歴史を歩く183
40 第一次世界大戦とロシア革命④
4ロシア革命

1914年当時のモスクワ、赤の広場
ツァーリズム(専制政治)のもとで近代化が遅れていたロシアは、1914年末には早くも軍需品の不足に陥り、1915年8月にはロシア領ポーランド全体がドイツ軍に占領され、ロシア軍は本国へ敗走し、その後東部戦線が膠着する中で、長期の塹壕生活を送る兵士達の士気は著しく衰え、兵士達の間には厭戦気分が広まって行きました。
又1916年夏には、中央アジア諸民族の間で徴兵に反対する大蜂起が発生しています。
この間、多くの農民が兵士として大動員された結果、農業生産が著しく低下して食糧難が深刻となり、又その他の生活必需物資も不足し、更には物価が上昇し続け、国民生活が窮乏するなかで労働者の間でも戦争の継続に批判的な空気が強まっていきます。

「パンをよこせ」
1917年3月8日(この日は1914年より国際婦人デーとされていた)、首都ペトログラード(大戦開始後ペテルブルクを改称。1924年にはレニングラードとなり、1991年に現在のサンクト・ペテルブルクと改称)では約8万人の労働者がストライキを行い、「パンをよこせ」・「戦争反対」のスローガンを掲げて大規模なデモを行い、翌9日、ストライキに参加する労働者の数は約15万人に達し、デモのスローガンには「専制打倒」も現われ始め、10日にはストライキは終に全市に拡大、ストライキに参加する労働者の数は20万人を超えていました。

革命勃発・革命下の労働者と兵士
12日には、首都の軍隊の多くが革命側について政治犯を釈放し、政府の要人が続々と逮捕され、僅か一週間で首都は、完全に労働者と反乱軍によって占拠されます。
こうした状況の中で、労働者・兵士は1905年の第一革命の例にならってソヴィエト(会議の意味、労働者と兵士の代表による評議会)を結成しました。

ニコライ2世( Николай II, 、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)
皇帝ニコライ2世(1868年~1918年、在位1894年~1917年)は、革命が発生した時には前線の大本営に居り、事態の深刻さを認識したニコライ2世は12日に軍に首都進撃の命令を下しますが、時既に遅く、3月15日に退位の勧告を受け入れて弟のミハイルに帝位を譲位しますが、翌16日ミハイルはそれを辞退し、ロマノフ朝(1613年~1917年)は崩壊、ニコライ2世は十一月革命後に監禁され、内戦中に家族と共に革命派によって処刑されます。

執務中のケレンスキー
これが後に三月革命(ロシア暦二月革命)呼ばれ、ロシアでは1918年迄ユリウス暦が採用されていた事から、ロシア暦でグレゴリー暦より13日遅れており、三月革命はロシア暦では二月革命となります。
三月革命によって、リヴォフ公を首相とし立憲民主党(カデット、ブルジョワ政党)を中心とする臨時政府が樹立され、臨時政府にはソヴィエトからはケレンスキーだけが入閣して法相に就任しますが、
労働者・兵士が結集したソヴィエトは、武力と首都の主要拠点を掌握していましたが、当時のソヴィエトでは社会革命党とメンシェヴィキの勢力が強く、ボリシェヴィキは少数に留まっていた結果、臨時政府を支持して政府を監視する立場を取らざるを得ませんでした。
以後、臨時政府とソヴィエトと云う、所謂「二重権力(二重政権)」の状態が続く中で臨時政府は戦争を継続しました。

ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)
ボリシェヴィキ指導者レーニン(1870年~1924年)は、三月革命が勃発した時には、スイスに亡命しており、革命勃発を知ったレーニンは直ぐに帰国を志しますが、第一次世界大戦中で交戦国を通過しないと帰国できない為、ドイツの提供した「封印列車」で帰国を果たしました。

封印列車での帰還
ドイツは革命家をロシアに送り返すことにより、ロシアに革命が広がることを期待したが、彼等がドイツを通過する時に革命宣伝を行なう事を恐れ、外部との接触を一切禁止する「封印列車」でレーニン等をロシアに移動させました。
レーニンは帰国すると直ちに「四月テーゼ」を発表し、戦争を継続する臨時政府を支持しない事、そして議会制共和国でなく全国的な全ての労働者・農業労働者・農民代表よるソヴィエト共和国を樹立することを主張しました。

