歴史を歩く173
39アジア諸国の変革と民族運動③
3日露戦争

閔妃暗殺
日本が三国干渉に屈服して遼東半島を清に返還すると、閔妃等は大国ロシアに接近して日本を牽制しようとし、親日派を追放しました(1895年7月)。
日本公使の三浦梧楼等は、ソウルの日本守備隊長等と共謀して守備隊・警察・民間人を王宮に乱入させ、閔妃を暗殺します(1895年10月)。
翌1896年2月、高宗はロシア公使館に逃げ込み、以後約1年間にわたって潜伏先で政務を執った為、朝鮮ではロシアの勢力が急速に増大し、親日派の勢力は弱まります。
1897年10月、高宗は国号を大韓帝国と改称し、自等の称号も国王から皇帝に変え、近代化の為の諸改革に取り組みました。

アムール河の流血事件
ロシアは、義和団事件が起こると満州(中国東北地方)に大軍を送り込み、1900年10月頃迄にはほぼ満州全域を占領し、事件後も東清鉄道の保護を口実に満州占領を続け、朝鮮への圧力を強めたので、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立が激化していきます。
こうした状況の中で日本は、極東でのロシア進出を脅威とするイギリスと1902年1月に日英同盟を締結します。
日英同盟は、第一にイギリスが清国に於いて有する利益と日本が清国と韓国に於いて有する利益が、他の国から侵略され若しくは、騒動が起きた場合、両国はその利益を守る為に適当な行動をとることを認める事、第二に其の為に第三国と戦争になった時には、締約国は厳正中立を保つ事、そして第三に他の国が相手国と同盟して戦争する場合には締約国も協同して戦闘に当たる事等が約され、有効期間は5年とされ、その後1905年と1911年に改訂され、1921年に破棄されました。
日英同盟は、それまで「光栄ある孤立」を守ってきたイギリスが初めて結んだ条約でした。

日露戦争当時の日本軍とロシア軍
ロシアは、満州からの撤兵を約束しながら撤兵せず、逆に南満州への軍隊を増強し、日露交渉(1903年10月以後)が行きづまる中で、1904年2月に日露戦争が始まりました。
日露戦争は、朝鮮と満州(中国東北地方)の支配を巡る日本とロシアとの極東における戦争でしたが、日本をイギリス・アメリカが、ロシアをフランス・ドイツがそれぞれ支援する、当に列強の利害が絡んだ国際的帝国主義戦争で、ロシアは、同盟国フランス(露仏同盟は1891~94年に成立)の援助を得、バルカン方面への進出を狙っていたドイツもロシアの極東進出を期待してその対日戦を支持しまし、一方日本とイギリスは同盟国であり、中国市場への進出を狙うアメリカはロシアの満州占領を不快として日本に好意的な態度を取っていました。
日本にとって莫大な戦費が賄えるか否かが深刻な問題で、当時の日本の財政力からみて外債に頼るしかなく、しかもその外債をイギリスとアメリカに頼るしか手段は無く、日本は日露戦争の戦費17億1600万円の内8億円をイギリスとアメリカで募集した外債で賄いました。

第1回旅順口閉塞作戦
1904年2月6日、日本はロシアに対して国交断絶を通告し、2月8日~9日に仁川沖と旅順でロシア艦隊を攻撃し、2月10日にロシアに宣戦を布告し、日露戦争(1904年2月~1905年9月)が始まりました。
日本は、戦争遂行に必要な兵員・武器弾薬・食糧等を朝鮮・満州へ運ぶには対馬海峡・日本海・黄海の制海権を握ることが不可欠で、旅順のロシア艦隊を旅順港内へ閉じこめる為に、旅順口閉塞作戦(1904年2月~3月)を行いますが、閉塞には失敗しています。

日本軍の28センチ砲
陸軍は、5月には第一軍が鴨緑江を渡り、第二軍は遼東半島に上陸し、南満州へ進出しました。
乃木希典(のぎまれすけ、1849年~1911年)の率いる第三軍は難攻不落を誇る旅順要塞を攻撃しますが、ロシア軍の強固な陣地と機関銃の為に第1回の総攻撃(1904年8月)で1万6千人の死傷者を出し、3回にわたる総攻撃では4万人を越える死傷者を出しました。
其の為作戦を203高地攻撃に変更し、12月にこれを占領し、28サンチ砲で旅順港内のロシア艦隊を砲撃し、その大半を撃沈します。

