歴愛を歩く210
43ファシズムの台頭⑧
7抗日民族戦線の成立と日中戦争(その2)

張 学良(1901年6月3日 - 2001年10月14日)
蒋介石は陜西省北部の共産党の根拠地に対する攻撃を継続、張学良の東北軍と楊虎城の西北軍を派遣して更なる攻撃を命じます。
張学良の指揮する東北軍は、満州事変で故郷を追われて華北に移動した軍隊で、その将兵達は満州の地に戻って日本軍と戦う事を望んでいました。
内戦停止・一致抗日に傾いた張学良は共産党と協定を結び、1936年前半以後東北軍と共産党軍は停戦状態にあったのです。

華清池
1936年12月、紅軍との戦闘に消極的な張学良と楊虎城を督戦する為に蒋介石自ら、西安に乗り込んで来ます。
張学良は蒋介石に内戦停止と抗日の必要を強く訴えますが、蒋介石はこれを拒否、意を決した張学良は、1936年12月12日未明、西安郊外の華清池(玄宗皇帝と楊貴妃で有名な地)にあった蒋介石の宿舎を軍隊で襲撃し、蒋介石を捕らえて監禁します。
張学良は、国民党の改組・内戦停止・政治犯の釈放等8項目を宣言し、蒋介石に政策の転換を迫りますが、蒋介石はこれに応じず、新たな内戦の危機が迫っていました。

軟禁中の蒋介石と関係者:Wikipediaより
この時、中国共産党は周恩来を西安に派遣して蒋介石を説得し、事件の平和的な解決に大きな役割を果たし、最終的に蒋介石は説得に応じて内戦の停止等8項目を認める事を約束して25日に釈放されて南京に戻ります。
この一連の出来事が、後に西安事件と呼ばれる有名な事件です。
この西安事件を契機として、1927年以来10年に及んだ内戦は停止され、日中戦争が勃発すると第二次国共合作が成立(1937年9月)、抗日民族統一戦線が結成されました。
この事件により中国全土の抗日気運は高まり、日中の対立は避けられないものと成りました。

尾崎秀実・リヒャルト ゾルゲ
又当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測、対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関、昭和研究会へ参加する事となり、以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けと成りました。
張学良は西安事件の責任をとって蒋介石の後を追って南京に赴いて逮捕され、国家元首を監禁した罪により懲役10年の判決を受けますが、翌年特赦によって無罪となりますが、以後軟禁状態におかれ、中国近代史の表舞台から姿を消しています。
1946年に重慶から台湾に移された後も自宅軟禁の生活が続いていましたが、1990年6月に90歳を祝う誕生パーティーが台北市で開かれ、張学良は約半世紀ぶりに公の場に姿を現して世界中から注目されました。
張学良はその後ハワイに移り住み、2001年10月に100歳で没しました。

盧溝橋:Wikipediaより
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍の頭上に10数発の小銃弾が発射されました。
誰が発砲したかについては現在でも不明ですが、日本軍は翌8日に宛平県城とその周辺の中国軍に攻撃を加え、これに中国守備隊が抵抗し、この盧溝橋事件が日中戦争(日支事変1937年7月~45年8月)の発端となり、以後日中両国は全面戦争に突入します。
7月11日には停戦協定が結ばれますが、最初は不拡大方針を表明した第1次近衛内閣(1937年6月~39年1月)が同日、軍部の華北派兵を承認した為問題解決は困難となり、一方中国側でも共産党が7月8日に全民族の抗戦を呼びかけ、蒋介石も7月17日に抗戦の決意を表明するに至ります。

1937年8月13日、日本軍は市内の正陽橋から北平(今の北京)に入城した。:Wikipediaより
日本軍は、7月28日に総攻撃を開始し、天津・北京を占領、8月13日には上海でも戦端を開き、更に華北の要地を占領、12月13日には南京を占領しました。
この時、日本軍は多数の中国人を虐殺し(中国側の資料では30万人以上)、掠奪・暴行・放火を行い、世界から非難を浴びたのです(但し南京虐殺事件には諸説在り)。

第2次国共合作・蒋介石と毛沢東
この間、1937年9月に中国では第2次国共合作が成立し、紅軍は八路軍と改称して蒋介石の統率下に入り、抗日民族統一戦線が成立、日本軍は、1938年10月には広東と武漢(武漢三鎮)を占領したが、国民政府は政府機能を南京から武漢へ、更に重慶へ移し(1938年)、アメリカ・イギリス・ソ連は当時最新の兵器を援助して日本軍に対抗した結果、戦争は長期化・泥沼化し、早期解決は不可能となりました。