全ての権力をソヴィエトへ
「四月テーゼ」は当初ボリシェヴィキ党内でも幹部等の反対を受けますが、下部では支持されボリシェヴィキの基本方針と成り、党は「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げ(1917年4月)、
レーニンの帰国・「四月テーゼ」の発表以後、ソヴィエト内ではボリシェヴィキの勢力が増大し、メンシェヴィキと社会革命党から6人が臨時政府に入閣した頃から(1917年5月)ソヴィエト内では、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ・社会革命党との対立が強まっていきます。

七月事件
7月16日~17日、ペトログラードで約40万人の労働者・兵士が「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げて武装デモを行なうものの鎮圧され(七月事件)、政府は此の出来事を口実にボリシェヴィキを弾圧し、レーニンは再び亡命せざるを得ませんでした。

臨時委員会のメンバー(後列右から2人目がケレンスキー)
7月21日には社会革命党のケレンスキーが首相に就任、ケレンスキーは三月革命によって成立した臨時政府にソヴィエトを代表して法相として入閣し、陸相を経て7月に首相に成りました。
ケレンスキー政権はボリシェヴィキを弾圧しましたが、9月にコルニーロフのクーデターが起こるとボリシェヴィキに援助を求めます。

ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ(Лавр Георгиевич Корнилов、1870年8月18日(8月30日) - 1918年3月31日(4月13日))
コルニーロフ(1870年~1918年)は、ケレンスキー首相の下で最高司令官と成りますが、臨時政府打倒のクーデターを企てて首都に進撃するものの、政府軍に敗北して逮捕されます。
このコルニーロフ反乱鎮圧に大きな役割を果たしたボリシェヴィキ勢力は、此れを機に飛躍的に伸張し、ボリシェヴィキはソヴィエト内でも多数派となって行きます。
この様な状況の中で、10月20日、フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻り、23日に開かれた党中央委員会では、レーニンの主張する武装蜂起の方針が決定され、26日にはペトログラード・ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織され、蜂起は11月6日に決行される事と成ります。

レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(Лев Давидович Троцкий)
11月6日早朝、ケレンスキーは軍事革命委員会の委員の逮捕を命じ、蜂起を煽動したとの理由でボリシェヴィキの機関誌発行所を襲撃させ、此れに対してボリシェヴィキは、レーニン、トロッキー(1879年~1940年、当時ペトログラード・ソヴィエト議長)の指導のもとで武装蜂起し、この日の夜半迄に駅・郵便局・電信局・国立銀行等首都の主要な拠点を殆ど抵抗も受ける事なく占拠し、1917年11月7日午前10時、ペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、同委員会が権力を掌握したと宣言しました。

冬宮への攻撃
同日午後9時、臨時政府の閣僚達が立て篭もる冬宮への攻撃が始まり、翌8日の午前2時に此れを占領し、ケレンスキーを除く全閣僚が逮捕されますが、ケレンスキーは脱出に成功し、1918年以降はフランス・イギリスで亡命生活を送り、その後アメリカへ亡命(1940年)、ニューヨークで没しました(1970年)。

第2回全ロシア・ソヴィエト大会
冬宮を攻撃する砲声が轟く中で、第2回全ロシア・ソヴィエト大会が開催されます。
大会の代議員650名の内、ボリシェヴィキは390名を占めており、メンシェヴィキと社会革命党が武装蜂起を非難して退場する中で、新政権の成立が宣言され、「平和に関する布告」・「土地に関する布告」が採択され、同時に人民委員会議(ソヴィエト政府)議長(首相)にレーニンが、外務委員(外務大臣)にトロッキーが選出されました。
この一連の流れが十一月革命(ロシア暦十月革命)で、三月革命と十一月革命を合わせてロシア革命と呼称しますが、史上最初の社会主義革命である十一月革命をロシア革命と呼ぶ場合も多いです。
名言集
ある意味では、帝国主義は資本主義から社会主義への過渡的な一段階である。
資本主義は死滅しつつあるが、死滅し去ったのではない。
In a sense, imperialism is a transient stage from capitalism to socialism.
Capitalism is killing, but it has not died away.
ウラジーミル・イリイチ・レーニン
続く・・・
4ロシア革命

