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2019/06/25

歴史を歩く211

43ファシズムの台頭⑨

8スペイン内戦と枢軸の結成

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ミゲル・プリモ・デ・リベラ(Miguel Primo de Rivera y Orbaneja, 1870年1月8日 - 1930年3月16日)

 スペインは、第一次世界大戦に於いて中立を保った結果、好景気が続いたものの、戦後不景気となり、政治不安に加えて労働運動が激化して行きます。
この様な状況の中で、1923年9月、プリモ・デ・リベラ将軍(1870年~1930年)がクーデターを起こし、国王アルフォンソ13世(在位1886年~1931年:ブルボン朝最後の国王)の承認のもとに軍事独裁政権を樹立し、反王制派を弾圧する等反動政治を行いました。

 世界恐慌の影響でスペイン社会が混乱に陥ると、知識人・学生・労働者等による反独裁運動が起こり、1930年1月にリベラ将軍は辞職に追い込まれ、独裁政権は崩壊、その後は共和派や社会主義者による反王政運動が勢力を盛り返します。

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アルフォンソ13世(Alfonso XIII、1886年5月17日 - 1941年2月28日:在位:1886年5月17日 - 1931年4月14日)。

 1931年4月に行われた地方議会選挙で共和派が大勝、共和派は国王の退位を要求し、国王アルフォンソ13世は翌々日に国外に亡命して、ここにブルボン朝は崩壊、共和政が成立しました(スペイン革命、スペイン共和革命)。
スペイン革命によって成立したアサーニャ内閣(1931年~33年)は民主主義改革を進め、同年12月にはドイツのヴァイマル憲法を基本にした民主的な共和国憲法が制定されますが、最大の課題であった土地改革が不徹底であり、アサーニャ内閣は左派と右派の両方から攻撃され、1933年9月に総辞職に追い込まれます。

 1933年11月に行われた選挙では地主・軍部・カトリック教会・資本家に支持された右派勢力が過半数を奪回、以後反動化が進み、所謂「暗い2年間」が始まりました。
その様な世相を反映して、右派勢力に対抗する為にスペインでも左派共和主義諸政党・社会党・共産党の間で人民戦線が結成され(1936年1月)、1936年2月の選挙では人民戦線派が大勝し、人民戦線内閣が成立しました。

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マヌエル・アサーニャ・ディアス(Manuel Azaña Díaz、1880年1月10日 - 1940年11月3日)

 アサーニャが首相、次いで大統領(在任1936年~39年)に選ばれ、人民戦線内閣は土地改革・教会の特権剥奪等の改革に着手しますが、これに対して人民戦線内閣に反対する軍部・地主・教会に支持されたフランコ将軍は、1936年7月にスペイン領モロッコで反乱を起こし、スペイン内戦(スペイン反乱、1936年7月~39年3月)が始まりました。

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スペイン内戦・倒れ落ちる兵士(ロバート・キャパ)

 フランコ(1892年~1975年)は陸軍士官学校を卒業後(1910年)、モロッコの民族運動鎮圧に従事し、30歳の若さで少将に昇進、1935年には参謀総長に就任しますが、翌年人民戦線内閣が成立するとカナリア諸島守備隊司令官に左遷され、やがてモロッコで反乱を起す事になります。

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フランシスコ・フランコ・バアモンデ(Francisco Franco Bahamonde、1892年12月4日 - 1975年11月20日)

 フランコ将軍がモロッコで反乱を起こすと、スペイン本土でも各地で反乱が起こり、政府軍との戦闘が始まり、マドリードやバルセロナ等では政府軍や労働者によって反乱は鎮圧されますが、反乱軍は7月末迄にはモロッコ・スペイン南部・スペイン北部等、国土の約3分の1を占領しました。

 更に8月に入ると、ドイツ・イタリアのファシズム政権による援助を得たフランコ将軍が本土に上陸し、9月末にはマドリードを包囲し、反乱軍はスペイン全土の約3分の2を占領しますが、このスペイン内戦に対して、イギリスとフランスは戦争の拡大を恐れ、加えてスペインの共産化を恐れ、不干渉政策を選択します。

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空襲後のゲルニカ

 1936年9月にイギリスとフランスの主導によってスペイン内戦不干渉委員会が成立し、英・仏・独・伊・ソ連等27カ国が参加した。
しかし、ドイツとイタリアは不干渉協定を無視して公然とフランコ将軍側に軍事援助を行い、特にドイツはこのスペイン内戦を新兵器の実験台とし、1937年4月にはスペイン北部の小都市ゲルニカを空軍(コンドル軍団)による無差別爆撃によって徹底的に破壊しました。
スペイン生まれの画家ピカソ(1881年~1973年)の「ゲルニカ」はこの出来事を素材として戦争への憎悪をこめて描かれた作品として有名です。

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国際旅団のソ連製T-26戦車・Wikipediaより

 これに対してソ連は人民戦線政府の援助を声明し(1936年9月)、国際義勇軍と共に政府軍を援助します。
国際義勇軍には世界各地からファシズムと戦う為に多くの自由主義者等が参加し、中でも、スペイン内戦を背景に描かれた『誰がために鐘は鳴る』(1940)の著者であるアメリカの作家ヘミングウェー(1899年~1961年)やイギリスの作家オーウェル、そしてフランスの作家マルロー等が有名です。

 こうしてスペイン内戦は国際戦争と化し、第二次世界大戦前哨戦の様相を示しました。
政府軍は頑強に抵抗を続けますが、イギリスとフランスは最後迄不干渉政策を続けた結果、ドイツとイタリアの援助を得たフランコ側が優勢となり、1939年1月にはバルセロナを占領し、3月にはついにマドリードも陥落、スペイン内戦はフランコ側の勝利に終わっています。

 フランコは国家主席となり、その後総統(国家主席兼首相)に就任して独裁体制を樹立し、1975年に死去する迄その地位を維持します。

日独防共協定
日独防共協定に調印するリッベントロップとそれを見守る武者小路公共・Wikipediaより

 ヒトラーとムッソリーニは、エチオピア侵入・ラインラント進駐・スペイン内戦等を通じて接近し、1936年10月にはベルリン・ローマ枢軸を結成し、ドイツは日本とも、コミンテルンの活動に対する情報交換や共同防衛を約して、1936年11月に日独防共協定を締結、翌1937年11月には、イタリアが日独防共協定に参加して日独伊三国防共協定となり、イタリアは同年12月に日・独に続いて国際連盟を脱退、こうして日本・ドイツ・イタリアのファシズム国家による「ベルリン・ローマ・東京枢軸」が成立しました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成30年6月16日 福岡県田川郡添田町添田公園にて

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