歴史を歩く208
43ファシズムの台頭⑥
6日本軍部の台頭と満州事変

鹿子木孟郎《大正十二年九月一日》1924年、 東京都現代美術館蔵
第一次世界大戦が終わった1920年、日本は大戦景気の反動から戦後恐慌に襲われ、更に関東大震災(1923年9月)によって日本経済は大打撃を受け、1927年3月には震災手形(関東大震災の為に支払えなくなった手形)の処理を巡る金融恐慌が発生し、銀行・会社の倒産が続出しました。

張作霖爆殺事件『歴史と人物 昭和61年冬号』
その直後に成立した田中内閣(1927年4月~29年7月)は金融恐慌の処理に応たると共に、対外的には中国に対して積極外交(強硬外交)を展開し、山東出兵(1927年5月~28年5月)を行って済南事件(1928年5月、日本軍と北伐軍の衝突事件)を起こします。
しかし、田中内閣は張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928年6月)の責任問題で退陣し、浜口内閣(1929年7月~31年4月)が成立しました。

大根を噛じる欠食児童
浜口内閣の成立からまもなく世界恐慌が始まり、浜口内閣はこの時期に金解禁(1930年1月)を断行した結果、大量の金流出・企業の倒産・失業者の増大を招き、日本経済は深刻な不況に陥って行きます(昭和恐慌)。
鉱工業生産は1926年を100とすると、1931年には75に落ちこみ、失業者は50万人近くに達し(帰農者を含めると300万人以上とも云われている)、労働争議が多発、又生糸・米の値段の暴落や北海道・東北の冷害・大凶作で農村の困窮が深刻化し、小作争議が激増し、欠食児童や娘の身売り等が社会問題となりました。

ロンドン海軍軍縮条約
浜口内閣(外相は幣原(しではら)喜重郎)は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護を図りますが、陸軍を主体とする軍部は、幣原外交を軟弱外交として非難し、これに強く反対し、特に政府が軍令部の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を調印した事は、天皇の統帥権(とうすいけん、軍隊の指揮統率権)を犯すものとして政府を激しく攻撃しました。

事件直後の柳条湖の爆破現場
この様な動きと結びついて、軍部内では世界恐慌による国内の危機を打開するために満州(当時の日本における中国東北地方の呼称)・内蒙古全域を植民地とし、その為に満蒙問題を武力で解決しようとする動きが強まって行きます。
1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍(関東州(旅順・大連とその付属地域)と南満州鉄道の警備を主任務とする日本陸軍部隊)の一部部隊は奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自等爆破し、これを張学良軍の破壊行為として軍事行動を起こし(柳条湖事件)、翌朝迄に奉天全市を占領しました。
この日本軍の行動に対して蒋介石は不抵抗政策を命じ、張学良がそれに従った結果、関東軍は極めて短期間に長春・営口・吉林等満鉄沿線の主要都市を占領します。

満州国の建国時のポスター
「五族協和」を示しており、右から日本・モンゴル族・満州族・朝鮮族・漢民族を表す。
第2次若槻内閣(1931年4月~31年12月)は不拡大方針を表明(1931年9月24日)しますが、関東軍は更に満州全域に軍を進め、翌1932年2月にはハルビンを占領し、開戦以来約半年で熱河を除く満州全域をほぼ制圧、1932年3月には満州国を建国しました。
上記の軍部による一連の行動が満州事変(1931年9月~32年3月)であり、柳条湖事件は満州事変以後、日中(日支事変・支那事変)戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)迄の十五年戦争(1931年9月~45年8月)の発端となりました。

柳条湖に於いて南満州鉄道線路の爆破現場を検証するリットン調査団
中国国民政府は日本の軍事行動に対して不抵抗政策を採ると共に、国際連盟に提訴(1931年9月21日)します。
しかしながらリットン調査団が編成されたのは1931年末で、調査団は1932年2月から9月にかけて中国・日本を視察して10月に報告書を提出しますが、その時には既に満州国が建国された後でした。