1914年当時のモスクワ、赤の広場
ツァーリズム(専制政治)のもとで近代化が遅れていたロシアは、1914年末には早くも軍需品の不足に陥り、1915年8月にはロシア領ポーランド全体がドイツ軍に占領され、ロシア軍は本国へ敗走し、その後東部戦線が膠着する中で、長期の塹壕生活を送る兵士達の士気は著しく衰え、兵士達の間には厭戦気分が広まって行きました。
又1916年夏には、中央アジア諸民族の間で徴兵に反対する大蜂起が発生しています。
この間、多くの農民が兵士として大動員された結果、農業生産が著しく低下して食糧難が深刻となり、又その他の生活必需物資も不足し、更には物価が上昇し続け、国民生活が窮乏するなかで労働者の間でも戦争の継続に批判的な空気が強まっていきます。

「パンをよこせ」
1917年3月8日(この日は1914年より国際婦人デーとされていた)、首都ペトログラード(大戦開始後ペテルブルクを改称。1924年にはレニングラードとなり、1991年に現在のサンクト・ペテルブルクと改称)では約8万人の労働者がストライキを行い、「パンをよこせ」・「戦争反対」のスローガンを掲げて大規模なデモを行い、翌9日、ストライキに参加する労働者の数は約15万人に達し、デモのスローガンには「専制打倒」も現われ始め、10日にはストライキは終に全市に拡大、ストライキに参加する労働者の数は20万人を超えていました。

革命勃発・革命下の労働者と兵士
12日には、首都の軍隊の多くが革命側について政治犯を釈放し、政府の要人が続々と逮捕され、僅か一週間で首都は、完全に労働者と反乱軍によって占拠されます。
こうした状況の中で、労働者・兵士は1905年の第一革命の例にならってソヴィエト(会議の意味、労働者と兵士の代表による評議会)を結成しました。

ニコライ2世( Николай II, 、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)
皇帝ニコライ2世(1868年~1918年、在位1894年~1917年)は、革命が発生した時には前線の大本営に居り、事態の深刻さを認識したニコライ2世は12日に軍に首都進撃の命令を下しますが、時既に遅く、3月15日に退位の勧告を受け入れて弟のミハイルに帝位を譲位しますが、翌16日ミハイルはそれを辞退し、ロマノフ朝(1613年~1917年)は崩壊、ニコライ2世は十一月革命後に監禁され、内戦中に家族と共に革命派によって処刑されます。

執務中のケレンスキー
これが後に三月革命(ロシア暦二月革命)呼ばれ、ロシアでは1918年迄ユリウス暦が採用されていた事から、ロシア暦でグレゴリー暦より13日遅れており、三月革命はロシア暦では二月革命となります。
三月革命によって、リヴォフ公を首相とし立憲民主党(カデット、ブルジョワ政党)を中心とする臨時政府が樹立され、臨時政府にはソヴィエトからはケレンスキーだけが入閣して法相に就任しますが、
労働者・兵士が結集したソヴィエトは、武力と首都の主要拠点を掌握していましたが、当時のソヴィエトでは社会革命党とメンシェヴィキの勢力が強く、ボリシェヴィキは少数に留まっていた結果、臨時政府を支持して政府を監視する立場を取らざるを得ませんでした。
以後、臨時政府とソヴィエトと云う、所謂「二重権力(二重政権)」の状態が続く中で臨時政府は戦争を継続しました。

ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)
ボリシェヴィキ指導者レーニン(1870年~1924年)は、三月革命が勃発した時には、スイスに亡命しており、革命勃発を知ったレーニンは直ぐに帰国を志しますが、第一次世界大戦中で交戦国を通過しないと帰国できない為、ドイツの提供した「封印列車」で帰国を果たしました。

封印列車での帰還
ドイツは革命家をロシアに送り返すことにより、ロシアに革命が広がることを期待したが、彼等がドイツを通過する時に革命宣伝を行なう事を恐れ、外部との接触を一切禁止する「封印列車」でレーニン等をロシアに移動させました。
レーニンは帰国すると直ちに「四月テーゼ」を発表し、戦争を継続する臨時政府を支持しない事、そして議会制共和国でなく全国的な全ての労働者・農業労働者・農民代表よるソヴィエト共和国を樹立することを主張しました。