乃木将軍とステッセル将軍の水師営の会見
1905年1月、ロシア司令官ステッセルは終に降伏し旅順が陥落、この間、陸軍は遼陽会戦(1904年8月)・沙河会戦(1904年10月)・黒溝台の戦い(1905年1月)でも多くの死傷者を出しながら、奉天(現在の瀋陽)へ迫ったのです。

榴弾砲を陣地に移動する黒木大将
1905年3月の奉天会戦では、日本軍約25万とロシア軍約31万が10余日にわたって激闘をくり返し、日本軍は約7万人の死傷者を出し、ロシア軍も10万人以上の死傷者を出して退却し、日本軍は奉天を占領しました。
奉天会戦では日本軍は勝利を納めましたが、砲弾を使い果たし、これ以上ロシア軍を追撃する余力は残っておらず、日本の国力・兵力は限界に達しつつあったのです。

バルチック艦隊旗艦クニャージ・スヴォーロフ (Князь Суворов) ボロジノ級4番艦
この間、ロシアは旅順港が封鎖されて制海権が奪われると、バルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)を日本に派遣し、制海権を奪回して日本軍に打撃を与えようと作戦でした。
バルチック艦隊は、1904年10月にリバウ港から1万8000海里の大航海に出発し、各地で石炭の補給をしながら、南アフリカの南端を回り、インド洋を東進し、1905年4月にはフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に達し、5月には北上を開始しました。

「敵艦見ゆ」を最初に打電した日本帝国海軍仮装巡洋艦信濃丸
バルチック艦隊がウラジヴォストークに入る為に、対馬コースを進むか、太平洋回りのコースを進むかが重大な問題で、東郷平八郎(1847年~1934年)連合艦隊司令官は対馬海峡説をとり、艦隊をここに集結させていました。
1905年5月27日、連合艦隊の旗艦三笠に「皇国の興廃、この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の信号が掲げられ、午後2時頃から日本海海戦が始まりました。
ロシア艦隊は38隻(戦艦8隻・巡洋艦11隻)からなり、戦艦の数と9インチ以上の巨砲の数では日本艦隊より勝っており、これに対して50隻(戦艦4隻・巡洋艦23隻)からなる日本艦隊は、巡洋艦の数と8インチ以上の速射砲の数で勝っていました。

日本海海戦
日本海海戦は、翌28日、砲術能力(命中率)に勝った日本艦隊の圧勝で終わり、ロシア艦隊38隻中、20隻が撃沈され、5隻が捕獲され、逃亡に成功したのは僅か2隻でした。
これに対して日本艦隊は水雷艇3隻を失っただけで、近代海戦に於いて稀に見る大戦果でした。

セオドア “テディ”・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt、1858年10月27日 - 1919年1月6日)
日本は奉天会戦と日本海海戦に勝利を納め、戦局を有利に展開しましたが、軍事的・経済的には限界に近づいており、一方ロシアも、1905年1月に起こった「血の日曜日事件」をきっかけとする第一革命の勃発によって戦争継続が困難となっており、このため両国はアメリカ大統領セオドア・ローズベルトの調停を受け入れ、講和交渉に入りました。

日露講和会議
1905年8月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、日本全権の小村寿太郎(1855年~1911年)とロシア全権ヴィッテが交渉に入りましたが、ロシアが威信にかけて領土の割譲と賠償金の支払いを拒否したので会議は難航し、決裂寸前の状況でしたが、日本が賠償金の支払い要求を撤回したので、ロシアも南樺太を割譲することで決着し、1905年9月ポーツマス条約が成立しました。
ポーツマス条約では、
1)、ロシアは日本の朝鮮における優越権を認める。
2)、ロシアは日本に遼東半島の租借権と東清鉄道支線(南満州鉄道)の利権を割譲する。
3)、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太(南樺太)を割譲し、沿海州の漁業権を認める事などが約されました。

