歴史を歩く202
42アジアの情勢⑨
7トルコ革命とイスラム諸国(その2)

カジャール朝イラン・Wikipediaより
第一次世界大戦前にイギリスとロシアによって分割されていたカジャール朝イラン(1796年~1925年)は、第一次世界大戦が始まると中立を宣言するものの、イギリス・ロシア両軍によって占領されます。
ロシア軍はロシア革命によって早期に撤退しますが、イギリスは戦後イランに対して政府閣僚や憲兵隊にイギリス人顧問を派遣する事等を定めた協定を迫り(1919年)、事実上イランを半植民地化します。

レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)・Wikipediaより
これに抵抗するイラン国民の激しい民族運動が起こり、政治的な混乱が続く中で、1921年2月にレザー・ハーンがクーデターを起こして実権を掌握します。
レザー・ハーン(レザー・シャー、レザー・シャー・パフレヴィー、1878年~1944年、在位1925年~41年)はカスピ海南岸マーザンダラーン出身で軍人となり、若くしてペルシア・コサック師団の将校と成り、イランに亡国の危機が陥ると、1921年2月に2500の兵を率いてテヘランを占領し、クーデターに成功しました。
レザー・ハーンはクーデター直後にペルシア軍の総司令官となって実権を掌握、1923年には首相に就任し、その後地方の諸政権を制圧したレザー・ハーンは議会でカジャール朝の廃止を決議し、1925年12月に自ら王位についてパフレヴィー朝(1925年~79年)を創始します。
レザー・ハーンは即位後、イギリスとの不平等条約の破棄を宣言して治外法権と関税自主権を回復し(1928年)、又トルコのケマル・アタテュルクを手本として婦人解放・教育改革等各種の改革を断行すると共に1935年には正式国名をペルシアからイランに改め、イラン人の民族的自立を鼓舞しました。
イギリスの保護国であったアフガニスタンは、1919年に独立を宣言し、イギリス・インド軍と衝突(第3次アフガン戦争、1919年)後、ラワルピンディー条約(1919年)によって正式に独立が承認されました。

アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード(1876年 - 1953年11月9日)・Wikipediaより
アラブ世界ではイブン・サウードがアラブの統一を掲げて活動します。
ネジド地方(アラビア半島中部)のリャドの豪族サウード家は、18世紀中頃にワッハーブ派と結んでワッハーブ王国(1744年頃~1818年、1823年~89年)を建国しますが、ワッハーブ王国は1889年にネジド北部のラシード家にリャドを奪われて滅亡し、この時、イブン・サウード(1876年~1953年、在位1932年~53年)は父と共にアラビア半島西岸の各地を放浪した後にクウェートに亡命します。

フサイン・イブン・アリー(1853年 - 1931年6月4日)・Wikipediaより
ワッハーブ王国の再興を目ざすイブン・サウードは、1901年に少数の部下と共にリャドを奪回してワッハーブ王国を復興し、第一次世界大戦中はイギリスに協力してアラビア半島中部の支配権を確立しますが、その頃、メッカでムハンマドの子孫と称して、ハーシム家に生まれたフセイン(フサイン、1852年頃~1931年)は、第一次世界大戦が始まるとカイロ駐在のイギリス高等弁務官マクマホンと接触し、アラブ人に独立国家を認めるフセイン・マクマホン協定(1915年)を結んで対トルコ戦を開始し、3人の息子と共にアラブの反乱を起こします(1915年)。

トーマス・ロレンス(アラブ民族衣装姿)・Wikipediaより
映画で有名な「アラビアのロレンス」(トーマス・ロレンス、1888年~1935年)は中東研究家であったが、第一次世界大戦が勃発するとイギリス陸軍情報将校としてカイロに派遣され、フセインの息子ファイサルと提携し、アラブ人ゲリラ部隊を編成してドイツ側に参戦したトルコ軍の後方撹乱に従事し、彼はアラブ人に扮してアラブ人部隊を率い、ゲリラ作戦によってアカバ、ダマスカスを占領します。
フセインは「アラブの王」と称したが、イギリスの反対でアラビア半島西岸のヒジャーズの王位につくことのみが認められた(ヒジャーズ王国、1916年~24年)ものの、1924年にワッハーブ派の指導者イブン・サウードと戦って敗れ、キプロスに亡命し、一方フセインを破ったイブン・サウードはヒジャーズ王国を併合し、ヒジャーズ・ネジド王国の成立を宣言し、ヒジャーズ・ネジド王と称し(1926年)、その後、イエメンを除くアラビア半島を統一したイブン・サウードは、1932年に国名をサウジアラビア王国と改称し、ワッハーブ派イスラム教を国教と定めました。

