歴史を歩く200
6東南アジアの独立・改革運動
① ヴェトナム

ホー・チ・ミン(胡志明, 1890年5月19日 - 1969年9月2日)
欧米列強の植民地支配下に置かれていた東南アジア諸地域でも第一次世界大戦後、独立運動や民族運動が高揚しはじめます。
フランスの植民地であったヴェトナムで民族運動の中心となった人物がホー・チ・ミンです。
ホー・チ・ミン(胡志明、1890年~1969年、本名はグェン・タトゥ・タン、一時はグェン・アイ・クォク(阮愛国)と名のる)は、ゲアン省の学者の家庭に生まれ、大学で学んだ後に船員となってフランスに渡航(1911年)、その後、ロシア革命に刺激されてマルクス主義に近づき、フランス共産党に入党(1920年)、1924年のコミンテルン第5回大会に出席した後、中国に渡り、広州でヴェトナム青年革命同志会を結成し(1925年)、1930年には香港でヴェトナム共産党(同年インドシナ共産党と改称)を結成し、インドシナ共産党は労働者・農民に支持され、以後の対仏・対日の抵抗・独立闘争の主体となりますが、ホー・チ・ミンは香港でイギリス警察に逮捕され(1931年)、釈放後はソ連に渡り(1934年)、1941年に帰国してヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)を結成しました。
※ホー・チ・ミン⇒栄光の人を意味します。
② ビルマ

サヤー・サン( 1876年10月24日 – 1931年11月28日:ターヤワディーの 公園内に建つサヤーサンの銅像)
インド帝国に併合されていたビルマ(ミャンマー)ではインドからの分離を求める運動が活発になり、ビルマの民族運動の指導者サヤー・サン(1876年~1931年)が反英武力闘争に立ち上がると(1930年)、運動はたちまちビルマ各地に広まり、農民蜂起(1930年~32年)に発展しました。
イギリスはインドからも増援軍を送り込んで鎮圧を進め、サヤー・サン等指導者を処刑しますが、同じ頃、ラングーン大学の卒業生達によってタキン党が結成されます。
タキン党は、当初「我等ビルマ人協会」と称していましたが、後にタキン(主人の意味)党と改称し、1930年代中頃からビルマの即時完全独立を要求し、アウン・サン(1915年~47年)やウー・ヌー(1907年~95年、後のビルマ共和国初代首相)等を中心に学生運動や都市のストライキを組織しました。
イギリスはこのような動きに押され、1935年の新インド統治法によってビルマの分離を決定し、さらに1937年にはビルマ統治法で準自治領としますが、タキン党はその後も完全独立を目指して反英独立闘争を展開します。
③ インドネシア

スカルノ(1901年6月6日 - 1970年6月21日:1930年代のスカルノ(中央)Wikipediaより)
オランダの植民地支配下に置かれていたインドネシアの民族運動は、1911年に設立されたサリカット・イスラム(イスラム同盟)や1920年に結成されたインドネシア共産党によって推進されました。
インドネシア共産党はアジア最初の共産党で、1926~27年にバタヴィアやスマトラ西部での武装蜂起に失敗し、インドネシア共産党は以後非合法化されます。
この頃、インドネシア民族運動の指導者として登場してくる人物がスカルノです。
スカルノ(1901年~70年)は、東部ジャワのスラバヤに生まれ、オランダ人小学校に入学して西欧式の教育を受け、バンドン工科大学を卒業(1925年)、大学在学中からオランダに対する独立運動に参加したスカルノは、1927年に民族主義団体を設立し、この民族主義団体は翌年インドネシア国民党と改称しますが、インドネシア国民党は弾圧を受け、スカルノも逮捕・投獄されます(1929年~31年)。
スカルノはその後釈放、逮捕を繰り返し、流刑となった(1933年~42年)為、インドネシアの民族運動は一時停滞します。
④ フィリピン