全ての権力をソヴィエトへ
「四月テーゼ」は当初ボリシェヴィキ党内でも幹部等の反対を受けますが、下部では支持されボリシェヴィキの基本方針と成り、党は「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げ(1917年4月)、
レーニンの帰国・「四月テーゼ」の発表以後、ソヴィエト内ではボリシェヴィキの勢力が増大し、メンシェヴィキと社会革命党から6人が臨時政府に入閣した頃から(1917年5月)ソヴィエト内では、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ・社会革命党との対立が強まっていきます。

七月事件
7月16日~17日、ペトログラードで約40万人の労働者・兵士が「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げて武装デモを行なうものの鎮圧され(七月事件)、政府は此の出来事を口実にボリシェヴィキを弾圧し、レーニンは再び亡命せざるを得ませんでした。

臨時委員会のメンバー(後列右から2人目がケレンスキー)
7月21日には社会革命党のケレンスキーが首相に就任、ケレンスキーは三月革命によって成立した臨時政府にソヴィエトを代表して法相として入閣し、陸相を経て7月に首相に成りました。
ケレンスキー政権はボリシェヴィキを弾圧しましたが、9月にコルニーロフのクーデターが起こるとボリシェヴィキに援助を求めます。

ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ(Лавр Георгиевич Корнилов、1870年8月18日(8月30日) - 1918年3月31日(4月13日))
コルニーロフ(1870年~1918年)は、ケレンスキー首相の下で最高司令官と成りますが、臨時政府打倒のクーデターを企てて首都に進撃するものの、政府軍に敗北して逮捕されます。
このコルニーロフ反乱鎮圧に大きな役割を果たしたボリシェヴィキ勢力は、此れを機に飛躍的に伸張し、ボリシェヴィキはソヴィエト内でも多数派となって行きます。
この様な状況の中で、10月20日、フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻り、23日に開かれた党中央委員会では、レーニンの主張する武装蜂起の方針が決定され、26日にはペトログラード・ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織され、蜂起は11月6日に決行される事と成ります。

レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(Лев Давидович Троцкий)
11月6日早朝、ケレンスキーは軍事革命委員会の委員の逮捕を命じ、蜂起を煽動したとの理由でボリシェヴィキの機関誌発行所を襲撃させ、此れに対してボリシェヴィキは、レーニン、トロッキー(1879年~1940年、当時ペトログラード・ソヴィエト議長)の指導のもとで武装蜂起し、この日の夜半迄に駅・郵便局・電信局・国立銀行等首都の主要な拠点を殆ど抵抗も受ける事なく占拠し、1917年11月7日午前10時、ペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、同委員会が権力を掌握したと宣言しました。

冬宮への攻撃
同日午後9時、臨時政府の閣僚達が立て篭もる冬宮への攻撃が始まり、翌8日の午前2時に此れを占領し、ケレンスキーを除く全閣僚が逮捕されますが、ケレンスキーは脱出に成功し、1918年以降はフランス・イギリスで亡命生活を送り、その後アメリカへ亡命(1940年)、ニューヨークで没しました(1970年)。

