歴史を歩く212
44第二次世界大戦
1 ナチスの侵略と開戦

オーストリア併合・首都ウィーン市内を視察するヒトラー・車両はダイムラー・ベンツG4
再軍備宣言(1935年3月)・ラインラント進駐(1936年3月)を強行したヒトラーは、1937年11月に外相・国防相・陸海空軍の総司令官等の秘密会議でオーストリアとチェコスロヴァキアを武力で併合する決意を表明しました。
オーストリアでは、既に1934年7月にオーストリア・ナチス党員が政権獲得を企てて首相を暗殺する出来事が起こっていたのですが、この計画は失敗に終わり、以後ドイツから資金を得たオーストリア・ナチスによるテロが続いた結果、オーストリア政府はナチスの取締りを強化していました。

クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニック( Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg、1897年12月14日 - 1977年11月18日)
ヒトラーは、1938年2月12日にオーストリア首相シュシュニックをドイツ、ベルヒテスガーデンに呼びよせ、軍事占領で脅しつつ、内相の地位をオーストリア・ナチス党員アルトゥル・ザイス・インクヴァルトに与える事、投獄中のオーストリア・ナチス党員を釈放する事等の要求をつきつけ、これに署名させます。
ドイツより帰国したシュシュニック首相が3月9日に国民投票を発表すると、ヒトラーは11日に国民投票の中止等を要求する最後通牒を突きつけオーストリア併合作戦「オットー計画」を発動しました。

ナチス党旗を振りナチス式敬礼でドイツ軍を迎えるオーストリア国民
3月12日未明、ドイツ軍はオーストリアの新首相インクヴァルト(オーストリア・ナチス党員)の要請に応ずるという形でオーストリアに進撃し、3月13日にオーストリア首相はドイツとの合併を宣言、翌14日、ヒトラーはウィーンに入いります。
こうしてオーストリアを併合したヒトラーは次の目標をチェコスロヴァキアに向けたのでした。
チェコスロヴァキア北西部、チェコとドイツの国境地帯はズデーテン地方と呼ばれ、多くのドイツ系住民が居住しており、1938年9月、ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けているとして、ズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助するとの演説を行いました。
3日後にヒトラーと会見したイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(1869年~1940年、在任1937年~40年、保守党、ジョゼフ・チェンバレンの次男)は、「世界戦争も辞さない」というヒトラーに屈し、フランスと共にチェコに圧力をかけズデーテン地方の割譲に同意させます。

ミュンヘン空港・チェンバレン首相とエドワード・ウッド外務大臣、出迎えるリッペントロップ外相
(機体はロッキードL14エレクトラ)
しかし、ヒトラーはズデーテン地方の即時割譲を要求し、チェコ政府が総動員令を発した結果、戦争の危機が迫りました。
ヨーロッパの平和を維持する為に是が非でも戦争を避けたいと考えていたチェンバレンは、ムッソリーニに調停を依頼し、国際会議の開催に成功します。

ミュンヘン会談・チェンバレン・ダラディエ・ヒトラー・ムッソリーニ・チアノイタリア外相
1938年9月29日、ズデーテン問題に関する英・仏・独・伊の4カ国首脳会議がミュンヘンで開かれ、このミュンヘン会議では、開戦で恫喝しつつズデーテン地方の即時割譲を求めるヒトラーに対して、イギリスのネヴィル・チェンバレンとこれに追随するフランスのダラディエ(1884年~1970年、在任1833年、34年、38年~40年)は宥和政策を選択し、ヒトラーからもうこれ以上の領土要求はしないとする約束を得て、ズデーテン地方の即時割譲を認めるミュンヘン協定に調印し、10月1日、ドイツ軍はズデーテンに進駐します。