マロロス市における発足式での革命軍の行進。1899年1月23日
米西戦争(1898年)後、アメリカの植民地となったフィリピンでは、フィリピン革命(1896年~1902年)が失敗に終わった後もアメリカに対する独立運動が続きました。
アメリカは、1916年のジョーンズ法で、上下両院の設置など広汎な自治を認めましたが、独立については安定した政権が樹立され次第とする、単なる約束事項にと留まっていました。
世界恐慌に苦しむ中で従来の外交政策を転換したアメリカは、1934年にフィリピンの自治を認める法案を成立させ、翌1935年には独立準備政府を発足させて自治を認めると共に10年後の独立を約束する事になります。
⑤ タイ

ラーマ7世・Wikipediaより
東南アジア諸国の中で唯一独立を維持したタイでは、1925年にラーマ7世(チャクリ朝第7代の王、大王と呼ばれたラーマ5世の子、前王ラーマ6世の弟)が即位し、この頃、パリのタイ人留学生等によって結成された人民党(1927年設立)は絶対王制打倒・立憲君主制樹立を主張していました。
世界恐慌の影響と長年の財政窮乏によってタイ経済が悪化すると、ラーマ7世は官吏と軍人の整理・大幅減俸や重税の新設等を断行した為にチャクリ朝の専制政治に対する国民の反感が強まり、
1932年6月24日、人民党による立憲革命が勃発、人民党は軍部の同調者と共にクーデターを起こし、ラーマ7世に立憲君主制の樹立を認めさせ、同年、タイ最初の憲法が制定されます。
その後、立憲革命で台頭したピブン(1897年~1964年、タイの軍人)が首相となり(1938年)、1939年には国名をシャムからタイ(自由・自由民の意味)に改めます。
名言集
không có gì quý hơn độc lập, tự do
自由と独立ほど尊いものは何もない
続く・・・
① ヴェトナム

ホー・チ・ミン(胡志明, 1890年5月19日 - 1969年9月2日)
欧米列強の植民地支配下に置かれていた東南アジア諸地域でも第一次世界大戦後、独立運動や民族運動が高揚しはじめます。
フランスの植民地であったヴェトナムで民族運動の中心となった人物がホー・チ・ミンです。
ホー・チ・ミン(胡志明、1890年~1969年、本名はグェン・タトゥ・タン、一時はグェン・アイ・クォク(阮愛国)と名のる)は、ゲアン省の学者の家庭に生まれ、大学で学んだ後に船員となってフランスに渡航(1911年)、その後、ロシア革命に刺激されてマルクス主義に近づき、フランス共産党に入党(1920年)、1924年のコミンテルン第5回大会に出席した後、中国に渡り、広州でヴェトナム青年革命同志会を結成し(1925年)、1930年には香港でヴェトナム共産党(同年インドシナ共産党と改称)を結成し、インドシナ共産党は労働者・農民に支持され、以後の対仏・対日の抵抗・独立闘争の主体となりますが、ホー・チ・ミンは香港でイギリス警察に逮捕され(1931年)、釈放後はソ連に渡り(1934年)、1941年に帰国してヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)を結成しました。
※ホー・チ・ミン⇒栄光の人を意味します。
② ビルマ

サヤー・サン( 1876年10月24日 – 1931年11月28日:ターヤワディーの 公園内に建つサヤーサンの銅像)
インド帝国に併合されていたビルマ(ミャンマー)ではインドからの分離を求める運動が活発になり、ビルマの民族運動の指導者サヤー・サン(1876年~1931年)が反英武力闘争に立ち上がると(1930年)、運動はたちまちビルマ各地に広まり、農民蜂起(1930年~32年)に発展しました。
イギリスはインドからも増援軍を送り込んで鎮圧を進め、サヤー・サン等指導者を処刑しますが、同じ頃、ラングーン大学の卒業生達によってタキン党が結成されます。
タキン党は、当初「我等ビルマ人協会」と称していましたが、後にタキン(主人の意味)党と改称し、1930年代中頃からビルマの即時完全独立を要求し、アウン・サン(1915年~47年)やウー・ヌー(1907年~95年、後のビルマ共和国初代首相)等を中心に学生運動や都市のストライキを組織しました。
イギリスはこのような動きに押され、1935年の新インド統治法によってビルマの分離を決定し、さらに1937年にはビルマ統治法で準自治領としますが、タキン党はその後も完全独立を目指して反英独立闘争を展開します。
③ インドネシア