日比谷焼き討ち事件で演説する河野広中
しかし、日本国内ではポーツマス条約を屈辱的とする声が強く、日比谷焼打ち事件(1905年9月)等が起こりましたが、国際的帝国主義戦争であった日露戦争の結果は、以後の世界の歴史に大きな影響を及ぼしたのです。
ポーツマス条約でロシアに朝鮮に於ける優越権を認めさせた日本は、以後韓国への干渉を強め、1910年には韓国を併合します。

日露戦争後(1910年)の中国大陸列強勢力圏
日露戦争に敗れたロシアは、極東での南下政策を断念し、再びバルカンへの進出を強めてドイツ・オーストリアと衝突するようになりました。
そのためロシアは、1907年に日露協約を結び、両国が中国から得た利権の相互尊重を約し、秘密条項で日本の朝鮮に於ける、ロシアの外モンゴルに於ける特殊権益の尊重・勢力範囲等を協定しました。
又ロシアは、ドイツに対抗する為に、同年イギリスと英露協商を結び、イラン・アフガニスタン・チベットに於ける両国の勢力範囲を協定しますが、アメリカは、日露協約・英露協商の成立によって極東での孤立化が進み、満州の権益を巡って日本との対立が強まると、国内では日本移民排斥が激化していったのです。
アジアの一国である日本がヨーロッパの大国ロシアに対して勝利したことは、欧米列強の支配下で苦しんでいたアジアの総ての国々に大きな影響を及ぼした。
又有色人種の国家である日本が、白人の大国ロシアに勝利したことは、アジアの人々に大きな励ましとなり、アジアの人々の民族的自覚を高め、中国・ヴェトナム・インド・イラン・トルコ等の民族運動に大きな影響を与えたのでした。
名言集
明日、死ぬかの様に生きろ。 永遠に生きるかのようにして学べ。
Live as if you were to dit tomorrow. Learn as if you were to die forever.
マハトマ・ガンジー
続く・・・
3日露戦争

閔妃暗殺
日本が三国干渉に屈服して遼東半島を清に返還すると、閔妃等は大国ロシアに接近して日本を牽制しようとし、親日派を追放しました(1895年7月)。
日本公使の三浦梧楼等は、ソウルの日本守備隊長等と共謀して守備隊・警察・民間人を王宮に乱入させ、閔妃を暗殺します(1895年10月)。
翌1896年2月、高宗はロシア公使館に逃げ込み、以後約1年間にわたって潜伏先で政務を執った為、朝鮮ではロシアの勢力が急速に増大し、親日派の勢力は弱まります。
1897年10月、高宗は国号を大韓帝国と改称し、自等の称号も国王から皇帝に変え、近代化の為の諸改革に取り組みました。

アムール河の流血事件
ロシアは、義和団事件が起こると満州(中国東北地方)に大軍を送り込み、1900年10月頃迄にはほぼ満州全域を占領し、事件後も東清鉄道の保護を口実に満州占領を続け、朝鮮への圧力を強めたので、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立が激化していきます。
こうした状況の中で日本は、極東でのロシア進出を脅威とするイギリスと1902年1月に日英同盟を締結します。
日英同盟は、第一にイギリスが清国に於いて有する利益と日本が清国と韓国に於いて有する利益が、他の国から侵略され若しくは、騒動が起きた場合、両国はその利益を守る為に適当な行動をとることを認める事、第二に其の為に第三国と戦争になった時には、締約国は厳正中立を保つ事、そして第三に他の国が相手国と同盟して戦争する場合には締約国も協同して戦闘に当たる事等が約され、有効期間は5年とされ、その後1905年と1911年に改訂され、1921年に破棄されました。
日英同盟は、それまで「光栄ある孤立」を守ってきたイギリスが初めて結んだ条約でした。

