で起こります。
仇教運動は外国の中国侵略に対する抵抗運動であったので排外運動と結びつきました。

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山東半島の地図、右上は膠州湾租借地の拡大図。

 山東に於けるドイツ人宣教師殺害事件(1897年)を口実にドイツが山東半島に進出すると、義和団を中心とする排外運動が起こります。
義和団は義和拳という武術を修練した排外的な宗教結社で白蓮教の一派とも云われ、彼等の間では義和拳を修練すれば不死身の身体となり、更に練術すれば天を飛翔する魔力を得ることが出来ると信じられていた様です。

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義和団

 義和団は、1897年以降、華北一帯の災害の為に窮乏した農民・流民・下層労働者が加わって急速に勢力を拡大し、山東半島へのドイツの進出とキリスト教会に対する反感から武装蜂起し、義和団は、1899年末には山東省から河北省に入り、「扶清滅洋」(清を扶(たす)けて、西洋を討ち滅ぼすの意味)をスローガンに掲げ、各地の教会を襲撃し、宣教師やキリスト教徒を殺害し、鉄道や電線を破壊し、1900年6月には20万人の勢力となって北京に入り、日本及びドイツ人の外交官を殺害しました。

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8カ国連合軍

 6月21日、清朝の保守・排外派は義和団を利用して外国人を一掃しようとして列強に宣戦を布告し、清軍による北京の外国公使館に対して攻撃が始まり、又華北一帯にわたって教会・外国人に対する大規模な攻撃・殺戮が始まります。
列強はこれを機に在留外国人の保護を名目に8カ国(日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア)が共同出兵に踏み切り、当時、イギリスは南ア戦争、アメリカはフィリピンのアギナルド軍と戦争中で兵力に余裕が無く、地理的に近い日本(最大の約1万2000人)と極東進出を画策するロシア(約6000人)を主力とする8カ国連合軍が組織され(1900年7月)、天津を占領し、8月には北京に入城し、公使館区域に籠城していた外国人を救出しました。

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北京義和団鎮圧

 連合軍の北京入城の翌日、西太后は光緒帝を伴って北京を脱出して西安に逃れ、李鴻章を直隷総督に復帰させて講和の交渉に当たらせます。

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略奪破壊される円明園


 尚この時、北京・天津等では連合軍によって前代未聞の掠奪・暴行が行われ、多くの貴重な文化財が海外に持ち去られましたが、こうした中での日本軍の勇敢さと規律の正しさは列強を驚かせました。
1901年9月、敗れた清は11カ国(出兵した8カ国とベルギー・オランダ・スペイン)との間で北京議定書(辛丑(しんちゅう)和約)を結びます。
内容は以下、

1)清は責任者の処罰・賠償金4億5000万両の39カ年賦払い。
2)日本とドイツへの謝罪使の派遣。
3)外国軍隊の北京駐屯。
4)北京周辺地域の防備の撤廃。
5)排外団体への加入や運動の厳禁。
6)武器弾薬及び製造材料の輸入の2年間禁止。

以上を認めた結果、中国に対する外国の干渉は更に強まり、中国の半植民地化が決定的となりました。

名言集

天才とは、山の頂上まで蝶を追う幼い少年である。

Genius is a little boy chasing a butterfly up a mountain.

ジョン・スタインベック


続く・・・


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秋葉奈津子様 こんばんは。

台風が過ぎ去って、
涼しい秋風が吹いています。
関東地方は猛暑日だったようですが、
近畿は秋の風でした。

台風の被害があちらこちらで、
出ていますが、
京都市内は台風の強さ程、
被害はなかったようです。

そちらは大丈夫だったでしょうか。

葉山左京様 こんばんは。

関東から東北、北海道も今回の台風は、影響が有った様ですね。
各地の雨も凄いようですが、風の被害も結構でています。
北九州は、今回も何事もなく終わりましたが、山口県の瀬戸内海側は可也の風が吹いたようです。
未だ9月も半ば、これからも油断はできません。

きょうは、昨日とはガラリと変わり、大変良いお天気に恵まれました。
前線が北上したので、ちょっぴり夏に戻った様な、日差しでした。
気温も少し上がりましたが、心地よい1日でしたよ。

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秋葉奈津子様 こんばんは。

秋空に夏日が戻ってきました。
半袖で過ごせる気温です。

しかし団地の中の庭や、
遊歩道沿いの土手には、
赤い彼岸花が咲いていました。
開花しているのは少しですが、
もうすぐ花が満開になるでしょう。
週末は秋分の日ですね。

コスモスもそろそろ咲きだすのではと、
期待しています。



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葉山左京様 こんばんは。

昨日18日は、敬老の日。
庭や散歩道にも彼岸花の姿を見るようになりました。

ご近所の方が、赤飯を届けてくれました。
赤飯は、父の大好物。
晩年でも肉食系の父でしたが、赤飯は別。
早速、父母の霊前に供えました。

去年の敬老の日を父は、病院のICUで迎え、再び自宅に戻る事は遂に叶いませんでした。
きっと、久しぶりの赤飯を母と一緒に食べてくれたと思っています。
来月は、そんな父の一周忌を迎えます。

秋葉奈津子様 こんばんは。

遊歩道沿いの川面に夏は鴨の姿をたくさん見られました。
寒くなってきたからでしょうか、
ほとんど姿が見られません。
遠い国へ旅立ったのでしょうね。

やっと背が伸び放題の遊歩道の雑草の刈上げが始まりました。
蚊や虫に悩まされておりましたが、
重いみこしをやっと上げてくれました。




葉山左京様 こんばんは。

今日の北九州は、雲に覆われた1日です。
心地よい風が吹いて、暑さは全く感じません。
刈り入れ間近の稲穂と彼岸花、綺麗なコントラストで、目を楽しませてくれます。
北九州周辺に限っては、今年のお米も豊作のようです。

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秋葉奈津子様 おはようございます。

日の出が遅くなりました。
やっと今、
東の空が明るくなってきたようです。
今日も晴れた良い一日でありますように!