汪兆銘
近衛内閣は、1938年1月に中国との停戦協定を打ち切り、傀儡政権を立てる方針を固め、「国民政府を相手にせず」との近衛声明を発表し、戦争解決の道を自ら閉ざし1940年3月、重慶を脱出してきた国民党の有力者である汪兆銘(汪精衛、1883年~1944年)に新政権を立ち上げさせ、重慶政府に対抗して南京にもう一つの国民政府を樹立しますが、この政権は日本の傀儡政権で在り、中国民衆の支持を得られず、成果をあげることも出来ませんでした。
又同年11月には東亜新秩序の建設を声明し、侵略戦争の正当化を試みています。

上海共同租界を行進する日本軍
日本は、1938年末迄には華北(北支)・華中(中支)の大部分と広東周辺地域を占領しましたが、それは重要な都市とそれを結ぶ交通線を確保したにすぎず、周辺の農村は共産党や国民党軍の支配下にあり、日本軍はゲリラ戦に至る処で遭遇し、戦局は膠着状態に陥りました。
其の為この状況を打開する為に資源の確保を目的に南方への進出を企て、この日本の南方進出に対して、アメリカ・イギリス・中国・オランダはABCD包囲陣を形成して、日本に対する戦略物資の供給を停止、特にアメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、日本への石油・鉄鉱石の輸出を全面停止しました。
この様な情勢に日本は、ルーズベルト大統領との会談を模索するも遂に叶わず、1941年12月には太平洋戦争に突入します。

バルバロッサ作戦
余談ながら、この時(1941年10月~12月)ソビエト連邦は、独ソ不可侵条約を無視して領土に侵攻したドイツ軍(バルバロッサ作戦:1941年6月)が、モスクワに迫りつつ在りました。
ソビエト軍首脳とスターリンは、日本軍が満州及び華北(北支)からシベリア南部に侵攻するか、ボルネオ・マレーシア方面の南方に侵攻するか、意見が分かれ、冬季の戦闘を熟知したシベリア師団をソビエト・満州(ソ満)国境からモスクワ防衛に充てるか否かの重大な判断を強いられていました。
日本軍の南進作戦情報を一早く収集して、モスクワに送った人物が、ゾルゲ(ゾルゲ事件)でした。
このゾルゲ情報により、スターリンはシベリア師団を急遽モスクワ防衛の為移動、ドイツ軍を敗走させる事になります。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成29年6月17日 北九州市小倉南区城野自宅
7抗日民族戦線の成立と日中戦争(その2)

張 学良(1901年6月3日 - 2001年10月14日)
蒋介石は陜西省北部の共産党の根拠地に対する攻撃を継続、張学良の東北軍と楊虎城の西北軍を派遣して更なる攻撃を命じます。
張学良の指揮する東北軍は、満州事変で故郷を追われて華北に移動した軍隊で、その将兵達は満州の地に戻って日本軍と戦う事を望んでいました。
内戦停止・一致抗日に傾いた張学良は共産党と協定を結び、1936年前半以後東北軍と共産党軍は停戦状態にあったのです。

華清池
1936年12月、紅軍との戦闘に消極的な張学良と楊虎城を督戦する為に蒋介石自ら、西安に乗り込んで来ます。
張学良は蒋介石に内戦停止と抗日の必要を強く訴えますが、蒋介石はこれを拒否、意を決した張学良は、1936年12月12日未明、西安郊外の華清池(玄宗皇帝と楊貴妃で有名な地)にあった蒋介石の宿舎を軍隊で襲撃し、蒋介石を捕らえて監禁します。
張学良は、国民党の改組・内戦停止・政治犯の釈放等8項目を宣言し、蒋介石に政策の転換を迫りますが、蒋介石はこれに応じず、新たな内戦の危機が迫っていました。

軟禁中の蒋介石と関係者:Wikipediaより
この時、中国共産党は周恩来を西安に派遣して蒋介石を説得し、事件の平和的な解決に大きな役割を果たし、最終的に蒋介石は説得に応じて内戦の停止等8項目を認める事を約束して25日に釈放されて南京に戻ります。
この一連の出来事が、後に西安事件と呼ばれる有名な事件です。
この西安事件を契機として、1927年以来10年に及んだ内戦は停止され、日中戦争が勃発すると第二次国共合作が成立(1937年9月)、抗日民族統一戦線が結成されました。
この事件により中国全土の抗日気運は高まり、日中の対立は避けられないものと成りました。