日露戦争当時の日本軍とロシア軍
ロシアは、満州からの撤兵を約束しながら撤兵せず、逆に南満州への軍隊を増強し、日露交渉(1903年10月以後)が行きづまる中で、1904年2月に日露戦争が始まりました。
日露戦争は、朝鮮と満州(中国東北地方)の支配を巡る日本とロシアとの極東における戦争でしたが、日本をイギリス・アメリカが、ロシアをフランス・ドイツがそれぞれ支援する、当に列強の利害が絡んだ国際的帝国主義戦争で、ロシアは、同盟国フランス(露仏同盟は1891~94年に成立)の援助を得、バルカン方面への進出を狙っていたドイツもロシアの極東進出を期待してその対日戦を支持しまし、一方日本とイギリスは同盟国であり、中国市場への進出を狙うアメリカはロシアの満州占領を不快として日本に好意的な態度を取っていました。
日本にとって莫大な戦費が賄えるか否かが深刻な問題で、当時の日本の財政力からみて外債に頼るしかなく、しかもその外債をイギリスとアメリカに頼るしか手段は無く、日本は日露戦争の戦費17億1600万円の内8億円をイギリスとアメリカで募集した外債で賄いました。

第1回旅順口閉塞作戦
1904年2月6日、日本はロシアに対して国交断絶を通告し、2月8日~9日に仁川沖と旅順でロシア艦隊を攻撃し、2月10日にロシアに宣戦を布告し、日露戦争(1904年2月~1905年9月)が始まりました。
日本は、戦争遂行に必要な兵員・武器弾薬・食糧等を朝鮮・満州へ運ぶには対馬海峡・日本海・黄海の制海権を握ることが不可欠で、旅順のロシア艦隊を旅順港内へ閉じこめる為に、旅順口閉塞作戦(1904年2月~3月)を行いますが、閉塞には失敗しています。

日本軍の28センチ砲
陸軍は、5月には第一軍が鴨緑江を渡り、第二軍は遼東半島に上陸し、南満州へ進出しました。
乃木希典(のぎまれすけ、1849年~1911年)の率いる第三軍は難攻不落を誇る旅順要塞を攻撃しますが、ロシア軍の強固な陣地と機関銃の為に第1回の総攻撃(1904年8月)で1万6千人の死傷者を出し、3回にわたる総攻撃では4万人を越える死傷者を出しました。
其の為作戦を203高地攻撃に変更し、12月にこれを占領し、28サンチ砲で旅順港内のロシア艦隊を砲撃し、その大半を撃沈します。

乃木将軍とステッセル将軍の水師営の会見
1905年1月、ロシア司令官ステッセルは終に降伏し旅順が陥落、この間、陸軍は遼陽会戦(1904年8月)・沙河会戦(1904年10月)・黒溝台の戦い(1905年1月)でも多くの死傷者を出しながら、奉天(現在の瀋陽)へ迫ったのです。

榴弾砲を陣地に移動する黒木大将
1905年3月の奉天会戦では、日本軍約25万とロシア軍約31万が10余日にわたって激闘をくり返し、日本軍は約7万人の死傷者を出し、ロシア軍も10万人以上の死傷者を出して退却し、日本軍は奉天を占領しました。
奉天会戦では日本軍は勝利を納めましたが、砲弾を使い果たし、これ以上ロシア軍を追撃する余力は残っておらず、日本の国力・兵力は限界に達しつつあったのです。

バルチック艦隊旗艦クニャージ・スヴォーロフ (Князь Суворов) ボロジノ級4番艦
この間、ロシアは旅順港が封鎖されて制海権が奪われると、バルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)を日本に派遣し、制海権を奪回して日本軍に打撃を与えようと作戦でした。
バルチック艦隊は、1904年10月にリバウ港から1万8000海里の大航海に出発し、各地で石炭の補給をしながら、南アフリカの南端を回り、インド洋を東進し、1905年4月にはフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に達し、5月には北上を開始しました。

「敵艦見ゆ」を最初に打電した日本帝国海軍仮装巡洋艦信濃丸
バルチック艦隊がウラジヴォストークに入る為に、対馬コースを進むか、太平洋回りのコースを進むかが重大な問題で、東郷平八郎(1847年~1934年)連合艦隊司令官は対馬海峡説をとり、艦隊をここに集結させていました。
1905年5月27日、連合艦隊の旗艦三笠に「皇国の興廃、この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の信号が掲げられ、午後2時頃から日本海海戦が始まりました。
ロシア艦隊は38隻(戦艦8隻・巡洋艦11隻)からなり、戦艦の数と9インチ以上の巨砲の数では日本艦隊より勝っており、これに対して50隻(戦艦4隻・巡洋艦23隻)からなる日本艦隊は、巡洋艦の数と8インチ以上の速射砲の数で勝っていました。