上海北停車場方面第一線に展開する帝国海軍陸戦隊
柳条湖事件に次いで、1932年1月には上海事変が勃発し、満州事変以来、排日運動が激化していた上海で日本人の日蓮宗僧侶が殺傷される事件(この事件も日本軍による謀略とされている)が起こると、日本軍は軍事行動を起こし、中国軍と戦闘状態に突入します。
陸海軍の増援を得た日本軍は2月下旬から総攻撃を行い、激戦が続き、3月初め頃から中国軍の抵抗が弱まった事から戦闘はほぼ終わり、5月に停戦協定が結ばれました。

天津時代の溥儀と婉容
日本は、列強の目が上海に注がれている間に満州国建設の計画を進め、当時天津の日本租界の近くに蟄居していた清朝最後の宣統帝溥儀(1906年~67年、清朝皇帝・在位1908年~12年、満州国皇帝・在位1934年~45年)を天津から連れ出し(1931年11月)、1932年3月1日に溥儀を執政とする満州国の建国を宣言、その後満州国は帝政に移行した為、溥儀は満州国皇帝の地位に就きました(1934年3月)。

日満議定書に基づく満州国承認とそれに伴うポスター
日本は、1932年9月に満州国を承認し、日満議定書を締結します。
日満議定書で、満州国は日本がそれまで満蒙において有していた全ての権益を承認し、日本の駐兵権を全国に拡大することを認め、又満州国政府の重要なポストは日本人顧問・官吏を登用する事により実権を掌握した結果、満州国は完全に傀儡(かいらい)政権であり、事実上日本の植民地でした。
この間、日本国内では1932年5月15日に、海軍青年将校と右翼が首相官邸等を襲って犬養首相(在任1931年12月~32年5月)を暗殺する五・一五事件が起こり、この事件によって政党政治は終わりを告げ、以後軍部の発言権がますます強くなって行きます。

山海関占領
1932年10月にはリットン調査団の報告書が発表されます。
報告書は、日本の満州に於ける権益は保護されるべきであるとしながらも、満州事変を日本の侵略行為とし、満州国は満州人の自発的独立運動でないとして満州国を認めず、満州を中国の一部として強い自治権を持たせて国際連盟の管理下に置く事を提案しています。
日本はこれに対して国際連盟理事会で直ちに反駁する一方で、翌1933年1月には山海関を占領し、次いで熱河省(省都は承徳、現在の河北省の北部)を満州国の一部と主張して侵攻を開始し(1932年2月)、この行動が国際連盟を刺激する結果と成ります。

連盟よ、さらば!
1933年2月24日、国際連盟総会でリットン調査団報告に基づく日本軍の満州撤退勧告案が42対1(反対の1は日本)で採択されると、松岡洋右(ようすけ)日本代表は席を退場し、日本は3月27日に国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩みます。
日本軍は、日本の国際連盟脱退後、1933年4月には長城を越えて華北に侵入して北京に迫り、中国は停戦を申し入れ、5月末に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれました。
これによって中国は満州国の存在を事実上承認し、又長城以南に非武装地域を設置する事を約束しますが、更に日本軍は、1935年に入ると再び防共を名目として内蒙古・華北に侵攻し、非武装地域(河北省東部)に冀東(きとう)防共自治政府(傀儡政権)を成立させ、国民政府からの分離・独立を宣言させました。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成29年5月1日 北九州市小倉南区若宮神社境内
6日本軍部の台頭と満州事変

鹿子木孟郎《大正十二年九月一日》1924年、 東京都現代美術館蔵
第一次世界大戦が終わった1920年、日本は大戦景気の反動から戦後恐慌に襲われ、更に関東大震災(1923年9月)によって日本経済は大打撃を受け、1927年3月には震災手形(関東大震災の為に支払えなくなった手形)の処理を巡る金融恐慌が発生し、銀行・会社の倒産が続出しました。

張作霖爆殺事件『歴史と人物 昭和61年冬号』
その直後に成立した田中内閣(1927年4月~29年7月)は金融恐慌の処理に応たると共に、対外的には中国に対して積極外交(強硬外交)を展開し、山東出兵(1927年5月~28年5月)を行って済南事件(1928年5月、日本軍と北伐軍の衝突事件)を起こします。
しかし、田中内閣は張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928年6月)の責任問題で退陣し、浜口内閣(1929年7月~31年4月)が成立しました。