ファイサル1世・ビン・アル=フサイン・ビン・アリー・アル=ハーシミー(1883年5月20日 - 1933年9月8日)・Wikipediaより
第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領となったイラクでは、ハーシム家のファイサル(ファイサル1世、1885年?~1933年、在位1921年~33年、ヒジャーズ国王フセインの第3子)がイギリスに招かれて王位に就き、イギリスは、イギリス・イラク条約(1930年)で委任統治を廃止、1932年にイラクの正式独立を認め、イラクはアラブ諸国の中では最初に国際連盟に加盟を果たします(1932年)。
イギリスの委任統治下に置かれたトランスヨルダンでは、1921年にハーシム家のアブド・アッラーフ・ブン・フセイン(1882年~1951年、ヒジャーズ国王フセインの第2子)を太守とする土侯国が成立し、1928年にはトランスヨルダン王国となり、1946年に正式に独立します。
シリアでは、後にイラク国王となったファイサルがアラブ・シリア国民会議によって王位に就いて間も無く(1920年)、フランスによって追放され、シリアは1920年にフランスの委任統治領と成り、シリアから切り離されたレバノンも1920年にフランスの委任統治領と成りますが、その後、シリアは1936年に自治を認められ、1944年にシリア共和国として独立し、1946年には完全な独立国と成り、レバノンは1941年に独立を宣言し、1944年に共和国として独立しました。

イギリス委任統治領パレスチナ・Wikipediaより
パレスチナ地方については、第一次世界大戦中に、イギリスはフセイン・マクマホン協定(1915年)でアラブ人に対してトルコからの独立を約束し、一方でユダヤ人に対してもバルフォア宣言(1917年)でシオニズム(ユダヤ人の民族国家をパレスチナに建てようとする運動)を援助することを約束し、アラブ人・ユダヤ人の両方から協力を得る事になります。

1920年4月4日には、エルサレムでのムスリムのナビー・ムーサーの祭り・アラブ人、ユダヤ人の衝突事件・Wikipediaより
しかし、この相矛盾する約束は共に守られるはずは無く、パレスチナは戦後イギリスの委任統治領と成った為、アラブ・ユダヤ両民族はそれぞれの主権を主張してその対立は激化していきます。
第一次世界大戦後、特にドイツでナチス政権が成立した1933年以後、ユダヤ人のパレスチナへの移住が急増し、パレスチナにおけるユダヤ人の総人口は1919年の6万5000人から1939年の45万人に激増し、このためアラブ人の反発が強まり、アラブ・ユダヤ両民族の対立は更に激化し、現在迄続くパレスチナ問題が発生しました。
名言集
夜、疲れた心の片隅で夢見る者は、目覚めとともに夢の虚しさを知る。
だが、真昼に夢を見る者たちには心せよ。
彼らはしかと目を開き、夢を実現させるであろう。
The person who dreams at a corner at the heart tired in the evening knows the exhaustion of the dream as well as awaking.
But be careful in the persons who have a dream at noon.
They would open the eyes and make a dream come true certainly.
トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence)
続く・・・
7トルコ革命とイスラム諸国(その2)

カジャール朝イラン・Wikipediaより
第一次世界大戦前にイギリスとロシアによって分割されていたカジャール朝イラン(1796年~1925年)は、第一次世界大戦が始まると中立を宣言するものの、イギリス・ロシア両軍によって占領されます。
ロシア軍はロシア革命によって早期に撤退しますが、イギリスは戦後イランに対して政府閣僚や憲兵隊にイギリス人顧問を派遣する事等を定めた協定を迫り(1919年)、事実上イランを半植民地化します。

レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)・Wikipediaより
これに抵抗するイラン国民の激しい民族運動が起こり、政治的な混乱が続く中で、1921年2月にレザー・ハーンがクーデターを起こして実権を掌握します。
レザー・ハーン(レザー・シャー、レザー・シャー・パフレヴィー、1878年~1944年、在位1925年~41年)はカスピ海南岸マーザンダラーン出身で軍人となり、若くしてペルシア・コサック師団の将校と成り、イランに亡国の危機が陥ると、1921年2月に2500の兵を率いてテヘランを占領し、クーデターに成功しました。
レザー・ハーンはクーデター直後にペルシア軍の総司令官となって実権を掌握、1923年には首相に就任し、その後地方の諸政権を制圧したレザー・ハーンは議会でカジャール朝の廃止を決議し、1925年12月に自ら王位についてパフレヴィー朝(1925年~79年)を創始します。
レザー・ハーンは即位後、イギリスとの不平等条約の破棄を宣言して治外法権と関税自主権を回復し(1928年)、又トルコのケマル・アタテュルクを手本として婦人解放・教育改革等各種の改革を断行すると共に1935年には正式国名をペルシアからイランに改め、イラン人の民族的自立を鼓舞しました。
イギリスの保護国であったアフガニスタンは、1919年に独立を宣言し、イギリス・インド軍と衝突(第3次アフガン戦争、1919年)後、ラワルピンディー条約(1919年)によって正式に独立が承認されました。

アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード(1876年 - 1953年11月9日)・Wikipediaより
アラブ世界ではイブン・サウードがアラブの統一を掲げて活動します。
ネジド地方(アラビア半島中部)のリャドの豪族サウード家は、18世紀中頃にワッハーブ派と結んでワッハーブ王国(1744年頃~1818年、1823年~89年)を建国しますが、ワッハーブ王国は1889年にネジド北部のラシード家にリャドを奪われて滅亡し、この時、イブン・サウード(1876年~1953年、在位1932年~53年)は父と共にアラビア半島西岸の各地を放浪した後にクウェートに亡命します。

フサイン・イブン・アリー(1853年 - 1931年6月4日)・Wikipediaより
ワッハーブ王国の再興を目ざすイブン・サウードは、1901年に少数の部下と共にリャドを奪回してワッハーブ王国を復興し、第一次世界大戦中はイギリスに協力してアラビア半島中部の支配権を確立しますが、その頃、メッカでムハンマドの子孫と称して、ハーシム家に生まれたフセイン(フサイン、1852年頃~1931年)は、第一次世界大戦が始まるとカイロ駐在のイギリス高等弁務官マクマホンと接触し、アラブ人に独立国家を認めるフセイン・マクマホン協定(1915年)を結んで対トルコ戦を開始し、3人の息子と共にアラブの反乱を起こします(1915年)。

トーマス・ロレンス(アラブ民族衣装姿)・Wikipediaより
映画で有名な「アラビアのロレンス」(トーマス・ロレンス、1888年~1935年)は中東研究家であったが、第一次世界大戦が勃発するとイギリス陸軍情報将校としてカイロに派遣され、フセインの息子ファイサルと提携し、アラブ人ゲリラ部隊を編成してドイツ側に参戦したトルコ軍の後方撹乱に従事し、彼はアラブ人に扮してアラブ人部隊を率い、ゲリラ作戦によってアカバ、ダマスカスを占領します。
フセインは「アラブの王」と称したが、イギリスの反対でアラビア半島西岸のヒジャーズの王位につくことのみが認められた(ヒジャーズ王国、1916年~24年)ものの、1924年にワッハーブ派の指導者イブン・サウードと戦って敗れ、キプロスに亡命し、一方フセインを破ったイブン・サウードはヒジャーズ王国を併合し、ヒジャーズ・ネジド王国の成立を宣言し、ヒジャーズ・ネジド王と称し(1926年)、その後、イエメンを除くアラビア半島を統一したイブン・サウードは、1932年に国名をサウジアラビア王国と改称し、ワッハーブ派イスラム教を国教と定めました。

ファイサル1世・ビン・アル=フサイン・ビン・アリー・アル=ハーシミー(1883年5月20日 - 1933年9月8日)・Wikipediaより
第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領となったイラクでは、ハーシム家のファイサル(ファイサル1世、1885年?~1933年、在位1921年~33年、ヒジャーズ国王フセインの第3子)がイギリスに招かれて王位に就き、イギリスは、イギリス・イラク条約(1930年)で委任統治を廃止、1932年にイラクの正式独立を認め、イラクはアラブ諸国の中では最初に国際連盟に加盟を果たします(1932年)。
イギリスの委任統治下に置かれたトランスヨルダンでは、1921年にハーシム家のアブド・アッラーフ・ブン・フセイン(1882年~1951年、ヒジャーズ国王フセインの第2子)を太守とする土侯国が成立し、1928年にはトランスヨルダン王国となり、1946年に正式に独立します。
シリアでは、後にイラク国王となったファイサルがアラブ・シリア国民会議によって王位に就いて間も無く(1920年)、フランスによって追放され、シリアは1920年にフランスの委任統治領と成り、シリアから切り離されたレバノンも1920年にフランスの委任統治領と成りますが、その後、シリアは1936年に自治を認められ、1944年にシリア共和国として独立し、1946年には完全な独立国と成り、レバノンは1941年に独立を宣言し、1944年に共和国として独立しました。