日本海海戦
日本海海戦は、翌28日、砲術能力(命中率)に勝った日本艦隊の圧勝で終わり、ロシア艦隊38隻中、20隻が撃沈され、5隻が捕獲され、逃亡に成功したのは僅か2隻でした。
これに対して日本艦隊は水雷艇3隻を失っただけで、近代海戦に於いて稀に見る大戦果でした。

セオドア “テディ”・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt、1858年10月27日 - 1919年1月6日)
日本は奉天会戦と日本海海戦に勝利を納め、戦局を有利に展開しましたが、軍事的・経済的には限界に近づいており、一方ロシアも、1905年1月に起こった「血の日曜日事件」をきっかけとする第一革命の勃発によって戦争継続が困難となっており、このため両国はアメリカ大統領セオドア・ローズベルトの調停を受け入れ、講和交渉に入りました。

日露講和会議
1905年8月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、日本全権の小村寿太郎(1855年~1911年)とロシア全権ヴィッテが交渉に入りましたが、ロシアが威信にかけて領土の割譲と賠償金の支払いを拒否したので会議は難航し、決裂寸前の状況でしたが、日本が賠償金の支払い要求を撤回したので、ロシアも南樺太を割譲することで決着し、1905年9月ポーツマス条約が成立しました。
ポーツマス条約では、
1)、ロシアは日本の朝鮮における優越権を認める。
2)、ロシアは日本に遼東半島の租借権と東清鉄道支線(南満州鉄道)の利権を割譲する。
3)、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太(南樺太)を割譲し、沿海州の漁業権を認める事などが約されました。

日比谷焼き討ち事件で演説する河野広中
しかし、日本国内ではポーツマス条約を屈辱的とする声が強く、日比谷焼打ち事件(1905年9月)等が起こりましたが、国際的帝国主義戦争であった日露戦争の結果は、以後の世界の歴史に大きな影響を及ぼしたのです。
ポーツマス条約でロシアに朝鮮に於ける優越権を認めさせた日本は、以後韓国への干渉を強め、1910年には韓国を併合します。