大根を噛じる欠食児童
浜口内閣の成立からまもなく世界恐慌が始まり、浜口内閣はこの時期に金解禁(1930年1月)を断行した結果、大量の金流出・企業の倒産・失業者の増大を招き、日本経済は深刻な不況に陥って行きます(昭和恐慌)。
鉱工業生産は1926年を100とすると、1931年には75に落ちこみ、失業者は50万人近くに達し(帰農者を含めると300万人以上とも云われている)、労働争議が多発、又生糸・米の値段の暴落や北海道・東北の冷害・大凶作で農村の困窮が深刻化し、小作争議が激増し、欠食児童や娘の身売り等が社会問題となりました。

ロンドン海軍軍縮条約
浜口内閣(外相は幣原(しではら)喜重郎)は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護を図りますが、陸軍を主体とする軍部は、幣原外交を軟弱外交として非難し、これに強く反対し、特に政府が軍令部の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を調印した事は、天皇の統帥権(とうすいけん、軍隊の指揮統率権)を犯すものとして政府を激しく攻撃しました。

事件直後の柳条湖の爆破現場
この様な動きと結びついて、軍部内では世界恐慌による国内の危機を打開するために満州(当時の日本における中国東北地方の呼称)・内蒙古全域を植民地とし、その為に満蒙問題を武力で解決しようとする動きが強まって行きます。
1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍(関東州(旅順・大連とその付属地域)と南満州鉄道の警備を主任務とする日本陸軍部隊)の一部部隊は奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自等爆破し、これを張学良軍の破壊行為として軍事行動を起こし(柳条湖事件)、翌朝迄に奉天全市を占領しました。
この日本軍の行動に対して蒋介石は不抵抗政策を命じ、張学良がそれに従った結果、関東軍は極めて短期間に長春・営口・吉林等満鉄沿線の主要都市を占領します。

満州国の建国時のポスター
「五族協和」を示しており、右から日本・モンゴル族・満州族・朝鮮族・漢民族を表す。
第2次若槻内閣(1931年4月~31年12月)は不拡大方針を表明(1931年9月24日)しますが、関東軍は更に満州全域に軍を進め、翌1932年2月にはハルビンを占領し、開戦以来約半年で熱河を除く満州全域をほぼ制圧、1932年3月には満州国を建国しました。
上記の軍部による一連の行動が満州事変(1931年9月~32年3月)であり、柳条湖事件は満州事変以後、日中(日支事変・支那事変)戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)迄の十五年戦争(1931年9月~45年8月)の発端となりました。

柳条湖に於いて南満州鉄道線路の爆破現場を検証するリットン調査団
中国国民政府は日本の軍事行動に対して不抵抗政策を採ると共に、国際連盟に提訴(1931年9月21日)します。
しかしながらリットン調査団が編成されたのは1931年末で、調査団は1932年2月から9月にかけて中国・日本を視察して10月に報告書を提出しますが、その時には既に満州国が建国された後でした。

上海北停車場方面第一線に展開する帝国海軍陸戦隊
柳条湖事件に次いで、1932年1月には上海事変が勃発し、満州事変以来、排日運動が激化していた上海で日本人の日蓮宗僧侶が殺傷される事件(この事件も日本軍による謀略とされている)が起こると、日本軍は軍事行動を起こし、中国軍と戦闘状態に突入します。
陸海軍の増援を得た日本軍は2月下旬から総攻撃を行い、激戦が続き、3月初め頃から中国軍の抵抗が弱まった事から戦闘はほぼ終わり、5月に停戦協定が結ばれました。

天津時代の溥儀と婉容
日本は、列強の目が上海に注がれている間に満州国建設の計画を進め、当時天津の日本租界の近くに蟄居していた清朝最後の宣統帝溥儀(1906年~67年、清朝皇帝・在位1908年~12年、満州国皇帝・在位1934年~45年)を天津から連れ出し(1931年11月)、1932年3月1日に溥儀を執政とする満州国の建国を宣言、その後満州国は帝政に移行した為、溥儀は満州国皇帝の地位に就きました(1934年3月)。