スカルノ(1901年6月6日 - 1970年6月21日:1930年代のスカルノ(中央)Wikipediaより)
オランダの植民地支配下に置かれていたインドネシアの民族運動は、1911年に設立されたサリカット・イスラム(イスラム同盟)や1920年に結成されたインドネシア共産党によって推進されました。
インドネシア共産党はアジア最初の共産党で、1926~27年にバタヴィアやスマトラ西部での武装蜂起に失敗し、インドネシア共産党は以後非合法化されます。
この頃、インドネシア民族運動の指導者として登場してくる人物がスカルノです。
スカルノ(1901年~70年)は、東部ジャワのスラバヤに生まれ、オランダ人小学校に入学して西欧式の教育を受け、バンドン工科大学を卒業(1925年)、大学在学中からオランダに対する独立運動に参加したスカルノは、1927年に民族主義団体を設立し、この民族主義団体は翌年インドネシア国民党と改称しますが、インドネシア国民党は弾圧を受け、スカルノも逮捕・投獄されます(1929年~31年)。
スカルノはその後釈放、逮捕を繰り返し、流刑となった(1933年~42年)為、インドネシアの民族運動は一時停滞します。
④ フィリピン

マロロス市における発足式での革命軍の行進。1899年1月23日
米西戦争(1898年)後、アメリカの植民地となったフィリピンでは、フィリピン革命(1896年~1902年)が失敗に終わった後もアメリカに対する独立運動が続きました。
アメリカは、1916年のジョーンズ法で、上下両院の設置など広汎な自治を認めましたが、独立については安定した政権が樹立され次第とする、単なる約束事項にと留まっていました。
世界恐慌に苦しむ中で従来の外交政策を転換したアメリカは、1934年にフィリピンの自治を認める法案を成立させ、翌1935年には独立準備政府を発足させて自治を認めると共に10年後の独立を約束する事になります。
⑤ タイ