ミュンヘン会談から帰国し、協定について説明するチェンバレン首相
宥和政策とは、第二次世界大戦前にイギリス・フランスがナチス・ドイツに対してとった妥協政策で、ナチス・ドイツが反共産主義を唱えている為、その侵略の矛先はソ連に向けられると考え、出来るだけナチス・ドイツとの対決を避け、その要求を受け入れる政策を採ったものです。
先のイタリアによるエチオピア侵攻(1935年~36年)に対して英・仏が見せた態度やスペイン内戦(1936年~39年)に対して英・仏が採った不干渉政策も宥和政策の現れですが、このミュンヘン会談でイギリスが採った政策が宥和政策の典型でした。

ズデーテンランド併合により国境標識を破壊するドイツ系住民
ミュンヘン会談には、当事国のチェコスロヴァキアや隣接国のソ連は招かれず、この為ソ連はイギリス・フランスがチェコスロヴァキアを犠牲にしてドイツの攻撃をソ連に向けさせようとしていると考え、イギリス・フランスに対して不信感を強めて行きました。
ミュンヘン会談によって戦争の危機は一時には回避されましたが、イギリス・フランスが見せた宥和政策はヒトラーをますます増長させる結果と成りました。

進駐するドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民。1938年10月5日
1939年3月15日、ヒトラーはミュンヘン協定を破棄してチェコスロヴァキアを解体、西半分のベーメン(ボヘミア)とメーレン(モラヴィア)を占領して保護領とし、翌日には東半分のスロヴァキアを保護国にする事によって第一次世界大戦後に独立したチェコスロヴァキアは崩壊しました。
チェコスロヴァキアを手中に収めたヒトラーは、次の目標をポーランドに向け、1939年3月21日にポーランドに対してダンチヒ(ヴェルサイユ条約によって国際連盟管理下の自由都市とされていた)の返還とポーランド回廊(ヴェルサイユ条約で海への出口としてポーランドに与えられたドイツ本国と東プロイセンとの間の旧ドイツ領地帯)を通過する鉄道や道路の敷設権を要求しました。

現ポーランド・グダニスク(旧ダンチヒ)
先のチェコスロヴァキア解体に衝撃を受けていたチェンバレンは、このヒトラーの要求を見て、ようやく宥和政策を捨て、3月末にフランスと共にポーランドに対する援助を確約し、ポーランドもドイツの要求を拒否しました。
これに対してヒトラーは4月初めに、ポーランド攻撃の準備を9月1日迄に完了することを命じ、4月末にはポーランドとの不可侵条約と英独海軍協定を破棄し、この間ムッソリーニはアルバニアを併合し(1939年4月)、ドイツと軍事同盟条約を締結します(1939年5月)。

リペントロップ・ドイツ外相とスターリン
一方、イギリスとフランスは4月中頃からソ連と軍事同盟締結の交渉行っていましたが、両者は相互に不信感を抱いていた為に、英・仏・ソ連の交渉は遅々として進まず、この時イギリス・フランスの真の目的はドイツを東方に向けさせてソ連と敵対させる事にあると考えたスターリンは、ソ連が東アジアでも日本と敵対しており(1939年5月~9月、満州西部国境で日ソ両国軍が衝突するノモンハン事件が起きていた)、イギリス・フランスとの交渉が進まない以上、ドイツと提携した方が得策と考えます。

ノモンハン事件でソビエト軍に鹵獲された九五式小型乗用車(くろがね四起)
ポーランド問題でイギリス・フランスと対立する様になったヒトラーも、ソ連と提携して背後を固めた方が得策と考え、対ソ接近を図り、その結果、ドイツとソ連は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結、このファシズムと共産主義両国の提携は全世界に衝撃を与え、翌々日の25日にはイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を締結します。

ポーランド侵攻・1939年9月、ドイツ軍1号戦車(手前)と2号戦車(奥2両I、右後方のハーフトラックはSd Kfz 251と推定
1939年9月1日早朝、ナチス・ドイツは宣戦の予告もなしにポーランド攻撃を開始、9月3日、イギリスはフランスと共にドイツに宣戦し、遂に第二次世界大戦(1939年9月~45年8月)が勃発しました。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成30年7月18日 北九州市小倉南区若宮神社境内
1 ナチスの侵略と開戦