日満議定書に基づく満州国承認とそれに伴うポスター
日本は、1932年9月に満州国を承認し、日満議定書を締結します。
日満議定書で、満州国は日本がそれまで満蒙において有していた全ての権益を承認し、日本の駐兵権を全国に拡大することを認め、又満州国政府の重要なポストは日本人顧問・官吏を登用する事により実権を掌握した結果、満州国は完全に傀儡(かいらい)政権であり、事実上日本の植民地でした。
この間、日本国内では1932年5月15日に、海軍青年将校と右翼が首相官邸等を襲って犬養首相(在任1931年12月~32年5月)を暗殺する五・一五事件が起こり、この事件によって政党政治は終わりを告げ、以後軍部の発言権がますます強くなって行きます。

山海関占領
1932年10月にはリットン調査団の報告書が発表されます。
報告書は、日本の満州に於ける権益は保護されるべきであるとしながらも、満州事変を日本の侵略行為とし、満州国は満州人の自発的独立運動でないとして満州国を認めず、満州を中国の一部として強い自治権を持たせて国際連盟の管理下に置く事を提案しています。
日本はこれに対して国際連盟理事会で直ちに反駁する一方で、翌1933年1月には山海関を占領し、次いで熱河省(省都は承徳、現在の河北省の北部)を満州国の一部と主張して侵攻を開始し(1932年2月)、この行動が国際連盟を刺激する結果と成ります。