イギリス委任統治領パレスチナ・Wikipediaより
パレスチナ地方については、第一次世界大戦中に、イギリスはフセイン・マクマホン協定(1915年)でアラブ人に対してトルコからの独立を約束し、一方でユダヤ人に対してもバルフォア宣言(1917年)でシオニズム(ユダヤ人の民族国家をパレスチナに建てようとする運動)を援助することを約束し、アラブ人・ユダヤ人の両方から協力を得る事になります。

1920年4月4日には、エルサレムでのムスリムのナビー・ムーサーの祭り・アラブ人、ユダヤ人の衝突事件・Wikipediaより
しかし、この相矛盾する約束は共に守られるはずは無く、パレスチナは戦後イギリスの委任統治領と成った為、アラブ・ユダヤ両民族はそれぞれの主権を主張してその対立は激化していきます。
第一次世界大戦後、特にドイツでナチス政権が成立した1933年以後、ユダヤ人のパレスチナへの移住が急増し、パレスチナにおけるユダヤ人の総人口は1919年の6万5000人から1939年の45万人に激増し、このためアラブ人の反発が強まり、アラブ・ユダヤ両民族の対立は更に激化し、現在迄続くパレスチナ問題が発生しました。
名言集
夜、疲れた心の片隅で夢見る者は、目覚めとともに夢の虚しさを知る。
だが、真昼に夢を見る者たちには心せよ。
彼らはしかと目を開き、夢を実現させるであろう。
The person who dreams at a corner at the heart tired in the evening knows the exhaustion of the dream as well as awaking.
But be careful in the persons who have a dream at noon.
They would open the eyes and make a dream come true certainly.
トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence)
続く・・・
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2019-01-08 23:02 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
人出は多いようです。
近畿各地で雪がぱらぱら降っています。
今年の十日恵比寿は例年と違って、
京都でも雪降りです。
北九州はいかがですか。
暖冬の方が私はいいのですが。
2019-01-09 17:41 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
暖冬の為か、比較的暖かい毎日が続いていますが、スッキリとした晴れの日が中々回ってきません。
青空が懐かしく思えます。
北九州では、雨になっても雪は降りません。
普段なら雪が降ってもおかしくない時期ですが、朝の気温も5度前後あり、布団が恋しい事は余り在りません。
山口県の江津付近が、雨と雪の堺になっている様ですが、流石に京都は寒さが厳しい様ですね。
私の周囲では、風邪ひきさんが沢山です。
体調管理には、十分ご注意ください。
2019-01-10 06:12 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
寒さが去ってくれません。
北九州の方が暖かいようですね。
こちらも風邪引きさんが増えています。
地下鉄の中はマスク姿が多くなりました。
ほんとに風邪には用心しなくてはいけませんね。
2019-01-10 20:48 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
夜明けは、午前7時位にならないと、明るくなりません。
冬至を過ぎてこれから、少しづつ日が伸びていきますが、2月は寒さの底。
暖かい春を待つ気持ちが募ります。
周囲で風邪引き参加たくさんです。
昨日も信号待ちしていたら、隣の車から大きなくしゃみが連発。
思わず、そちらを見てしまいました。
手洗い、うがいは必須ですね。
2019-01-11 07:34 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
春が待ちどうしいですね。
夕方の暮れるのが言われる通り、
少し遅くなりましたね。
やはり明るさが長い方が気分まで明るくなります。
まだ梅の便りはありませんが、
寒桜は近くの公園に咲いています。
2019-01-11 21:20 葉山左京 URL 編集
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2019-01-11 23:36 編集
葉山左京様 おはようございます。
今日も寒さを余り感じません。
街中もクリスマスやお正月の装飾が、殆どなくなって、普段に姿に戻っています。
北九州市内では、山手を中心に猪の徘徊が多くなり、一部では猟友会の出動も予定されています。
自然の中に人間が入りすぎた結果なのか、山に食べ物が無くなり、人間の生活圏迄現れたのか考えさせられます。