第2回全ロシア・ソヴィエト大会
冬宮を攻撃する砲声が轟く中で、第2回全ロシア・ソヴィエト大会が開催されます。
大会の代議員650名の内、ボリシェヴィキは390名を占めており、メンシェヴィキと社会革命党が武装蜂起を非難して退場する中で、新政権の成立が宣言され、「平和に関する布告」・「土地に関する布告」が採択され、同時に人民委員会議(ソヴィエト政府)議長(首相)にレーニンが、外務委員(外務大臣)にトロッキーが選出されました。
この一連の流れが十一月革命(ロシア暦十月革命)で、三月革命と十一月革命を合わせてロシア革命と呼称しますが、史上最初の社会主義革命である十一月革命をロシア革命と呼ぶ場合も多いです。
名言集
ある意味では、帝国主義は資本主義から社会主義への過渡的な一段階である。
資本主義は死滅しつつあるが、死滅し去ったのではない。
In a sense, imperialism is a transient stage from capitalism to socialism.
Capitalism is killing, but it has not died away.
ウラジーミル・イリイチ・レーニン
続く・・・
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コメント
秋葉奈津子様 こんばんは。
このまま春にはならないでしょうね。
庭の梅やこぶしの木には小さな蕾が芽生えてていますが、
咲くのはまだまだ先のようです。
でもこの暖かさでほっこりします。
シベリア高気圧だけは南下してほしくないですね。
2018-01-18 20:55 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2018-01-18 23:52 編集
葉山左京様 こんばんは。
ジロくんの散歩コースでは、梅が大変良い香りを漂わせています。
梅はこれからが、花をつける木ですが、雪を頂いいた梅の花の姿は、もう遥かな記憶の彼方に成りました。
今年は、寒いので、雪を頂いた梅の花を見る機会が、あるかもしれません。
私も北の将軍様は、勘弁して欲しいです。
2018-01-19 00:09 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
春が待ち遠しいですが、
春分を過ぎて3月にならないと無理でしょうか。
先日の-2℃よりはましですが、
寒さと多少の暖かさが交互に訪れそうですね。
正月の賑わいも静まり、
京都の街も多少は静かになりました。
外国の観光客もこの寒さで少なくなったようです。
2018-01-19 05:49 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2018-01-19 23:32 編集
葉山左京様、こんばんは。
気が付くと、彼岸桜に小さな蕾が沢山出来ています。
ジロくんの散歩コースでは、日当たりの良い場所に有る、梅は花を咲かせています。
明け方でも7度以上、日中は15度前後迄上がっています。
来週は、又気温が下がりそうですが、今とは5度以上の差に体が付いて行けるか心配です。
此れくらい戦いと、ビル街の風も寒さ感じません。
北西の風も殆ど吹いていないので、曇り空でも暖かい様です。
2018-01-20 00:39 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
風が冷たくても、
晴れた青空があると外出したくなり、
何となく春のにおいがしてくるように思います。
春の花たちが蕾を作っていますので、
これからが楽しみです。
蠟梅が咲いているころだと思うのですが、
今のところ探しに行けない状態です。
時間的に余裕が出来たら行く予定です。
2018-01-20 18:44 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2018-01-20 23:41 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
暖かくなるには
3月の春分の日を待たなければ無理でしょうか。
毎年のことながら、
遊歩道沿いの雪柳が白いかわいい花を一部咲かせています。
まだ葉の色は赤いのですが。
春には青くなり満開になりますね。
2018-01-21 19:57 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
明日以降は、又寒波襲来で、週半ば最低氷点下1度、最高2度とは!
又々、道路凍結や高速閉鎖で、大混乱の日々を迎えそうです。
今年の冬は、寒暖の差が大きくて、体調管理、衣類調整、暖房器具の調整も大変です。
本当に暖かさを実感できるのは、3月の「啓蟄」を迎える頃です。
その頃に、木々の蕾も大きくなり、彼岸前には、彼岸桜の花を見る事もできるでしょう。
寒さはこれからが、本番です。
体調管理には、お互い注意しましょう!
2018-01-21 20:52 秋葉 奈津子 URL 編集
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2018-01-21 23:12 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
夕方は3℃になり、
雨が雪に変わりました。
久し振りの雪です。
全国的に雪模様ですが、
関東北陸がすごいようですね。
明日も変らない天気のようです。
車で移動の方は要注意ですね。
2018-01-22 20:56 葉山左京 URL 編集
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2018-01-22 23:23 編集
葉山左京様 こんばんは。
山陰付近でも雪に警戒ですが、九州でも高速道路の閉鎖等予想されています。