オーストリア併合・首都ウィーン市内を視察するヒトラー・車両はダイムラー・ベンツG4
再軍備宣言(1935年3月)・ラインラント進駐(1936年3月)を強行したヒトラーは、1937年11月に外相・国防相・陸海空軍の総司令官等の秘密会議でオーストリアとチェコスロヴァキアを武力で併合する決意を表明しました。
オーストリアでは、既に1934年7月にオーストリア・ナチス党員が政権獲得を企てて首相を暗殺する出来事が起こっていたのですが、この計画は失敗に終わり、以後ドイツから資金を得たオーストリア・ナチスによるテロが続いた結果、オーストリア政府はナチスの取締りを強化していました。

クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニック( Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg、1897年12月14日 - 1977年11月18日)
ヒトラーは、1938年2月12日にオーストリア首相シュシュニックをドイツ、ベルヒテスガーデンに呼びよせ、軍事占領で脅しつつ、内相の地位をオーストリア・ナチス党員アルトゥル・ザイス・インクヴァルトに与える事、投獄中のオーストリア・ナチス党員を釈放する事等の要求をつきつけ、これに署名させます。
ドイツより帰国したシュシュニック首相が3月9日に国民投票を発表すると、ヒトラーは11日に国民投票の中止等を要求する最後通牒を突きつけオーストリア併合作戦「オットー計画」を発動しました。

ナチス党旗を振りナチス式敬礼でドイツ軍を迎えるオーストリア国民
3月12日未明、ドイツ軍はオーストリアの新首相インクヴァルト(オーストリア・ナチス党員)の要請に応ずるという形でオーストリアに進撃し、3月13日にオーストリア首相はドイツとの合併を宣言、翌14日、ヒトラーはウィーンに入いります。
こうしてオーストリアを併合したヒトラーは次の目標をチェコスロヴァキアに向けたのでした。
チェコスロヴァキア北西部、チェコとドイツの国境地帯はズデーテン地方と呼ばれ、多くのドイツ系住民が居住しており、1938年9月、ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けているとして、ズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助するとの演説を行いました。
3日後にヒトラーと会見したイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(1869年~1940年、在任1937年~40年、保守党、ジョゼフ・チェンバレンの次男)は、「世界戦争も辞さない」というヒトラーに屈し、フランスと共にチェコに圧力をかけズデーテン地方の割譲に同意させます。

ミュンヘン空港・チェンバレン首相とエドワード・ウッド外務大臣、出迎えるリッペントロップ外相
(機体はロッキードL14エレクトラ)
しかし、ヒトラーはズデーテン地方の即時割譲を要求し、チェコ政府が総動員令を発した結果、戦争の危機が迫りました。
ヨーロッパの平和を維持する為に是が非でも戦争を避けたいと考えていたチェンバレンは、ムッソリーニに調停を依頼し、国際会議の開催に成功します。

ミュンヘン会談・チェンバレン・ダラディエ・ヒトラー・ムッソリーニ・チアノイタリア外相
1938年9月29日、ズデーテン問題に関する英・仏・独・伊の4カ国首脳会議がミュンヘンで開かれ、このミュンヘン会議では、開戦で恫喝しつつズデーテン地方の即時割譲を求めるヒトラーに対して、イギリスのネヴィル・チェンバレンとこれに追随するフランスのダラディエ(1884年~1970年、在任1833年、34年、38年~40年)は宥和政策を選択し、ヒトラーからもうこれ以上の領土要求はしないとする約束を得て、ズデーテン地方の即時割譲を認めるミュンヘン協定に調印し、10月1日、ドイツ軍はズデーテンに進駐します。