猪は今年の干支、私の干支でもあり、複雑な気持ちです。
梅は日当りの良い場所では、咲いていますよ。
京都ももう直ぐでは、ないでしょうか?
2019-01-12 10:50 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
一日中寒さがつのる土曜日でした。
この寒さでは外に出る気にはなれません。
北風に枯葉が道の端に寄せられカサカサとつぶやいています。
それでも遊歩道には犬を連れたり、ジョギングやウォーキングの人々がいます。
私のような寒がりばかりではないのですね。
秋葉さんも風邪にはお気を付けください。
2019-01-12 16:34 葉山左京 URL 編集
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2019-01-13 00:06 編集
葉山左京様 こんばんは。
雨⇒晴れ⇒曇り⇒雨⇒晴れ。
これでは、狐の嫁入りも大変でしょうね!
中々スッキリとしたお天気が廻ってきません。
これも暖冬の影響でしょうか?
周囲は風邪引きさんが沢山です。
用心!用心!
2019-01-13 18:34 秋葉 奈津子 URL 編集
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2019-01-13 23:35 編集
葉山左京様 おはようございます。
先程迄朝日が眩しかったのですが、今は雲が広がっています。
今日の14日は、長いことお世話位なった城野町の氏神様で、どんど焼き。
11時から火入れと神事ですが、雨に成らない様に願ってます。
2019-01-14 09:09 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
昨日は全国都道府県対抗女子駅伝がありました。
青空が広がりいい天気の下、
マラソンランナーも走りやすかったのではないでしょうか。
私は仕事で見に行かれませんでしたが、
仕事場の近くを駅伝選手走っていました。
毎年のことながら楽しみにしています。
2019-01-14 16:33 葉山左京 URL 編集
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2019-01-14 23:43 編集
葉山左京様 おはようございます。
その様な風景の中、何時も通る峠道で、別府市の後ろに聳える、鶴見岳がはっきり見えました。
運転中で、車を止める場所も無かったのですが、北九州市から直線で約60km離れていますが、その姿を見たときは、新鮮な気分でした。
何時も通る道でも、驚きがあります。
冬は、マラソンやサッカー、ラグビー等には適した気候と思います。
来年の東京オリンピックでは、これらの出場選手は、さぞや大変でしょう。
2019-01-15 07:52 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
昨日今日と風がほとんどなく、
体感は暖かく感じられました。
風が無いとこんなに違うものなのですね。
峠から別府市の後ろに聳える、鶴見岳が見られるのですか、
素晴らしいですね。
結構距離はないのですね。
2019-01-15 20:37 葉山左京 URL 編集
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2019-01-15 23:53 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
夕方仕事帰りで遊歩道筋を通っていますと、
まだ青空が残っていました。
大分夕暮れが遅くなってきた感じです。
寒さが和らぐと春が近ずいて来ているのかと、錯覚してしまいます。
まだ先なのに気持ちは春を迎えています。
2019-01-16 22:12 葉山左京 URL 編集
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2019-01-16 23:46 編集
葉山左京様 こんばんは。
冬らしい寒い1日です。
木曜日も未だ気温が低いようですが、それも週末には又元に戻りそうです。
暖冬は、寒さも余り感じず嬉しい事ですが、これから先の気候も気になります。
私の周囲では、インフルエンザが蔓延し始めました。
体調管理には、十分ご注意ください。
2019-01-17 00:00 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
渡り鳥の鴨やカワウが飛んできて群れています。
やはり真冬です。
と言っても寒い寒いと言いながらも、
今年は昨年よりまだ暖かい気がします。
暖かい日々が早く戻ってほしいものです。
2019-01-17 20:50 葉山左京 URL 編集
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2019-01-17 23:23 編集
葉山左京様 おはようございます。
昨日迄の冬らしい寒さも、終わったようです。
部屋の暖房も、用心しないと室温が上がり過ぎます。