連盟よ、さらば!
1933年2月24日、国際連盟総会でリットン調査団報告に基づく日本軍の満州撤退勧告案が42対1(反対の1は日本)で採択されると、松岡洋右(ようすけ)日本代表は席を退場し、日本は3月27日に国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩みます。
日本軍は、日本の国際連盟脱退後、1933年4月には長城を越えて華北に侵入して北京に迫り、中国は停戦を申し入れ、5月末に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれました。
これによって中国は満州国の存在を事実上承認し、又長城以南に非武装地域を設置する事を約束しますが、更に日本軍は、1935年に入ると再び防共を名目として内蒙古・華北に侵攻し、非武装地域(河北省東部)に冀東(きとう)防共自治政府(傀儡政権)を成立させ、国民政府からの分離・独立を宣言させました。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成29年5月1日 北九州市小倉南区若宮神社境内
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コメント
管理人のみ閲覧できます
2019-04-26 20:47 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
蒸し暑く感じられました。
今までの寒さが後退し、
もう初夏の暑さになりました。
うれしい暑さです。
明日から10連休が始まります。
観光地はどこもいっぱいでしょうね。
今ツツジやアヤメにコテマリ、八重桜、
牡丹にシャクナゲもう一度に咲いた感じがします。
美しい季節です。
2019-04-26 21:03 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
夜明けが早くなり、もう朝も辛くないですね。
市内のツツジは何処も満開、市内に在る自然公園は、何処も花ざかりで休日になると、周辺の道路は大渋滞です。
今日からの連休でも大盛況でしょう。
今回の大型連休、喜んでいるのは、子供達と公務員位でしょうか。
私達の様に流通に携わっている者は、当に地獄です。
之は、大手の製造業も同じのようで、今年は暦の通りに操業する企業も少なく在りません。
恒例の店舗応援も、GWイベントを4/27から4/29と5/3から5/6に分けて行います。
10日間のイベントは、絶対中だるや終盤にお客様の飽きが来るので、メリハリをつけた方が良い結果が出ます。
又5/1は、新天皇陛下をお祝いして、一部の社員以外は、全員お休みです。
やはり、休みを取らないと、良い仕事は出来ません。
2019-04-27 08:21 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
北風が強く冬が戻ってきた感じの、
寒い一日でした。
皆さんは10連休楽しんでおられるようですね。
私は飛び飛びの休みがもらえますが、
連休などない方がいい感じがします。
京都は観光客を迎えて、
会い変な人出になるようです。
2019-04-27 21:31 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
気温も当初に比べると、低いようです。
平成もいよいよ、カウントダウンが始まりました。
平成時代の思い出を振り返って見たいと思います。
私のお休みも先ずは29日、30日です。
5月1日は、仕事の性質上休む事が出来ないので、何処かで振替休日の予定です。
私個人としては、余り人出の多い時期には、何処にも行きたくない気持ちです。
2019-04-28 06:50 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
周囲の風景もベールを掛けた様に霞んで見えます。
大型連休の為か、静かな朝を迎えました。
2019-04-29 07:26 秋葉 奈津子 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
また冬のセーターを出しました。
初夏の候になりこのまま暑くなるかと思っていたのですが、
冬に逆戻りです。
10連休も前半は天気が悪いようですし、
後半暑くなるでしょうか。
子供たちは楽しみでしょうが、
晴れるといいですね。
2019-04-29 17:32 葉山左京 URL 編集
秋葉奈津子様こんばんは。
また冬のセーターを出しました。
初夏の候になりこのまま暑くなるかと思っていたのですが、
冬に逆戻りです。
10連休も前半は天気が悪いようですし、
後半暑くなるでしょうか。
子供たちは楽しみでしょうが、
晴れるといいですね。
2019-04-29 17:33 葉山左京 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
この雨で、雑草が一気に目立ち始めました。
北九州市も最高気温20度と先週に比べると、やや低めです。
毎年恒例の店舗応援ですが、フラガール姿では、少々寒かったですよ。
子供の頃、連休は大変貴重で、ゴールデンウィークに限らず、ワクワクしたものです。
当時は、祝日と日曜日が重なったら、アウト!
振替休日なんてありませんから、大きなショックでした。
やはり、お休みの日は、お天気が一番ですね。
平成最後の1日。
令和からも宜しくお願い致します。
2019-04-30 07:21 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
より良い時代になる事を願っています。
2019-05-01 06:34 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
街中は、普段と違って、大変静かな朝を迎えました。
明日から、ゴールデンウィーク後半、暖かい良いお天気になる事を期待します。
2019-05-02 06:46 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
午前5時前には、空が白くなってきます。
夕暮れは、19時半位になりましたが、20時前迄は、濃紺の空が広がります。
竹の葉に付いた夜露が、朝日で光っています。
今日も暖かい良いになりそうです。
2019-05-03 07:13 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
日中は暑い毎日です。
昨日は、関門トンネルも関門橋も上下線共に、ラッシュアワー以上の大渋滞が終日続きました。
九州の観光地は、何処も凄い人出だった様です。
今日からは、帰省ラッシュでしょうか?
2019-05-04 06:35 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
うぐいすの声が、今日は久しぶり聞こえました。
自宅裏の大きな木には、ツバメやヒヨドリの巣が、有る様で朝から盛んに飛び回っています。
明日は「立夏」。
暦も夏に成ります。
2019-05-05 06:27 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
暦の上でも、夏がやって来ました。
これから、しばらくの間は、心地良い季節が続きます。
2019-05-06 06:31 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
今日から、普段の生活に戻る方も多い事でしょう。
初夏にふさわしい、爽やかな朝です。
2019-05-07 06:50 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
街中に何時も喧騒が、戻って来ました。
街路の木々が、緑の葉を付け、明るいイメージです。
やはり、これからの季節は、気持ちが良いですね。
2019-05-08 06:47 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
早起きの鳥さん達に今日も起こされました。
ツバメやヒヨドリが、元気に飛び回っています。
昨晩は、西の空に大きな三日月の姿が見えました。
その綺麗な姿に感動です。
2019-05-11 07:53 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
昨日は、一番小さな電子カーペット1枚を残して、暖房器具を片付けました。
部屋の中が、少し広くなった様です。
次は、いよいよ冬物、厚手の衣類の整理です。
2019-05-12 06:54 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
今日は、振替の代休なので、家でのんびりしたいですね。
今週は、先のゴールデンウィークの代休が未だあるので、何をするか思案中です。
2019-05-13 08:45 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
室内に天然の風を通すと、爽やかな気分に成ります。
昨晩から雲が広がりましたが、未だお天気の崩れが無さそうです。
2019-05-14 07:39 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
でも、涼しい風が窓から入ってきます。
天気予報は、午後から雨。
いよいよ、北部九州も梅雨入りでしょうか?
ツバメ達は、元気に飛び回っています。
葉山左京様、お元気にされてますか?
2019-06-14 06:43 秋葉 奈津子 URL 編集
葉山左京様 おはようございます。
まとまった雨は先月の18日以来です。
いよいよ梅雨入りでしょうか?
2019-06-15 06:13 秋葉 奈津子 URL 編集