尾崎秀実・リヒャルト ゾルゲ
又当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測、対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関、昭和研究会へ参加する事となり、以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けと成りました。
張学良は西安事件の責任をとって蒋介石の後を追って南京に赴いて逮捕され、国家元首を監禁した罪により懲役10年の判決を受けますが、翌年特赦によって無罪となりますが、以後軟禁状態におかれ、中国近代史の表舞台から姿を消しています。
1946年に重慶から台湾に移された後も自宅軟禁の生活が続いていましたが、1990年6月に90歳を祝う誕生パーティーが台北市で開かれ、張学良は約半世紀ぶりに公の場に姿を現して世界中から注目されました。
張学良はその後ハワイに移り住み、2001年10月に100歳で没しました。

盧溝橋:Wikipediaより
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍の頭上に10数発の小銃弾が発射されました。
誰が発砲したかについては現在でも不明ですが、日本軍は翌8日に宛平県城とその周辺の中国軍に攻撃を加え、これに中国守備隊が抵抗し、この盧溝橋事件が日中戦争(日支事変1937年7月~45年8月)の発端となり、以後日中両国は全面戦争に突入します。
7月11日には停戦協定が結ばれますが、最初は不拡大方針を表明した第1次近衛内閣(1937年6月~39年1月)が同日、軍部の華北派兵を承認した為問題解決は困難となり、一方中国側でも共産党が7月8日に全民族の抗戦を呼びかけ、蒋介石も7月17日に抗戦の決意を表明するに至ります。

1937年8月13日、日本軍は市内の正陽橋から北平(今の北京)に入城した。:Wikipediaより
日本軍は、7月28日に総攻撃を開始し、天津・北京を占領、8月13日には上海でも戦端を開き、更に華北の要地を占領、12月13日には南京を占領しました。
この時、日本軍は多数の中国人を虐殺し(中国側の資料では30万人以上)、掠奪・暴行・放火を行い、世界から非難を浴びたのです(但し南京虐殺事件には諸説在り)。

第2次国共合作・蒋介石と毛沢東
この間、1937年9月に中国では第2次国共合作が成立し、紅軍は八路軍と改称して蒋介石の統率下に入り、抗日民族統一戦線が成立、日本軍は、1938年10月には広東と武漢(武漢三鎮)を占領したが、国民政府は政府機能を南京から武漢へ、更に重慶へ移し(1938年)、アメリカ・イギリス・ソ連は当時最新の兵器を援助して日本軍に対抗した結果、戦争は長期化・泥沼化し、早期解決は不可能となりました。

汪兆銘
近衛内閣は、1938年1月に中国との停戦協定を打ち切り、傀儡政権を立てる方針を固め、「国民政府を相手にせず」との近衛声明を発表し、戦争解決の道を自ら閉ざし1940年3月、重慶を脱出してきた国民党の有力者である汪兆銘(汪精衛、1883年~1944年)に新政権を立ち上げさせ、重慶政府に対抗して南京にもう一つの国民政府を樹立しますが、この政権は日本の傀儡政権で在り、中国民衆の支持を得られず、成果をあげることも出来ませんでした。
又同年11月には東亜新秩序の建設を声明し、侵略戦争の正当化を試みています。

上海共同租界を行進する日本軍
日本は、1938年末迄には華北(北支)・華中(中支)の大部分と広東周辺地域を占領しましたが、それは重要な都市とそれを結ぶ交通線を確保したにすぎず、周辺の農村は共産党や国民党軍の支配下にあり、日本軍はゲリラ戦に至る処で遭遇し、戦局は膠着状態に陥りました。
其の為この状況を打開する為に資源の確保を目的に南方への進出を企て、この日本の南方進出に対して、アメリカ・イギリス・中国・オランダはABCD包囲陣を形成して、日本に対する戦略物資の供給を停止、特にアメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、日本への石油・鉄鉱石の輸出を全面停止しました。
この様な情勢に日本は、ルーズベルト大統領との会談を模索するも遂に叶わず、1941年12月には太平洋戦争に突入します。

バルバロッサ作戦
余談ながら、この時(1941年10月~12月)ソビエト連邦は、独ソ不可侵条約を無視して領土に侵攻したドイツ軍(バルバロッサ作戦:1941年6月)が、モスクワに迫りつつ在りました。
ソビエト軍首脳とスターリンは、日本軍が満州及び華北(北支)からシベリア南部に侵攻するか、ボルネオ・マレーシア方面の南方に侵攻するか、意見が分かれ、冬季の戦闘を熟知したシベリア師団をソビエト・満州(ソ満)国境からモスクワ防衛に充てるか否かの重大な判断を強いられていました。
日本軍の南進作戦情報を一早く収集して、モスクワに送った人物が、ゾルゲ(ゾルゲ事件)でした。
このゾルゲ情報により、スターリンはシベリア師団を急遽モスクワ防衛の為移動、ドイツ軍を敗走させる事になります。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成29年6月17日 北九州市小倉南区城野自宅
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2019-06-13 23:28 編集