日露戦争後(1910年)の中国大陸列強勢力圏
日露戦争に敗れたロシアは、極東での南下政策を断念し、再びバルカンへの進出を強めてドイツ・オーストリアと衝突するようになりました。
そのためロシアは、1907年に日露協約を結び、両国が中国から得た利権の相互尊重を約し、秘密条項で日本の朝鮮に於ける、ロシアの外モンゴルに於ける特殊権益の尊重・勢力範囲等を協定しました。
又ロシアは、ドイツに対抗する為に、同年イギリスと英露協商を結び、イラン・アフガニスタン・チベットに於ける両国の勢力範囲を協定しますが、アメリカは、日露協約・英露協商の成立によって極東での孤立化が進み、満州の権益を巡って日本との対立が強まると、国内では日本移民排斥が激化していったのです。
アジアの一国である日本がヨーロッパの大国ロシアに対して勝利したことは、欧米列強の支配下で苦しんでいたアジアの総ての国々に大きな影響を及ぼした。
又有色人種の国家である日本が、白人の大国ロシアに勝利したことは、アジアの人々に大きな励ましとなり、アジアの人々の民族的自覚を高め、中国・ヴェトナム・インド・イラン・トルコ等の民族運動に大きな影響を与えたのでした。
名言集
明日、死ぬかの様に生きろ。 永遠に生きるかのようにして学べ。
Live as if you were to dit tomorrow. Learn as if you were to die forever.
マハトマ・ガンジー
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
夕方は涼しい風が吹いて、
秋の夕暮れを感じます。
今日は風が強い日で、今でもかなり強く吹いています。
団地の庭の「ニシキギ」の葉が赤く染まってきました。
広葉樹の葉が黄色に色付き、
秋の紅葉シーズン到来を知らせているようです。
これからだんだん日一日と寒くなっていくのでしょうね。
2017-09-27 20:38 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-09-27 23:15 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
昼頃には上がり気温が下がってきました。
今の時間は寒いくらいの気温のようです。
団地内や周辺の草が刈られ、
すっきりした感じです。
もうこれからは雑草もそんなに伸びないのではないでしょうか。
但し、木々の落ち葉が増えることでしょう。
民進党が解体してしまいました。
何のために今まで存在していたのでしょう。
栄枯盛衰、当然の帰結と言えばそれまでですが。
2017-09-28 22:41 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-09-28 22:50 編集
葉山左京様 こんばんは。
水曜日は、雨模様の1日でした。
北九州は、快晴の空、夜は大きな半月に星達が、瞬いています。
日の出は遅く、夕暮れは早くなりました。
朝晩も少し、冷え込みを感じる様になり、秋が深まっています。
秋の夕焼け、鎌を砥げ。
明日も良いお天気になりそうです。
衆議院が解散しました。
今回の民進党の解体、一体あなた方は、何をやって来たのかと問いたい!
私は、現在の阿部政権に賛同しています。
マスコミの阿部批判も、一体何処の国の報道機関なのか?と問いたいものです。
今、日本は、領土侵略に晒され、核の驚異にも晒されている時に、平和ボケした政党は不要です!
言える事をハッキリ言う、自民党政権を応援します。
2017-09-29 00:19 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
昼間の暑さには参ります。
朝夕の温度差がひどいですね。
衆議院解散になりました。
北朝鮮問題も解決しないのに解散で、
政治的空白が出来ました。
どうするつもりでしょう。
私見ですが
今の政治家は先見の明がないように思えます。
ただ目の前の事に右往左往しているように見受けます。
頼りないと思われます。
2017-09-29 21:43 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
朝、目覚ましが鳴る時刻は、未だ暗くて、布団からでるには、気合を入れておきてます。
やはり、夏のようには、行きませんね。
夜の電子カーペットを低温で使っています。
そろそろ、暖房器具もいるのでしょうか?
実際、野党は批判ばかりで、具体的な方策は何もなし。
本当に半島で戦火が起こった時、之は間違いなく現政権が協力に政策を推進する事でしょう。
阿部政権の自衛隊能力の拡大は、正に今日本が直面している、体外的脅威への回答と考えます。
この時期の解散は、確かに政治不在の時期が、半島有事と重なると怖いですが、この状況は戦後の吉田首班時代に似ています。
今回の解散に踏み切ったのは、有事に対する明確な何かを掴んでの事と思います。
2017-09-29 23:10 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-09-29 23:58 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
段々と冬に近ずいていますが、
地球温暖化の割には、
昨冬は寒さが厳しかったように思えます。
今年はいかがなものでしょうか。
今日は三都:東京、愛知、大阪の知事の合同記者会見がありました。
どんなスローガンを掲げようと、
日本を良くしてくれて、
我々が住みやすい世の中を作り上げてくれれば、それでいいのですが。
2017-09-30 21:22 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
本当に季節の移り変わりが、早く感じてしまいます。
これからは、朝晩の冷え込みが、気になりますね。
その様な中、日中は蝉の鳴き声が、聞こえていました。
太陽が昇っているときは、未だ未だ、陽の光の強さを感じます。
スローガンなんていりません。
住みやすい世の中が一番です。
2017-09-30 22:29 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-09-30 23:18 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