ラーマ7世・Wikipediaより
東南アジア諸国の中で唯一独立を維持したタイでは、1925年にラーマ7世(チャクリ朝第7代の王、大王と呼ばれたラーマ5世の子、前王ラーマ6世の弟)が即位し、この頃、パリのタイ人留学生等によって結成された人民党(1927年設立)は絶対王制打倒・立憲君主制樹立を主張していました。
世界恐慌の影響と長年の財政窮乏によってタイ経済が悪化すると、ラーマ7世は官吏と軍人の整理・大幅減俸や重税の新設等を断行した為にチャクリ朝の専制政治に対する国民の反感が強まり、
1932年6月24日、人民党による立憲革命が勃発、人民党は軍部の同調者と共にクーデターを起こし、ラーマ7世に立憲君主制の樹立を認めさせ、同年、タイ最初の憲法が制定されます。
その後、立憲革命で台頭したピブン(1897年~1964年、タイの軍人)が首相となり(1938年)、1939年には国名をシャムからタイ(自由・自由民の意味)に改めます。
名言集
không có gì quý hơn độc lập, tự do
自由と独立ほど尊いものは何もない
続く・・・
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コメント
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2018-12-14 23:27 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
全く外に出たくないのですが、
用事があれば仕方ないか、と思いながら外出です。
やはり真冬の寒さに、
慣れません。
暖かい春が恋しいですね。
街は年末商戦の真っただ中、
大勢の買い物客でデパート、スーパーは人ばかりですね。
秋葉さんもお忙しいでしょうね!
2018-12-15 17:53 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
インフルエンザが流行っているようです。
今年もあと2週間余り、
忙しくしておられると思いますが、
インフルエンザにはご注意下さい。
まだ紅葉が見れますが、
カエデは茶色の葉が多いですね。
そのまま枯れ落ちるようです。
でも紅葉が遅くまで今年は見られます。
2018-12-16 20:17 葉山左京 URL 編集
No title
同僚のお土産で貰った ホーチミンさんのTシャツを職場で来ていましたが 当時は管理職のみの顰蹙で済みました。
時代の「右傾化」を感じる今日この頃です。
2018-12-17 09:07 小だぬき URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
昨日からの雨は、止みましたが、雲が多い朝を迎えています。
庭の水仙に最初の花が咲いてから約一週間、他の茎にも花芽がやっと出来始めました。
今年は暖冬に影響なのか、花に咲き方が良くない様です。
周りの山々も紅葉が、やっと始まっています。
今年は、激しい冷え込みが無いので、木々の紅葉も例年になく遅く感じます。
北九州市内では、寒い寒いと言う声は、余り聞こえません。
インフルエンザの予防接種は、今月始め、会社で一斉に行いました。
会社負担ですが、この時期にインフルエンザで休まれると、大きな戦力喪失になるので、昨年から全社員に実施しています。
本当に師走と云われる通り、忙しさも半端では在りません。
体調管理には、お互いに用心しましょう。
2018-12-17 09:18 秋葉 奈津子 URL 編集
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2018-12-17 22:46 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
風が無いとそう寒さは感じられません。
北九州では紅葉が今年は遅いですね。
まー、京都もまだ紅葉が見られますので、
地球温暖化の所為でしょうね。
気温は0℃の時もあり、
やはり寒さはかわらない?かもです。
京都は23日恒例の全国高校駅伝が開催されます。
見るのが楽しみです。
2018-12-18 20:25 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
体感は寒く感じられました。
しかし風が止むと、冬らしくない暖かさになりました。
師走らしくない天候ですが、
戦いの葉大歓迎ですね。
秋葉さんは大変忙しいでしょうね。
体調にはくれぐれもご注意下さい。
2018-12-19 19:46 葉山左京 URL 編集
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2018-12-19 23:26 編集
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2018-12-20 22:49 編集
秋葉奈津子様こんにちは。
久しぶりに休みになりました。
年末はお互いに忙しいですね。
この三連休は京都は人であふれています。
明日全国高校駅伝が開催されますので、
沢山の関係者の人も京都に来られているようです。
市内の乗り物は満員御礼でしょう。
2018-12-22 15:53 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 こんにちは。
先週は、会社行事や、取引先の行事が連続して、全くご挨拶が出来ませんでした。
昨日迄、雨が降ったり止んだりの1日でしたが、今日は大変良いお天気に恵まれ、暖かい日中になっています。
昨日の明け方と今日は、満月が大変明るく、西側のも窓から入る、月明かりで部屋の中が電灯を点けた様に明るくなりました。
どこかのスポットライトが、家に当たっているのかと思える程でした。
天気予報では、年末年始は寒波とのことなので、心配しています。
北九州で雪になると、交通が乱れて、大混乱になってしまいます。
気温の変化が激しい毎日、体調管理には、ご注意下さい。
2018-12-24 12:33 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんにちは。
晴れた青空が気持ちいいですね。
家の近くの楓がやっと真っ赤に色ずいてきました。
カエデの木は早くから色ずく木と、
シーズンの終わりごろ真っ赤になる種類があるようです。
今の時期は大変忙しいでしょうね。
年末は正月を迎えるのに皆さんお忙しいくしてあります。
あまり寒くならないといいのですが。
2018-12-24 15:05 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2018-12-24 23:33 編集
葉山左京様 こんにちは。
空には、雲一つ在りません。
朝は、4度迄下がりましたが、今は15度前後を維持してとても心地良い気分です。
クリスマスも終わりましたが、次はお正月がやって来ます。
年末寒波は、勘弁ですが、今日は、この良いお天気を満喫したいと思います。
今日は、取引先の皆さんを招いての懇親会が午後6時から行われます。
そんな関係で、私は、午後6時迄お休みを頂きました。
良いお天気で、日中のお休みは、ラッキーです。
2018-12-25 12:47 秋葉 奈津子 URL 編集