今、窓から約40km離れた、遠賀郡の湯川山迄はっきりと見えています。
雨と風が大気の汚れを一掃してくれました。
気持ちの良い朝の一時です。
京都は自然が豊かですね。
鴨の姿は此方でも見る事(北九州市内でも数少ない砂浜付近)で見る事ができますが、川鵜は流石に見た事が在りません。
海鵜は、住友金属小倉工場の紫川河口に沢山居ます。
この紫川は、昭和40年代初期、汚染され悪臭を放つ川でしたが、今は鮎や鮭が遡上する川になり、河口から市庁舎付近は、川辺の散策道路も備えた川に変わりました。
公害都市北九州市の汚名を返上した川でもあります。
2019-01-18 09:12 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
寒さが身に凍みる感じが薄れてきました。
言われる通り、
京都は周囲を山に囲まれ、
自然豊かな街です。
京都の鴨川も山科川も昔はヘドロで汚染されていました。
でも今はアユやコイやフナなども沢山泳いでいます。
清流になっていますね。
どこの都市の川も昔は汚れていたのではないでしょうか。
2019-01-18 20:56 葉山左京 URL 編集
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2019-01-18 23:43 編集
葉山左京様 おはようございます。
洗濯日和の1日になりそうです。
朝晩の冷え込みは、結構辛いですが、日中は10度台半ばになりそうです。
昨晩は、久しぶりにオリオン座やおおいぬ座を眺める事が出来ました。
澄んだ空気の御蔭で星達の瞬きも何時も以上でした。
夜空を眺めるのは、気持ち良いものです。
北九州市の大気汚染は深刻でした。
喘息の発症者が多くて(私も小児喘息でした)小学校が、移転した例もある程です。
昭和の50年代初期、私が高校生の頃、大分県と福岡県の境にある、英彦山に友人達と登った時、間近に阿蘇外輪山や別府湾、豊前海は夏の強い日差しを受けて、輝いているのですが、北九州市の方向は薄らと灰色に見えて、皆驚いたものです。
それから、約40年が経ち、本当に綺麗に成ったと思いますよ。
2019-01-19 09:08 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
でも雲で覆われた空より、
満月が照らす明るい夜の方がいいですね。
昼間は晴れていますので、
体感は暖かく感じられます。
現代は環境汚染問題が深刻化して以来、
私たちの周りは随分大気汚染や川の汚染が少なくなりました。
各河川に魚たちが住みだし、
それを食べる鳥たちも多くなりました。
このまま地球を大事にしていかなければなりませんね。
2019-01-19 21:20 葉山左京 URL 編集
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2019-01-19 23:55 編集
葉山左京様 おはようございます。
中々良いお天気が、長続きしません。
自宅の周りでは、ナンテンの赤い実、蝋梅の黄色が冬枯れの景色の中で、鮮やかに見えます。
春が待ち遠しく思えます。
昭和40年代に小学生。中学生だったので、当時の公害問題は、授業で取り上げられる程でした。
教科書には、田子の浦、川崎と並んで、北九州市八幡の名前も上がっていて、ショックを覚えました。
当時を考えると、本当に綺麗に成ったと思いますよ。
2019-01-20 07:09 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
寒いのに雪にはなりませんでした。
北九州市もきれいになりましたね。
あちらこちらのコンビナートの
煤煙が問題になり、
新聞紙上をにぎわせたように思います。
ずいぶん昔のことですが。
しかし地球温暖化の問題は深刻な状況です。
人類は地球をもとの状況に戻すことはできないでしょうね。
2019-01-20 21:09 葉山左京 URL 編集
管理人のみ閲覧できます
2019-01-20 23:25 編集
葉山左京様 こんにちは。
これから、2月いっぱいは寒さの底になります。
暦の上では、2月の4日には立春がやって来ますが、本当の春は3月のお彼岸頃でしょうか。
インフルエンザが蔓延しています。
体調管理には、十分ご注意下さいね。
私が小学生の頃は、ニュースで流れるのは、学生運動、ベトナム戦争、公害の話題がほぼ毎日の様に報道されていました。
昭和40年代初期、北九州市の公害は本当に凄かったです。
煤煙、廃液の垂れ流し、更に田畑は農薬で、これも今思えば恐ろしい事です。
昭和43年のカネミ油症事件は、今でも遺恨を残す事件ですが、当時は沢山の公害訴訟が起こり、今もなお係争中のものもある程です。
今、当に中国がこの状態ですが、国家が人民を抑え込んでいるので、表には先ず現れません。
又、桜蘭の遺跡で有名なココノールでは、1950年代末期から70年代迄、度重なる核実験で多数の被爆者を発症させている事実も公表されていません。
大陸の大気汚染は本当に恐ろしい問題です。
2019-01-21 11:36 秋葉 奈津子 URL 編集