まだ若い人は半そで姿を見かけますが、
もう長袖の上着が主流ですね。
遊歩道沿いのカキの木や栗の木には
びっしりと実がなっています。
もうすぐ収穫の秋を迎えることでしょう。
地球温暖化の割には、
今冬も寒さが厳しそうです。
2017-10-01 22:04 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-10-01 22:34 編集
葉山左京様 おはようございます。
今日は、雨。
今週は、雨の多いお天気になりそうです。
これから、一雨ごとに気温が下がるのでしょうか?
もうしばらく、心地良い毎日が、続いて欲しいものです。
彼岸桜の葉が、黄色くなり、落葉が始まりました。
少しづつですが、街路の木々も黄緑色に変わっています。
秋は、駆け足で進んでいきますね。
2017-10-02 06:31 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
21℃が最高気温になりました。
夜も雨風が強いようです。
明日も雨のようで、
気温もあまり上がらないようです。
秋が急速に進んでいます。
広葉樹の葉が黄色になり、
ニシキギは真っ赤に染まってきました。
季節の変化が急激に変わるような、
錯覚に落ちります。
2017-10-02 20:00 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-10-02 22:24 編集
葉山左京様 こんばんは。
弱い北風が吹いていましたが、大変心地良い風でした。
でも、北九州でも北風が、吹く頃になったのですね。
今日は、本州の山陰方面は、ずっと雲に覆われていました。
九州と山陰の天気も、ハッキリ別れてきた様です。
北九州は未だ、日中は暑さを感じる事も多いですよ。
この時期、衣類の調整が本当に大変です。
ジロくんも換毛期を迎え、夏の毛が冬毛に少しづつ変わっています。
2017-10-03 22:29 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-10-03 23:15 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
東の空にまん丸のお月様を見ることが出来ました。
久し振りの満月との出会いでした。
ジロ君の毛も冬仕様になりそうですか。
京都は多少とも朝は冷え込んでいます。
私は寒がりですから、
なおさら寒さを感じるのでしょうが。
今の時期は寒暖の差に要注意ですね。
2017-10-04 20:16 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
昼間は半袖、朝晩はトレーナー。
衣類の調整が、本当に大変です。
夜も薄手の毛布を1枚追加です。
天気予報では、明日は又雨の様です。
良いお天気が一番ですね。
こちらも月の姿を遮られずに見ています。
随分、月の位置も高くなってきましたよ。
2017-10-04 22:23 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
今日はほとんどの人が冬支度です。
夕方から冷たい強風が吹いています。
秋本番です。
もう窓を開けてPCの前に座れません。
寒いです。
それでも晴れた夜空を仰ぐと、
星がきらめき、
秋の訪れがわかるようになりました。
2017-10-05 20:58 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2017-10-05 23:04 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
体が就いていきません。
街中でもう半そで姿は見かけません。
外人さんも長袖姿です。
若い女性たちは祇園界隈の和服レンタル屋さんで、着替えて和服姿で闊歩しています。
今の時期が一番和服を着るのにいい時期だと思います。
レンタル屋さんが急激に増えました。
外国からの女性は憧れがあるのでしょうね。
2017-10-06 21:43 葉山左京 URL 編集
葉山左京様、おはようございます。
今も曇り空が続いています。
雨のせいか、今日の朝は、何時もより暖かい朝になりました。
未だこちらでは、半袖の方は結構多いですよ。
若い方もお年寄りも半袖で、闊歩しています。
やはり、盆地の京都は、3方を海に囲まれた北九州市とは、だいぶ気候が異なりますね。
和服のレンタル屋さんの事は、私もネット等で知りました。
確かに京都の町は、和服姿が似合います。
個人的には、わりと体を絞める和服より、ゆったりとした韓服(チマ・チョゴリ)等が好みです。
今日は、父の1周忌の法要です。
1年、本当に早いですね。
2017-10-07 08:12 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
最高気温は22℃止まりでした。
やはり10月の訪れとともに寒く感じられてきます。
そちらはまだ半そで姿の方が多いですか。
やはりかなりのこちらとは温度差があるようですね。
お父様の一周忌ですか。
心よりお父様のご冥福をお祈りいたします。
2017-10-07 21:35 葉山左京 URL 編集
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2017-10-07 23:38 編集
葉山左京様、おはようございます。
街中を歩く人の姿は、完全に夏に逆戻りです。
気温の上下が激しく、天候も目まぐるしく変わり、体調が今ひとつです。
水分の取りすぎ等注意しなければなりません。
父の1周忌も無事に終わりました。
一つの節目を迎えた様に思えます。
2017-10-08 06:17 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
汗ばむ陽気です。
団地を歩いていますと金木犀の香りが漂ってきました。
ふと見ると金木犀の小さな花が咲きだしています。
秋を感じさせる香りでした。
今まん丸の月が窓の向こうに見えます。
青白い光が秋から冬への寒さを感じさせます。
2017-10-08 21:27 葉山左京 URL 編集
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2017-10-08 22:28 編集