もう窓を開けると寒さが身に染みてきます。
京都の朝は結構気温が低いようです。

お父様がなくなられてもう一年ですか。
月日が経つのは早いですね。
思い出がよみがえってくることでしょうね!

葉山左京様 こんばんは。

今日も心地良い1日でした。
もうすぐ、秋分の日、中秋の名月と秋の訪れを本格的に感じる頃になりました。
中秋の名月と言えば、イメージ的には、月にススキの姿を連想してしまいます。
でも、最近は、ススキを見る事は、滅多にありませんね、
もう一度、虫の音を聞きながらススキの野原に昇る、名月を愛でてみたいものです。

思い出す、父の姿は、元気な頃の姿が殆どです。
やはり、晩年の姿は、かわいそうな位、弱っていました。
夢の中でも、元気そのものなので、きっと浄土でもあの様に暮らしているのかな?と思っています。

秋葉奈津子様 こんばんは。

こちらは17℃~23℃でした。
雨も降りだし寒くなりました。
秋の長雨にならなければいいのですが。

明日は仕事で大阪行きですが、
午後から晴れそうです。
中秋の名月を見たいものです。
やっと遊歩道の雑草が切られて、
すっきりしましたが、
ススキも全部刈られて、
月にススキのイメージが壊れてしまいました。

葉山左京様 こんばんは。

今日は、朝から雨。
夕方には、止みましたが、半袖でジロくんの散歩は、ちょっと寒そう。
薄手の上着を着て、丁度良かったです。
先月のお盆の頃は、薄手の衣類でも暑かったのに、季節の移り変わりに驚きました。

明日は、中秋の名月です。
自宅の周辺には、ススキも兎の住んでいる野原もありませんが、良いお天気を期待しています。

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葉山左京様 こんばんは。

今日は、曇り空が広がり、残念ながら「名月」を愛でる事は叶いません。
私が受験生だった頃、自宅の窓から眺めた、大きな満月。
今もしっかりと、脳裏に焼き付いています。
今年も残り3ヶ月、受験の本番ももうすぐと思った当時の事。
今は、毎年繰り返す仕事に追われる毎日ですが、当時を時々懐かしく思い出します。

秋葉奈津子様 こんばんは。

こちらも名月を見ることが出来ませんが、
白いススキの中を青白い月の光が照らす光景は、
スーと頭の中に浮かんできます。

今日は大阪に行く沿道沿いの真っ赤な彼岸花の中に、
真っ白な彼岸花を見つけました。
時々白を見つけます。
以前は団地の川沿いにも
咲いていたのですが、
いつの間にか消滅してしまったようです。

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秋葉奈津子様 おはようございます。

雲が多い朝になりました。
曇りのち晴れの予想です。
朝は寒いくらいに温度が下がりました。
20℃以下では当然でしょうか。

これからは紅葉も進み、
日ごと寒くなっていくのでしょうね。

秋になると食べ物の種類が豊富になり、
楽しみになってきます。
フグやカニなど楽しみです。
高いものは滅多に食べれませんが。

葉山左京様 こんばんは。

今日の朝は、20度を下回り、布団も1枚余計に要りました。
駐車場の自動車の屋根が、日没後に露で湿っていきます。
1日の気温差が、大きくなってきました。

さて、私は今回、「中秋の名月」の時期を間違えた様です。
普通、秋分の日前後と思ったのですが、今年は違った様です。
やはり、月の姿を見れない日が、続くといけませんね。

もうしばらくすると、鍋の季節がやってきます。
昔は、肉系の鍋が好みでしたが、最近はもっぱら魚、野菜系の鍋が好みになりました。
最近は、夏はバーベキュー、冬は鍋のパターンが決まってきましたね。

秋葉奈津子様 こんばんは。

昼間は暑いですが、
朝晩10℃台になってきました。
少しずつですが紅葉が始まっていますね。

今年も早残り3か月になってきました。
早いですね、一年たつのは!

京都は秋の観光シーズンを迎えて
又観光客がどっと増えます。
紅葉はみにいきたいのですが、
観光客が多すぎてゆっくり見れません。

葉山左京様 こんばんは。

今日の日中は、夏を思わせる青空が広がりました。
8月にこの様な、青空は記憶に無い程です。
でも、やはり9月、日差しは強くても気温は、丁度良い位。
日が沈むと、今度は、長袖が欲しくなります。

夜空も、夏の星座は、西に傾き、東には冬の星座が姿を見せ始めました。
秋の夜空は、今ひとつ寂しげに見えます。

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秋葉奈津子様 こんばんは。

帰宅中の夕方西の空が赤く夕焼けに映えていました。
頭上には半月が輝いています。
夕闇が迫ったこの時期は、
何となく寂しく感じますね。
秋だからでしょうか。

金木犀の花はまだ早い気がしますが、
もう直でしょうか。
木槿の花や夾竹桃、カンナもまだ咲いていますが、
もうそれに代わって紅葉の季節に変わってきました。