北九州では、未だ雨が降ったり止んだりですが、明日以降はこちらも雪の様です。
先週とは、最高気温で10度以上下がることになり、とても寒く感じる事でしょう。
交通の混乱も大変ですが、体調管理には、ご注意下さい。
2018-01-23 00:35 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 おはようございます。
昨夕のような雪は降っていません。
TVニュースでは
関東甲信越の降雪は交通機関を麻痺させ、
大変な様子でしたね。
本当に体調管理と交通事故だけには、
注意しないといけませんね。
2018-01-23 05:44 葉山左京 URL 編集
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2018-01-23 22:44 編集
葉山左京様 おはようございます。
現在気温2度、明け方の気温予報は-1度、最高気温0度の予報には、流石に身も凍る気分です。
夕方には、雪も降ったのですが、未だ積もる気配は在りません。
只、道路の凍結が本当に心配です。
金曜日辺り迄は、寒波の影響をうけそうな北九州です。
一方この悪天候の中、白根山が噴火しましたが、被害が拡大しない事を願います。
2018-01-24 00:42 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
寒いですね。
関東北信越ばかりでなく、
近畿も無茶苦茶寒いですが、
雪は日本海側の方が多いですね。
強い冷たい風が吹かなければ、
あまり寒さは感じられないのですが、
すごく吹き荒れています。
明日からも-2℃前後です。
お手上げです!
2018-01-24 21:01 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
1日中、横殴りの雪が吹付け、吹きだまりには、雪の塊が出来ています。
夕方、5時半の帰宅時、温度計の表示は氷点下2度。
水溜りは、バリバリに凍りついていて、自動車の下には、氷柱が下がっていました。
帰宅後ジロくんを真っ先に家の中に入れましたが、飲料水のお椀に凍りが張っていて、寒さの強さがわかります。
今日は、手足が何時迄経っても暖かくなりません。
冷え込みの厳しさが、良くわかります。
2018-01-24 21:34 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2018-01-24 23:39 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
冷たい強い風が吹かなければ、
まだ楽なのですが。
朝の道路は凍てついて滑ります。
二条城近くに行きますと雪が積もって、
雪がちらちら降っています。
車は最徐行です。
この寒さ早く去ってほしいですね。
2018-01-25 21:24 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2018-01-25 22:42 編集
Re: 秋葉奈津子様 こんばんは。
風が止んでいるので、昨日の様な寒さは余り感じませんが、空気はピンと張った感じがします。
この様な時、思い出すのは、照りつける夏の太陽と陽炎です。
夏の暑さを恋しく思ってしまいます。
昨日は中国自動車道、山陽自動車道がどちらも閉鎖になり、配送が再混乱の1日でした。
山陰側も配送遅れが目立ちました。
海も時化ているので、魚の漁もできず、鮮魚も不足気味です。
早く、落ちつた気候になって欲しいものです。
2018-01-26 01:01 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様 こんばんは。
朝は-2℃が続いて、
朝起きるのが嫌になります。
全国的にインフルエンザが蔓延、
最高の患者数になっていますね。
このところおいしい魚が少なくて、
養殖ブリばかりが目立ちます。
新鮮な白身の魚が食べたいなーと思っています。
海の時化が収まらないとどうにもなりませんね。
2018-01-26 21:45 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんばんは。
夕方の気温は、2度ですが北西の風が強く、体感温度は氷点下です。
露出している手や顔は、猛烈に冷えて、暖かい部屋に入ると、体温が戻ってくる感覚がはっきりとわかります。
今回の寒波は、今世紀最大級の寒波とも言われていますが、その言葉には偽りは無い様です。
インフルエンザも猛威をふるい、何とか感染しないように注意するのみです。
どうぞ、ご注意ください。
残念ながら、魚種の豊富な九州でも同様な状況です。
寒気が強く、九州周辺の海は波高が2m以上で、まともな漁が出来ないのです。
それに加えて、燃料代の高騰も影響しています。
野菜でもほうれん草が不作で、今は冷凍ほうれん草しか市場に出回っていません。
これも自然界のバランスが壊れた結果です。
2018-01-26 22:03 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2018-01-26 23:19 編集
葉山左京様 こんばんは。
未だ一桁の最高気温ですが、先日の0度に比べると大変暖かく感じます。
人間の体は、まだまだ気候に対応する能力を保っているようです。
明日は、雨の予報ですが、気温が少しでも暖かくなるのら、文句は言いません。
早く、寒波から抜け出したいものです。
ジロくんの散歩コースでも梅の香りが、香る様に成りました。
日の出も少し早くなり、7時前に明るくなりますが、未だ布団の恋しさからは、抜け出せません。
2018-01-27 21:41 秋葉 奈津子 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2018-01-27 23:01 編集