ミュンヘン会談から帰国し、協定について説明するチェンバレン首相
宥和政策とは、第二次世界大戦前にイギリス・フランスがナチス・ドイツに対してとった妥協政策で、ナチス・ドイツが反共産主義を唱えている為、その侵略の矛先はソ連に向けられると考え、出来るだけナチス・ドイツとの対決を避け、その要求を受け入れる政策を採ったものです。
先のイタリアによるエチオピア侵攻(1935年~36年)に対して英・仏が見せた態度やスペイン内戦(1936年~39年)に対して英・仏が採った不干渉政策も宥和政策の現れですが、このミュンヘン会談でイギリスが採った政策が宥和政策の典型でした。

ズデーテンランド併合により国境標識を破壊するドイツ系住民
ミュンヘン会談には、当事国のチェコスロヴァキアや隣接国のソ連は招かれず、この為ソ連はイギリス・フランスがチェコスロヴァキアを犠牲にしてドイツの攻撃をソ連に向けさせようとしていると考え、イギリス・フランスに対して不信感を強めて行きました。
ミュンヘン会談によって戦争の危機は一時には回避されましたが、イギリス・フランスが見せた宥和政策はヒトラーをますます増長させる結果と成りました。

進駐するドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民。1938年10月5日
1939年3月15日、ヒトラーはミュンヘン協定を破棄してチェコスロヴァキアを解体、西半分のベーメン(ボヘミア)とメーレン(モラヴィア)を占領して保護領とし、翌日には東半分のスロヴァキアを保護国にする事によって第一次世界大戦後に独立したチェコスロヴァキアは崩壊しました。
チェコスロヴァキアを手中に収めたヒトラーは、次の目標をポーランドに向け、1939年3月21日にポーランドに対してダンチヒ(ヴェルサイユ条約によって国際連盟管理下の自由都市とされていた)の返還とポーランド回廊(ヴェルサイユ条約で海への出口としてポーランドに与えられたドイツ本国と東プロイセンとの間の旧ドイツ領地帯)を通過する鉄道や道路の敷設権を要求しました。

現ポーランド・グダニスク(旧ダンチヒ)
先のチェコスロヴァキア解体に衝撃を受けていたチェンバレンは、このヒトラーの要求を見て、ようやく宥和政策を捨て、3月末にフランスと共にポーランドに対する援助を確約し、ポーランドもドイツの要求を拒否しました。
これに対してヒトラーは4月初めに、ポーランド攻撃の準備を9月1日迄に完了することを命じ、4月末にはポーランドとの不可侵条約と英独海軍協定を破棄し、この間ムッソリーニはアルバニアを併合し(1939年4月)、ドイツと軍事同盟条約を締結します(1939年5月)。

リペントロップ・ドイツ外相とスターリン
一方、イギリスとフランスは4月中頃からソ連と軍事同盟締結の交渉行っていましたが、両者は相互に不信感を抱いていた為に、英・仏・ソ連の交渉は遅々として進まず、この時イギリス・フランスの真の目的はドイツを東方に向けさせてソ連と敵対させる事にあると考えたスターリンは、ソ連が東アジアでも日本と敵対しており(1939年5月~9月、満州西部国境で日ソ両国軍が衝突するノモンハン事件が起きていた)、イギリス・フランスとの交渉が進まない以上、ドイツと提携した方が得策と考えます。

ノモンハン事件でソビエト軍に鹵獲された九五式小型乗用車(くろがね四起)
ポーランド問題でイギリス・フランスと対立する様になったヒトラーも、ソ連と提携して背後を固めた方が得策と考え、対ソ接近を図り、その結果、ドイツとソ連は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結、このファシズムと共産主義両国の提携は全世界に衝撃を与え、翌々日の25日にはイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を締結します。

ポーランド侵攻・1939年9月、ドイツ軍1号戦車(手前)と2号戦車(奥2両I、右後方のハーフトラックはSd Kfz 251と推定
1939年9月1日早朝、ナチス・ドイツは宣戦の予告もなしにポーランド攻撃を開始、9月3日、イギリスはフランスと共にドイツに宣戦し、遂に第二次世界大戦(1939年9月~45年8月)が勃発しました。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成30年7月18日 北九州市小倉南区若宮神社境内
スポンサーサイト
コメント